28-462「パントマイム」

 彼女の手はとても小さかった。
僕は、こんな小さな手で何をつかめるのだろうと思った。
それが、僕の彼女に対する第一印象だった。
僕が彼女と始めて出会ったのは、中学二年生の春だった。
新学期独特の空気に湧く桜の花びらの匂いのする教室の中で、彼女の姿は一際目を引くものだった。
確かに彼女の容姿は、彼女を美少女と呼ぶことにおそらく誰も異論を挟まないであろうと思わせるものだった。
けど、僕が目を奪われたのはそのためではない。
何かどこか不思議なものを感じたのだった。
彼女の一挙手がとても完璧で、そしてそれがまるで演劇を見ているみたいに不自然に見えた。
 ちょうど、ゴールデンウィークも終わって、クラスメイトたちが学校にだれてき始める頃だ。
その頃に、僕は彼女が普通とは違うということに気が付いた。
その日、僕は前日間抜けにも風邪を引いて学校を休んでいて、数学の授業の範囲がわからなかった。
そのことに気が付いたのは休み時間で、周りの席の知り合いたちはどこかへ遊びに行ったのか、誰もいなかった。
ただ、一人僕の隣の席で本を読んでいた彼女を除いては。
僕はその時少しドキドキしながら声を掛けたことを覚えている。
今まで会話の機会のなかった彼女と初めて会話するのだ。
それがほんの大した事のない、それこそ数秒の会話で終わってしまうようなことでも、僕はちょっぴりうれしかった。
 僕は彼女に次の授業の数学が教科書何ページから始まるかを、少し緊張した声で尋ねた。
彼女は手に持った文庫本にしおりを挟んで丁寧に折りたたむと、それを机の上に置いた。
そして、ゆっくりと僕のほうを振り向いた。僕を見つめるその大きな丸い瞳が印象的だった。
僕は思わず彼女の瞳から目を背けてしまうと、その読んでいた文庫本に視線を移した。
その表紙にはエラリークインという文字が見えた。知らない作家だった。海外文学だろうか。
けどそれ以上に、その文庫本の上にどこか緊張した様子で置かれた小さな手に、僕は目が釘付けになっていた。
 彼女は僕の質問に丁寧に答えてみせた。
そして――そして僕は彼女の少しかしこまった喋り方に違和感を覚えた。
けど、彼女はそんな僕が疑問をぶつけることを許さないように、柔らかく微笑んでみせた。
僕は、短くお礼の言葉を言うだけで精一杯だった。
たった、それだけだった。彼女は、とても人当たりよく対応してくれた。
けれども、それ以上、そこから先へは僕を踏み込ませてくれなかった。
 僕はそれから彼女をよく見るようになっていた。
彼女は学校ではなんでもよく出来た。特に勉強は人一倍出来た。
普段からよく本を読んでいるから語彙が豊富なのか、特に作文、というより文章を書く作業に秀でていたように思う。
そしてスポーツも彼女は得意だった。完璧な人間、端から見ているだけだったらそう見えたかもしれない。
 彼女は実際よくもてた。特に彼女のことをよく知らない男子から。
彼女のことをよく知っている男子は、彼女をどこか敬遠していた。
おそらく、みんな無意識のうちに感じていたのだろう。
僕が始めての会話で感じたのと同じような違和感を。
彼女は、男子と話すときだけ、自分のことを僕と言った。
それだけではない。言葉遣いも妙に小難しいものになった。
けど、それは自分の知識を人に自慢するような態度ではなかった。
僕はその姿にパントマイムを重ねていた。
そうして彼女は決して自分を表に出さなかった。
僕が見ていたのは、彼女という鏡が映した僕の姿だったのかもしれないと、今は思う。
そうやって、彼女のパントマイムに当てられた男はみんな彼女を訝しげな顔で見ていた。
いつしか、僕たち男子の間では、彼女は名前ではなく、変な女と呼ばれるようになっていた。
僕は誰かが、彼女を変な女と呼ぶたびに、あの小さな手を思い出していた。

 三年生に進級したときも、僕は彼女と同じクラスだった。
もう、その頃には彼女の噂は結構広まっていて、誰も一年前のように彼女を見ても騒ぎ立てることはなかったし、彼女と話して驚くこともなかった。
そして、そういった男子の中でも、特に動じない男がこのクラスにいた。
どんなきっかけだったかはすっかり忘れてしまった。
けれども、僕はその彼と仲良くなった。
彼は、無愛想でちょっぴり皮肉屋ですこしとっつきの悪い印象の男だったけれども、話してみれば結構印象は変わるものだった。
妹がいるおかげだろうか、面倒見はいいし、何だかんだ言って友達想いの男だった。
彼はその妹のせいで、自分の奇矯なあだ名が広まったことを嘆いてはみせていたが、端から見ていると差し当たってどうでもよさそうだった。
そう、彼は細かいことは全く気にしない、よく言えば純朴、悪く言えば鈍感な男だった。
そして、彼は、僕が見る限りでは、初めて彼女と話をして全く動じなかったただ一人の男だ。
 彼と彼女が初めて会話したとき、むしろ驚いていたのは彼女のほうだった。
そのときの状況は僕と同じだった。彼が、隣の席の彼女に数学のノート片手に何かを尋ねていた。
彼女の返事を聞いても、彼は全く動じず、軽く右手を挙げて礼をすると何事もなかったかのようにノートを開いて何かを書き込んでいた。
彼女はそんな彼の横顔をしばらく眺めていた。
残念ながら、そのときの彼女の細かい表情までは僕には見えなかったのだけれども。
 一つの大きな転機は、彼が予備校に通い始めたことだった。
僕は、彼女が誰にも見せた事のない素顔を見せてしまうことを期待して、わざと彼の席まで言って彼女にも聞こえるような声で、彼と話をした。
今にして思えば、随分と意地の悪いことをしたと思う。
けど、結果的にそれが彼女が変わる小さなきっかけを作った。
 僕は彼から、成績が伸び悩んでいるので母親に予備校に行けと言われている、どこかいい予備校はないかと相談を受けた。
そこで僕のずるがしこい頭は一つの妙案を思いついた。
僕が彼に薦めた予備校、そこは駅前にある予備校で、彼女が通っている予備校だった。
僕は掃除当番時とかに彼女と話す機会があるので、彼女の通う予備校を知っていたのだ。
もちろん、その話は彼女に聞こえるように大きな声で言った。
彼女の様子を横目で窺ってみた。
彼女は文庫本を開いていた、視線をどこか遠くに向けたまま。
 きっかけを作れば後は簡単に事は進んでいくものだ。
彼が予備校に行った翌日、僕に同じクラスに偶然彼女がいたことを告げた時には、僕は笑いそうになってしまった。
また、彼は彼女からあだ名で呼んでもいいか、と言われたとも話した。
何で、俺のあだ名を知っているんだろう、と彼は訝しがっていたが、それは毎日毎日彼女の席の隣で君のあだ名を言い続けている僕のせいだったのは明白だ。
 それから、僕はあまり彼の席へ行って話をすることがなくなった。
別に、彼とケンカしたわけじゃない。
ただ、常に彼の隣には先客がいたからだ。
漫然とした様子で給食を突く彼の机に彼女は半ば身を乗り出して、なにやら楽しげに話をしていた。
時折、彼は彼女の話に相槌を打って、そして、そのたびに彼女は嬉しそうな顔をして、とりとめもない話を彼にするのだった。
そのうち、彼らが自転車二人乗りをしているところを見たという噂が広まった。
彼に事の真相を尋ねると、予備校に行くついでに乗っけてやっているだけだと言った。
彼女も誰かにその事を尋ねられるたびに、否定した。嬉しそうな満面の笑みで。
そして、彼らが付き合っているというのが、クラスの公然の事実になった。
相変わらず彼と彼女は否定していた。
彼はくだらない噂はどうでもいいという態度を崩さなかった。
彼女もまた、彼と同じような態度を取っていた。
けれども、彼女の本心がどう思っていたのかは僕にはわからない。
彼女はまだ彼のパントマイムをしていたのかもしれなかったから。
 結局、中学を卒業するまで彼らの関係はそれ以上進展しなかった。
彼が鈍感すぎたのもあるだろうし、彼女が自分をさらけ出す勇気がなかったこともあるだろう。
もう少し時間があれば、何かが変わっていたのかもしれない。
きっかけがあれば、彼らはもう一歩踏み出せたのかもしれない。
 卒業式の日、僕は彼と一緒に帰る道の途中で彼女のことを思い出した。
僕は忘れ物と嘘をついて、ついさっき通った道を走った。
思えば、これは僕がほんの好奇心から仕掛けたことだった。
なら、僕には最後を見届ける義務がある。
 学校へと向かう一本道をいくら進んでも、彼女とすれ違うことはなかった。
そして、いつの間にか、僕は学校までたどり着いてしまっていた。
彼女は別の道を通って帰ってしまったのだろうか、それとも。
僕は教室へ向かった。
そして、そこに彼女はいた。
僕は彼女に言った。
「これでいいのかい」
「これでいいんだよ」
 彼女は柔らかく笑ってそう答えた。
だめだ、僕では彼女のパントマイムを崩せない――
 結局、それっきりだった。
彼女はなぜ誰もいない教室に残っていたんだろう。
彼と顔を合わせるのが辛かったから、彼がいなくなるまでそこで待っていたのだろうか。
ならば、僕は彼をそこに連れて行くべきだった。
いや、絶対に彼を彼女と会わすべきだったのだ。
これで最後の日なら、彼の前なら、彼女も勇気を出せたかもしれない。
 僕は最後の最後で仕掛け人として、しくじった。

 それから二年後、僕はふと彼女の姿を試験を受けに行った予備校で見かけた。
だから、僕はひさびさに尋ねてみたのだった。
「最近、佐々木さんと会った?」

『パントマイム』

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最終更新:2008年01月28日 09:05
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