28-610「ポツダム? いいえそれは脱ダムです」

『ポツダム? いいえそれは脱ダムです』

そうさ。今この瞬間この場所において、僕は大層必死に自制している。
ほんの少しでも自身の気を緩ませてしまえば、それはまるで決壊するダムの如く。今の僕は笹船のように流され、沈められ、再び浮上することはないだろう。

ああキョン、僕のキョン。君がどれだけ思考の海に埋没した所で想像も付かないことだろう、この僕の感情が。
能天気そうな顔をしてパンを頬張る君を眺め、僕の面白くないかもしれない薀蓄話に耳を傾ける君の目を覗き込み、自転車の後ろで君の背中に体を預けながら君の顔を窺っても、僕に君の気持ちがわからないのと同じように。
人に他人の心がわからない事なんてある意味、太陽が東から昇るのと同じように極々当たり前の解さ。人は言葉で繋がっているがその言葉は完全なものではないのだから。
そして君の感情が僕に完全に届かないのと同じように僕の感情も君には完全に届かない。
……そして僕はどうにも届けたくなってしまったみたいなんだ。僕の心を、君に。

そうさ。中学校の最終学年で、僕は君と共にいたいという気持ちを抱いていたのだと思う。言い換えるならば、今僕は確かに君と共にいたいという気持ちを抱いている。
そしてその気持ちはどうやら思慕の情に昇華した上、恥ずかしながらどうにも僕はそれをおさえきることができない。
求めているんだ。君の姿や、声や、匂いを。僕の心も体も。制御不能というやつだね、自分でも何故こんな具合になってしまったのか理解に苦しむ。
恋愛なんて精神病だと言い切った僕がこのざまなんだから当人からしてみれば笑い話にもなりはしないね。
そしてたった今も脳内で行われている思考にさえ僅かずつ君が侵食してくるのさ。君はこんな無様をさらす僕を笑うだろうか。

……いや、この無様は既に定められていた事だったのかもしれない。
兆候はあったんだよ、その兆候を感じ取ったからこそ僕は自分を律する意味も兼ねて精神病だなんてあえて宣言したのさ。
他人に、ましてや未熟だったのだとしても指向性を持ち始めている感情の対象に向けて言い放つことで踏ん切りをつけようとした訳だね。事実君から踏み込んでくることも無かったし僕も一定の距離を保ち続けていられた。

そして僕たちは親友として日々楽しみを分かち合い、親友として別れる事ができた。それで終わった筈だったのに。
いなくなってわかるだなんて、そんな陳腐な枠の内に収まってしまったわけさこれが。
時の流れが風化させてくれるどころか余計に際立たせてしまう。色褪せるどころか、想い帰す君の姿はとても鮮やかに輝いているなんてね。
それにしても困りものだよ、どうもこうもない。今になって冷静に考えてみれば……、今の僕が冷静であるという事を客観的に証明する術はないのだけれど、そもそも僕は自分自身の心に対する付き合い方を間違えたのだ。
抑圧はいつか必ず解放を生む。登り続ける事も降り続ける事も不可能なように、それこそ先ほどに例えたダムの最大貯水量を超えると放出か自壊しかないように。
僕は自分の内に生まれ出た感情に困惑し、どう対処するか試行錯誤することも拒み、結局持て余した挙句に蓋をして無理矢理に押さえ込む道を選択した。
このことに関して言えば具体例を挙げることは容易いことさ。現在僕が進学した高校が君と同じくしている、という発言をしたとすればそれはまごう事無き虚偽になるから。


僕は君に狂ってしまったのさ、恋愛は精神病だと嘯いたのはあながち間違いじゃあない。
今でも僕は自分はおかしくないと心のどこかで思っている。真の狂人は、己が狂人であると自覚できない。
突然として世界が表情を変えたように見えるならば、自身の見る目が変わったというだけのことなんだから。
そして恐らく僕の世界を見る目は変わったのだろうね。君のいない光景はただ一色に染まった単調な世界にしか感じ得ない。
世界はこんなにも美しく在るというのに、僕は君を介してしかその美しさを感じ得ない。まさしく病だ、完治の見込みは無い。君の傍へ僕が寄り添ったとしても僕は更に君を求めるだろうから。

麻薬のようなものなのかもしれないね、恋愛がなのか君がなのかは僕に答えを出すことは出来ないけれど。
ここでは仮にキョン分としておこう。今きっと僕の体はキョン分欠乏症に陥っているに違いない。
ならばこれは精神疾患ではなく肉体の禁断症状ということになる。
もしそうならば僕はもう廃人寸前かい? 君のせいでならば本望なのだがね、くっくっ。


まあ簡潔に言うならば僕は決壊寸前のダムだったのだが、今この瞬間に完全に決壊してしまったのを自覚したよ。
君が視界に入ったんだ、僕の声が届く所にいるんだよ。僕の眼は君の一挙手一投足を追いかけている。その他のものは頭脳が情報として処理しない。
もう完膚なきまでにやられているわけだ、君にね。

僕のキョン、覚悟しておくといい。
ここで君に再び出会ってしまったのは運命だよ。様々な人に色々な事を言われて尚僕の根本は無神論者だが、今この瞬間だけは神の存在を信じても構わない。
そしてこの再会の場を与えてくれた神に感謝しようじゃないか。
一年越しだよ、この一年は長かった。人の体感時間は歳を重ねるごとに短くなっていくといわれているが、経験の中で最も短い筈のこの一年は本当に長かったよ、キョン。
やりたい事が沢山ある。教えたい事柄も沢山ある。そして伝えたい想いもあるわけだが、まず僕は言葉を紡ぐのさ。少なくともまずは親友として挨拶はしておかねば。親しき仲にも礼儀は必要だからね。くっくっ、くっくっくっ。



「やぁ、キョン」


僕は変わってしまったが、君は変わってしまったかい? 恋は人を臆病にするだなんて素敵じゃないか。どうでも良いが素敵と索敵は字面がとても似ているね、僕も索敵する必要があるようだ。この一年で君の周囲にどんな悪い虫が付いたか確かめなくちゃいけないんだからね。


(終わり

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最終更新:2008年02月05日 08:36
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