『再会の再開、際会』
今頃何処かで昇っているかも知れぬ太陽は数刻も前に沈み、駅の出口を照らすのは構内の刺々しい人工の照明と薄暗い街灯の光だった。
サラリーマンの姿も目立ち始める光景の中を、友人知人にキョンなる渾名にて呼ばれる学生である彼は、いた。
「やあ、キョン」
駅の改札口を抜け、今まさに家路につこうとしていた彼を呼び止める声を、彼の別段超人的な聴力を誇るわけではない彼の鼓膜は確かに知覚した。
不可思議事象の探索による肉体、または精神的な疲労感からか両の手をポケットに突っ込み若干猫背気味な姿勢で気だるげに歩を進めていた彼は、雑踏に飛び交う雑音の内に己の渾名を認識して手も姿勢もそのままに体ごと後ろに向き直る。
すると彼の視界に飛び込んできたのは先ほどまでのいつもの街の光景、即ち通りを行く人々にひっきりなしに通り過ぎていく車の群れ。その内に、あくまで彼の主観だが、僅かながら風景から手前に浮き出して見えるような印象を与える女を発見した。
髪は肩に軽くその重みを感じさせる程度の長さで、身を包むのはシンプルなブラウスの上にカーディガン。下はプリーツスカートと言った出で立ちだった。大きめの眼は確りと彼の顔で焦点を結び、口元は気持ちほど弧を描いていた。
時間にして一秒程度の後に彼はその女を確かに己の渾名を呼ぶに相応しい人物に違いないとみとめ、しかし何故か若干浮かない調子の口調で言葉を紡いだ。
「久しぶり……、でもないのか? 佐々木よ」
眉根を寄せつつそれでも無礼な程そっけないわけではない程度の口調の彼に、佐々木と呼ばれた彼女は喉の奥に何かの引っかかったような独特の笑い声をあげながら目を細める。
それを目にした彼は、こちらは何か眩しいものを見る時のように目を細めた。
「前回君と遭遇した時から今現在までそう大した時間が経過したわけではないさ。従って久し振りという発言はそれほど適切ではないのではないか、と僕は思うね。
だが個人的には、君と今後交友関係を続けていくにあたって『久し振り』という発言が適切になってしまうほどご無沙汰してしまうことがどのくらいの頻度で起こり得るのか、ということのほうに興味をそそられる」
「またこんなふうに街中で見かけることもあるんだろうし、まさに今みたいにお前が声をかけてくるか、はたまた俺がお前に声をかけるかすれば前々回みたく丸々一年間ご無沙汰、という事態は回避可能だろう」
「違いないね、しかし親友同士が学校を違えただけでこうも遭遇する機会が珍しくなるとはね。ある程度は予想していたのだがその見通しが果てしなく甘かったという事実は認めざるを得まい」
話しながら距離を詰めてくる彼女に対し、気だるげな態度をあくまで崩さず答える。と、言うより笑みを浮かべている彼女とは違い、キョンと呼ばれた彼は贔屓目に見たとしても彼女との出会いを喜んでいるようには見えなかった。
勿論嫌悪感をあらわにしているということではない。強いて言うとするならば、若干腰が引けてしまっているような態度だった。事実、近付いてきた彼女に対してあからさまではなかったものの彼は半歩身を引いていた。
そのことを自覚しているのかしていないのか、そんな彼は少しだけきまりが悪そうに視線を伏せたが、ため息を一つ付いてから意を決したように続ける。
「だがぶっちゃけて言うとすれば、今後暫く、または永遠かどうだかまでは想像もつかんが、お前の顔にご無沙汰する事は無さそうに思えるがね。どちらかといえば、悪い意味で」
仮にも彼女の言葉の通り親友同士であるとするならばあまりにも不躾な物言いだった。だが、彼にも彼なりの理由というものが存在した。
前回彼女と会った時にその隣にいたのは以前彼の知人を誘拐した本人である、と言った笑い話にもならない現実だったからである。友の友は、残念ながら友どころか敵であった訳だ。
そんな理由によりつっけんどんな態度で言い放たれた言葉を聴いて、彼女は一瞬発言の意図をつかめず困惑した様子だったが即座にその意を解し少しばかり俯きつつも笑みを浮かべた。
だがそれはついさっきまでの笑みとは異なったものであることは仮に第三者が判別したとしても一目瞭然であった。
「ああ――――、そう、なのかもしれないね。……僕としてはなるべく君との関係を壊したくは無いんだ、キョン。
そう簡単に割り切ることは出来ないかもしれないが今ここにいるのは僕と君だけだ。だから今だけでも腫れ物を触るような扱いは即刻やめてほしい、と親友として提言するよ」
「すまん、俺としても一年のブランクの空いた後のお前との会話を楽しみたくはあるんだが。残念ながら神様は人間ってもんをそう上手に作ってはくれなかったみたいでな、割り切るにしても時間はほしい」
「勿論さ、思う通りに事が進むようにも人間は作られていないのだからね。だからこそ人間は考える葦なのだ、存分に考えて答えを出すと良い。僕はその答えが僕の思うものであってほしいと願うことしか出来ない」
「神だ云々って話をそれこそお前とつるんでた頃なら鼻で笑い飛ばしも出来たんだろうが、今はそれこそ俺自身が鼻息で飛ばされそうな程得体の知れないものに遭遇しまくったという尊い経験があるんだ。そう簡単には、ちょっとな」
やはり言うべきではなかったか、等と内心ぼやきつつ話す彼に対して改めて以前には無かった壁を感じたのか、彼女は少しだけ寂しげな表情を顔を見せる。そんな表情を見た彼はやはりやはり言うべきではなかったか、等と更に思考した。
だが覆水は盆にかえらぬように一度口を割って出た言葉を再びしまいこむことが出来る筈も無い。
少し脇に寄ろうか、と提案した彼女に彼が軽く頷き返し二人は少し駅側へと来た道を戻っていった。
「それはそうとキョン、君はいつもこの時間帯はこの辺りを歩いているということで良いのだろうか。僕は日常坐臥に大体この時間帯にこの駅に降り立つわけだが、このタイミングで君と出くわすのははじめてのことなのではないかと思うんだ」
壁を背にして彼と隣り合う彼女は大仰な身振りと共に話題を変えた。彼がその言葉に思考を巡らせてみれば成る程、確かに彼がこの時分にこの場所にいること自体は珍しいものではなかったが、彼女と遭遇した事実があったか否かは言うに及ばず。
内面に没入している彼の表情を伺っていた彼女は、何かを感じ取ったのか満足げに頷いた。
「保障があるわけじゃないが、そう少なくない頻度でこの辺りをこの時間帯に歩いてる俺を発見するのはそう難しくないんだろうよ。端的にいうならたまには、ってとこだな」
「ふむ、実は僕は大体この時間帯なのだ。そして僕の方には保障というかその証明のようなものもある」
そこまで言うと彼女はありふれたタイプの学生カバンを肩からおろし、その内から数冊の参考書のようなものを取り出し示す。数学、英語、国語という文字がそれぞれの表紙に並び、季節が季節だからかそれほど開いた形跡があるようなものには見えなかった。
それを見た彼は又少しの間だけ思考し、一つの解答を導き出した。
「塾の勉強、か?」
「その通りだ。君の脳細胞が錆び付いていないようで安心したよ。いかにもこれは先日塾内で配布された参考書だ、やはりただただ漠然と学校で行われた学習を反復したとしても効果はそれほど見られない。効果を挙げられたとしてもそれだけで受験なんてとてもとても」
「なるほどな、それで塾で勉強か。ご苦労なこったな、進学校の雰囲気っていうのはそんなに勉強一点張りなもんなのかね。お前程の頭でも付いていけないなんてどんな化け物揃いなんだ」
「別段そういうわけではないんだ、だがやはり上を目指すということは並の苦労で成し遂げられることではないんだろうね。そういう君は中々に勉学が疎かになっているようじゃないか」
返す刀でばっさりという調子だった。彼女の瞳を覗き込むような視線と何もかもお見通しだよと言わんばかりの微笑を前に、彼は大きく頭を振る。事実彼の学業成績は中々芳しいものではなく、徐々に右肩下がりのものであると言い切っても嘘ではなかったからだ。
「そう言ってくれるなよ、これでもそれこそ並には苦労して――――――、一部並外れた苦労をしてるんだぜ」
「勉学で苦労をしたまえよキョン、君が色々と苦労をしていることは百歩譲って認めたとしてもそれとこれとは別の話だろう。……っ、いや、それにしても……」
「こらそこ、笑うんじゃあない」
笑いを堪えきれないようで小刻みに肩を震わせる彼女に、彼は憮然とした態度で応じた。その彼のへの字に結ばれた口元を見て彼女はとうとう声が漏れてくる程度の笑いにシフトアップしたようだった。
「く、くっくっ……、キョン。君は変わっていなかったようだ、安心したよ。いや、変わってないところもあると言うべきなのかな」
「佐々木よ、それは侮辱の言葉と受け取ってもよろしいんだな、手袋投げつけるぞ」
「違う、違うさキョン。くっくっくっ……、なんというか上手く言葉にはならないんだがね、うん、やはり僕は今モーレツに安心しているのさ」
「…………釈然としないがまあ良い。そういうお前もあまり変わったようには見えんな俺からも」
そうかい? と返事をしながら彼女は空を仰いだ。つられて彼も上を見る。月も無い夜空と人工の灯りの二つに世界は分けられていた。
光が闇を削っているのか、それとも闇が光を押しつぶそうとしているのか。神は世界を二つに分けたらしいが、人はそれを三つに分けているのかもしれないなと彼は漠然とそう感じた後、自分はこんなにも詩人だったのかと首を傾げた。
「まあ今までの会話から察するに、君は塾他勉学に励むようなところには行っていないんだろう。ああ、学校は除いてね」
「図書館にはたまーに行くぞ、勉強はしないがな。塾か……、行く気にもなれん。お前はよくそんなところに行けてるな」
「そういう君も中学生の頃通っていたじゃないか、あの頃の気持ちを思い出し一念発起しそれこそ学校で一番を取る勢いで勉学に励むのも良いかもしれないよ。
僕個人の観点から見れば、君は凡百の『やれば出来る』と言う人間には埋もれていないと確信しているんだ。君はやれば出来る」
真顔で言い切る彼女に対して、買い被りすぎだぞ、と。彼は照れくさいのか頭をかく仕草を見せた。それと共に顔に浮かんだ微笑は、今までのどこか硬いような表情と違い自然にもれ出たような笑みだった。
「それにあの頃はお前がいたじゃないか。俺一人で塾に通って勉強して今の結果を出せたかと問われれば俺は間違いなくNOと即答するね」
「僕が君の答案に答えを書き込んだわけじゃない、君一人の力だよ。君はもっと自分に自信を持ったほうが良いんだ、謙遜は美徳だが自虐の域になるといただけない」
「そういう問題じゃあない。俺の方も上手く言葉に出来ないんだが俺はお前と一緒にいる時間が嫌いじゃなかったんだ」
「それは――――――へっ?」
先ほどまでの理路整然とした語り口調からは想像も付かないような間の抜けた声が彼女の口から漏れていた。やや大きめの眼を更に見開きぽかんと口を開けて呆ける彼女に気付いていないのか、まるで構わず彼は話を続ける。
「なんだかんだで付き合ってくれただろ、色々と。楽しかったから続いたに決まってる。勉強が嫌いだということに迷いは無いがお前と勉強するのは悪くなかった」
「キ、キョン。それはどういう意味で言ってるんだい?」
「言った通りの意味だがな、一人で通う塾が長続きするとは到底思えん。金の無駄にもなるんだろうな」
「――――そういってもらえるのは、……うん、嬉しいよ、とても。それなら僕と一緒ならば塾なり何なりに行って勉学に励むと、そういうことになるんだろうね?」
彼女は何かを噛み締めるような顔をした後、何か面白い悪戯を思いついた少年のような笑みを浮かべて問いかける。その発言を聞いて彼は慌てて両手を振った。
「ま、待て待て待てまあ待て、セイ、セイ。お前の塾はアレだ、どうせ難しくてよくわからん勉強をしてるに違いないだろうしきっとクラスも上の方のクラスだろ」
「と、言うことは二つの選択肢があるわけか。聞くかい?」
「聞きたくない。断固聞き無くないぞ」
「そうかい? 残念極まりないね」
おどけたように左右に両腕を広げる彼女の表情に陰は無く、軽く肩を落とす彼の表情は明るかった。顔を見合わせる二人の表情に、どちらからともなく笑みがこぼれる。
そして彼女は掛け声と共に今まで背を預けていた壁から離れ、まだ壁に寄りかかっている彼を正面から見据えた。彼が困惑の色を乗せて視線で問いかけると、彼女は言葉を持ってそれに答えた。
「さあ、生憎だが僕はそろそろ帰宅しなければいけない。夕食を食いはぐれるのは僕にとって好ましい展開とはいえないし」
「そうか、了解した。じゃあ俺もそろそろ帰るとするかね、なにで帰るんだ? 送ってやっても構わんぞ」
「君の自転車の乗り心地を確かめるのも悪くは無さそうだが今日はバスで帰るよ。また今度にでもお願いしようかな」
そう言って先に歩いていく彼女の顔は彼の目には見えなかったがその声から恐らく笑顔なのではないか、と。彼は勝手にそう解釈した。
「また今度の時が来るのは吝かじゃないんだが、できれば余計なのを交えず会いたいもんだぞ、と」
遠ざかりつつあるその後姿に声をかけた彼に、彼女は半身になりつつ片手を上げることでこたえる。そしてスカートを翻し、そのまま歩き去っていった。後に残されたのは彼と、僅かに香る彼女の残り香だった。
「…………ああ」
何か思うところが暫しの間彼は佇み、何故か虚空に向かって相槌をうつと。彼自身も街の人ごみにまぎれていった。
(終
最終更新:2008年02月05日 08:43