44-182「―佐々木さんの消滅―ep.05 特異点」

ep.05 特異点

(side kyon)
朝倉のマンションにとりあえず荷物を運び込む。我が家では到底収容し切れそうになかったからな。
組み立て式のロッカー箪笥も別途頼んであるので、佐々木の住む場所が決まり次第持っていってやらないといけない。
朝倉が佐々木を連れて夕食の買い物に出たので、俺はその間に一度アパートに戻り、明日の講義のテキストを持って来た。
朝倉が予習をする必要はないが、一般人たる俺には予習が必要だ。第二外国語があるのでしっかりやっておかないと明日困る
ことになるからな。
俺が予習を終え、キッチンからカレーの匂いが漂ってきた頃に長門達が到着した。もう一人の参加者は来ていないが、恐らく
夕飯の後に来るのだろう。
長門は見慣れた制服姿ではなく清楚ではあるが巷の女子大生のようなおしゃれな服を着て化粧までしていた。元のつくりが
良いので化粧をしなくても十分美人だったが、さらに綺麗になっているな。髪も少し伸ばしたようだ。古泉もニヤケハンサム
ぶりにますます磨きがかかっていやがる。相変わらず一分の隙もないファッションで、髪も少し染めている。
古泉にはツレが一人いた。最後に入って来たそいつの顔を見た瞬間、俺の思考にフラッシュバックが発生する。
橘? 何でお前がここにいる?
橘京子は俺の視線に気付き、不思議そうな顔で視線を返してくる。ああ、そうなのか。こいつは俺の知っている橘じゃない。

(side sasaki)
朝倉さんが情報操作で長くしたダイニングテーブルの上を片付け、お客を迎える用意をしているとエントランスのベルが
鳴った。ちょうど予習していたテキストを片付け終わっていた彼が出てお客を迎え入れる。
入ってきたのは長身の男性一人と小柄な女性二人だった。皆、絵に描いたような美男美女ばかりで、私はちょっと気後れする。
エプロン姿の朝倉さんもキッチンから出てきた。

まず、彼がお客達に朝倉さんと私を紹介する。ショートカットで無表情な女の人は、何もかも見通すような視線を私に向け、
長身で少し髪の長い男性は慇懃な態度でにこやかに頭を下げ、栗色の髪をツインテールにした女の人は穏やかな表情で丁寧に
会釈をした。
今度はお客が自己紹介する番だ。長身の男性が彼に素性を明らかにしていいのかと尋ね、彼が頷く。
「はじめまして、佐々木さん。古泉です。彼から聞いていると思いますが、『機関』という組織のメンバーです。京都で
 涼宮ハルヒさんのお世話をしています。では長門さん」
「……長門有希。朝倉涼子の上司」
ショートカットで無表情な女の人は二言で自己紹介を済ませた。何やら神秘的な雰囲気が漂い、ちょっと怖い感じがする。
朝倉さんとは同じ宇宙人でも随分と性格が違うようだ。
もう一人の女性は古泉さんが紹介してくれた。
「彼女は橘京子。僕と同じく『機関』のメンバーで、東京での窓口としてあなた方を担当します」
「橘です。よろしくお願いします」
橘さんはツインテールを揺らさずに優雅に会釈した。
「彼女は法学部に在籍しています。学内にも何人か外部協力者がいますので、いざという時は頼って下さい」
「さすがだな、もう体制を整えたのか」
彼が半ば呆れ顔でボヤくと、古泉さんは前歯が光りそうな爽やかな笑顔を浮かべた。ちょっと胡散臭いかも。
「元々はあなたと朝倉さんの監視のために要員が配置されていたんです。なので、今回はそれをちょっと増強した程度
 ですよ」
彼は納得顔で苦笑する。
「やれやれ、相変わらず監視がついてたか。面白くはないが、助かったこともあるから仕方ねえな」
彼に監視がついているということは、私も監視対象なのだろうか。そんなに重要……かもしれない。記憶が戻ったり、彼の
言う力が戻ったりすれば。でも、今の私は存在しないはずの、何もできない記憶喪失の小娘だ。

「とりあえずみんな手を洗って席についてね。長門さん、今日は特製カレーを用意したわよ」
朝倉さんの明るい声で何となく漂っていた緊張感が解ける。
「……朝倉涼子のカレーは久しぶり。楽しみ」
長門さんが無表情で2センテンスしか言わないのは別に機嫌が悪いからではなく、元々こういう人らしい。彼にそのことを
そっと尋ねたら、
「そうだ。別に怖くないから安心していいぞ」
と言われた。他の人たちは私に緊張感は与えないが、だからと言って安易に信用してはいけないんだろうな。

朝倉さんは大鍋二つになみなみとカレーを作っていた。朝のうちに一部仕込んではあったけど、いずれにせよ凄い量だ。
ご飯は足りるのかと思ったら、台所にあった炊飯器がどうみても業務用の大きさになっている。情報操作で大きくしたの
だろうか。
「そうよ。長門さんてあの体で物凄く食べるのよ」
朝倉さんはそう言って、どんぶりのような皿に山盛りのカレーを寄越した。他の人達はまあ普通だ。

「あら、ちょっと出遅れちゃったかしら?」
玄関で声がする。最後のお客が到着したようだ。でも、ベルも鳴らなかったし玄関が開閉した気配もない。
「ああ、朝比奈さん、お待ちしてました」
彼がいそいそと迎えに出る。明らかに態度が違うのは何故だろう。その理由は彼の後について入って来た人物を見て理解
できた。栗色の長い髪、年齢不詳だがこの部屋の誰よりも美しく愛らしいと思われる容貌、胸元の開いた白いブラウスと黒の
ミニスカートはOL風とも女教師風とも見える。そして、何よりも私の何倍あるか分からない素晴らしい胸部の盛り上がり。
なるほど、彼はこういうタイプに弱いのか。思わず自分の胸を見て溜息をついてしまう。顔を上げると長門さんが無表情で
じっと彼を見ていた。長門さんも私同様細身なので同じ気持ちなんだろうか。
「はじめましての方もいらっしゃるわね。朝比奈みくるです」
朝比奈さんは優雅に会釈して、空いていた席に着いた。
「朝比奈さんは未来人だ」
隣にいる彼が耳打ちする。
「関西にいるSOS団員の朝比奈さんは若い頃の彼女だ。こういう場に姿を見せるのは異例なんだ」

朝倉さんのカレーを長門さんが楽しみにしている理由が良く分かった。短時間で用意したのに、カレー専門店にも勝るとも
劣らないおいしさだったからだ。みんな朝倉さんを褒めた後はカレーを堪能している。全員に褒められた朝倉さんの頬に
ちょっぴり誇らしげな赤みがさしていた。
食事中は仕事の話禁止という不文律があるようで、皆世間話や近況を伝え合うのに終始していた。古泉さんと長門さんは、
涼宮さんと同じ京大の学生で、古泉さんは法学部、長門さんは工学部に通っているのだそうだ。
「涼宮はどうしている? 一緒に行くって騒がなかったのか?」
彼が尋ねると、古泉さんがスプーンを置いて答えた。
「鶴屋さんと朝比奈さんにお相手をお願いしてきました。涼宮さんが言うことをきくのは、あなたがいない今となっては
 鶴屋さんだけですからね。今頃は鶴屋邸で大騒ぎしていると思いますよ」
鶴屋さんというのは彼や古泉さんの一年上の先輩で、鶴屋ホールディングスという財閥のお嬢様だが、とても気さくで元気な
人だそうだ。
「なるほど、後でお礼のメールを打っておくか」
「ええ、是非そうしてあげて下さい。鶴屋さんもあなたに会いたがっていましたよ。大学の方だけでなく、ご当主の
 お手伝いも始められたので忙しくされていますが」
「鶴屋さんのバイタリティをもってしても大変なんだろうな」
「ええ。それにご当主の体調も優れないとかで、婿探しも始めたそうです」
「そりゃ大変だな。古泉、お前なんかいいんじゃないか」
水を向けられた古泉さんは、笑顔を崩さないまま首を振る。
「滅相もない。僕じゃ力不足ですよ。それより鶴屋さんは未だにあなたにご執心みたいですよ」
「いやいや、俺もお前と同じだよ。滅相もないって奴だ」
二人は笑い合う。古泉さんが敬語なのは別に遜っているわけではなく、こういうキャラクターを作っているようだ。
「しかし、佐々木さんは予想以上にお美しいので驚きました。街を歩けば若い男性の十人中八人は振り向くんじゃないで
 しょうか。あなたがえらくご執心されていたのも納得できます」
「古泉、お前は記憶にないだろうが、改変前にも俺に同じ台詞を言っていたぞ」
「おや、それはつまり僕の佐々木さんに対する評価が正しいという意味ですかね?」
「知らん」
彼はつっけんどんに応じて苦笑する。
何か非常にお尻の辺りが落ち着かない気がする。古泉さんの褒め言葉は巧言令色の類なんじゃないかと思う。

食事が終わり、朝倉さんが飲み物を出した。コーヒーの人、紅茶の人、それに緑茶の人もいる。緑茶は朝比奈さんが持参した
茶葉を使って淹れてくれた。彼が言うには朝比奈さんのお茶は絶品だそうだ。私はコーヒー派だが、試しに飲ませて
もらったら確かにおいしかった。未来でもお茶はあるんだろうかと尋ねたら、SOS団の活動をしている時にいろいろ研究
したのだそうだ。未来にお茶があるかどうかは禁則事項とやらで教えてもらえなかった。
朝倉さんを手伝って後片付けをする。朝倉さんと橘さん、それに私以外の四人はダイニングの隣の畳部屋に移動し、
ちゃぶ台を囲んでいる。朝倉さんと橘さんは上司に話を任せ、紅茶を手に大学の話を始めた。私はちょとポツン状態に
なったが、彼が手招きしたので隣に座る。

私が座ったのをきっかけに、彼が徐に口を開いた。
「さて、いろんな意味で遠路はるばる参集してもらい申し訳ない。早速だが、このとおり昨日突然二年前の姿のまま記憶を
 失った状態で出現した佐々木について、みんなの調査結果と意見をもらいたいんだ。本人を前にして言い辛いことがある
 かもしれないが、遠慮は要らない。ありのままを聞かせて欲しい」
最初に古泉さんが手を挙げた。
「『機関』で再調査しましたが、基本的には二年前の状況と変わっていません。佐々木さんご本人の情報はなく、ご両親に
 ついても不明なままです。全国の佐々木さんをしらみ潰しに当たったとしても、佐々木さんのご両親である証拠が存在
 しない以上、我々としては何も手が打てません。また、世界改変能力についても現状それを確認できる手段はありません。
 閉鎖空間の存在も対応する超能力者が特定できず不明なままです」
「要するに何も分かっていないということか?」
「ええ、残念ながら」
古泉さんが申しわけ無さそうに言い、笑顔が苦笑に変わる。既に彼に言われていたことだが、改めて確認されるとちょっと
落ち込む。せめて彼が両親の片方の名前だけでも覚えていてくれれば良かったのだが、常識的に考えて友人の親のファースト
ネームなどというものは、余程親しいか、あるいは印象深いものでないと覚えていないだろう。

次は朝比奈さんだ。彼女の説明によると、私が最初に出現したのは彼が私の家があったと主張する関西のある場所だという。
自分自身にその記憶がないので尋ねると、その場で朝比奈さんがすぐに公園に移動させたのだそうだ。未来人の持つタイム
トラベルの道具は空間移動にも使えるらしい。恐らくは特定の時間と空間の位置つまり四次元の座標を使って移動するから、
三次元すなわち同じ時間軸上の別の座標位置に移動することも可能なのだろうと私は推測した。
朝比奈さんは説明を続ける。
「少なくとも我々の認識は、佐々木さんは今でも時空の歪みです。その証拠に我々は佐々木さんの出現を観測できました。
 我々が観測した二年前の時間平面に突然出現した時空の歪み、キョン君の主張によると少なくとも今から四年前の春から
 この時空に存在していたはずのそれと現在の佐々木さんを比較したのですが、驚いたことに完全に一致しています。
 つまり二年前の時空の歪みは佐々木さんであったと結論できます。しかしながら、その二年前のイベントの前後の時間
 平面上には、昨日に至るまで佐々木さんの存在は観測できません。これについては謎のままです」
彼が手を挙げて質問する。
「朝比奈さん、今の時間軸はずれていないんですか? 確か二年前の俺に朝比奈さんは規定事項からの逸脱と未来の消滅を
 警告しましたよね。今、朝比奈さんがここにこうしているということは、二年前の警告は外れたと解釈して良いんですか?」
朝比奈さんは大きく頷いた。
「はい、あの時のキョン君の状態は極めて危険でした。自分が死ぬか、涼宮さんを殺す可能性が高かったんです。もし、あの
 時にキョン君がそうした行動に出ていたら間違いなく既定事項は満たされず未来は消滅していました。幸いにも私の記憶の
 とおりキョン君は涼宮さんと距離を置くことで、どちらかの死を回避したんです。それはいいのですが、あの時キョン君が
 言った佐々木さんという名前が私は非常に気になったので前後の時間平面を調べていました。すると、ここの時間で昨日の
 午後、二年前にキョン君がいた場所に突然時空の歪みが発生し佐々木さんが現れたんです。TPDDあるいはそれに類する
 装置の使用を疑いましたが、その形跡はありませんでした」
彼は腕を組んで考え込む。私は自分が何をしたのか覚えていないので答えようがないし、何の助けにもならない。
「朝比奈さん、昨夜朝倉とも話したんですが、佐々木は涼宮の改変に逆らいながら時間軸の方向に向かって改変を行ったん
 じゃないですか」
「ええ、その可能性が一番高いです。しかし証拠はありません。うふふ、キョン君、良い推論です。この二年で見違える
 ほどに成長しましたね」
彼は照れて頭を掻いた。朝比奈さんは確かに魅力的だが、ここまでデレデレしているとマヌケ面とでも言いたくなる。しかも
それって朝倉さんが言っていたことじゃなかったっけ?
「私の話は以上です。長門さん、後はお願いします」

「……了解した」
長門さんは短く応答して話し始めた。
「……情報統合思念体はこれまでの状況を解析し、今ここに存在する佐々木沙貴は特異点であると暫定的に結論した。
 より通俗的な表現をすれば、過去の経緯を持たず現在の時間平面との親和性も持たないにもかかわらず存在している状態。
 彼女の存在そのものは因果律からは肯定できない。ただし、それが世界の崩壊あるいはリセットにつながるものであると
 いう証拠は今のところ存在しない。よって、情報統合思念体は暫定的に現状維持を選択した」
「あー長門、とりあえず二点確認させてくれ。まず、ここにいる佐々木のこれまでの人生に関する情報は消滅しているという
 理解でいいんだな?」
「……そう」
「ならば次の質問だ。ゆえに俺の記憶は残っているが、佐々木の記憶が戻ることはないということだな?」
「……恐らく。ただし、彼女が因果律を越えて存在している以上、消滅したはずの情報が再生される確率はゼロだと断定は
 できない」
「分かった」
彼は納得顔で頷き、朝比奈さんと古泉君も頷く。でも、私には理解できない。これが二年間の人生経験の差なのか、単に私の
記憶がないことが理由なのかは分からないけど。私の表情を見て取ったのか彼は私の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「佐々木よ、ぶっちゃけた話、お前が今ここにいる理由は宇宙的知性にも分からないんだとよ。それと記憶が戻る可能性は
 限りなく小さいかもしれないが、ある日突然戻るかもしれないってことだ。つまりはそれも分からんということだ」
やっと理解できた。私がいてはいけない理由はない。過去はともかく、これからの人生だけを考えて生きていけばいいという
ことだ。今までの記憶はないが、これからいっぱい記憶すればいい。彼と一緒に……だったらいいのだけど。

彼に頭を撫でられている私を長門さんがじっと見ているのに気付く。無表情だが、どこか悲しげなように見えるのは何故
なんだろうか。もしかして長門さんも彼のことを好きだったりするのだろうか。朝倉さんが言っていたように、彼は宇宙人の
長門さん、どうみても人間としてのコミュニケーション能力が高いとは思えない彼女にもごく普通に接していたに違いない。
朝倉さんの上司ということは、きっと朝倉さんよりも凄いことができるのだろう。そんな人、まあ人ではないけど宇宙人と
いうからには人の範疇か。とにかく、きっと彼のことを長門さんは好きなんだろう。彼と長門さんとの言葉のやり取りは全然
気兼ねのない感じだし。

「長門、まだ話すことがあるだろう?」
不意に彼が長門さんに言った。どうして分かるんだろう。一見無表情な長門さんだが、彼はその僅かな変化を見て取れるの
かもしれない。
「……以上は情報統合思念体の公式見解。以下はわたしの個人的な見解」
やっぱりそうだった。私は何となく不安になる。どうしてか分からないけど、彼が他の女の人と心が通じ合っているのを
見ると凄く不安だ。朝倉さん然り、長門さん然り、多分朝比奈さんも然りだ。私達よりずっと年上に見える朝比奈さんが
どうして彼と心が通じているんだろうか。あ、きっと今の時代にいるもう一人の朝比奈さん、彼の一学年先輩ということに
なっている朝比奈さんと親しかったのか。
私が妄想を巡らしている間に、長門さんは話を始めていた。
「……当時のログが大量に消失しているために情報伝達に齟齬が生じるかもしれないので注意して欲しい。また、内容に
 矛盾があれば指摘して欲しい。佐々木沙貴、あなたには辛い話かもしれない。でも聞いて」

私を含め、皆が頷くのを待って長門さんは本題に入った。
「……二年前のイベント、天蓋領域の消滅に関する一連のログをわたしは独自に調査した。このことは情報統合思念体に
 報告しているが、確証が取れないため事実認定は保留されている。
 ……二年前の春、ログが消失しているので理由は不明だが、天蓋領域の干渉と涼宮ハルヒの改変によりこの世界は分裂の
 危機に陥った。しかし、現在は不明な経緯と手段により再統合が行われた。これに関して、涼宮ハルヒ以外の氏名不祥な
 世界改変能力者の関与が推測されるログが残っている。恐らくは佐々木沙貴、あなた。
 ……その後、天蓋領域は情報統合思念体との共存を何らかの理由で拒否し、両者は対立状態となった。彼が言うところの
 パーソナルネーム周防九曜というインターフェースが地球上での干渉を担当していたと思われる節がある。また、彼が
 涼宮ハルヒではない氏名不詳の女性と懇意にしていたと思われる形跡がある。それも佐々木沙貴と推測される。
 情報統合思念体はこの状況を奇貨として天蓋領域の消滅を計画した。涼宮ハルヒが大きな情報フレアと共に閉鎖空間を
 発生させるタイミングで、その情報を天蓋領域と対消滅させるという内容。詳細はログの消失で不明だが、涼宮ハルヒに
 ストレスを与えるイベントが発生し、情報フレアが起きたタイミングで情報統合思念体は計画通り天蓋領域の消滅を実行
 した。これ自体は問題なく実行され、天蓋領域は完全に消滅した。ただし、同時に世界改変が行われ、大量の情報が
 これに巻き込まれて同時に消滅、情報統合思念体の未来に対する同期機能は破壊され、ロギングシステムにも重大な
 障害が発生した。
 ログがない状態ではフォールバックが不可能なため情報統合思念体は喜緑江美里らに命じて不整合な情報を切り捨てる
 ことで世界の崩壊を阻止しなければならなかった。
 閉鎖空間に取り込まれていた彼の回収は、涼宮ハルヒの力をうまく使って行われた。『機関』が認識していたのは彼が
 涼宮ハルヒが作った通常と異なる侵入困難な閉鎖空間から無事に戻ったことのみ。古泉一樹、それは間違いない?」
古泉さんは目を細めて記憶を浚っているようだ。
「はい……記憶にある限りですが、我々の認識ではそうでした」
「俺もそう言われたぞ」
彼が古泉さんの回答を裏打ちする。長門さんは僅かに頭を動かしてから続けた。
「……ここからはわたしの推測。閉鎖空間にはもう一人の人物が閉じ込められていた。涼宮ハルヒの嫉妬の対象である人物、
 それは佐々木沙貴、あなたと思われる」
「いや、長門、それは俺的には事実だ。あの時、俺と佐々木は涼宮の閉鎖空間に閉じ込められていたんだ」
彼の表情が硬くなり、拳を握り締めたのが分かった。思い出したくないことを思い出しているかのようだ。
「佐々木は俺の目の前で消え、俺はこちらの世界に戻された。お前の推測は実際にあったことと一致している」
「……そう」
「俺はそのことを言わなかったか?」
「……あなたは言っていない。あなたがわたしに質問したのは佐々木という名前だけ」
「そうだったか、くそっ」
彼は吐き捨てるように悪態をつく。長門さんの言葉を疑わないのはどうしてだろうと思ったが、恐らく宇宙人の長門さんは
事実を正確に記録しているからだろうと見当をつけた。それよりも恐ろしいことがある。私は消えたんだ。彼の目の前で。
自分が彼の立場だったらどんな気持ちだろう。想像するだけで身震いしてしまいそうだ。彼がどんな思いをしたかが、やっと
判ったような気がする。

「……推測部分が解決したので、これ以降は事実である可能性が高い。閉鎖空間と共に消滅する直前に、佐々木沙貴は世界
 改変を実行した。理由は言うまでもなく自己保全のため。そして、朝倉涼子や朝比奈みくるの推測どおり、自らの
 構成情報のみを辛うじて時間平面を越えて移動させた。そして追跡を避けるために情報統合思念体の同期機能を停止させた。
 この時に大きな時空震動が発生した。朝比奈みくる、あなたが未来で観測したものが恐らくそれ」
「はい、長門さんのおっしゃるとおりだと思います」
朝比奈さんが頷くと、長い髪と胸が揺れた。そちらへ彼の視線が向いているのを見て私は彼の脇腹をつつく。彼が私の方へ
向き直ったので、頬を膨らませて見せると彼はバツの悪そうな顔になった。全く、どうして男はこういうのに弱いんだろう。
「……時空震動のみしか観測できなかったのは、先に述べたとおり大量の情報が改変に巻き込まれて消失していたためと
 思われる。また、佐々木沙貴の記憶が消えているのもそのせいと推測される。
 ……わたしの個人的な推測は以上。完全に事実と検証されたわけではないが、彼の証言でほぼ間違いない事実と認定可能」
そこで長門さんは沈黙した。朝比奈さんも古泉さんも彼も黙り重苦しい空気になる。何か言わなくてはと思うけど、言葉が
浮かばない。この件については私は空っぽなのだ。

沈黙を破ったのは古泉さんだった。恐らくそういうキャラクターなのだろう。
「すみませんでした。知らなかったとはいえ、僕はあなたにずいぶんとひどいことを言っていたはずです」
古泉さんが頭を下げる。
「私もそうです。無神経なことを言ってしまいました。ごめんなさい、キョン君」
朝比奈さんも申し訳無さそうな顔で頭を下げた。
「いや、それはもういいんだ」
彼はすぐに応えた。
「朝比奈さん、古泉、頭を上げてくれ。あの時の二人の対応は仕方がなかったと理解できた。俺に謝る必要はないんだ。
 謝るのは俺の方だ。みんなにひどいことを言った。すまん。それに、あいつにもひどいことを言った」
「ですが……」
「くどいぞ古泉。もういいんだよ。涼宮……いやハルヒのことも、俺はもう恨まなくていいんだ。」
そこで彼は一呼吸置いて、傍らの私を抱き寄せた。私はされるがままに彼の腕の中に納まる。そして、見上げた彼の横顔には
初めて見る笑みが浮かんでいた。
「だって、佐々木はここにいるんだからな」

何だろう、この幸せな気分は。彼の一言は愛を語る言葉でも何でもないのに、どうしてこんなに幸せな気分にさせてくれるの
だろう。記憶がないはずの私なのに、まるで何年も恋人同士だったかのように、彼を信じ、彼に愛されたいと思うのだろう。
「あの……キョン?」
私は初めて、彼の渾名を呼び捨てにしていた。
「やっとそう呼んでくれたな」
「うん……私は年下だけど、これからもそう呼んでいい?」
「良いに決まってるだろ。むしろそれ以外の呼び方をするな」
「うん……」
「それとな、佐々木、できれば男言葉で話してくれ」
「え……それはちょっと難しいかも」
「そっか、いきなりは無理だな」
困ったようなキョンの顔を見ると、思わず笑みがこぼれてしまう。
「くっくっく、いきなりは無理よ」
キョンは一瞬驚いた顔になり、また優しい笑顔になった。
「やっと笑ってくれたな」
そうだっけ。そう言えば笑った記憶がない。私はこんな風に笑うなんて知らなかったな。

古泉さんの咳払いで私は我に返る。キョンもしまったという顔をしていた。
「すみません、仲が良いのは十分に理解できましたから、愛の語らいは僕らが退散した後でしていただけますか」
「ああ、すまんすまん」
キョンは照れ隠しに頭を掻く。火照っているのが分かるから、私の顔は真っ赤になっているに違いない。

朝倉さんと橘さんも呼ばれて、私達の今後についての話になった。朝比奈さんは元の時間に帰らないといけないので、
皆に見送られて一足先に姿を消す。再会の約束をしないのが未来人のスタイルらしい。
古泉さんがちゃぶ台を囲む一同を見回してから、キョンの方を向く。
「二年前にも同じ台詞を言ったかもしれませんが、我々『機関』はあなたに大きな借りがあります。言うまでもなく、涼宮
 さんによる世界の崩壊の危機を防ぎ、改変からの復帰を実現していただいたことについてです。我々ができるのは社会
 生活上の便宜、あるいは金銭的な支援だけですが、今度こそやらせていただきたいのです」
「まあ大したことをしたわけじゃないが、今度ばかりは貰える物は有難くいただくことにするさ」
「そう言っていただけると僕の気持ち的にも救われます。当面、佐々木さんの衣食住についてサポートさせてください。
 具体的には、佐々木さんの個人情報の作成と登録、お二人で暮らせる住居の確保、生活費の支給、佐々木さんの高校への
 編入と学費の援助の四点です」
キョンは真面目な顔で頷いた。
「そうしてもらえると有難いな。現状俺一人で佐々木を養うわけにもいかんからな。俺が就職するまで頼めると助かる」
「水臭いことを言わないでください。少なくとも佐々木さんが大学を卒業して就職されるまではやらせていただきますよ」
「分かった。よろしく頼む」
今度はキョンが頭を下げた。それはいいが、ちょっと待って欲しい。私はキョンと暮らすことになるの? いや、別に嫌だと
いうわけじゃないけれども……誰もそんなことは気にしていなかった。これは既定事項なんだろうか。

「ねえ、長門さん、個人情報の登録なら私達でもできるんじゃないの?」
「……朝倉涼子、わたし達がインターフェースを潜り込ませるのとは異なる。ここは『機関』に任せるべき」
「あ、そうか。正しい戸籍を作るのはわたし達には無理よね」
朝倉さんは納得顔で引き下がると思いきや、今度は別の提案をしてきた。
「ねえ、二人とも良かったらこのマンションに住まない? 
 古泉君、『機関』でこのマンションの部屋を借り上げられないかしら?」
「空き部屋があれば大丈夫だと思いますが、橘さん分かりますか?」
「少々お待ちを」
橘さんはさっきから持参したノートパソコンを開いていたが、素早くキー入力をする。
「はい、大丈夫です。朝倉さんの監視用に借り上げている部屋が使えますね」
「やだ、まさかわたしの着替えを覗いたりしてないでしょうね?」
朝倉さんがおどけて言う。古泉さんは笑顔のまま応じた。
「ご安心下さい。監視要員は女性ですから」
やっぱり見ているんだろうか。もしかして、私も見られていたということ? それはともかく何気に凄いやり取りのような
気がするのは私だけだろうか。いや、キョンも苦笑している。
それから事務的な話がいくつかあり、夜も遅くなったので長門さん、古泉さん、橘さんは帰ることになった。橘さんは同じ
私鉄沿線なのですぐ帰れるが、長門さんと古泉さんはこれから迎えの車で京都まで帰るそうだ。
「涼宮さんの我慢の限度は一晩でしょうからね。鶴屋さんもお忙しいのであまり長時間の滞在は申し訳ないですし」
「ああ、みんなによろしく言っておいてくれ。近いうちに一度そちらへ帰るつもりだ」
「お待ちしています。涼宮さんにも是非会ってあげてください」
「俺はハルヒに謝りたい。例え話とはいえ人殺し呼ばわりしてしまったんだ。いや、どの面下げて顔を出せるんだ」
「大丈夫ですよ。涼宮さんも変わりました。是非会ってあげてください」
「佐々木を連れて行っても大丈夫か?」
「はい、むしろその方がよろしいです」
キョンは古泉さんの答えに異論を挟まなかった。どうしてその方がいいのか私には分からないが、二人には理由が分かって
いるのだろう。

その夜は朝倉さんと寝た。
朝倉さんのベッドは贅沢にもセミダブルなので、女子二人が寝ても余裕だ。何か目的があってこのサイズにしたのかも
しれないが、武士の情けで訊かないでおこう。
「今日、みんなには聞こえないように長門さんにお願いしたのよ」
毛布に包まって目だけ出している朝倉さんが唐突に言う。
「できればわたしの有機情報連結を解除して欲しいって」
「何ですかそれ」
「有機情報連結、つまり人間としての姿を消して欲しいってお願いしたの」
「どうしてそんなことを?」
「これ以上キョン君とあなたが仲良くしているのを見続けるのが辛いから。佐々木さん、さっき自然にキョン君の腕の中に
 納まってたでしょ? あれを見て、ああこれは勝負にならないわって思ったのよ」
「……」
私は顔が火照るのを感じた。二年の時を越え、私の記憶も無いのに、自然に演じてしまった公開ラブラブショー。
お恥ずかしい限りだ。どぎまぎしている私を見て、朝倉さんはうふふと笑った。
「だけど長門さんに却下されちゃったのよ。わたしの処分は最低四年間キョン君の傍にいることなの。つまり、刑期はまだ
 三年半以上も残っているわけ。一昨日までの状態だったらわたしは全然処罰されているという感覚は無かったんだけど、
 あなたが現れてから実感できるようになったわ」
「ごめんなさいって言うのも変ですよね」
「うふふ、そうね。それでね、長門さんの回答は『彼と離れ離れになっているわたしの方が辛いことを理解すべき。
 どうしてもというなら涼宮ハルヒの担当にする』っていうの。正直涼宮さんは苦手だから、今のままにしてもらったわ。
 長門さんはむしろ交替して欲しかったみたいだけどね」
「長門さんもキョンのことを好きなんですか?」
「ええ、好きなんてレベルじゃないわね。世界改変してしまうくらいにキョン君のこと愛してるの。でも、涼宮さんの手前、
 それをキョン君にあからさまに伝えることも、行動で示すこともできなかったのよ。だからその辛さを長門さんは良く
 知っているの。多分、朝比奈さんも同じよ」
朝比奈さんはともかく、長門さんや朝倉さんのような人間を遥かに超えたレベルの宇宙人が、何で人間に恋するんだろう。
女性として作られたために生じた感情のなせる業なんだろうか。私はどうしてキョンに恋したんだろう。記憶が戻れば
分かるのだろうけど、涼宮さんが私を消したくなるくらい、キョンと私の心が通じていたのなら嬉しい。
「私には無謀だけだと勇気があったんでしょうか」
「多分ね。それに宇宙人とか未来人のように背負っている任務が無かったからだと思うわ。
 ま、それはともかくとして、わたしは少なくともキョン君が大学を卒業するまではあなた達の近くにいることになった
 わけね。くやしいからいっぱいお世話させてもらうわよ」
「はい、こちらこそよろしく。キョンに悪い虫がつかないようにお願いします。ふわ……」
朝倉さんは毛布から顔を出す。口元には楽しそうな笑みが浮かんでいた。
「それは大丈夫。二重の意味でわたしがさせないわ。この役得は長門さんにも……」
朝倉さんがその後何を言ったかは定かではない。私は、その後すぐに眠ってしまったから。





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最終更新:2009年10月17日 17:23
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