「…やれやれ」
これは彼の口癖だ。
ところで人の口癖を見つけるのは意外と難しい。
それこそジュブナイル小説に出てくるようなキャラであれば、あからさまにわかるようになっているが、
実在する人物となるとそういうわけにはいくまい。
口癖はその人の本質を示すものだとは聞いたことはあるが、そう簡単に人の本質を掴めるとは思えないし、
僕自身もそうやって人を見透せるほど達観もしていないし傲慢でもないつもりだ。
その人をよく観察していれば人の口癖を見いだせられるかもしれないけれどもね。
…いろいろ突っ込みがきそうなので本題に入ろう。
あれは僕が中学二年の頃だ。さらにいうとそれは3月のことだ。
なぜなら、そのときは二年生は全員三年生の卒業式の準備に駆り出されていたからだ。
会場となる体育館の掃除は前日のうちに終わらせていたので、この日は備品のセッティングだ。
男子は机や教壇、椅子の運び、女子は壁の飾り付け、紅白幕の取り付け、掃除と、
クラス委員は無難で妥当であろう役割分担を指示して作業に取り掛かっていた。
「…困りましたね」
これはちょっとした誤算とも言えるだろう。
僕の班は体育館の壁に紅白幕を飾り付けることになっていた。
壁のフックに届かないのだ。一応取り付けのためにと長机を借りてはいたのだが、それでも届かない。
そこで僕が取り付けをするために長机の上に登ることになった。
僕が一番背が高かったというわけでもなく、このメンバーの身長はみんな大差ない。
僕自身も含めておそらく平均身長よりは何ミリか高いのだが。
このメンバーの誰がやっても同じ結果になっていただろう。
すなわち、話の流れに流された形でそういう形になってしまった。
もっとも、人の身長というものは一日のなかでも伸び縮みするものだ。例えば成人男性の場合だと、
一日に2センチほど伸び縮みすると言われている。睡眠中に椎甲板に水分を溜めていくため、
朝一番が一番身長が高くなるそうだ。そこから重力で水分が出ていって徐々に縮んでいくそうだ。
まあ、僕の身長のことはいい。それなりに伸びているのは健康な証拠だ。
いろいろ思うことはあるにせよ、その点に関しては両親には感謝すべきなのかもしれない。
その一方で胸部に関しては貧相もいいところで、あの時の班の中では一番子供っぽかったかもしれない。
例えば岡本さんみたいに発育がよければこの種の悩みとは無縁だったのだろうけれども、これは欲を言い過ぎだろう。
今となっては遅らせばながらも徐々に身体的数値は変化はしているものの、
一度顔を合わせた朝比奈さんだったかな、を見たときにはよくわからないけど自信をなくしてしまいそうだったよ。
最近流行りの「女子力」ってやつかな。そういう概念には興味ないつもりだったのだけども、
とてつもない敗北感を感じる程度には僕の性別は女だったらしい。
…どうも僕は話を脱線させるのが好きみたいでよくない。話を戻そう。
そんなわけで僕達は途方に暮れてしまったのだ。
今だったら、こういう場合なら男子や先生に頼んで手伝ってもらう選択肢がすぐに出るものだったが、
当時はそんな選択肢を選ぶ発想がなかった、というより封印していたのだと思う。
それは同じ班の女子も同じだったみたいで、彼女たちの場合は男子に声をかけづらいという感じだったのかもしれない。
その気持ちは実のところ僕にも理解はできるところがあるので、そのままなんとかフックにヒモを掛けようと
爪先立ちしたりして奮闘を続けていた。
これが小学生時代の同級生の娘だったら、どうしていたのだろう。
僕が覚えている彼女の行動力はあらゆる男女を惹きつけ、他では真似できないイベントを実行していたのかもしれない。
もっとも、風の便りによると、あの中学で一度新聞沙汰の事件を起こしていたらしい。
アレを一人でやったというのは不自然な点も残るところではあるが、彼女が関わっているのは間違い無いだろう。
彼女じゃなくても、例えば岡本さんみたいな社交的な娘ならば、いつものスマイルで男子を手伝い要員にできたのだろう。
今となって思うに、届きそうにないのに関わらず僕は意固地になっていただけなのかもしれない。
「お前ら、なにやっているんだよ」
ふと、男の声がした。
そこでふと我に返り、自分の姿勢を確認した。
…少しばかりはしたない格好かもしれない。
彼はどうやら同級生のようだ。名前はわからないが、たまに校内や宿泊学習で見かけた顔だ。
そうやっていると同じ班の女子と話を始めたようだった。
その時の僕はやはり少々冷静じゃなかったらしく、早く自分の持ち場に戻ったらどうだろうかとか、
彼がいると仕事がやりづらいじゃないかとか考えていたのだと思う。
「俺がやる」
「だが、しかし…」
「こういうのは俺に任せておけ」
その言葉はあの時の葛藤を打ち消すものだった。同時に今まで自分は冷静だったつもりだったことに
気づくことができた。そう、合理的に考えて僕達より背の高い彼に任せる方が効率がいいのだ。
「すまない。お願いするよ」
そう言って、僕は長机から降りた。
スカートをおさえながら、机に腰掛けてからね。
流石に長机に登っただけでは彼もフックに届かなかったが、ちょっと爪先立ちして腕を伸ばせば、楽に届いた。
そして、紅白幕を渡せばあっという間に幕の布一枚分をかけてしまった。
そうしていると、また別の男子がやってきた。
「おや、どこかでサボっているかと思ったらまさか隣のクラスの手伝いをしてたんだね」
「そんなことよりも国木田よ。椅子の運び出しはそろそろいいんじゃないか。
どうやらこっちの仕事の人数が足りないみたいだ」
「そうみたいだね。そっちのクラスの委員長に応援を掛けあってみるよ」
「ああ、頼む」
その後、男子を含めた応援が来て紅白幕の設置はあっという間に終わった。
これが彼、キョンとまともにした最初の会話だと思う。
最も、2ヶ月後には同じクラスになるとはね。
そして、案の定というべきか彼はそのことを全く覚えていない様子だった。
何しろ進級したときに顔を合わせたときの彼は絵に描いたようなきょとんとした顔だったからね。
ちなみに国木田くんの方はというと、同じクラスにはならなかったものの、キョンと話しているうちに
彼とも話をするようになってCDを貸し合う仲にはなった。共通の音楽の趣味をもつ友人は貴重だ。
彼との給食や休み時間での雑談は非常に有意義なものだった。
国木田くんみたいに討論ができるタイプではないが、こちらの言いたい本質を理解し、
かゆいところに手が届くというべき的確な質問を投げかけてくれる。
こういうことができる人間は実に稀有だと僕は思う。彼がその気になればもっと上のランクの進学校にも
行ける学力を手にすることだって可能だろうとは思ったこともあるが、それは最早詮なきことだ。
ただいつもは打てば響くように良い反応をしてくれる彼だが、
肝心なところでは鈍重でやきもきさせられたものさ。
その度に僕はこうつぶやいていたものさ。
「やれやれ」ってね。