66-518「マティーニでもどうだい?」

 喉にカクテルを流し込む。
 マティーニ、それはジンとベルモットのカクテル。
 一時期は辛口のドライ・マティーニが流行したと聞いているが、私は甘めと言われるくらいを好んでいる。
 甘い香りが疲れた身体に心地良い、そんな時だ。とてもとても懐かしい声を聞いたのは

「なんだ佐々木か」
 ぬっとカウンター席に現れた人影に名前を呼ばれ、私は引っ張られるように言葉を返していた。
「やぁ、キョン」
 彼だった。

「? おう」
「くく、座るなら早く座りたまえ。周囲の邪魔になる」
 何事もなかったように促す。この十年近い日々などなかったかのように。
 キョンは何故か軽く首を傾げ、それから座った。

「マティーニでもどうだい?」
「ほう。じゃ、俺もそれお願いします」
 注文を告げると、寡黙なマスターは黙って頷きシェイクを続行する。
 私はこの雰囲気が好きだった。
 彼はどうだろうか。

「どうだい。あの春の別れからしばらく経ったが、つつがなく愉快な日々は送れているかい?」
「しばらくって程度か? まあぼちぼちってとこだな」
「そいつは良かった」
 変わらぬ苦笑。私もすらすらと言葉が出た。
 あの春の日以来、十年近くも使っていなかったはずの「僕」の言葉がすらすら出た。
 あれからは変人演技……「僕」は止め、私なりに生きてきた。けれど、彼の前では「僕」の方が相応しいだろう。
 くくっ。我ながら子供染みていると思うよ。けど、その方が僕ららしいだろう?

「お前は変わらんな」
「くっくっ、十六の小娘ではなくなったつもりだがね」
「そうだな」
 でも、キミはあの頃と同じ瞳で見つめてくる。
「おや? ここは、綺麗になったな、とか言ってくれる場面ではないのかい?」
「言って欲しいのか?」
「まさか」
 笑って返す。まさか。

「就職したんだね」
「お前も就職したのか、なんて俺が聞くだけ野暮だな」
 むしろ俺の方がニート候補だったな、等と肩をすくめる。いやいや、キミは案外凄い奴だったぜ?
 あれからどう変わってしまったのかなんて知らないけどね。
「就職と言えばそうだね。しがない研究員さ」
「そうかい」
 言ってマティーニを含む。

 私は研究者の道を選んだ。
 大学進学後は予定通りレポートと論文三昧の楽しい日々を送り、やがて象牙の塔に末席を得た。
 論文を書け、さもなくば滅びよ、とはよく言ったものだ。高校までにがむしゃらに蓄積してきた知識を発展させて
 いつか夢見た「思索に耽る日々」を送っている。

 夢に一歩一歩近付く日々、「オリジナルの思考を残したい」という遠大な野望。
 学問に王道はなく、ローマの道も道路整備から始まるのだ。
 知識には経験、経験には時間が必要なのだから。
 けれど

「旨いな」
「ふふ。そう言って貰えると嬉しいね」
 韜晦を繰り返し、四方山話をしばらく続ける。
 本当に聞きたい事をすっとぼけ、「僕」は会話を続けた。

 彼は変わっていなかった。長い時間が過ぎたはずなのに、まるであの翌日にでも会ったかのように語り合った。
 あの頃と同じ等距離。心地良い距離感に、でも何故か物足りないものを感じてしまう。
 私は、あれからそんなに変わっていないのだろうか。

 そんな事はない。
 私は成長を是とする人間だ。だからひたすら前に進んだ。
 私は未熟で平凡だから、自分を鍛え、成長する事こそが喜びだったのだ。……だからキョンさえ振り切った。
 私は「私」に向き合った。甘えていた自分を振り切った。

 男子には男子の、女子には女子の口調と思考で。これは私なりに「対等・中立」を気取る為の姿勢のつもりだった。
 けれど気付いてしまったのだ。あれは「甘え」だ。変人として目立つ自分を楽しむ? そうじゃない。
 目立つことで「私はここにいる」と言いたかっただけなのだと気付いた。

 私は仮面、中立を気取ったつもりで、本当は誰より構ってもらいたがりだったのだと。
 私は仮面を被ったまま、キョンに「気付いて欲しい」「構って欲しい」って虫のいいアピールを繰り返してたのだ。

 あの高校二年の春、ようやくそれに気付いたから、私は演技をするのを止めた。
 私は「僕」を止め、新しい「私」を覚えていこうとした。
 あれは私の甘えだったのだから。

 けれどそうやって作り直した「私」は、もうとっくに着古して汚れているはずだった。
 でも彼の瞳はあの頃と変わらないままで、「僕」だって変わっていない。
 私は、あれからそんなに変わっていないのだろうか。

「でな」
「そうかい」
 少なくともキョンは変わってないと思う。
 そう、人心観察にも磨きをかけた。恋愛感情を自覚した事でそれはより完璧になった。
 人心観察には自信があるなんて昔は言ったが、所詮異性の告白一発で吹っ飛んでしまうようなお粗末な代物だったから。
 あの一件を経て、老成した人格と自負していても、中身はただの少女だったと解ったから。
 だから、私は人心観察に磨きをかけた。

 後になって思う。「意図しない聞き上手」というのはなんて贅沢な人だったのかと。
 そうとも、自惚れじゃなしに言おう。私のように外見と内心がアンバランスな人間には特にそうなのだ。
 どうにも現代は恋愛感情とやらにエネルギッシュすぎやしないかい?

 石を投げれば恋人にあたる。そんな時代だ。
 別にゴリアテを倒したい訳じゃないが、現代でダビデが石を投げれば、恋人たちの間を飛び石するだろう。
 そりゃ私だって恋をしたことがある。それはもうエネルギッシュな大恋愛だったさ。
 けれど、無限のスタミナを持つ人達の前に敗北した。
 つくづく自分には向いてないなと悟ったよ。
 私はどうにも控えめに過ぎたと。
 素直にさえなれなかった。

 このキョンにね!

「なんだ?」
「いや? どうかしたかい?」
「視線がツンドラ気候だった気がしたんだが」
「くっくっ。人間が唯一居住できる寒帯の事だね? 褒め言葉だと受け取っておこう」

 そうさ。その呆れ顔も、ダルそうな顔も、困った顔も、もちろん笑った顔も、大好きだったよ。
 けれどそうやって恋愛に現を抜かす自分が嫌で、僕はキミを遠ざけた。夢に近づけなくなると思ってしまったから。
 だから高校時代に再会した後も「罰」として甘んじて受けたよ。
 キミとの関係を遠ざけた、僕自身への罰だってね。
 あれは中学時代の関係なんだと振り切った。

 ……本当に振り切ったのなら、またキミと友人として足しげく会っても良かったはずなのにね。
 キミは僕も巻き込もうと色々骨だっておってくれた。
 けれど友誼を遠ざけてしまったのは……。

 いいよ認める。やっぱり僕は素直じゃないのだな。
 そうさ。確かに「僕」は臆病なくせに構ってもらいたがりの私が作った虚像だったかもしれない。
 けれどキミと一緒に居た時間、キミと一緒に育んだ感情は幻じゃない。どんなに恥ずかしい代物だろうと僕のものだ。
 僕も私だ。作り物だろうと幻じゃない、誰にだろうと渡したくない
 この感情は私のものだ。

「そろそろお開きにするか。ろれつが怪しいぞ」
 そんな事ないよ。自分の酒量くらいはちゃんと弁えているつもりだ。
「タクシー呼んでやるからちょっと待ってろ」
 携帯に手をかける。待って、もっと話そうじゃないか。ほんのちょっとでいいから。
「すまないね。ちょっと持ち合わせが」
「なら貸してやる」
 ああもう

 空気読めバカキョン!
「空気読めバカキョン!」

「え?」
「え?」
 空気が熱帯モンスーン気候。おそらく今の僕の汗は年平均にして1,000mmを上回るのではないだろうか。
 久々に使うからだろうか、カクテルのせいだろうか、どうにも「僕」が安定しない。
 クールじゃないぞ、もっとクールにならなければ。
 あの春の日のように……。

「あー。僕はその……おっとっと、キミともう少し、いや、その」
「そうか」
 言って、キョンは浮かしかけた腰を戻した。

 いやそうじゃなくて。
「いやそうじゃなくて」
「どうじゃないんだ」
 どうだろう?

「ここでじゃなくてね、どうだろう。僕の部屋にも酒なら蓄えが……」
「佐々木」
 キョンはぴしゃりと言った。
「年頃の女が男を部屋に誘うんじゃない」
「僕をそんなふしだらな女だと思っているなら訂正を求めるよキョン」
「訂正も何も今まさにそうしてるじゃないか」

「こうして酔っ払うまで酒を飲むのもそうだ。お前は無防備すぎやしないか?」
 なんだよ。人を十年近くも放っといたくせにお説教かい。
「旧交を温めようとしてなにがいけない?」
「ならお前は、あー、そうだな。国木田にも同じようにするのか?」

「何が言いたい? キミは僕の特別だから、とでも言って欲しいのかい?」
「そうだ」
 言い切ったよこの男。
「でなきゃ心配でならないって言ってるんだ。俺の思い上がりにも程があるけどな」
 小娘のように頬が火照る。

「……キミは特別だよ。だから」
「けどお前は俺を「親友」って呼ばなかっただろ」
 だから心配なんだよ、と続ける。そうだった。再会の第一声は「やぁ、キョン」だった。けど意識した訳じゃない。
 それはきっと僕がキミに対する独占欲を失っていたから、だから、キョンと呼んだのだよ。
 そうか、だからキミはああして首を傾げていたのか。

『じゃあね、親友』
 いやそうか? 何故呼ばなかった? いや何時から僕はキミを「親友」と呼ばなくなった?
 くじびきという単語、電話を切るような音がフラッシュバックした。
 それは独占欲を失ったから?

 違う。僕は独占欲で「親友」って呼んでいたから、それは僕の醜い一方的な感情だと思ったから、だから止めた。
 キミと僕とは特別だ、なんて言えないと思ったからなんだ。
 けれど、別れ際にキミは言ってくれたね。

『じゃあな親友!』
 キミは僕を特別だと言ってくれた。だから溢れてしまった。
 センチメンタルな感情が溢れ出して、さよならすら言えなくなってしまったんだ。
 けれど意地っ張りだから、いつしか日々の中に想いを沈めてしまって、それきり……とても大切な想いだったのに。

 ……まったくね。
 何であれ、ちゃんと決着はつけておくべきだと思うよ。いや、自分では着けたつもりだったのだけれど。
 あの日、振り返って、ちゃんと『さよなら』って言っておけば良かったんだ。
 センチメンタル、情緒に耽った別れなんて最低なんだよ。
 後悔ばかり残してしまうから。

 ……また、想いたくなってしまうのだから。

「キミは特別だ」
「そうかい」
 改めて言い直す、これも混じりけなしの本音。そうさ、嘘は言ってないよ、嘘はね。
 察したのかキョンは方向を転換した。

「なら忠告第二弾だ。俺が昔の鈍感男子高校生のまんまだと思うな」
「違うね。キミは変わっていないよ」
「そうやって他人を易々信じるような奴だったか?」
 キョンはニヤリと笑ってみせる。
「そうやって他人を信じ込ませるだけの女ったらしになっちまったのかもしれないぜ?
 男は狼なのよ♪ 気をつけなさい♪ってな」
「古い曲だねえ」
 苦笑を返す。

「ときにキョン、あなたも狼に変わりますか、あなたが狼なら怖くない♪ という曲もあってね」
「いやいや、それも古いぞ佐々木」
 苦笑が返ってくる。

「人心観察には自信があるって言ったろ。それにキミは他人じゃない」
「人は数年で構成するたんぱく質が入れ替わるって言うだろ? あの時の俺とはもう別人だ」
「ああ言えばこう言う」
「こう言えばああ言う」

 互いににらみ合い、ぷっと吹き出した。
 まるで小さな秘密を分かち合った子供のように。

「お前はもうちょっと経験則を重視する奴だったろ」
 大きな手が、くりくりと頭を撫でる。
「ならもうちょっと俺を見てみろ。俺だって俺がどの程度変わったかなんて解らねえんだ」
「いやキョン、キミは変わったよ」
「どっちなんだ」
「頭を撫でるのが上手くなった」
「お前を撫でた記憶はないが」
 くく、覚えていたか。

 笑いあっていると、キョンはこきこきと首を鳴らした。
「しかしアレだな、バーテンさんにはホント悪いが、やっぱこういうのは俺の性にあわんわ」
「おや、そうかい?」
「甘くて熱いものなら俺は秋刀魚でも食ってる方が性に合ってる」
「そりゃまた随分だね。まあキミらしいっちゃらしいが」
 すると、これまで黙っていた老バーテンダーがニヤリと苦笑を浮かべた。
「ま、自分の実りになるようにすりゃいいさ。お若いの」
 すまないね、彼は変人の気があるんだ。
「誰のことだよ佐々木」

「さてキョン。もうちょっと俺を見てみろ、だったかな?」
 帰り際、タクシーで彼に囁く。
「それは友誼を再開するという意味だと受け取っても構わないかな?」
「好きにしろ」
 彼は手馴れた仕草で肩をすくめる。
「くく、では好きにさせて貰うとしよう」
「じゃあな、佐々木」
「またね」
「おう」
 タクシーが振動を強める。

「またね、か……では好きにさせてもらうとするよ」
 それは「ちょっとした別れ」のあいさつ。すぐまた出会う為の別れの挨拶。
 彼の姿が遠ざかる。別れ際、あの「僕」と一緒にとっくに忘れてしまっていたはずの笑顔が浮かんだ。
 昔得意だった片頬を歪める笑顔。

「くくっ」
 車窓から見上げた桜はとっくに散ってしまっていた。
 けれどそれでもいいのだ、樹は相変わらずそこに立っている。桜という木は非常に長寿な木なのだから。
 無理に目を背けてしまった私がバカだったのさ。キミは何度も手を差し伸べていたのにね。

 次は、この十年の私の思い出を思い切り語ってやろう。楽しかったことも辛かったことも。
 勿論キミからも全部まるっと聞き出してやる。くく、容赦なんてしてあげないよ。
 キミが言いたくない事も、私が聞きたくなかった事も聞いてやろう。
 そうさ、全部まとめて笑い合おう。

 またキミと心置きなく笑いあっていこうじゃないか。
 甘いカクテルで夜を過ごすより、次は夕焼け空の下で甘くて苦い秋刀魚でも焼こうよ。きっとその方が性に合っているから。
 学生の頃に植えたものを収穫して、人生の実りを頂いていこう。
 そうして、また新しい種を植えていこう。

 くっくっ、けどね、どう実らせるかは私の勝手にさせてもらうよ。
 キミを困らせるかもしれないし、私が悪かったのも認めるさ。けど十年も放っておかれた事実は変わらないからね。
 どうするにせよ、たった一度きりの人生なんだ、楽しくやろうよ。
 それが一番大切な事だろう?

「ねぇ、キョン」

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最終更新:2012年04月18日 20:04
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