66-731 5月5日の手のひら

「よう」
「やあ親友」
 駅前で不意に見つけた人影が振り向き、にっこりと笑う。
 自転車を押して歩いていたのは、いつか見た制服姿の佐々木だった。

「なんだ、今日も学校だったのか?」
「まあね」
 やれやれと肩をすくめた。
「キョンこそ。いや、……ああ、例の団活とやらだね?」
「その帰りだ。ほれ」
 ねぎらいと土産代わりにちまきと柏餅をいくつか見繕って渡してやる。
「ウチの連中の手作りだ。旨いぞ」
「おやおやこれは有り難いね」
 大げさだな。
「そうでもないさ。手作りって事はオンリーワンって事だろ? なかなか嬉しいものだよ」
 言って佐々木は自転車を再び駐輪場に差し戻した。
「ねえ、キョン」
 ……………
 ………

「さ、遠慮なく頂いてくれ」
「俺は海老で鯛を釣る気はないぜ。このくらい自分で払うさ」
「そうかい? まあ帰りまで覚えていたなら考えておこう」
 夕暮れ時の喫茶店でコーヒー片手に向かい合う。

「しかし今日は黄金週間だぜ。こんな日までか」
「こんな日もそんな日もないさ。全ては積み重ねなのだから」
 くつくつと変わらない笑みにどこか安堵する。

「というかキョン、キミも僕も高校三年生だ。これからが受験本番なのだよ? ここからが問題なのさ」
「そうとも、俺達は高校三年生。まだガキなんだ、だからこどもの日くらい羽根を伸ばすさ」
「くく、変わらんねキミは」
 言って、ふと笑みの形が変わる。そらきた。

「そうか、今日は五月五日か」
「端午の節句だな」
「ちなみに端午の節句とは……」
 佐々木は言いかけ、柏餅が入った袋に目をやってニヤリと笑った。
「どうだい?」
「ふむ」

 日本における端午の節句とは、そも中国から伝わったものと、日本の風習とかが結びついたものである。
 特に「男の子の節句」となっているのは、節句に用いられる菖蒲の葉が、鎌倉時代の武家社会と結びついたことによるものとされる。
 武道や武勇を重んじる「尚武」と、「菖蒲」の読み、そして葉の形が刀を想起させるものである事から男子の日となった。
 ちなみにちまきは中国由来のものであるが、柏餅は日本独自の縁起物らしい。

「くく、語呂合わせ、形からの連想、実に日本人らしい、いい加減で楽しげな生まれを持つと言えるのではないだろうか」
 俺の説明に解釈を加え、佐々木は実に楽しそうに笑っている。
 そうとも、こいつはこんな奴なのだ。

「SOS団のイベントとやらで聞いたのかい?」
「まあな。っていうか、昔お前から聞いた話でもあるぞ、確か」
「おや、そうだったかな」
 笑みの形は変わらない。


「では更にもう一つ追加といこう。五月五日と言えば思想家セーレン・キェルケゴール誕生の日でもあるね」
「佐々木、もう少し判り易いところで頼む」
 即座に降参した俺に、ほんの僅かだが呆れたような目線が飛ぶ。
「ヘーゲル哲学と対立し、実存主義のさきがけとなった人物だよ。覚えておいて損は無い」
 そうだったか?

「『死に至る病とは絶望のことである』という言葉を遺した人だよ」
「ああ何となく聞いた事があるな」
 漫画的な意味でな、とは勿論言わない。
「ふむ」

「彼は19世紀におけるデンマーク、つまり西洋の思想家だ。前提条件としてキリスト教を前提にした思想をしている」
 あちらさんじゃ思想の基盤みたいなもんだもんな。

「そこでだ。まずキリスト教において肉体的な死は死ではない。これは解るね?」
「死んだら天国や地獄に行くんだよな」
 そんで天国に行った奴は幸せになり、最後の審判の日にもめでたくご復活。地獄に落ちた奴は苦しみ続ける。
 つまり肉体的な死など長い人生の一つの節目でしかない。
 だから敬虔にお生きなさいってな訳だ。

「そう、だから肉の死など本質的な死ではない。では本当の意味での死、死を招くものとは何か?」
「ああ、だから「死に至る病とは絶望のことである」って訳か」
 肉体と精神の死を分けて考えたって訳だな。
「噛み砕くとそういう事さ」
 漫画的な知識が変な風にまとまって形になる、面白いもんだ。

「しかし実存主義、要するに現実とか実在とかそんなノリの人なんだろ? の割にはなんか精神的な話だな」
「くっくっく、いいところを突くね」
 なんだ何がそんなに面白いんだ。


「絶望である事を知らない絶望。言いかえれば、人が自己を、しかも永遠的な自己を持っているという事についての絶望的な無知」
「おいおい何だ急に早口言葉みたいな」
「これも彼の言葉だよ」
 絶望である事を知らないという絶望?

「言い換えれば、人はちゃんと自分自身を持っているのに、それを知らないという無知。それを絶望と言う言葉で非難してる訳だ」
「自我なんて誰もが持ってるものだろ? それを知らない?」
「その自覚がないものへの言葉というべきか」

「自分の選択を誰かに託し、自分の思考を放棄する。そういう事への批判とされるね。
 本当は人はなんだって自分で決められる。けれど大抵、人は自分の判断基準を多数派や指導者に委ね、自分の思考を省略してしまう。
 それは、精神の死、本当の死なんだよ。なのに人がそちらに向かっていることを嘆いた」
 大衆批判か? 解るような、解らんような。

「右を向けと言われて素直に右を見る事はない、けど左を見ろって訳でもない。右を向く意味を考えろという事さ」
 考える能力を人は持っている、それを自覚しろって事かね。

「そう。たとえば、キミが知らない誰かに対し、周囲が『アイツは悪い奴だ』と言っていたとしよう。
 周囲が言うなら正しい、アイツは悪い奴だ、そうキミは考えるかい?」
「また随分安く見積もってくれたな親友」
「くっくっく」

「だが例えば新聞やTV、そして僕らの矮小な世界、学校におけるクラスと言う奴でもそうしたことは数多く起こりうるよ」
 そうだろ? と佐々木に目で促されると、そんな気もしてくる。
 果たして俺はどこまで自分で考えているのだろうか、と。

「自分で考えろ、他人の価値観に乗せられるな、自分の判断基準を持て! って訳か」
「そう。自分の思考・判断を捨てるなど精神的な死だ。そして世の中、そこに誘導しようとするものがあると知らなければならない、と」
 それは煽動、当時的なものから悪く言えばキリスト教的な規範、同じく悪い意味での「習慣」などだろうか。
 なるほど、現実的な話になってきた。

「何事も生まれた経緯と意味があるんだ、だから否定しろとは言わないよ。ただ思考だけは止めてはいけない、それが」
「それが生きている証って訳か」
 物事をそのまま受け取るのではなく、考え続けろ、か。


「ただ自分の選択を他人に委ねる事自体は悪ではない。それを理解しているのならそれもアリではある。
 信頼する人に自分を委ねるという事ならね」
「信頼ねえ」
「リスクを共有する自覚があるという事さ」

「仮に失敗しても、そのリスクを共に負う覚悟か」
 それがあるからこそ委ねられる。そして選択を委ねるというのは、二人が一つの意識として団結するという事でもあるのだ。
 二つ分の肉体に一つの意思、だからこそ強い。困難だって乗り越えられる強さを得るのだ。
 その強さを支えるのは覚悟であるのだ。

「くく、右向け右、左向け左、前にならえ、全体前に進め! ちゃんとやらなきゃ体育祭は進まないだろ?」 
 全ては時と場合による。それもまた「思考する事」であるのだ。

「古来から人は団結し、大きな物事を成し遂げてきた。そうだろ?」
 くつくつと喉奥で笑いながら、たおやかな笑みで繋げる。
「人一人で出来る事なんて、限られているのだからね」
 本当に嬉しそうに、佐々木は笑う。

 唐突に思った。
 古泉、長門、朝比奈さん、ハルヒ、SOS団の連中は俺に選択を委ねてくる事が多い。いつも面倒でプレッシャーだ。
 けどそれはとてつもない事なのではないかと。

 どいつもこいつもとんでもないスペックを持っている、或いは強制力のある組織に属している、それでも俺に選択を委ねてくれる。
 その上で、もし佐々木の言うように「リスクを共有する覚悟」の上での事であるなら
 それは本当に、とてつもないものを俺に委ねてくれているという事なのだ。
 俺に、とてつもないものを預けてくれているという事なのだ。

「なんだいキョン?」
 そして佐々木もまたそうだった。そうであるのだ。
 こいつこそ、何の背部組織も打算もない、本当に純粋に自分の為に動いてよかったはずなのに。
 それでも俺に下駄を預けてくれた、こいつは俺なんかをどれだけ信じてくれたのだ。そう思うと何かがこみ上げてきてならなかった。

「佐々木、俺」
「ストップだよキョン」
 腿の上に置いた拳を固め、ただ頭を下げようとした俺の鼻先を佐々木が指で弾いた。

「何か言いたいんだろ? でもきっとそれは僕にとって気恥ずかしい事だ。だから保留しておいてくれると嬉しい」
 テーブルの上に両肘をつき、組んだ両手のひらの上に顎をのせて覗き込んでくる。
 昔のように笑って。ああそうだいつだってこいつは笑っているんだ。
 笑ってくれているんだ。

「それに、僕の言葉はまだ終わっていないよ」
 くすくすと笑い、まじりっけのない感情をこめた瞳で見つめてくる。
「信頼の上で判断を委ねるという事は、当然リスク以上のメリットがある。団結は力だ。そして絶対「出来る奴だ」と信じているって事だよ。
 だから気に負う事などないのさ。選択を任せられる、凄い奴だと信じているのだからね」

 俺だって自分に高値なんかつけない。
 だから、佐々木のまっすぐな目が、とてつもなく嬉しくて気恥ずかしかった。

 感極まって俯いた俺の頭に、そっと柔らかいものが触れる。
 いつもの言葉遣いからすれば、驚くほど小さくて、柔らかなものが、躊躇いがちに俺の頭を撫でてゆく。
 俺はしばらく俯いてされるがままになっていた。こいつが俺に見せたくないように、俺にだって見せたくない顔があるのだから。
 ただ、ごく小さな声で言ってくれた言葉だけは覚えておきたいと思った。

「ありがとう」と。
「僕なんかの信頼を、そんな風に受け止めてくれてありがとう」と。
 俺こそが言うべき台詞なのに、情けない事に喉の奴は詰まって仕事をしてくれなかった。


「ところでキョン」
 喫茶店を出掛けにくるりと佐々木が振り向いた。
「先ほど、一人で出来る事は限られている、と言ったのは覚えているかい?」
「さすがにさっきの会話くらいは覚えてるぞ」
「英単語はすぐ忘れるくせに?」
 言ってろ。笑うな。

「僕もあれから少々思うところがあってね。できればまたこういう機会があると嬉しい」
「こんなんで良いならいつでもいいぞ」
 まあ団長のご機嫌次第の部分もあるが。

「くっくっ、やはり良い聞き手がいると話をするにも張りが出るからね」
「その言い分だと、俺はお前の「張りがある会話」しか知らんから何とも言いかねるがな」
「いけないねキョン。報道された事件だけが事実じゃないよ。想像力というものを働かせてくれたまえ」
 お前のつまらなそうな顔を想像しろってか? 御免こうむるね。

「しかしややこしい話だったな」
「ふふ、死に至る病、か。まあ僕は自分の判断基準と言うものは持っているつもりだよ。
 たまに誰かさんに選択を託すこともあるさ。けれどやっぱり自分の事を決めるのは自分なんだよね」
「そりゃそうさ。俺は俺、お前はお前だ」
 佐々木は、佐々木だ。

「そうさ、自分の事を決めるのはいつだって自分さ。だから……」
 何故か同じ言葉を繰り返し、喉奥でくつくつと笑いを溢す。

「だから、何だ?」
「くっくっく、さてね?」
 いつものきらきらした目がこちらを覗きこむ。

「そこは想像しておくれ。そうさ、報道された事件、口にされた言葉、それだけが僕の真実ではないのだから」
 佐々木の瞳に映った俺が、間抜けな顔でこちらを見返していた。

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最終更新:2013年02月15日 23:53
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