67-9xx カラダにピース、マスターピースさ

「ふむ。確かカルピスが世に生まれたのは今から遡ることおよそ90年ほど前、大正8年の7月7日だったと聞いている」
「なるほど。だからか」
 奮発したのか、若干濃い目のカルピスを口に含みながら隣の佐々木に相槌を打つ。
 今日は七月七日、いわゆる七夕……の前日。
 つまり七月六日である。

「しかしアレだな、学生服っつーか、教室でこんなん飲んでると特別って感じがするよな」
「くく、いつかのエンターテイメント症候群かい?」
「まだそんなの覚えてるのかお前は」
 しかし、七月七日だから、なんて言って教師が振舞ってくれたのはそんな理由があったのか。
 まあ面倒ごとの代価としちゃあ、ちょっと安っぽい気もするがな。

「くく、キョン、笹飾りの手伝いがそんなに重労働と感じたかい?」
「時給換算してみろよ。最低賃金をぶっちぎりで下回るぜ」
「そもそも居眠りしたキミが悪い」
「ごもっとも」
 まあペナルティを受けたのは俺だ。
 一緒に居残りしてまで手伝ってくれたお前には感謝してるよ。

「くく、こんな風に教室に笹飾りなんてするのはきっと中学で最後だから、ちょっとした記念さ。高校にもなるとみな大人びてくるからね……」
「どうした?」
 中学の教室に二人、カルピスのグラスを傾けながら四方山話に花を咲かせていると
 ほんの若干だが佐々木の眉根が上がっているのに気付いた。

「いや、このカルピス、ちょっと濃かったかな」
「そうか?」
 まあ確かにもう少しだけ薄い方が良いか。
 だが氷まで用意してくれたんだ、溶けるのを待っていれば薄まるさ。

「うーん。いや贅沢を言うのも筋違いなのだが、僕には「少し」どころじゃなくてね」
「ああ、カルピスってそういう好みの違いがあるよな」
「自分で希釈して飲む飲料だからね」
 言って、ちろりと舌先で舐める。

「ちなみに、このスタイル自体は発売当初から変わらないそうだ」
「ほう。発売が90年前だったか?」
「そうだね」
 いつもの事だが、成績優秀な割にこいつの雑学帳はえらく充実しているな。
 よっぽど脳の容量に余裕があるらしい。

「くくく、お褒め頂き光栄だが、趣味と言うのは大抵そういうものではないかな?」
「ごもっともだ」
 鉄道の時間表やゲームの乱数表、趣味の世界は凄まじいからな。
 うんうんと頷いていると、佐々木が立て板に水よろしく、すらすらと語りだした。
 水を向けたのは俺ではあるが、こいつの立て板は随分と水が流れやすい。はてさて一体どこから水を得ているのだろうね?
 俺にも少し分けてくれ。


「ところでカルピスは発売当初は高級な飲料だったらしい。キョン、キミは『醍醐味』という言葉は知っているかい?」
「さすがにそれくらいは知識として知ってるぞ」
 なんとかの醍醐味だ、とかそんなんだろ?
「くく、ややアバウトだがその通りだ」
 要は「その物事における面白い部分」とかそんな意味だよな。

「さてキョン」
 カラン、と氷を鳴らして笑う。
「話は変わるが、カルピスのカルとはカルシウムの事だが、ピスというのは牛の乳を精製した液体を指すんだ」
「なるほど。……しかしピスか? 聞いた事がないな」
「そりゃそうだ。一種の造語なのだよ」
「ほう」

 まず仏教において、牛の乳の精製は五段階に分けられるらしい。
 つまり、乳、酪、生酥、熟酥、醍醐、と五段階に精製され、進むごとに上質・美味・純粋な味になるという。
 その第四段階「熟酥(サルピス)」、或いは五段階目「醍醐(サルピル・マンダ)」からとって、カル・ピスと名付けられたのだ、と……。

「なるほど。そもそも醍醐味ってのは、すげえ美味い、とかそんな意味があるんだな」
 精製しつくした一番美味いところだから、転じて「醍醐味」って事か。
「精製と言うのは手間だっただろうしね」
「ん? いや待て佐々木」
「くく、どこか問題があったかな?」
 言って気付いた。こいつ、俺がこう聞くように仕向けやがったな?
 口の端を釣り上げて笑う佐々木を見ていれば、いくら俺だってそれくらい解るぞ……まあ、別にいいが。

「おかしいぞ。前者なら四段目で中途半端だし、後者なら略してカルピルになるじゃないか」
「ふむ。確かにその通り」
 最高に美味い、という表現があるのになんでわざわざその手前を語源に使うんだ。
 おかしいじゃねえか。

「そこで同社の『日本一主義』が登場するわけだ」
「なんだそれ」
 我ながらバカみたいな返事である。

「つまり、何らかの大事な事を決める場合、その道の第一人者に尋ねてアドバイスを貰おう、という発想さ」
「餅は餅屋ってか」
「その通り」
 言って佐々木はくるくるとカップをくゆらせる。

「それで、当時、作曲家にして音声学の権威であった山田耕作先生に相談したところ」
「カルピスが良い、って事になったと」
「そういうことだね。『響きがいい。大いに繁盛するだろう』と太鼓判だったそうだ」
「実際、定番商品だからな。たいしたもんだ」
 ちなみに山田耕作先生とは、現在でも知られる童謡「赤とんぼ」「待ちぼうけ」「かえろかえろと」を始めとする様々な曲を作曲し
 指揮者としても、あのベルリン・フィルハーモニー管弦楽団などを指揮した事があるという。

「ちなみに山田先生は1965年没、つまりその功績の多くは戦前だ。当時の西洋と東洋の力関係を鑑みれば驚くべきと言えるね」
「まさに日本一主義にぴったりって訳だな」
 俺の言葉に、物分りがいい生徒を前にした教師のような顔でにっこりと笑う。
 もっとも俺にはそんな経験ほとんどないが。

「そう言うなよキョン。僕が見るにキミの潜在学力、この場合、物分りのよさと言うのかな? これは大したものだと思うんだ。あまり自分を卑下するなよ」
「変に持ち上げるな。落ちた時に痛いだろうが」
「ふふ、そういうところさ」
 再び一女子中学生の顔になって笑う。
 珍しいといえば珍しい、……どこが珍しいのかと言われると説明に困るが……笑みで、佐々木は笑う。


「だがねキョン。そもカルピスが生まれたのは、創業者である三島海雲の失敗にあった、という見方もあるんだ」
「失敗? 煮込みすぎたら出来ちゃったとかそんな感じか?」
「くく、ちょっと違うかな」

 三島海雲は、当初「白華洋行」という商社を立ち上げモンゴルで活動したという。
 しかし最終的に事業は失敗し、38歳で裸一貫になって日本に帰国。
 今風に言えば「負け組」だったらしい。

「しかしそこからが凄かった」
 帰国後、モンゴルで飲んだ乳飲料「ジョッヘ」を思い出した彼は、それを参考にオリジナル飲料としてカルピスを完成。
 濃厚な原液は常温保存しても腐敗しにくい性質を持っていたこともあり、一般家庭の備蓄用に売れたほか
 戦中はビタミンを付加した「ビタカルピス」が軍隊の補給品として採用された。

 この時、軍隊という厳しい環境で、ごく稀に飲める特別な飲料として印象に残ったのも
 高級飲料として普及した一因だったという見方も出来るらしい。
 戦後は贈答用としても広く普及している。

「……というのは余談だが、要は、一度の失敗で諦めることはないって事さ。常に挑戦し続けようじゃないか」
「随分バイタリティがあるおっさんだったんだな」
「話をそらすなよキョン」
「くっくふ」
 笑い方を真似してごまかそうとしたら喉に詰まった。
 く、慣れないことはするもんじゃねえな。

「喉が詰まったなら飲料で滑らすことだ。そら」
 佐々木の手にした白い液体がするりと俺の喉を滑る。
 おい、確かにありがたいが良いのか?
「構わないさ」
 残ったカルピスを俺に押し付け、佐々木は笑う。
 思わず俺の申し訳なさが吹き飛ぶような、遠慮を消し飛ばすような、楽しげな笑顔で笑っている。

「それよりキョン、どうだい?」
「うん? ああ美味いぜ。ありがとよ」
「だろう?」
 氷の溶け切ったグラスを回収し、笑う。
 味を反芻していると、ようやくその笑顔の理由に見当がついた。

「さっきも言ったが、やはり僕はこのくらい薄まった奴が好きなんだ。キミも気に入ってくれるなら嬉しいよ」
 してやったりって顔には思うところがない訳じゃないが、まあ確かに悪くない。
 これが佐々木の好みか。まあ、これも悪くないな。
)終わり

「ところでキョン、カルピスと言えば、カラダにピース、というキャッチフレーズなんだが」
「ホント皆、語呂合わせって好きだよな」
「くく、そうだね」
 いつものように俺の顔を覗き込みながら、口元を釣り上げる。

「そこで僕も語呂合わせをしようか。大事なのはマスターピース、だよキョン」
「鉄道模型のメーカーがどうした?」
 意外な趣味だな。
「いや違うよ。この場合、腕試し、挑戦ってとこかな」

「カルピス創業者は一度事業で失敗しつつも、その時の経験を元に大きな成功を手にした。つまり失敗だって無駄じゃないのさ。
 きっとどんな辛いことも、悲しいことも、無駄に終わる事は無い。成功への欠片が眠っていると考えればいい」
「かと言って昔ばっかり振り返っても意味は無いだろ」
「そうだね、それだけじゃ意味が無い」
 くつくつといつもの笑い。

「大事なのはバランスさ。キョン、キミはキミでもっと温故知新をするべき面もあると思うよ」
「そうか?」
「そうさ」

「だから大事なのはバランスなのさ。僕が理性と本能の調整に苦労しているようにね」
 言って俺の腕を取ると、くるりと腕を絡ませてくる。
 おいこら歩きにくいだろうが。

「そうだね。確かに昔よりも身長差が開いてしまったからなあ。あの頃もっとこうしていれば良かったのかもね」
「恥ずかしい事を言うな」
「くく、断る」

「代わりにこんな事が出来るようになったしね」
 人のコートの前を開くと、するりと中に滑り込んでくる。すっぱり入れるのは確かに身長差が広がった為だが
「なおさら恥ずかしいぞコラ」
「くふふ、聞こえないね」
 俺のコートから頭だけ出し、愉快そうに喉を震わせた。
「そうさ、失敗にだって価値が無いわけじゃない。失敗したから敗因が解る。失ったから大事だと解る。だから挑戦し続けられる」

『だから、私はここにいるんだ』
 最後に大事そうに付け足して、くすくすと雪空の下で楽しそうに笑う。
 そんな、大学四年のある日の事。
)終わり

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最終更新:2012年09月08日 03:34
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