『国木田くん、どこかで見かけたら遠慮なく声をかけてくれていい。共通の思い出話に興じたり、旧交を温めたりする事は人生の楽しみのひとつだからね』
『それは佐々木さんらしいね』……………
…………………
………
けれど『偶然の賜物』なんて『私らしくない』だなんてね。
くく、やはり国木田くんのような人は少々やりにくい相手だと言わざるを得ないよ。
まるで私の全てを、いや違うな、私が意識していないような「傍に漏れている私の真意」まで見抜かれているような気分になる。
それともむしろ与しやすい相手なのかな?
彼は、私を理解している、と解りやすく表現してくれる。つまり自分の手持ちカードを敢えて私に晒してくれているんだ。
他人に誤解させ、そしらぬ振りして他人を誘導するようなタイプよりもよほど誠実と言える。
そうだね。少なくとも、彼は私よりも誠実と言えるだろう。
知るところを敢えて晒してくれているのだから。
彼の知るところを晒すことで、私に私を再確認させてくれたのだから……………。
…………………
…………
ふと思う。
そう、喉もと過ぎれば熱さ忘れると言うだろう?
辛いことだって何時かは終わる。終わってしまえば思い出になる。そして思い出は薄れて消え、或いは美しく変質していくものだ。
それを私は良く知っている。だから、常に逃げ場を作るようにしている。
辛い時は、逃げ場に退避して過ぎ去るのを待てばよい。
そして過ぎ去った「辛い時」は、いつか擦り切れて「美しい思い出」に変わる。
そうやって「人生の辛い時間」は、いつしか「人生の楽しみ」の一つに変わっていくのさ。それを私は理解している。
だから過ぎ去るのを待って、後からくすくすと思い出のアルバムを手繰るのさ。
それが賢い人生の過ごし方だと私は思っている。
リアルタイムで当たらなくても良い。終わるのを待ち、記憶が擦り切れ美化されてからゆっくりとから楽しもう。
やるべき事は多い。辛いからって悩んじゃ時間が勿体無いだろ。
『佐々木さんの閉鎖空間は何もありませんが温かさがあります。それに、現実の数秒が、中じゃ数分にも感じられるのですよ』
ふと思う。そんな私の心のあり方と「閉鎖空間」とやらは似ている。
希釈したような、まるで大きなパンに、ほんの小さなバター片を塗り広げたような、オックスフォードホワイトの空間。
現実より、時の流れがとてもとても遅い場所。
私の内面のあり方、それを橘さんは心やすらぐ空間だと言い、キョンは落ち着かない空間だと評した。
私の心のあり方は彼にはそぐわないのだろうか。
人生と言うものを、私は希釈してから味わう。
それに私は偶然には頼らない。なんであれ予習復習で対策する。
一方、彼は悪く言えば場当たり的だ。その場その場で味わう。いわば原液をそのまま味わっているのだ。
味わい方が違うから、確かに落ち着かないかもしれない。
私のあり方。私らしいあり方、か。
つらつらと考える。
私は自分が間違っているとは思わない。私なりに正しいと思っているから私は私なんだ。
私は自分が間違っているとは思いたくない。後悔することで「今までの自分」を、私の経験を否定したくない。
わたしはわたし。
けれど、私は私だからって、私は私でありたいからって、私は私を肯定し続けていいのだろうか。
私は変わるべき? 変わるべきなら、果たして何に学ぶべき?
自然と成立した私から、「私」に変わるべきならば。
その指標には何を以ってするべきか……。
『国木田くん、どこかで見かけたら遠慮なく声をかけてくれていい。共通の思い出話に興じたり、旧交を温めたりする事は人生の楽しみのひとつだからね』
『それは佐々木さんらしいね』
旧交の日。
布団の中、小さな猫の縫いぐるみを抱き寄せて、つらつらと、言葉を手繰って考える。彼は、彼らは、こんな私をどう評するだろう。
そんなとある思春期、自分を作っていく日々の中、ふとした出来事。
)終わり
最終更新:2012年09月08日 03:28