「ああクソ!」
「おや、どうしたんだいキョン?」
「佐々木、お前は研究者をやってるんだろ? TPDD、いや、タイムマシンは可能か?」
「くく、それはまた唐突にして難題だねキョン。その開発にはまず基礎理論からして不足している。まあ考える事自体は非常に刺激的ではあるが」
グラスを脇におき、キョンは唐突に、感極まったように髪をかきむしった。
よく整えられていた髪がくしゃくしゃになってしまったが
なに、仕事明けなのだから気にすることはない。
そう、これは仕事明けのちょっとした酒宴の話。
酒と穏やかさを旨とするバーに二人並んで、けれど、学生時代のように他愛もない話をしているだけのお話さ。
「そうか。そりゃ幸いにして不幸な事だな」
「ねえ、聞いていいかい? 仮に作れたとしたらだけれど、キミはどうするつもりなんだい?」
あの頃のように喉奥で苦笑をかみ殺して聞いてみる。
期待した答えを願いながら。
「決まってるだろ」
彼はひとしきり髪をかきむしった後、苦笑いをして言った。
それはまるで、時を超えて、寝坊の上に宿題を忘れていたという二重苦を犯した中学時代の彼が現れたかのようだった。
「あの頃の俺を殺しに行くんだよ。百回くらいは殺してもおつりが来ると思うね」
「くく、それはそれは」
そいつは困るね。
あの八年前の、僕の心を分裂させそうなくらい悲しくて、楽しくて、驚愕させ尽くしてくれたようなあの事件。
けれどあの事件があったからこそ、今の私が在る。
彼が在る。
きっと、それもまた間違いのない事なのだから………………。
……………………………
……………
……
酒宴の最中、視線を感じた。
それはまあ珍しいことではない。自分の容貌がそれなりに人目を引くことくらい、とうに理解しているからね。
橘さんが言うように十人中九人が振り向くほど、とまで自惚れるつもりはもちろんないが
客観的な自己分析は人生の荒波を渡る上で非常に重要だと思う。
ふむ。船頭多くしてと言うが、ここで大事なのは……
いけない。話がズレてしまった。
いや、このズレかた、思考のノイズの入り方には覚えがある。
そんな視線だと何故解ったのかとまず考えたが、解ってしまうから解ってしまう、としか言いようがない感覚。
だからキミが「よう親友」と物怖じもせずに私に声をかけてきた際に、僕も「やあ親友」とラグタイムなしで返すことが出来たのだろうさ。
あの春の別れから八年。
仕事場の仲間たちと飲み別れた私に、彼は物怖じせずに声をかけてきた。
くく、さっきまでは随分懐疑的な目で私を見ていたくせに、いざとなると豪胆なものだね。
八年越しの相手に向かって「よう親友」なんて、なかなかたいしたものだよ。
僕がキミを覚えているか、とか、そも人違いだとか色々あるだろ?
そんなところはどうも、どうにも
「変わってないね、キョン」
「お前もな。佐々木」
そんな再会だった。
それからは四方山話に花が咲いた。
しかし花が咲くとは言いえて妙だね、確かに発想は芽吹く様に似ているし、会話が広がる様は花が咲く有様のようだと僕は思う。
この言葉を誰が最初に言い出したのかは寡聞にして知らないが、こうして言葉が続いていく有様を見るに
その「彼」或いは「彼女」は、ある意味で今も生き続けているのだと言える。
彼は言葉となって私たちの間に生きている。
私たちが人の間で生きるように、その思考は私たちの間で言葉となって今も生きているのだ……………。
「ホント、お前は変わらんな」
「くく、そうかい?」
そうでもないつもりなんだけれど。
「ま、確かにそうなのかもしれんが」
そう言った彼の顔に若干の影がライン・ダンスを踊る。
キョン、それは良くないな。せっかくの再会なんだ。そんな顔はして欲しくないというのが一般論だと僕は固く信じているんだが
キミはそうじゃないのかい?
言いかけて気付いた。
なるほど。さっきの彼の表情はそういう事か。
「ああ、なるほど……」
「人の脳内モノローグを読むんじゃねえ佐々木」
「くく、とすると僕の想像力も捨てたものじゃないということかな?」
彼は見ていた、いや、聞いていたのだ。
私が「私」と呼んでいた様を。
仲間内で飲んでいた私が、男女相手で口調を使い分けるような奇特な女ではなくなってしまっていた事に、彼は少なからず驚いていたのだろう。
くく、それはまた随分な、そう、随分な反応じゃないかキョン。
僕を何時までも中2病だと思ってもらっちゃ困るね。
「今まさに中学時代の喋りをやってるお前が言うことか」
「くっくっく。そう言うなよ親友」
確かに20歳越えの女の語り口調としては芝居がかっているかもしれないがね。
けれど、その方が僕らしいだろう…………?
ここだ。
ここで彼は、トン、とグラスを置いて急に髪をかきむしりだしたのだ。
はい、ここで冒頭に戻る。という奴だね。
「クッソ! 佐々木、お前研究者だったよな。タイムマシンは作れないか?」
………………………………
…………………
………
「あの事件の時、俺は、ずっとこんな気持ちをお前に味わわせていたのかと思うとな」
「くく、どんな気持ちかな」
「言わせるのかよ」
言わせたいね。
すると彼はぽつりと言った。
さっき、私を遠巻きに見つけたとき。
仕事仲間達と談笑する私を見つけた時に、彼がちょっとだけ、ちょっとだけだ、と念を押して……抱いた気持ち。
それは私の周り。
自分の立ち位置だった場所に、他の、見知らぬ誰かが居るという感触。
自分から捨てたはずの立ち位置に、他の誰かが立っている。
どうしようもない身勝手で醜い気持ち。
自分には口を出す権利は無い。だって自分から放棄した立ち位置なのだから。
けれどそれでも感じてしまう、そんな寂しさ。
自分勝手な自分への苛立ちも多大に含んだ、どうしようもない気持ち。
その場所は自分のものだ、そう言いたいけれど、そんな権利なんて決してない、どうしようもない気持ち。
あの事件の最中、それを私にずっと味わわせていたのだ。
そう、今更気付いたのだと。
「いや。正確に言えば今更じゃない。当時だって察してはいたさ」
「そうだね。そこまでキミが鈍重な感性の持ち主だとは僕も思っていないよ」
「そりゃ重畳だ」
つっぷしたまま、彼は器用にグラスを煽る。
くく、暴飲は罪だよ親友。
「ほっとけ。花の金曜くらいゆっくり呑ませろ」
「それもいいが、アルコールは脳を痺れさせるとも言うからね。できれば僕との会話を楽しんでもらいたいのさ」
「俺にそんな権利があるのかね」
「くく、何を言うのか」
僕も舌先でグラスの表面をなぞる。
分量次第。酒は心というメカニズムへの良い潤滑油にもなるからね。何事も使い方次第であり、マイナスだけの存在などない。
そう、僕は信じたいからね。
だから笑えるのさ。
「むしろ義務だと言わせてもらいたいね。親友」
「権利じゃなくてか。親友」
「そうとも」
キミは僕にとって世界で唯一の人なんだからね……と言うには少しアレかな。
うん。ここは転進といこうか。
「僕が、キミが心配してしまうような、いわゆる『ぼっち』であった方が良かったとでも言うつもりかい?」
「俺を人非人だと思ってるなら、その脳に修正パッチを当ててやるぞ佐々木」
「前者はともかく後者は気になるなあ」
「気にするなよ」
くっくっく。
そう。喉奥からあの頃のような笑い声が出せた。
中学の頃も、それから高校でも、必要に駆られ必死で覚えたはずの受験テクニックなんか、影も形も消えうせているというのに
何故かこの笑い方は、心に仕舞いこんだはずの恥ずかしい思考体型さえ、すらすらと出てきた。
とめどなく、岩から染み出る湧き清水のそれのように絶えることがなかった。
ああ、そうさ。
だから笑うんだ。この大切な時間がとてもとても楽しいから。
愉快で、素敵で、楽しくて、嬉しくて、愛おしくて心地良くて仕方がないから。とめどなく感情が溢れてくるから。
だから喉奥で笑うのさ。
でないとどんな笑い方をしてしまうかくらい、僕にも想像がつくからね。
そうさ、こんな気持ちを忘却させず、そのまま残してくれたのは、きっとあの事件だから。
だからそれをなかった事にしてもらうのは困るね。
きっと、困るんだ。
そうしてくれ。
「こら」
「くっくっく。何かな?」
カウンターに突っ伏した彼の頭を、意識的に唇の端を釣り上げて笑いながら撫でてやる。
無論、くしゃくしゃになってしまったキミの髪を整えてやるためさ。
それ以外の意味を見出そうとするのはやめておきたまえ。
「だいたいね、あの時の選択は間違いだった、なんて言うつもりもないんだろ?」
「そうだな。そりゃあまりに身勝手だ」
目をそらして、けれど僕にさせるがままにさせて、ただ、不貞腐れたように酒を舐める。
どうにも子供っぽい仕草がおかしかった。
「けど、それとこれとは話が別だろ」
「そうでもないさ」
また、くくっと喉から笑いが漏れる。
「キミがそれに気付いていたら、それはキミの選択を、キミの感情を誘導するノイズになっていただろう。だから気付かないのが正解なのさ」
「……俺が、お前の選択にノイズを与えなかったように、か」
「くく、そうだ」
そうだね。
あの事件の終幕で、全ての選択を終えたキミに僕は告げてしまった。
告白されたこと、そして、動揺してしまった事。
『佐々木。お前、その珍妙な喋りをやめたらさぞモテるだろうに』
『くく、恋愛なんて精神病だよ。キョン』
中学時代、あんなに得意げにキミに説いたはずの僕が……ホントは、ただの普通の女の子なのだと晒してしまった。
ただの女に戻ってしまった。
そんな僕に、キミは何も言わなかった。
あの雨の日のように。
けれどキミは言葉を探してくれた。
あの雨の日のように「やれやれ」と思考を止めず、けれどノイズを与えるでもなく、それでも……言葉を捜してくれた。
何かを言おうとしてくれた。けれど、何も言わなかった。
だって、僕はキミにノイズを与えなかったから。
「だからあの時、俺がお前に何かを言うのは、お前に、そう、ノイズを与えるのはなんというか……」
「そうだね」
くくっ。
「くっくっく。確かにそいつはフェアじゃない。だからアレで良かったのさ」
そう、あの頃のように意識的に笑おう。
喉奥を鳴らすように。
……でないと、どうしても笑いが零れてしまうからね。
自分を枠にはめて作った「僕」の笑顔で笑わなければ、きっと「私」の笑顔になってしまうから。
もし「私」の素顔を見せてしまったら、きっと彼は気付くだろうから。
そこまで鈍重な感性だとは流石に思わないからね。
だから、気付かせないように「僕」の笑顔で笑うんだ。
彼に重石を乗せないように。
彼は今、十分に重石を感じてくれているのだから。
思わず「私」が零れてしまいそうになるくらい、嬉しいくらいに「私」の心に触れようとしてくれているから。
キミが知らなかった「私」を、想像しようとしてくれているのが
ただ、嬉しかった。
そうだろ? だって彼は、私の味方であろうとしてくれている。
それが嬉しくて何が悪いって言うんだよ。
私だって普通の人間なんだから。
「……佐々木?」
「ああ、キョン、あまり笑わせないでくれよ。困ったな、誤解されるのは僕の本意ではないんだが」
つっぷしたまま上目遣いにみつめてくる彼の目が、ちょっとした驚愕に開かれている。
それもそれでちょっとおかしかった。
おかしかったから笑うのさ。
ああ、涙がこぼれるほどに笑わせないでくれよ。
ああ、ホントに困ったな。キミにコメディアンの才能まであったなんてね……。
あなたが私の事を考えてくれたことが。
あなたの中に、あの頃の「僕」が「私」が生きていたことが、ただ、ただ、嬉しいのだと。
頬も、涙腺も、ゆるんだまま戻らない、私の顔が言っていた。
どうしても笑顔になろうとする、仕方のない私の顔。
けれど、時にはそれも必要なのかもしれない、と今なら思える。
だってこんなに心地良いのだもの。
だって私は、やっぱり平々凡々な、ただの凡人なのだから。
だから、こんな風に素直に思えるのだろう。
思っても、良いのだろう……………
…………………………
……………
肩に力が入ったあの頃の僕は、自分さえ許せなかった。
けれど、あの頃の「僕」が「私」にかけた魔法は、今もちゃんと作用していた。
『やあ、親友』
彼との再会がたとえ何年後になったって、きっとそう言えるとあの頃の僕は信じていた。
彼が親友なのだと、きっと忘れないだろうと信じていた。
だから、私は
「ねえ、キョン」
「なんだ佐々木」
彼に肩を貸してやりながら、よっこらしょいとバーを出て行く。もちろん御代は忘れずに。
チップはもちろんたっぷりと弾んで。
心づけ程度だけれどね。
「世の中には僅かな料金で手軽に電波による会話ができる携帯機器があるのは知っているね?」
「中ほどの単語だけで意味が通じる機器の事なら俺も知ってるな」
「くく、思ったほど酔いが回ってないのかな?」
「言ってろ」
「やだね」
それからすぅっと息を呑む。
冬、十二月の夜気は、不純物が凍り落ちた冷たい空気だ。
だから口を閉じていた方が温かいけれど、口を開け、すっと飲み込むのも良い。私の心を覚醒させてくれる効果があるというものだからね。
「僕らも二十余年を生きた。だから解ることがあるんだ」
こんな心地良い関係は、やっぱりそうそうあるものじゃないのだとね。そこでだ
「ほれ」
「ん」
言いかけた私の前に小型の電子機器が差し出される。
携帯可能な通話機器だ。
つまり。
「赤外線通信って便利だよな」
「くく、そうだね」
それだけ言って電波を交わす。
それで十分。
今はこれで十分さ。けれど、これから先の事は保障してあげないよ。
だって私はキミを忘れていなかったし、これからも忘れてやるつもりなんかこれっぽっちもないのだからね…………。
)終わり
最終更新:2012年12月31日 01:12