『機嫌の動向』
夏期講習も終盤に入り俺もようやく勉強漬けの毎日が日常化してきたころだった。
その日も俺の脳は英文に数式に登場人物の気持ちと四方八方から別ベクトルのオールレンジ攻撃を受けて疲弊しきっていた。
演習問題のページだけ指定して教室の隅に座っている塾講師が憎らしい。
俺が現在完了進行形と戦い時空の狭間に連れ込まれそうになっていたころに教師が立ち上がった。
それと同時に教室に備え付けられた安っぽいチャイムが鳴り響く。
やれやれやっと終わったか。
横目で隣の席を見ると俺の親友たる佐々木が多少疲れた顔で自分の肩を揉み解していた。
あいつの集中力と授業時間を考えたら肩がこるのも当然か。
……女性特有の他の肩こりの要因なんて考えていないぞ?ましてや意外に大きいなんて思って鑑賞したりもしていない。
「んじゃ今日の授業はこれで終わりなー、課題は・・・P68から・・・思い切って80まで行っとこう。
そうそう、今週末は模試だから忘れんなよ。」
俺がこの世に存在しない何者かに言い訳をしていると若い塾講師特有のいい加減な口調でなにかしゃべり教室から出て行った。
課題の量に関してはいつものことだ、ヤツはかかる労力を完全無視してキリのいいところまで課題にしたがるからな。
しかしその後に聞こえた単語は聞きなれないものだ。
「……模試?」
「あれ?キョン知らなかったのかい、そこの掲示板に張ってあるじゃないか」
授業の終了と同時に俺に話しかけようとしていたのかすでに荷物の整理を完了させている佐々木が俺のつぶやきに反応した。
「いや、知らなかった……あの掲示板がそういう用途に使われていたことさえな」
「そうか、この塾じゃ恒例のことだから僕も君に話すのを忘れていたんだな。塾の講師も勉強以外のことはまるでいいかげんだしなぁ。
……ところでキョン、模試を受けたことはあるのかい?」
「無いな、テストなんざ学校でやる分以上には受けたことが無い……あ、中学ん時の塾では多少やったがあれは模試じゃねぇだろ?」
「まぁ完全に違うとはいえないけどほとんど別物だね。
ちなみに今度の模試はセンター模試だからマークシートなんだけど、マークシートのテストを受けたことは?」
「ねぇな、テストで塗りつぶすなんて作業をやったのは小学校低学年くらいだ」
「なるほど、じゃこの模試は君にとって始めて尽くしなわけだ……」
そう言って佐々木は口に手を当てた。
途端、いやな予感がした。
佐々木の考えるポーズ。いや、正確に言うならば企むポーズだろう。
佐々木がこのポーズを取るときは……。
「よし、キョン。今日は君にマークシートのテストの受け方を教えてあげようじゃないか。過去問が家にあるから今日はそれだね」
やっぱりか。
この夏休み、午後3時で塾が終了した後は佐々木と課題をこなしてから7時前まで適当に遊ぶのが慣例になっていた。
塾の無い日のほとんどすべてをSOS団の活動に当てなければならない俺には課題をやる時間はほとんど無い。
そして佐々木いわく俺は「強制的に時間を設けなければ勉強できない」性質だそうなので佐々木が強制的に時間を作って課題をこなす。
そういった名目でこの後は課題をこなす時間になるのだが今回の佐々木の思いつきで勉強時間がさらに延びることが確定した。
……拒否したところで佐々木があのポーズを取ったということは理論武装の完了が宣言されたようなものだ。
俺にそうなった佐々木を論破するだけのスキルは無い。
「わかった、よろしく頼むぜ」
「くっくっ、任せたまえよ」
言っても無駄なことはしない。
ならばと快く……ってのも変な表現だな、俺がしてもらうわけだし。
とにかくすぐに佐々木の提案に乗ることにした。
押入れから引っ張り出してきた塾用のかばんにテキスト一式を乱雑にぶち込む。
ポケットを探り自転車の鍵を取り出して佐々木にさっさと帰るよう促した。
佐々木は楽しそうに笑っている。
なぜだか塾が終わったとき佐々木の機嫌はいい。
あれだけ成績がいいと勉強が好きなのかと思っちまうが実はそんなこと無いのかね?
……いや、塾が始まるときも機嫌がよかった気がするな。
二人で連れ立って駐輪場に向かう。
駐輪場の手前で佐々木を待たせ塾帰り自転車組みで混雑する駐輪場からそろそろ4年の付き合いになろうという我が自転車を救出した。
俺の自転車はどこにでもあるようなママチャリだが佐々木用に荷台にタオルが巻きつけたあるからそれが目印になる。
人ごみを掻き分け佐々木のところに戻る。
駐輪場から少し離れたい地になると人がまばらになっていく。
大体俺の自転車がその本来の役割を果たすのはその位置からだ。
自転車にまたがって、佐々木に「乗れよ」というと佐々木は「失礼するよ」といって荷台に腰掛ける。
以前聞いたところタオルの効果は中々あるようで「ありがとう」なんて礼を言われたものだ。
たかがタオル一枚で大げさだと思うがな。
佐々木が俺の腰にしっかりつかまったのを確認すると自転車をこぎ始める。
慣れないうちは意外とふらつく二人乗りだが伊達に1年の経験があるわけではない。
夏の太陽はクソ暑いが自転車で感じる風は心地よい。
20分ほど自転車をこげば佐々木の家に到着だ。
課題タイムは大抵佐々木の家で行われる。
正直女の子の部屋と意識しないことも無いのだが参考書の量が佐々木の部屋のほうが充実しているため必然的にこちらになる。
まして今日の場合は佐々木の過去問が重要な役割を果たすのだろう。
必然的に俺の家という選択肢はなくなるわけだ。
「はい、タオル。さ、部屋に行っていてくれ。僕は麦茶を持って来よう」
「お、サンキュ」
佐々木の両親は共働きだ。
盆も終わったこの時期の平日のこの時間では当然佐々木の家は留守になる。
年頃の娘さんの家に男を一人で上げるのもどうなんだとも思うが実は佐々木の両親も知っているらしい。
実は中学のころ佐々木の家には何度か来た事がある。
その内の1回佐々木の両親が在宅で佐々木母の勧めで夕食をご馳走になった。
あの時は別に娘さんをくださいと挨拶するわけでもないのにいやに緊張してしまったものだ。
佐々木が言うにはなぜだかそのとき以来俺は佐々木のご両親にはすっかり気に入られてしまっているらしい。
佐々木父とは偶然漫画の趣味がぴたりと合致してしまい熱く語り合ったせいだろう。
佐々木母に気に入られた理由はよくわからない。
佐々木は「僕は母親似なんだ」とか言っていたがそれは理由じゃないだろう。
と、言うわけで佐々木が家族の留守中俺を家に連れ込んでいることがばれたところで大丈夫なんだそうだ。
俺はタオルで体を拭きながら階段を上り佐々木の部屋の扉を開ける。
シンプルな部屋だ。
女の子の部屋で勉強だって言うのに俺が普通にしていられるのはこういった佐々木の部屋のつくりのおかげだろう。
本棚にびっしりと並んだ本は佐々木のボキャブラリーの由来を説明しているし整頓された机は佐々木の几帳面さを示している。
唯一ベッドにかけられたピンク色のシーツだけがこの部屋の主が女性だということを示していた。
……実はあの出窓のカーテンの裏にはかわいらしいぬいぐるみがたくさん置いてあるのだが俺は知らないことになっている。
転がした消しゴムを拾うときに偶然見てしまったのだが佐々木は恥ずかしがるだろうから突っ込むのは控えているのだ。
「よっ……と」
佐々木の部屋においてある折りたたみ式のテーブルを展開し部屋の真ん中のスペースに置く。
カーペットの隅においてある座布団……クッションとかいったほうがいいのか?を俺と佐々木の指定席に置き準備完了。
塾用のかばんから筆箱を出して待っているとお盆に麦茶をのせた佐々木がやってきた。
「はい麦茶……家捜しなんて悪趣味はしてないだろうね?」
「サンキュ……しねーよそんなことは」
「くっくっ、済まなかったね。君はそんなことするやつじゃない」
軽口を叩きあってから課題に取り掛かる。
やっぱり機嫌いいな、こいつ。
麦茶を飲み干してから課題に取り掛かる。
佐々木の指導と塾の成果のおかげで1時間もあれば今日くらいの課題は終了できるようになっていた。
「さて、それでは本題に入ろうか」
佐々木はそういうと本棚からいくつかの冊子を取り出した。
「これが前回、君が入る前にやったうちの塾のセンター模試だよ」
「ほー」
俺は冊子のひとつを手にとってパラパラと眺めた。
なるほど、すべての問題が選択形式になっている。
数学は……数字を分解して一桁ずつマークするのか、めんどうくさいな。
「今日はこれをやるのか?」
「いや、さすがに集中力が持たないだろう?だから取り組み方だけ教えてあげるよ」
「それは非常に助かるな、そろそろ脳みそのマザーボードが焼ききれそうだったんだ」
「くっくっ、もっと強力なファンを付けたほうがいいみたいだね。……それじゃ始めようか」
そう言って佐々木はパラパラと冊子をめくっている。
「センター試験っていうのは見てのとおり選択式なんだ。
もちろん特定できるなら言うことは無いけれど、消去法も有効な方法なんだよ……数学は別だけどね」
「なるほど」
「世界史でよく出る形式の問題に次のうちから正しいものを述べよって言うのがある。
これはこのままやったら確率4分の1だけどひとつこれは違うってわかるごとに正答率が上がるわけだ。
正誤判定の問題にもパターンがあるからそれを知っておくと調べやすい」
「あとは時間との勝負って側面もある。2択まで絞り込めたはいいけどこれ以上は無理っていうなら勘に頼るのも仕方ないね」
「おいおい、そんなでいいのかよ」
「もちろん駄目さ。でも仕方ない場合もある」
「例えば?」
「悪問ってのがあるからね。特に現代文なんかは解釈の仕様でどちらとも取れるような問題が出ることもままあるわけだ。
そしてその答えを知っているのは製作者だけみたいなやつがね、そんな問題に対してぎりぎりまで悩んでしまう。これは大きなタイムロスになるわけだ。そんなのに時間をかけるくらいなら見直しにまわしたほうがいい」
「しかしスパッと決めるのも難しくないか?」
「僕の場合は迷信に頼るかな、1と4なら4は不吉だからやめようとか」
「佐々木が?そんなのはあんまり好きじゃないと思っていたが」
「迷信なんてこんなときしか役に立たないんだから使うべきだよ?テストだけじゃなくて『どっちでもいいもの』のうちの片方を選ぶときとかすぱっと決めれる。
迷信じゃなくても自分ルールでもいいね。数字の優先順位をあらかじめ決めておいて残った選択肢から優先順位の高いやつを選んだり」
大体そんな感じでまた1時間ばかり佐々木流センター試験の取り組み方を叩き込まれることになった。
限りなく勉強に近いのだが裏技的なその方法は普段の佐々木との雑談にも近く聞いていて意外と楽しかった。
佐々木のやつもイキイキしていたな。こいつは教師に向いているかもしれん。
キリのいいところまで教え終わった佐々木は時計に目をやる。
現在午後5時。いつも7時前には帰っているのであと1時間以上時間がある。
「それでは僕らの親交を深める時間に入ろうか?」
佐々木はくっくっと笑いながら勉強道具を片付け始めた。
「キョン、今日こそは負けないよ?」
佐々木が引き出しからロボットが対戦するゲームを取り出した。
ここ最近佐々木はこれにはまっている。
このゲームも俺が貸しているやつだ。
もう二人でこれをやりだして1週間になるがいまだに佐々木は俺に勝てていない。
まぁ経験の差なんだがね。
佐々木がハンデをつけたり手加減をするのをかたくなに拒否するせいもあるがな。
「見えるっ!そこっ!」
「ああ!?」
俺の劇中の台詞をまねた声と同時に放たれたビームが佐々木の機体に直撃、ライフがゼロになり爆散する。
本日も俺の全勝で終わった。
「……君は何であんなのが避けれるんだい?」
「だからモーションがだな……」
先ほどとは逆に俺がゲームのコツを佐々木に教える。
いまだに勝てないのが悔しいのか少しふくれっつらだ。
今まで佐々木の分野だったがこれは俺の分野だ、なんだか立場が逆転していて気持ちがいい。ふと時計を見るとすでに1時間以上経過していた
勉強をやっている1時間は長いがゲームの1時間はあっという間に過ぎるという世の不条理を嘆きつつ帰り支度だ。
荷物を整えて玄関に向かう。佐々木も見送りに来てくれる。
「じゃあな、佐々木。また明日な」
「うん、貸してあげた過去問ちゃんとやっておきなよ?」
「わかってるって、そいじゃな」
「……うん、また明日」
そういって俺は佐々木の家を後にした。
……そういえば佐々木はいつもこのときは機嫌が悪そうな顔をするな。
……なんでかね?
最終更新:2007年08月22日 20:58