4-149「桜」

「桜」

 散る桜は美しい。日本人に流れる遺伝的な何かがそう思わせるのか、それとも、卒業式を間近に
控えた俺にも、なにがしかのメランコリックな感性が働いているのか、まったくもって不明だったが、
風に舞い散る薄紅色の花びらは確かに俺の心に響いていた。

「綺麗---だな」

 だから、自然に賞賛が口からこぼれた。その言葉が聞こえたのだろう。
 佐々木は静かに振り返った。舞い散る花びらの中、
もうすぐ着納めになる中学の制服を着た佐々木は同意を込めて、微笑んだ。
「ん、そうだね。冬には冬の美しさがあるが、やはり僕は春の美しさが好きだな」
 俺は夏が好きなんだ。寒い時期は早く終わってくれればいいとしか思えないがね。
「キミも日本人なら四季折々の風情を、その時々でちゃんと楽しむぐらいの余裕を持ちたまえよ」
 この一年、そんな物を楽しめた記憶はないね。
こちとら、受験社会の底辺を青色吐息で生きてきたんだ、そんな余裕はなかったぜ。
「やめろよ、キョン。すべては終わったことじゃあないか、もう僕らは受験生なんかじゃない。
この春から高校生になる卒業間近の中学生なのだ。
今更、受験なんて言葉を僕の耳に届かせないでくれたまえ」
 両手を上げて降参し、心ばかりの謝罪を述べる。確かに、もう終わった話だ。
昼前まで惰眠をむさぼっても、何も言われない自由が俺の元には戻ってきたのだ。
願わくば、この自由を一日でも長く保っていたいもんだ。
「キミの友人として、忠告させて貰うが、そういう風に自堕落に時を浪費するのはあまりよい習慣
とはいえないぞ。諸行無常、世界を見回してみたまえよ。昨日と同じ今日なぞないのだ。キミが
惰眠をむさぼる間に、桜は花開き、散っていく。ふくらんでいくつぼみの持つ生命力も、花散った
後に分かる若葉の美しさも感じ取ろうとしなければ分からないものだ」
 うへぇ、ご説ごもっとも。肩をすくめ、両手を制服のポケットに突っ込む。
 佐々木にお説教されるのも、これが最後かもしれないからな。精々心に刻ませてもらうとするよ。
「そうだね、キミに投げる言葉もすべて最後かと思うと、とても大切に感じるよ」
 そう言って、佐々木は顔を伏せた。そうだった、コイツは市外の私立に行く。
俺の偏差値じゃ逆立ちしたって届かないような進学校。俺は北の方に見える山際の県立高校だ。
これから毎日、あのハイキングコースを行くのかと思うと、めまいがする。
そう、こんな毎日も、もうすぐ終わる。
 今日が先月なら佐々木を乗せて塾に自転車を走らせている時間だ。俺がコイツを自転車の荷台
に載せることももうないのだろう。そして、きっと俺はすぐに自転車の軽さに慣れてしまうのだ。
 その時、風が吹いた。佐々木が髪の毛を軽く押さえる。風にひるがえるスカート、桜の花びらが
俺の視界を閉ざす。俺はなぜだか、佐々木がそのまま風に消えてしまうのではないだろうか、
そんな気持ちになった。
 思わず、右手が伸びた。
「きゃっ」
 佐々木が可愛い悲鳴を上げてうろたえた。いや、うろたえているのは俺の方だ。
何で俺は佐々木の手をつかんでいるんだ。これが桜の魔力だろうか。
「どうしたんだい急に」
 佐々木はそう言って微笑みを返す。俺の手をふりほどいたりはしない。
「自転車に乗ろう」
 は? 俺は何を言っているのだ。わけがわからない。ほら、佐々木が困っているじゃないか、
はやく取り消すんだ。
 佐々木は、唇の端を器用に曲げて、悪戯っぽい笑みを漏らした。
「いいね、こんな陽気と桜の中をサイクリングするのはとても気分がいいだろうね。ねぇキョン、
もちろんキミの自転車に僕を乗せてくれるのだよね」
 なぜだか、急に気恥ずかしくなり、俺は佐々木から視線と手を外し、ぶっきらぼうに承諾を告げた。
使い慣れた自転車を取って来るべく、もと来た道を戻る。その時、そっと左手に手が添えられた。
「僕も行くよ、キョン。一緒に」
 佐々木の手は小さく、俺の手のひらにすっぽりと包まれていた。ああ、そうだよな。
佐々木は女の子なんだよな。ずっと、分かっていていいはずのことが今更のように分かる。
だが、それももう遅い。
 もうすぐ、別れがやってくる。そして、それをどうにかすることはできなかった。
もちろん、俺たちの関係を破壊してしまえばそれは可能なのかもしれない。
いや、きっと可能なのだろう。
 だけど、そうしようとは思えないのだ、俺には。そして佐々木にとってもそうだと確信できた。
 自転車にまたがる。慣れたもので、佐々木は横座りでちょこんと荷台に座った。左手を腰に回してくる。
自転車を揺らさないようにゆっくりとペダルを踏み込んだ。
 舞い散る桜の中、ふたりで自転車を走らせた。桜の花びらが綺麗だった。そう、散る桜は美しい。
その時、背中にぎゅっと佐々木の頭が押しつけられた。
「すまない。しばらく、振り返らないで、声を掛けないで、背中を貸していて」
 その声には応えなかった。だけど、気持ちは伝わっている。佐々木とはそういう関係だ。
 ああ、いくらだってそうするよ。熱い物が胸の奥と背中に染み渡った。

 桜舞い散る春の日のことだった。

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最終更新:2007年10月13日 09:46
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