591 :邪気姫 ◆CC0Zm79P5c:2008/08/06(水) 05:35:16
あいつの事か。ああ、知っている
話せば長い。そう、古い話だ。
知ってるか? 邪気眼使いは三つに分けられる。
将来クッションに顔を埋めて悶絶する奴。
そのまま成長しちまって取り返しが付かなくなる奴。
ネタでやる奴。
この三つだ。あいつは――
――その内のどれにも当てはまらなかった。
◇◇◇
「相田ー、天野ー、池田ー……」
ただでさえ気怠い朝っぱらだというのに、出欠を確認する教師の声はそれに輪をかけて生気がない。
いつもこんなだったけか、と自問してみる。もっとも、遅刻の常習犯たる自分に思い出せるはずもないが。
夜遊びを控えたとはいえ、別に早く来るものでもなかったな、とため息を吐く。
どうにも、胸のむかつきが収まらない。
どうでもいいはずの教師の声が、何故かとても癇に障る。
喉の粘膜が荒れていればものを飲み下すことはできないように、小さな痛みを看過することが出来ない。
では、なぜその『喉』は荒れているのか?――分からない。
「乾ー」
「……うす」
それでも自分の名前が呼ばれれば返事をする。気に入らないことがあるからといって暴れ回るほど、乾有彦はアウトローではない。
だが、それにしても何故こうまで苛つくのか――
「――お」
――分からない。手元で半ば無意識にくるくると弄んでいるペンを眺めながら、声に出さずもう一度つぶやいた。分からない。
何か気に入らないことでもあっただろうか。他人事のようにそう思い、そしてすぐに否定した。無い。そんなモノは断じてない。
では、この苛立ちは何だ――?
はっ、と閃いた。そうだ。もしかしたら寝てる間に改造手術を施され、副作用として月モノがくるようになったのかもしれない。
どんな秘密結社だ、それ。そんなわけない。そんなわけないな。愚にも付かない考えを頭の外に永久追放する。グッバイ、●ョッカー。
「ぐ、お」
ピタリ。
回していたボールペンを停止させて握り込んだ。沈黙を維持したまま、じっとそれを見つめる。
教壇ではすでに授業が始まっていた。意外と時間は進んでいたらしい。黒板の三分の一程度が白文字で埋められている。
だが板書を写す気は毛頭無かった。そんな精神状況ではない。理由は自分にも分からないが。
「……っく」
ボールペンのペン先にはボールが埋め込まれている。セラミック製、一ミリ弱の球体。
このボールは何万回転したのだろうか。来る日も来る日も紙に擦りつけられぐるぐるぐるぐる。
生き地獄だ。まるで修羅道の如き有様。
いつか反乱を起こすに違いない。ある日突然、世界中のボールペンの玉が一斉に回転しなくなるのだ。
そして世界は混乱期に入り、闇のシャープペンシル派と光の万年筆派が覇権を争い――
「あ、が――」
――ボールペンがへし折れた。
正確にはへし折った。知らないうちに力がこもっていたらしい。
びしゃりと飛び散るネバネバのインク。その粘度が幸いして汚染範囲は狭いが、それでも手の中はぐちゃぐちゃだ。
その様を、黙ってじっと見つめる。
ダークサイドに墜ちてでもシャーペンにしておけば良かったな、と胸中で嘆いた。
「がぁぁああああああ……!」
繰り返すが、乾有彦は『無言』である。
無言で、ただ繰り返している。
なんでこんなに自分は苛々しているのか。なんでこんなに手の震えが止まらないのか。なんでこめかみがぴくぴく痙攣するのか。
なんで、なんで、なんで――
「う、あああ」
――ふと、世界が停止した。
まるで自分と周囲の空間が断絶したような感覚。
その虚無の中で、奇妙な音だけが響いていた。
音の質としては時計の針が刻む音にも近い。小さく連続する、淡々とした乾音。
だが時を刻む音とは違い、その音はどこまでも開放的。
要するに、ぷっつんという音だった。
なんでこんなに苛々するのか分からない――フリをするのは、もうやめにしよう。
気を紛らわす為の思考は停止。自己暗示の台詞にいたっては反転、いまやただの煽りと化した。
脳内の花畑を、全裸の自分がとてもイイ笑顔で軽やかにスキップしていくイメージが流れていく。
その自分はこちらに向かって問いかけていた。
なんでそんなに我慢しているんだい――君はいま、■していい。■していいんだ!
ガタリ、と脳内の自分とは正反対の凍てついて固定されたような無表情のまま席を立つ。
その動作にクラス中の視線が自分へ一瞬だけ集中したが、すぐに離散した。ああ、またか、という雰囲気を伴って。
そんなものは気にもならない。自分の視線はもはやとある一点へと固定済み。
「ぐぉおお……静まれ、静まれ……っ!」
――隣の席。そこに、包帯を巻いた右手を左手で堅く握りしめながら叫び散らしているゴミがいる。
そいつはこちらを見ていないが、それでもニコリと微笑みかけた。
ただし、頬が引きつっていて額に青筋を浮かべた表情を笑みと分類するならばの話しだが。
そして笑いながら――先ほどまで座っていた椅子を、がっしと掴んだ。
手に付着していたインクが移ったが気にしない。ほぼ毎日繰り返されるこの行為で、すでに椅子の背もたれは真っ黒である。
ちなみにこの学校の椅子は丈夫で、例えば馬鹿を毎日殴っても壊れない。
乾有彦は椅子を頭の上にまで振り上げ、幸いでいる馬鹿――遠野志貴にじりじりと近づいていった……
◇◇◇
乾有彦と、遠野志貴。
彼らの関係の始まりは八年前、彼らが小学生時代を謳歌していた頃まで遡る。
「今日は転入生が来るはずでした」
朝のホームルームで、いきなり先生がそんなことを宣った。
ざわりとする教室。それはそうだろう。小学生にとって転入は一大イベントである。
だがこのざわめきは、どちらかといえば先生の言葉尻が原因だった。
「せんせー、来る"はず"だったってなんですかー?」
「……それが、まだ来てないんです」
「なんでー?」
「分かりません……」
青白い、酷く疲れた顔で今年度から新規採用されたその若い女教師が続ける。
どうやら心労が溜まっているらしい。今にも死神とダンスってしまいそうだ。
「家は出たって言われたし、通学路を見回ってもいないし、なんか偉い人に学校の責任だって怒られるし、
他の先生は『新任は引っ込んでろ』って言外に通達してきて私を職員室から追い出すし……」
言いながら思い出してきたのか、めそめそと教卓の下に沈んでいく新任教師。
どうやら自分たちの知らないところで、なんかいろいろあったらしい。
先生、泣かないで! という女子による三文芝居が始まる。
たぶんこの次はちょっと男子ー、あんた達もなんとかしなさいよ、が始まるのだろう。
当時の有彦は頬杖など付きながらその様子を眺めていた。
割とどうでもいいことである。とにかく転入生は来ないのだ。
初日から遅刻とはやるな、などと無駄にライバル意識を燃やしたりもしていた。
もっとも、そんなものはすぐに鎮火する運命だったのだが。
確たる理由など無かったのだと断言できる。
ただ、ふと何となく視線が上を向いただけだった。
教卓があり、教壇があり、黒板がある、教室の前方。
そして、その黒板のさらに上方。死角たる天井に、いつからかそれは張り付いていた。
「……」
なに、あれ。
形状としては、一応人間だろう。自分と同じくらいの年齢であろう男の子。
小学校にいてもとりあえずは不自然でない。生息場所が天井でさえなければ。
重力に逆らっているその様はどこまでも非現実的。だが更に異常なのはそれが宿すその双眸。
何故かずり落ちもしない眼鏡の向こう側に、まるでドブのような濁りが渦巻いていて――
「……ふっ」
あ、やべえ。目があった。
どうやら己を注視している存在がいることに気づいたらしいそれは、
含み笑いを浮かべたままカサカサと蜘蛛よろしく天井を伝って有彦の席の真上まで移動してきた。
「……」
「……」
まるでゴキブリと遭遇したときのように、全身が凍り付く。
動かなくてはいけないと知っているのに神経系が遮断される。
結果、数秒間、それと自分は見つめ合い――
ぼとっ、と。
まさしく壁に張り付いていた虫が落ちるような唐突さで、それは有彦の机の上に落ちてきた。
『ぎゃああああああああああ!?』
『なんだあれ! どっから出てきた!?』
『トェェェイ! トェェェェイ!』
あまりにもその動作がゴキブリに似ていたからか、それとも日常を浸食する異物の混入にか。
一瞬でパニックに陥る教室。
被害現場に席が近かった者は椅子から転げ落ち、驚いて泣き出す女子までいる。
その他にも奇声を上げながら駆け回る者、教室から脱走する者、etcetc...
「と、遠野くん、ですか? ちょっと、これは一体――」
この場で唯一の大人である担任教師が、それでもやはり動揺は隠せずに問いただそうとするが、
「ふん、国家の走狗ごときが――失せな」
なんて、一刀のもとに切り捨てられ、「やっぱり私はこの仕事向いてないんだ! うわーん!」なんて、泣き崩れてしまう。
まさしく阿鼻叫喚。正しくして学級崩壊の図が完成していた、その中で。
混沌の極みにあるその空間の中心にいる、二人だけが身動ぎもせずに睨み合っていた。
「てめえは――何なんだ」
有彦は気づいていた。
このパニックは異常だ。天井から男子が降ってくるのは確かに意味不明だが、
それでも、その程度でこんなスタンピードは起こらない。
ならば真に格外なのはこの眼前の少年だと、彼の直感が告げている。
そしてそれを肯定するように、その怪物はにやりと嗤い、
「遠野志貴。神に疎まれ、翼を血で装飾された堕天使だ」
――嫌悪感が右腕に凝縮され、気づけば有彦はシャイニングフィンガーを相手の顔面に叩き込んでいた。
この騒動は、後に『天井事件』として語られることになる。
だが、その名前にさして意味はない。遠野志貴が転入してきてから、毎日がこんな状態であるからだ。
何にせよ、遠野志貴と乾有彦。彼らの邂逅はこんな風にして始まった。
◇◇◇
「今日の遠野係は誰だっけ? お前か?」
「いんや、俺は明日。あー、でも竹田は欠席か……逃げたなあいつ」
「こんな学校生活、いつまで続くんだろうな……」
「いやでも、有彦さんがいてくれて大分ましになったよ。中学の頃別々のクラスだった時にゃ、それはもう――」
「ばっか! てめえなに乾さんのこと名前で呼んでんだよ! 失礼だろうが!――あ、乾さん、お疲れ様っす! っす!」
「はいはい。ほら、席に戻れよ」
小学校の頃から志貴を止められるのは――というか率先して関わろうとするのが有彦だけだった為、
いつの間にか彼は英雄的ポジションに祭り上げられていた。
そんな取り巻き連中を適当に手を振ってあしらいながら、有彦は保健室へ運びだされていく志貴を横目で見送る。
「……やれやれ」
その瞳に映る感情は、決して友好的なものではない。
だが、ならば憎悪嫌悪の類かと言えば――それも違うように見えた。
◇◇◇
意識を取り戻した遠野志貴は、保健室のベッドからゆっくりと上半身だけを起こした。
数十キロの鉄塊を川から拾い上げられそうな位の剛力で殴打され、気絶させられたのだ。
窓から差し込んでいるのは斜陽。すでに授業は全て終わり、放課後となっている。
「お、起きたかー、遠野ー」
声をかけてきたのは、今やすっかり顔馴染みの保険医だった。
机に向かって、なにやら書類仕事を片付けていたらしい。
腰掛けている椅子をくるんと回転させて、こちらに向き直ろうとしている。
「なんか、痛むとこあるかー?」
「いえ、特には」
「そか。ならええんやけど」
相変わらずインチキ関西弁を喋り、常に白衣を纏っている若い女性教師。
無論、タイトスカートと黒ストッキング、そして眼鏡の装備も忘れていない。
何というか、あからさま過ぎるキャラだった。不自然すぎるほどに。
――そう。あまりにもそれは現実から乖離した存在だ。
「ほらほら、健常者はさっさと保健室からでいき。もう閉めるんやから!」
だが、この場に真の意味での健常者はいない。
故に誰も、この異常さに気づかない。
見るべき者が見ればどこか薄ら寒いものを感じさせるこの場所で、志貴は――
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最終更新:2008年10月25日 16:36