406 名前: 邪気姫 ◆CC0Zm79P5c [sage] 投稿日: 2007/07/05(木) 22:18:08

 ――それは既に失われてしまった記憶。

 緑の丘に、ひとりの少年が寝ころんでいる。
 激しく動く横隔膜。その痛みに嘔吐き、それでも胃の中には何もなく、ただ熱い息のみを放出していた。

「はぁ――はっ、ぅぐっ」

 もう走れない。限界まで酷使した体は壊れかけ、触覚も嗅覚も味覚も聴覚も断絶し――
 ――ただ、逃避だけは許さないというのか、視覚は絶えずその異常さを主張する。
 罅。
 世界を覆う、黒い罅。
 それが少年の視界を埋め尽くしていた。
 それが少年にとっての、恐怖の根源だった。

「やだ……いやだよ……」

 最初は楽しかった。
 物を壊すのはとてもワクワクして、線に刃物を通している間は不思議なほど恍惚が頭を満たしていた。
 だけど、その快楽はすぐに終わる。
 夢から目を醒ます時のように、少年はふと救いようのない現実を認識した。
 バラバラになってしまった時計。もう二度と時を刻まない。
 バラバラになってしまった椅子。もう二度と座れない。
 バラバラになってしまったベッド。もう二度と眠れない。
 そして、迷い込んできたカブトムシの『線』をなぞったとき――
 それは取り返しのつかないことだったのだと、ようやく彼は理解した。

「……えっく、う。ひっく」

 泣いていても他の人は助けてくれない。
 きっと神様だって手を差し伸べてはくれないだろう。
 こんな、怖い眼の傍に来るのは嫌だろうから。
 少年は空を見上げる。青い空には線が見えない。
 それは唯一、少年が心穏やかに眺め続けられる景色だった――今だけは。
 少年が昏睡状態から立ち直って、今日で二週間になる。
 だから、少年は気付いてしまった。
 その線が――その線の見える『範囲』が、段々と広がっていくことに。
 見続ければ見続けるほど、線が世界を浸食していくことに。
 きっといつかは自分の世界を黒い罅割れが埋め尽くすであろうことに、少年はぼんやりと気付いていた。
 ――それでも、目だけは閉じれない。
 この黒い線はなぞればそれだけで壊れるほど脆い部分だ。
 周囲の地面にすらそれはある。ありとあらゆるモノに存在する崩壊の可能性。
 だから目を両手で覆うことが出来ない。己の掌が容易く千切れてしまうことが怖くて。
 この黒い線は他の人には見えない。自分にしか知ることの出来ない致命的な急所。
 だからこの目を閉じれない。知らぬ間に『何か』をしでかしてしまいそうだから。
 そう――本当の恐怖とは、目を逸らすことが出来ないものだ。
 救いはない。逃避できる場所もない。
 故に、決意した。
 泣きじゃるその姿はとても無様だったけど。
 それでも強く、少年はその名に恥じぬ貴い志を己に課した。
 決して、この恐怖から目を背けぬようにしようと。
 絶対に、この線を無闇になぞらないようにしようと。
 分かって貰えない孤独故に、少年は自ら大人になった。
 ……もっとも。

「ちょっと、そこの君――!」
「――がっ!?」

 ――その決意は、後頭部への打撃によってものの数秒で葬られてしまったのだけど。

407 名前: 邪気姫 ◆CC0Zm79P5c [sage] 投稿日: 2007/07/05(木) 22:20:37

◇◇◇

 少年は不幸だった。
 幼き日に両親は惨殺され、住んでいた場所さえ失った。
 新たな居場所では友達が出来たけれど、ある日良くないモノに乗り移られた友達に、その生命を奪われた。
 だけどその対価として、少年は直死の眼を手に入れた。
 元より特殊な眼を持っていたその少年は、一度死を体験することで『死』そのものを見ることが出来るようになったのだ。
 だけど、やっぱり少年には運がなかった。
 繋がったばかりの連結は不安定だ。
 逆上がりが出来るようになっても、しばらく放置していればまた出来なくなってしまうことがある。
 そして少年は、そんな時期に人間ミサイルランチャーの一蹴りを貰ってしまった。
 ……新たに接続されたチャンネル先がどこだったのかは分からない。
 道場とか、教えて! とか、あるいは魔法少女達が闊歩する世界だったのか。
 それとも単に接続が途切れて、頭の中がシェイクされただけだったのかも知れないが。
 ――まあとにもかくにも、少年は異能に加えて『醜悪』も手に入れた。

◇◇◇

「……まったく、こんな所で寝てるなんて予想できるわけ無いじゃない。だから私悪くないわよ――えっと、君。大丈夫?」

 全力だったわけではないが、無意識の攻撃というのはえてして痛いものである。
 なにやら言い訳じみたものを口にしながら、それでも心配そうな青の魔法使いの声。
 なんどか揺り動かされ、さほど時間は掛けずに少年が目を開く。
 だがほっとする間もなく、魔法使いは表情を険しくした。
 少年の宿す蒼き両眼には、その美しい色彩とは対極の、幼子には似つかわしくない瘴気が満ちていたからだ。

「貴方――何者?」

 その質問に、もはや少年ではない『そいつ』は唇の両端を吊り上げて、

「フン――邪気眼を持たぬ者には分からぬだろう」

 一片の恥じらいすら見せずに、そんな出鱈目を口にした。

408 名前: 邪気姫 ◆CC0Zm79P5c [sage] 投稿日: 2007/07/05(木) 22:21:56

◇◇◇

 ――それから数日は、蒼崎青子の人生にとって最高に忌むべき日々となった。

『志貴――君はいま、とても軽率なことをしたわ』
『この俺を殴ったな……貴様……許さん』
『――謝る必要はないわ。だから、ちょっとまじめに話聞きなさい』
『ふっ……小うるさい奴だ。失せな』
『オーケー。泣くまでぶん殴るわ』
『は……離れろ! 死にたくなかったら俺から離れろぉ!』

 少年とは話が噛み合わず、さりとてその異能は放っておくには危うすぎて。

『志貴、君が見ているのは本来見えてはいけないものよ』
『ほう……? 貴様、邪気眼を知っているのか?』
『いえ、だからその眼は』
『だが、素人が興味本位で立ち入るのは褒められないな……』
『あのね、私はこれでも魔法使いなんだけど?』
『なに……!? 貴様、『機関』の手先か!』

 痛々しいその姿に、記憶の奥に封印してある恥ずべき過去が蘇ったりもして。
 だけど――

「こうしてる分には、普通なのよねー……」

 いつもの野原で、少年は眠っている。
 その表情は年相応にあどけなく、いつも纏っている邪気は欠片もない。
 己の膝上に少年の頭を乗せ、その髪を指で梳く。それでも反応しない、深い眠り。

「つまるとこ、これが表層に影響されていないこの子の根っこ、か。
 じゃあ何でこんな風になっちゃたのかしら。ちょっとやそっとじゃ普通はねじ曲がらないわよ、ここまで」

 貴女の右脚を犯人です。
 されど魔女はそれには気付かず、ただ少年の頭を撫で続けていた。
 この安らかな眠りが永遠に続くように、とても優しく。
 しばらくそうしていて――何かの合図のように、一陣の風が吹く。

「うーん。このまま放っておいても良いんだけど」

 悩むように呟く。
 正直、この中二病患者に対してあまり良い感情は抱いていない。
 だけど救えるものを救わないほど、蒼崎青子は傲慢な人種ではないから。

「ま、これもひとつの縁ということで」

 風の残滓にざわめく草原の中心で。
 立ち上がった彼女は、トランクから眼鏡を取り出した。


◇◇◇

 少年――遠野志貴を観察していて分かったことはふたつ。
 ひとつ。その異常な立ち居振る舞いは、本来少年が持っているモノではないということ。
 ふたつ。起きている間――無意識に魔眼を用いている間は、その性質が顕著になること。
 ならば、救う方法は簡単だった。
 魔眼殺しによってその性質は封じられ、遠野志貴は正常な『遠野志貴』に戻る。
 その見立ては正しく、眼鏡を掛けられ、その状態で目を醒ました志貴は普通の少年だった。
 別離までに交わせた言葉は多くないが、それでも少年は『先生』から大切なことを学ぶことが出来た。

『志貴、その眼鏡を軽々しく外しては駄目よ――その、色々な意味で』

 別れを告げて魔法使いは去り、少年は約束を胸に刻んでその草原を後にする。
 かくしてこの事件は終了――と、なるはずであった。
 少年と魔法使い。お互いにとって不幸だったのは、一緒にいることのできた時間の短さか。
 少年は魔法使いに全幅の信頼を寄せ、魔法使いは少年を長く観察できず。
 故に少年は油断しており、魔法使いは己の推論にあった穴を知ることが叶わなかった。
 十分な考察から導き出された解答は多くの場合正しいが、だがその解答が全てだとは限らない。
 蒼崎青子の『見立て』は正しかったが、それだけでは不十分だったのだ。
 退魔衝動。
 これは志貴の生家である退魔組織の一派が保持していた性質である。
 本来、それは単に『魔』と対峙した場合に殺害衝動を喚起させるものであった。
 ――だが、遠野志貴に取り憑いた邪気は魔眼のみならず、その衝動をも汚染していたのだ。
 魔を感知した衝動は、本来呼び起こすべき殺害意志ではなく、別のものを呼び覚ましてしまう。
 神ならぬ青子は、さすがに志貴の過去や出自についてまでは知らなかった。
 それでも少年の変わりように担当医や看護士達が歓喜し、やがて退院の日はやってくる。
 退院して帰る先は遠野の家。
 鬼種との混血――その中でも最も尊い血を引く家系の庭先に足を踏み入れた瞬間、その封印は儚くも破れてしまう。

『邪気眼――解・放!』
『ちょ、兄さん!?』

 ――実家に戻り、遠野槙久に勘当を言い渡されるまでの一週間。
 その僅かな時間で、遠野志貴という邪気眼使いが残した爪痕は現代にまで残るほど甚大だった――


【選択肢】
夕陽の河原で殴り合い:「いまならまだ一限には間に合うはず。教室へ急ごう」
空弓の崩壊:「やっぱりあの音が気になる……中庭へ寄ってみるか」

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最終更新:2008年10月25日 16:35