698 :邪気姫 ◆CC0Zm79P5c:2008/08/14(木) 10:59:20
目の前が赤く染まる。
見たこともないほどの量の鮮血が撒き散らされ、緑色の芝生をドス黒く染めた。
胸から背中まで情け容赦なく貫通するような傷を受けたのならば、それも不思議ではないだろう。
不思議だったのは、どうしてその怪我をするはずだった私が無事で、
「あき――は」
何の関係もないはずの彼が、胸に風穴を開けて死にかけているのかということだった。
血塗れの土の上に倒れ伏す彼を、私は呆然と見つめている。
だけど、もう目さえ合うことはなかった。
当然だろう。心臓、脊髄等の重要臓器を全て損傷。即死してしかるべきダメージだ。
それでも、私はどうしても諦められなかった。
結局その場は駆けつけた大人に助けられたけど、もはや自分の命など知ったことではない。
ただ、彼と会えなくなるのがどうしても我慢できなくて――
気づいたときには、私は彼に貰った命を半分だけ返していた。
それは、もしかしたら彼の為にはならないのかもしれない。
人はひとつの命をフルに使っても完璧とはほど遠い。なら、それに満たない動力ではどれほど動けるモノなのか。
最悪、二人とも植物人間になるだけかもしれない。
それでも私は躊躇わなかった。
言い訳する気もない。それは私のエゴだ。
どうしても彼ともう一度会いたかった。それを叶えるための我が儘。
きっと、それが始まりだったのだろう。
当時の私はただ正体不明の衝動に突き動かされるように行動していたが――
それが遠野秋葉の初恋だった。
◇◇◇
それから数週間後、彼が退院した。
今日、屋敷に戻ってくるきいて、私は待ちきれず、ずっと門の辺りをうろうろしている。
日射病にならないように、と当時雇われていた家政婦の一人がストローハットを持ってきてくれる。
「ねえ、兄さんは私のこと、忘れてないよね?」
「当たり前ですよ」
微笑ましそうに、その家政婦は私を見て笑っていた。
無論、彼女は事件の顛末を知らない。だからその時の私は、兄をとても心配している妹に見えたのだろう。
「あら、戻ってらしたようですよ」
車のエンジン音を聞き取ったのか、家政婦が笑みを絶やさぬまま迎える為の用意をする。
私もどこかそわそわと落ち着かぬまま、門の前で止まった車を見つめていた。
やがて停車した黒塗りの乗用車から、一人の少年が降りてくる。
傷の具合は分からなかったけど、でもどうやら元気そうで、私はとても嬉しかった。
「兄さん――!」
思わず、走り寄る。
彼もそれに気づいたようで、ニコリと笑いながら一歩、庭先に足を踏み入れて――
――瞬間、世界が崩壊した。
「……え?」
背筋を氷柱で貫いて地面にピン留めしたかのように、私はその場で足を止めた。
よく見れば、彼は入院する前は掛けていなかったはずの眼鏡を掛けている。
そして彼はその眼鏡をゆっくりと外し――
その、濁りきった眼球を世界に晒した。
声が、でない。
眼前にあるのは確かに待ち望んだ『彼』の姿。
だけど、中身は絶対に違う。
奇しくもそれはあの夏の日、反転した四季の如く。
いつの間にか、彼はどこまでも醜悪な存在と化していた。
世界までも恐慌をきたす。己を汚染しかねない異物に、周囲の空間が騒擾する。
私は、動けない。そして、今度は救ってくれる人もいない。
私と視線を合わせたまま、その『彼』の姿をしたものはニヤリと嗤って、
「邪気眼――解放」
――それから後のことは、覚えていない。
いや、それとも思い出さないようにしているのか。
思い出してしまえば、舌を噛み切って自害するしかないような事実が詰まっているのかもしれない。
ああ、そういえばなんだか暗がりの中でライターを見つめる像が脳裏をよぎって――
……やめよう。
そんな唾棄すべき過去を知る使用人達を私は恐れていて、当主になったあかつきには絶対にこいつら全員解雇してやろうと決めていた。
――私がこうして正常に戻れたのは、ひとえに父である遠野槙久の努力によるものである。
彼も、自分の子どもは可愛かったらしい。
心理カウンセリング、暗示、薬物投与。およそ考えられる限りの手を使って私を治療した。
結果、私はこうして社会復帰を果たすことが出来たのだ。
……ただひとつ、当時はリハビリで死にそうだったので気にする余裕などなかったが、心残りはあった。
それは、いつの間にか有間の家に移されていた彼のこと。
私は、心のどこかで彼が正常に戻っていることを期待していたのだろう。
それ程までに、あの夏の日の彼の姿は私の脳裏に焼き付いていたのだ。
そして結局、当主になった私は彼を呼び戻した。
多くの縁者に猛反対されたが、きっと後悔はしない。そう信じていた。
◇◇◇
そして、現代。
私は早速、自分の浅慮を嘆く羽目になっていた。
戻ってきた彼の瞳は、やはり濁りきったままである。
物陰からひたすら観察していているだけで分かる。あれは、あの不気味な気配は隠し通せるものではない。
今こうして彼の部屋の前で耳を立てているだけで、私は自分の懐に猛毒を抱え込んでしまったのだと理解できた。
「秋葉は――どこかな?」
……不味い。
部屋の中から、あれの声がする。私のことを気にしているらしい。
――ああ、あれが"彼"だったら、この事実はどれだけ嬉しいものだろう!
だが、部屋の中にいるのは怪物だ。見つかったらただでは済まない。
私は音を立てずに、ゆっくりとその場から去ろうとした。
翡翠のことだ。きっとなんとか誤魔化してくれるだろう――
「そこの扉の向こうに隠れていらっしゃいます」
即答。
躊躇いもせず、あのメイドは主人を売った。
(!? 裏切ったわね翡翠!)
――いや、違う。
叫んでから、私は恐ろしい事実に気づいてしまった。
遠野槙久が治療したのは私だけだ。
当時の私と同様にあれの毒牙にかかった琥珀と翡翠は、そのままである。
私が正常に戻った時には特に変な行動もしていなかったので気にしていなかったが――
それはもしや、単に雌伏していただけだったのではないか。――あれが、帰ってくるまで。
私は、いつの間にか自分がこの屋敷の中で孤立していることに気づかされた。
そうすると長年住んでいたこの屋敷が、どこか不気味なものにさえ思えてくる。
「そうか――盗み聞きとは趣味が悪いな。秋葉も」
「っ!?」
ガタリと。
不必要に大きく、部屋の中のアレが動いた気配が伝わってくる。
どうする? どうすればいい――!?
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最終更新:2008年10月25日 16:37