765 :うたかたのユメ ◆6l0Hq6/z.w:2009/04/15(水) 00:44:34 ID:bvz89JXQ0


 長い休日の後とは思えないほど清潔な板張りの空間に、げんなりと頭を振った俺は無言で足を踏み入れる。
 本当ならきちんと挨拶してから敷居を跨ぐのが礼儀なのだろうが、そんな気になれない。
 まったく桜といいあの兄妹といい……トラブルを起こす前に相談する気はないのだろうか?

「……まあ、そんなわけないか」

 本人に自覚がないのだから性質が悪い。
 なにしろ決まり文句が「なに怒ってんのアンタ」だ。

 ……くそ。
 どいつもこいつもマイゴッドの天罰を期待したいヤツラめ。
 おまえらなんてアイツの隣にある天国の特等席で幸せになってしまえ。

「あ、言峰」

 その声で情けない愚痴が中断される。
 気が付くと目の前には馴染みの部員がいた。

「やあ、言峰が自分からここにくるなんて、珍しいコトもあるもんだね。
 ははあん……さてはようやく観念して弓を持つ気になったのかい?」

 馴染みの弓道部員───美綴綾子は上機嫌に話しかけてくる。
 去年の春にふとした気の迷いで弓をもって以来、二言めには入部を迫る彼女だったが、残念ながらその話には応じられない。

「いや。悪いが今日は、藤村先生に頼まれて間桐を引き取りにきただけだ」

 自分でもどうかと思うほどぶっきらぼうな台詞に、美綴は俺に話しかけてくる前の表情に戻ってため息をつく。

「ああ、助かったよ言峰。取りつく島もなくて困ってたところなんだ」

 やっぱりそうかと、目の前の女傑に倣ってため気をつく。

「それで間桐は?」
「更衣室でアイツが来るのを待ってるってさ」

 ……なるほど。
 間抜けな獲物がノコノコとやって来るのを待っているワケか。

「更衣室で着替えているとかないよな?」
「ないね。それに相手がお前なら着替え中でも気にしないだろう、アイツも」

 ……それはあまり嬉しくない過去だったりする。
 まあ責任はどちらかと言えば俺にあるのだが、学校の連中にアイツの世話役と認識されたのは如何ともしがたい。

「とりあえず間桐の相手は任せてもらって構わないが、話をつける前にアイツが来ると面倒だ。もし来たらこっそり事情を説明して逃がしてくれ」
「ああ、頼りにしてるよ言峰」

 言って、美綴綾子は闊達に笑った。
 おそらく彼女の中では、もうこの件は終わった話になっているのだろう。
 曰く、言峰に任せたのだから大丈夫だと。

 ……まったくどいつもこいつも。
 少しは実行犯の苦労も考えろバカ。

 無責任な視線に後押しされて更衣室に踏み込むと予想通りのモノを目にした。
 贅沢にも畳を使った床に行儀悪く片膝を立て、事もあろうに煙草を咥えてぼんやりする少女の姿。

「久しぶりだな、凛」

 間桐凛───それが目の前の少女の名前だ。

「……あ、士郎?」

 日本人離れした青い髪と青い瞳。
 俺には正直ピンとこない話だが、周囲の人間から『絶世の美少女』とまで言われているアイツの妹は、いつもの毅然とした態度からは想像もつかないほどだらけた視線で見上げてきた。

「煙草は止めろと言ったはずだぞ」

 語気を強めて火のついたタバコを凛の口元からつまみ取る。

「なんでよ、煙草くらいいいじゃない。別にマリファナとか大麻とかはいってないわよ?」
「入ってなくても駄目だ。煙草なんて、女の子の体に悪い影響しかないって知ってるだろ。少しは生まれてくる子供のコトも考えろバカ」

 不服そうに見上げてくる凛にそう言うと、彼女は驚いたような顔をして口を開いた。

「……なにそれ? あんたって、わたしに自分の子供を生ませる気でもあるわけ?」
「ない」
「そう……それならわたしが煙草を吸ってもアンタに関係ないでしょ?」
「関係ならある。少しは自分を大切にしろって何度も言わせるな」

 凛に返す言葉は常に小言じみたものになる。

「……うるさいわね。わたしがどうなろうとアンタには関係ないでしょって、それこそ何度も言わせるなっていうのよこのバカ」

 そして、俺に返す凛の言葉も険悪になるのが常だ。
 俺とアイツがそうであるように、アイツとの付き合いから始まった凛との付き合いも長い。

「だから関係ならあるって言ってるだろ。俺だって、おまえにもしものコトがあったら心配ぐらいするんだからな」
「そう───なら言っとくけど、明日にでもわたしが血まみれの肉塊で発見されても驚かないことね」

 間桐凛───学校の成績は優秀で、運動神経も抜群。
 容姿と振る舞いにも隙がなく、天は二物も三物も与える事の生きた実例みたいな少女の欠点が、この、どうしようもないほどに他人を拒絶する言動だ。
 踏み込めば踏み込むほど強まる拒絶を前に、大抵の人間はこの少女と関わることを諦める。
 事実、彼女に言い寄る男は両手の指でも数えきれないほどいたが、残念ながら好意的な反応を引き出せた者はいない。
 いや、それどころか会話を成立させられた人間がどれほどいたか。
 彼女は誰とも関わらず、誰にも関わらせない。

「だいたいアンタはなんだってわたしに関わろうとするわけ? 別にアイツの友人だからって嫌われ者の妹の面倒までみるコトないでしょ?」

 その拒絶は相手が俺であっても例外ではない。
 学校の連中には「あの間桐と会話を成立させられる唯一の人間」と思われている俺だが、まあ実際にはこんなものだ。
 アイツの家で知り合ってから四年。
 放っておけずに関わり続けた俺は、だが未だにこの少女を救えずにいる。

 だが、だからと言って諦めるわけにはいかない。
 多くのモノに救われた言峰士郎は多くのモノを救わなければならない。
 それが言峰士郎の存在理由。
 故にそれが出来ないのなら、言峰士郎に存在していい理由はない。

「別におまえを嫌ってるヤツなんていないぞ? ただ気難しいヤツだなって思われてるのは確かだけどな」

 凛は再び驚いたように俺を見上げる。

「みんな本当はおまえと仲良くやっていきたいと思ってるんだ。だから自分から嫌われるようなコトをするのはよせ」

 ……凛は無言。
 驚いたような表情を引っ込めた少女は、つまらなさそうに俺を見上げてきた。

「……だったらなんで断ったのよ……」
「? 何の話だ?」

 そうしてぽつりと呟かれた言葉に首をひねる。

「わたしを抱かないかって話」

 思い出す───凛が言ってるのは一昨年の話だ。
 それまでぎこちないながらに上手くいっていた兄妹の関係が決定的に破綻したあの日。
 アイツが港の指定席を獲得するにいたったあの日、事情を訊きにいった俺は凛に誘われ、そして断った。
 これまでその理由を説明する事はなかったのだが、まさかその事がこの少女の傷になっているとは思わなかった。

「そんなの断るに決まってるだろ、普通」

 だから俺は思うところを説明することにした。

「普通ってなんでよ」

 またしても不服そうに見上げてきた少女に告げる。

「そういうコトはきちんと結婚してからじゃなきゃダメに決まってるからだ」

 ……そう。
 男女の営みは、神と隣人に祝福された夫婦にのみ許されたコトなのだ。

「────────」

 凛はまたしても無言。
 どうだ、恐れいったか。
 曲がりなりにも神父の息子らしい、模範的な解答に満足する俺だったが。

「ぷっ────あははは!」

 ……コイツは失礼にもゲラゲラと笑い転げやがった。

「ああ、おっかしい────あんた今の本気?」
「おう」
「ふうん……やっぱりアンタってバカの見本ね」
「余計な御世話だ。……それよりなんだってこんな朝早くから弓道部にいるんだよ。それもみんなのタイガーを泣かせやがって」

 そして失礼極まりない評価に傷つきながらも、ようやく訊きやすい雰囲気になってくれたので本題を切り出す。

「──────泣いてた?」
「おう、バッチリ泣いてたぞ僕らのタイガー」

 途端にバツが悪そうな顔をする凛。
 コイツも別に周囲の人間を傷つけたくて角を立てているわけではないのだ。

「それで理由はなんだよ?」
「……ごめん。ただアイツがね……慎二が春休みの間ずっと家に帰ってこなかったから探してたのよ」

 やっぱりそうかとため息をつく。

「慎二は『僕が家に帰らないのは僕を必要とする女の人がいるからさ』って言ってたけどな」
「馬鹿ね、そんなワケないでしょ。自分の家があるのにホテル暮らしなんかして……なに考えてんのよあのバカ」

 まあその資金が尽きたときは港で段ボール暮らしなのだが。

「……いいわ。アイツに会ったらもう怒ってないから帰ってらっしゃいって伝えてくれない?
 わたしよりあんたから言ってもらったほうが安心するでしょ、アイツも」

 そして、コイツに首根っこを掴まれて自宅に連行されるのが慎二のライフワークなのであるなんまいだぶなんまいだぶ。

「いいけど、あまりいじめるなよ慎二のコト」
「……いじめてない。ただアイツがわたしにいじめられてるって被害妄想に凝り固まってるだけ」

 実際のところはどうか知らんが、それなりに落着きを取り戻した凛の態度を鑑みるにもう大丈夫だろうという結論に行き着く。

「じゃあ行くけど、おまえはどうするんだ?」
「ん……わたしは綾子に謝っとく」
「そうか。それじゃあまたな、凛」

 振り向いて、片手を振りながら立ち去ろうとすると。

「士郎……」

 その背中に、どこか躊躇いがちに言葉を切った凛は────

「……その、気にかけてくれてありがとう」

 背中を向けたコトを後悔する。
 もしかしたらコイツは初めて笑っているのかも知れないと思うと振り向きたくなるが、それはしてはいけない事だ。

 悔しさと満足感を等分に更衣室を出た俺はこれからの事を考える。
 時刻はまだ九時過ぎ。
 入学式が始まるまで、まだだいぶ時間がある。

 ……さて。
 俺はこれからどうしたいと考えているのだろうか……?

 【松】興味津津と聞き耳を立てていた美綴と少し話す。
 【竹】惜しいと思うが美綴の相手は凛に任せよう。俺は慎二を探さないとな。
 【梅】いや、どうせアイツは港の指定席だ。慎二の相手は学校が終わってからという事にして、俺は一成の様子を見に行こう。
 【桜】そう言えば桜は……一度アイツの家に電話をかけた方がいいやもしれぬ。

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最終更新:2009年07月23日 00:44