793 :うたかたのユメ ◆6l0Hq6/z.w:2009/04/21(火) 02:12:28 ID:eqwUskK60


 誰が一番驚いているのかは定かではないが、誰もが驚いていることだけは間違いないだろう。
 俺と美綴をからかっていた凛は、表情というものをどこかに置き忘れてきたような面持ちで息を飲み。
 俺たちを交互に見つめて慌てふためいていた美綴は、そうおいそれとお目にかかれない面白い顔と姿勢のまま硬直し。
 よりにもよってこのタイミングでやってきたその男は、ポケットに手を突っ込んだ笑顔のまま身じろぎもしない。

 誰もが無言で立ちつくしているのは、この不意打ちが筆舌に尽くし難いほど悪質だからか。
 たとえば至近距離でチーターに出くわしたカモシカは、絶対に逃げられないという絶望から、パニックに陥いって身動きがとれなくなるという話を聞いたことがある。
 不意打ちというものは最低限の思考すら奪い去り、パニックという厄介極まりない置き土産を押し付ける。
 何が正しいのかも判らなければ、最善の行動など選べる筈もない。

「────────」

 だと言うのにコイツは最善の行動を選んだ。
 くるりと背中を向けて地面を蹴るその行動に一瞬の遅滞もない。
 脱兎のごとく逃げ出した慎二の行動は、ずっと探していた相手が逃げようとしている理解した凛が「待て」と口を開くより迅い。

「────────」

 さすがは慎二だ、と、口に出さず感心する。
 飽きるほど繰り返されたが故に思考に先んじるその行動。
 たとえばトイレの電気を消すように。
 これこそは『妹から逃げる』という行動を習性の域にまで昇華させたダメ兄貴の業。
 芸術の域にまで磨き上げれた“技”ではなく、極限にまで鍛え上げられた“業”こそが予想だにしなかった場所で妹と遭遇してパニックに陥りながら、それでもなお生存を信じて逃走に転じた間桐慎二ただ一つの強み。

「────────」

 慎二は逃走に成功するだろう。
 この中で一番不意打ちに弱い凛に最速の行動は望めない。
 故に成功する。
 間桐慎二は逃走に成功し、それを阻めなかった間桐凛は激発する。
 故に俺は何としても極彩色の未来を防がなければならない……!

「な───なんだよ、なに邪魔してんだよオマエ……!」
「おまえが逃げると俺たちが迷惑する。……だから逃げるな。話し合うんだ、慎二」

 襟首を掴む手に息を詰まらせる慎二に答える。
 そうなのだ。少しはおまえに逃げられた凛と同じ場所にいる俺たちのコトも考えろバカ。

「はあ、なにワケわかんないコト言ってんだよ? この僕にあの女と話し合えって!?」
「安心しろ。あいつはもう怒っていないって言ってたから……たぶん大丈夫なんじゃないのか?」
「はあ? 何サマなわけ。たぶんで人を悪魔に引き渡そうとするこのエセ神父見習いはさぁ……!」
「人聞きの悪いことを言うな。たんに家出息子を家族に引き渡そうとしてるだけだろ」

 心無い罵声に傷つきながらも暴れ狂う慎二を羽交い締めにする。
 そうして呆れ顔の美綴を横目に振り返ると────

「慎二」

 目の前には右手を大きく振りかぶった女の子がいた。
 見慣れた顔に浮かぶ見慣れぬ表情。
 気難しいことで有名なこの少女は喜怒哀楽の表情を表に出さない。
 その子は───間桐凛はあきれ返ってものも言えないという表情で喜びを。
 くだらないコトを言ってしまったというような顔付きで怒りを。
 無関心が板についたような態度で哀しみを。
 つまらなそうに溜め息を吐いて楽しいと表現する女の子だったが。

「歯食いしばりなさいッ」

 このとき彼女が浮かべていたのは本物の怒りだった。
 いったい何があったのかなんて考える暇もない。
 横殴りに叩きつけられたグリズリー級のベアは慎二を軽がると吹き飛ばし。
 ……当然の事ながら慎二を羽交い締めにしていた俺も吹き飛ばされ。
 二人仲良く二メートルはたたらを踏んで背中から倒れ込む。

「つ、あ────」

 凛の平手をまともに受けた慎二と、クッション代わりに押しつぶされた俺のどちらがより痛い目を見たのかなんて、そんなコトを考えてどうするのか。
 倒れた時に拘束を解いたのが悪かったのか、慎二の肘に鳩尾を痛打された俺は日頃の鍛錬不足を思い知らされて声も出ない。

「……言峰。おまえ───僕を庇って……!」

 だと言うのに事実をここまで歪曲して、自分の都合のいいように考えられるのが間桐慎二の間桐慎二たる所以なのだが。

「凛、おまえェェェェェ!!!!」

 なにがどうなっているのか。
 一度はこちらに心配そうな顔を向けてきた慎二は、なぜか怒りに顔をひきつらせ、背後の凛に向き直ると同時に叫んだ。

「僕だけじゃなく言峰にまで手をあげやがったな!!!?」

 これは窮鼠猫を噛むとでも言うのだろうか。
 傲然と立ち上がった慎二が呆然と立ちつくす凛の顔に手の甲を叩きつけたのだ。

「────────」
「────────」

 ……今日は本当に珍しいものを見る。
 あの凛があんなに感情を露わにして、あの慎二が天敵に等しい妹に食ってかかっているのだ。

「おい、おまえらいい加減にしろ! くだらない事で言い争うより言峰を保健室に運ぶ方が先だろ!!」

 そうして誰かの怒鳴り声を耳にしながら、俺こと言峰士郎の意識は闇に飲まれた。

「っ……」
「む……どうした? 顔色が悪いぞ。間桐に打たれた傷が痛むのか?」
「いや、脇腹の方は大したことない。タイガー……じゃない、藤村先生の話だと転んだときに脳震盪を起こしたらしいんで、気分が悪いのはその所為だな」

 それから二時間が経ち、綺麗に並べられた椅子の上に座った俺は心配そうに訊ねる一成に答えた。

「……辛いなら救急車が来るまで保健室で寝ていても構わないぞ?」
「だから大したことない。……ただ少しだけ気分が悪いだけだ」
「ならいいが……言峰の自己申告はあてにならんのでな。俺がダメだと判断したら保健室に運ばせるからそのつもりでいてくれ」

 難しい顔をした一成に「大丈夫だ」と片手を振って視線を転じる。
 場所は新入生を含めた全校生徒が参列した体育館の中。
 このあとクラス割りやら何やらを控えて期待と不安を胸に抱えた新入生はとにかく、俺たち在校生にとってはひたすら退屈な入学式もあと三十分もしたら終わる。
 白状すれば吐き気をこらえるのに精一杯なのだが、あと少しの我慢だと思えば歯を食いしばって耐えられないこともない。
 だが肉体の不調が精神的なものであるだけに、この吐き気は原因を解決するまで治まらないだろう。

「だがおまえにも困ったものだ」
「困ったものだって……俺がか?」
「ああ、俺は忠告した筈だぞ。あの二人には関わるなと」

 ……そう。
 この吐き気はあの兄妹が原因だ。

「あの二人を悪く言わないでくれ……あの二人は他の連中が言ってるほど悪いやつらじゃない」
「そういう問題ではない。俺とてあの二人が言峰を頼りにしている事は知っている」
「……………………」
「だがアレらの性向は本質的に自己に向いている。他人に向いている言峰との相性はあまり良くない。上手く言えんが、おまえたちの関係はあの二人がおまえに負担をかける依存型のものだ。詐欺師と被害者の関係と言ったら言いすぎになるが────」

 そんな事は言われるまでもない。
 この不調はあれから二人がどうなったかという不安によるもの。
 誰かを救わなければならない言峰士郎は、この手で救えないモノとの相性が致命的なまでに悪い。

「美綴から聞いた話によれば、おまえは今回の騒動になんの責任もないそうではないか。……それどころか自ら仲裁を買って出たそうだな?」
「……ああ」
「あまり背負い込みすぎるな。無償の手助けを旨とするおまえの精神は尊いが、つぶれてしまっては元も子もない……と、これは常々おまえの善意に甘えている俺が言えた義理ではないな。許せ」

 背負い込みすぎるなという指摘が辛い。
 一成の気遣いは嬉しいが、俺はもう十年も昔に背負いきれない荷物を背負ったのだ。
 だから後は、ゆっくりとつぶれるだけ────

「────────」

 こんな時にアイツがいたらというのは弱音なのだろうか。
 だけどアイツと一緒にいる時間だけが言峰士郎の安息。
 迷惑なんていくらでもかけてくれていい。
 この手で救った確かなものが傍らにある時間だけが───────

「む……? 誰か来たようだが……アレは新入生か?」

 ……と?

『おい、誰だよアレ?』
『遅刻かぁ? でも結構かわいいよな?』
『あんなにきょろきょろして───なんか誰かを探してるんじゃない?』

 壇上の教師はもちろん体育館内の全校生徒が視線を向けるその先に、何故か……何故かアイツがいた。
 癖のない真っ直ぐな黒髪を乱し、豪快に押し開けた非常口の扉に寄りかかって肩で息をするアイツ。
 アイツ……そう、アイツだ。
 もうとっくに入場して大人しくしていると思ったら、こんな────この学校が始まって以来の遅刻ぶりを皆の記憶に焼きつけるその姿。 
 責任は俺にある。
 アイツがこの入学式(ここ一番)で何もやらかさないワケがないと、魂の奥底まで刻み込んでいた筈なのに……!

「ごめんなさい! わたしついうっかり居眠りして遅刻してしまいましたお兄ちゃん!!」

 そうしてアイツは────俺こと言峰士郎の妹分である遠坂桜は。
 この人ごみの中から俺を見つけ出し、むやみやたらに肥大した胸をぷるんと揺らして頭を下げながらそう叫んだ。

 ……ゴッド。
 俺なにか悪いコトしましたか……?

「────────」

 ざあっ、と館内全ての人間が桜の視線を追いかける。
 このままでは万事休すだ。
 まったくアイツは俺をお兄ちゃんと呼ぶなとあれほど口を酸っぱくして言い聞かせたのにと混乱の極みに達した頭の中で毒づきながら周囲に倣う。
 ようは他人のふりをして「アイツのお兄ちゃんって誰だ?」と言わんばかりに左後ろを見たのだが。

 ……さて。
 この角度。左から二番目の席に陣取った俺の後ろには一人しか座っていないのだが。
 その席に座っているアイツの『お兄ちゃん』とは誰だろうか……?


 ●現在凛ルート(他にも桜ルート慎二ルート?ルートなどがあり、凛ルートからの他ルートへの分岐もある)
  *遠坂桜好感度初期値より+1
  *間桐凛好感度初期値より+4
  *間桐慎二好感度初期値より+1
  *美綴綾子好感度初期値より+1
  *柳洞一成好感度初期値
  *タイガースタンプ一個獲得


 【汗】……いや。いくらなんでも女の子の凛をお兄ちゃんと呼ぶのは無理があるよな……(凛好感度+1、桜好感度+3)
 【涙】すまない、と心の中で慎二に手を合わせる(慎二好感度+1、凛好感度-1)
 【洟】────後藤くんなら適任やもしれぬ(タイガースタンプ一個獲得)

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最終更新:2009年07月23日 00:49