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※※

「そういえばiPS細胞というもので同性の間でも子供が出来るらしいです」

 原村和はいつも通りの、どこか澄ました――照れた――顔でそう言い、ティーカップに口を付けた。
 その自然な動作は、育ちの良さを垣間見せる。
 また仕草だけではなく、和自身も美しく、それでいて少女の可愛らしさもまだ残している。

 その姿に思わず魅入ってしまい、じっと動かずに――動けずに――いてしまう事は、今日この日だけで彼女は何度経験したことだろうか。
 和にそれを指摘される度に「何でもないから…」と、何度誤魔化したことだろうか。

 しかし、今は状況が違う。

 確かに和は、魅力的な存在である。
 特に今日など、普段のものより更にフリルいっぱいでいて露出度高めの服を着ているのだ。
 よく言えばいっそ官能的、悪く言えば眼の毒である。

 だから、
 だからこそ、彼女はなるべく和の方を見ないように、見ないようにと努め、お喋りをしていたのだ。

 そう、彼女は和を見ていなかったのだから、魅入ってしまうわけもなく。

 だというのに、どうして固まっているかといえば、

「……聞いていますか、智紀さん?」

 彼女――沢村智紀――は話の流れについていけず、固まっていたのだ。

 無理もない。

 ついさっきまでは智紀の進路についての話題だったのだ。

 それがどうしていきなりiPS細胞だなんて―――

「……智紀さん?」
「あ……ぅ…」

 テーブルを挟んで向かい、和が智紀の方へとその白く綺麗な指を伸ばしてくる。
 その指は中央に置かれていた菓子の皿を過ぎ、固まったままの智紀の指へと触れ、絡み、和の肌触りを、体温を智紀へと伝える。

 幸せな感覚の中、しかし智紀の理性は、別の事だけを考え続けていた。


 ―――どうしてこうなった。




 事の始まりは、一枚のプリントだった。

 高校二年ともなると、日本全国どの学校でも進路希望調査を行う。
 例に漏れず、智紀の通う私立龍門渕高校でも実施されて調査用紙が配られたのだが、それが智紀を悩ませていた。

 ここでの悩みとは、行きたい学校や勤めたい先の倍率が高いといったものではなく、それ以前のものである。

 そも、智紀は進路のことなどこれっぽちも考えた事がなかったのだ。
 小学校から中学校へは無条件入学だったし、中学から今の高校へは麻雀推薦入学だったと智紀は聞かされている。
 なので、同級生の国広一が届けてくれた件の用紙を見て、そこではじめて進路というものについて大きく悩んだのである。

 はじめての悩み。

 用紙を片手に『進路希望調査』と検索しても、智紀自身の進路が結果として出てくるわけはない。
 常日頃、わからない事や知らない事があれば、インターネットで検索していた智紀も、こればっかりはお手上げだった。
 なにしろ、それは智紀が自分で答えを出さなければならないのだ。

 智紀は不安になった。
 どう考えても、問いに対する適切な回答が思い浮かばないのだ。

「私…なにを書けばいいの?」

 呟きつつも、その答えは自分自身で見つけなければいけない事はわかっていた。
 提出期限は来週の週明け。
 それまでにどうにかしなくてはならない。

 そして、一人で悩んだ末に、智紀の周りの同級生に相談したのだが…。

「好きになさい。しかし、必ず何をするにしても必ず私に教えなさいな」
「ともきー他に就職や進学考えてるの?」
「……オレはどうすっかなぁ。戻るアテもねーし、このまま居着くのが楽っちゃ楽なんだよなぁ」
「いなく、なってしまう、のか…?」

 ……そも今の雇い主だったり、参考にならなかったり、仮定の話で泣きそうになったりと、智紀にとって有用な意見を聞くことは出来なかった。
 と、言うか進路と一言言った瞬間にコレである。

 なので、他を頼ろうとしたものの、そこでも問題があった。
 智紀はあまり社交性に富む性格ではない。
 むしろその真逆である。

 同じ学校で智紀から話しかけることが出来る同級生ともなると、先の四人とメイド仲間がもう一人くらいなのだ。なお、残りの一人に関しては最初から参考にならなさそうと踏んで、智紀は元より聞いていない。

 そうなると智紀に学内で頼れる人物はいなくなる。
 ここで普通ならば、同じ部の上級生なり、教職員なり、はたまた両親なりに相談なりするものだが、それもまた難しい。

 まず同じ部の上級生はいない。
 厳密に言うならば、今の麻雀部を発足させる際に乗り込んだ挙句に叩きだしたので、相談に乗ってくれそうにもない。
 まぁ、そもそもにして智紀は顔すら覚えていないのだが。

 続いて、教職員は我関せずを貫いている。
 聖職者としてそれはどうかとも思うが、しかし無理もない。
 何しろ龍門渕高校の名の通り、学校の理事長は龍門渕透華の祖父である。
 そして透華もまた少なからず権限を持っているのだ。
 その関係者の進路に下手に関わりたくないと思うのも、まぁ、当然かもしれない。

 そして最後に両親。
 中学三年の時、引き篭もりの更生を願って、透華に娘である智紀を完全に託したのだ。
 相談以前に、そもそも会いたくない。

 そうなってくると智紀の頼る人間は学外に限られてくる。

 智紀は学内より学外の方で顔が広い。
ただし、それは匿名性のインターネット上限定ではあるのだが。
「そんな人達信用出来ますの?」とは主人である龍門渕透華の言葉。
 たしかにそう思うのも不思議はない。
 しかし、得てしてネット上の付き合いなぞ、たかが知れると考える透華には想像もつかないほど智紀は多種多様な人達とコネクションを築き上げていた。

 例えばそれは麻雀の国内トッププロだったり、
 例えばそれはTV局のアナウンサーだったり、
 例えばそれは現職の教師で高校生麻雀全国大会出場校の監督だったりと、

 これらの面々はネットにありがちな騙りではなく、正真正銘の本物なのだ。

 元々のチャットがネット麻雀の機能の一つなので、偏りはあるにしろ、智紀は多くの人生の先達とも親交を深めていたのである。

 そして、智紀は相談してみたのだが…。


すこやか:気がついたらプロになってたなぁ…
すこやか:ていうか周りから「プロになるんだよね?」って空気になってた
ぱや★りん:でもでもぉ、キャンパスライフって、ちょっと憧れたよね☆
ゆんた:はやりさんも高校卒業後、すぐプロ入りでしたよね
ぱや★りん:うん☆
ぱや★りん:だってぇ~、はやりのファンが活躍を待ってたんだも~ん☆
ラテライト:あはは…そういう戒能プロは?
ゆんた:私は高校卒業後色々とありまして
ラテライト>紫炎姫:……参考になりそう?
紫炎姫>ラテライト:…うぅん

 ノヨリサさんが入室しました


 ……割とヒドい結果になったので、この後、智紀は早々に退室した。
 聞いた話によると、その後も盛り上がり続け、今度どこかでまた飲みながら話そうと言った感じでオフ会の約束が取り付けられたらしい。

 早めに退散して正解だったと、智紀は心から思った。

 先のチャットルームこそ完全に身内だけの集いで、名前呼びも当たり前なやり取りをしていたが、智紀はそれを好ましく思っていなかった。
 メイン部屋でこそ素でいるが、そうでない限りなるべく自分が何者なのかバレないように、特定されないように、と心掛けながらチャットをしている。
 何故ならば、一時期ネットスラングや暴言は当たり前、煽りまでしていた時期があるのだ。
 なので、オフ会なんぞ開かれて、全員参加みたいな流れになるのは智紀にとって好ましくない。
 なるべく、そういうのには顔を出したくないのだ。

 だが、しかし…。

「……まぁ、あの面子には大体バレちゃってるんだけど」

 独りごち、溜息をつく智紀。
 そうなのだ、どんなに注意してようと、人づてなりでバレる時はバレるものなのである。

 特に麻雀プロともなると人外の輩が多いから仕方がない、と智紀は考えている。
 やれ超能力だの霊能力だの、オカルト集団がてんこ盛りなのだ。

「……まぁでも、個人情報特定は流石にオカルト」

 と、そこまで考えて、智紀は思いついた。

「別にただ悩みを相談するだけだから、別に同級生や年上に拘る必要もないのよね…」

 何しろ将来のヴィジョンなどろくすっぽ考えたこともないのだ。
 それはむしろ考えたくなかった過去の背景もあるのだが、さておき、何もかもが未定である智紀はただただ誰かに話を聞いてもらいたかったのだ。

 しっかりと自分の話を聞いてくれて、それでいて口が固く、誰にも自分の悩みや弱みを話したりしない、そんな知り合い。

「……えぇっと」

 その条件をネット界隈で探すのは困難極まりないものだろうが、しかし、智紀の知り合いには存在したのだ。

 HN『のどっち』。

 智紀がネット麻雀を始めた丁度の頃からの知り合いである。


 そして、今年の夏からは現実でも友だちになった一人なのだ。


 のどっちさんが入室しました

のどっち:こんばんは
紫炎姫:使えない子ノシ
のどっち:今日はまだ智紀さんだけですか?
紫炎姫:ん…
のどっち:珍しいですね
紫炎姫:…そう?

 智紀は少しだけ考え、疑問で返した。
 現在午後の六時を回った所。
 部活だの夕ごはんだので、部屋のいつもの面子が揃うまでにはまだ早い頃合いなのだ。

 むしろ、今日はのどっちの方が少し早いくらいである。

 そう智紀は思ったのだが、しかし、のどっちの言っていた事はそうではなかった。

のどっち:いえ、智紀さんと二人っきりって、珍しい、ですよね…?

「あぁ…」

 言われてみるとそうかもしれないと、智紀は思った。
 いつも何だかんだで特定の時間を超えると数珠繋ぎで次々に入室してくるのだ。
 なので、のどっちと二人きりもそうだが、そもそもこうして誰かと二人っきりというのは確かに珍しい。

紫炎姫:そうね…
紫炎姫:この時間はいつも私一人の時間だから

 だから、録り溜めしているアニメの消化に丁度いいのよね、とまでは流石に続けなかった。
 二年間の付き合いで、智紀の趣味や嗜好はのどっちに対して曝け出しきっているので、何を今更ではあるのだが、それでも最近は少し恥ずかしいのだ。

 それは、ネット上だけのチャット友達ではなく、現実でも友だちになったことに起因する。

 これでのどっちが智紀と同じように学校をサボってネットゲームをしている同じ穴のムジナならば、憚る事もなかった。

 しかして、彼女は違ったのである。

のどっち:智紀さんって、いつも誰よりも早く来て待っててくれていますよね
紫炎姫:うん、まぁ…
のどっち:ですので、今日は私が智紀さんを迎えようと早く帰宅したのですが、残念です
紫炎姫:えぇっと……

 のどっちは毎日休まず学校に通う優等生だったのだ。
 しかもチャット越しにもわかる丁寧さと心配り、天使を模したアバターが智紀にはまるで本物の天使のように見えた。

「……いつか汚れた私を浄化するわね、間違いなく」

 どれだけか前に、煽り相手に厨二病と揶揄された自身のアバターを見て智紀は溜息をつく。

 イメージは暗黒の墮天使。
 そしてHNは紫炎姫ときたものだ。

 当時こそムキになって反論したものだが、揶揄されるべくして揶揄されたものよね…、と智紀は今ならば素直にそう受け取ることが出来る。
 しかし、今更変えるわけにもいかない。
 特に、その時に一緒の部屋にいたのどっちが庇い立てをしてくれていたので、尚更である。

 なので、いっそ本当にこのキャラ浄化してくれないかしら…と密かに智紀は考える

「……と、そうだ。折角だから今の内に…。」

 のどっちと二人っきりの今は、件の相談をするには丁度のタイミングである。
 これを好機とみた智紀は、今この場で相談することにした。

 最初の文は何がいいだろうか?
 普通に“相談があるから聞いてほしい”とでも切り出せばいいかしら…?

 いやしかし、今までアニメだゲームだとばかり言ってきたのが、いきなり進路相談なぞしたところで、その信憑性が疑われるのではないだろうか?

「……私が逆の立場なら間違い無く“寝言乙”って言うわね」

 のどっちに限って流石にそういう事は言わないだろうけども、真面目な話だとは掴みから判断してほしい。

 そう考え、智紀はチャットを打ち込んだ。

紫炎姫:……ねぇ、のどっち?
のどっち:はい?
紫炎姫:大事な話があるんだけど、いいかな…?
のどっち:

「しまった、唐突すぎた…?」

 のどっちが何も入力せずに返してきたのを見て、智紀はそれを『何を言えばいいかわからない』の意思表示と受け取った。

 確かにいきなり話を切りだすのは良くない。
身を持って体験していたことではあったが、智紀は失念していた。

 智紀も二年ほど前に「これから私達と麻雀を打ちますのよ!」と、部屋に乗り込まれた時は、電波さんが乱入してきたと内心焦りに焦ったものである。

 軌道修正をしなければならない。

 大事な話があるとだけ伝えたが、どうしていきなりそんな事を言い出したのか説明をしなければ、のどっちも対応に困るであろう。

 そう考えた智紀は更にチャットを打ち込む。

紫炎姫:ごめんなさい、急に……
紫炎姫:でも、二人っきりの今しか伝える機会がなかったから、つい……
のどっち:
のどっち:

 言いたいことは間違っていない。
 伝えたいことも間違っていない。

 しかし、どうしてだろうか、より深みに嵌っているような錯覚に智紀は襲われた。

「…軌道修正、失敗」

 この時ばかりはさすがの智紀も、自分の社交性の低さに頭を抱えた。
 こと趣味の話ならば、いくらでも話せるし、いくらでも話を広げられるというのに、ちょっと馴染みの友達に相談しようとしたらコレである。
 ……龍門渕の屋敷に来てから少しは改善されたと智紀自身思っていたのだが、どうやらそれが勘違いだったように思えてきて、智紀は内心凹んだ。

 だけど、今はそんなことで落ち込んでいる場合ではない。

 とにもかくにも話を切り出してしまっている。

 こうなったら、もう勢いでもなんでも進路の悩み相談をする他ない。

 賽は投げられたのだ。

紫炎姫:その…
紫炎姫:学校を卒業したら、なんだけど
のどっち:
紫炎姫:…えぇっと、違うの
紫炎姫:卒業する前に、のどっちに話しておきたいことが会って
紫炎姫:いや、まだ二年だし、早いと思うんだけど…
のどっち:

 だがしかし、テンパっている上に元より口下手な智紀が、しっかりと相談なぞ出来る筈もなく。
 モニターにはとても進路の悩み相談と受け取るには難しい文章が表示された。

「……あぁもぉ」

 智紀は思わず頭を抱えるが、本当に頭を抱えたいのは向こうの方だろうと、申し訳ない気持ちになった。
 向こうの方こと、のどっちはというとさっきから何も入力していない。

「……呆れられてる、よね」

 ごめんなさい…、と智紀は心の中で呟く。
 のどっちも、いつも通りに趣味で日課のネット麻雀をしにきただろうに、年上の引き篭もり女にわけのわからない絡み方をされているのだ。

 呆れられるだけならばまだいいが、この部屋に寄りつかなくなってしまわないだろうか?

 智紀は不安になった。

 二年前に出会ってから、どうしてかのどっちは毎日智紀の部屋に必ず顔を出してくれている。
 例外といえば、今年の夏、県予選前の頃だったか―――


のどっち>紫炎姫:紫炎姫さん
紫炎姫>のどっち:ん?
ステルスモモ:暇っすねー…
のどっち>紫炎姫:ごめんなさい、部活の合宿で数日の間だけなんですが
のどっち>紫炎姫:その…ここに来れなくなりそうでして……
ステルスモモ:誰も来ないっすねー…
紫炎姫>のどっち:つ 噂の麻雀部?
のどっち>紫炎姫:そうです
紫炎姫>のどっち:ぉk、把握
紫炎姫>のどっち:全国優勝とかマジ頑張れ
ステルスモモ:………
紫炎姫>のどっち:まぁ、私も全国行く予定だからひょっとしたら会うかも
のどっち>紫炎姫:その時はよろしくおねがいしますね
紫炎姫>のどっち:こちらこそ。私N県
ステルスモモ:あれ、ひょっとしてステルス発動しちゃってるっすか、コレ
のどっち>紫炎姫:
のどっち>紫炎姫:私もN県です
ステルスモモ:……うわぁ、ネトマでステルスとか初めてっすよ
紫炎姫>のどっち:え
紫炎姫>のどっち:……まぁ、N県って四県あるしね
のどっち>紫炎姫:そ、そうですよね

 namberさんが入室しました

namber:はじめまして
namber:腕試しに来ました、宜しくお願いします
ステルスモモ:ヘーイ、ステルスこんばんはっすー!
namber:………
namber:私はその挨拶にどう返せばいいのでしょうか?
ステルスモモ:あ、あんた…私が見えるっすか…?


 ―――と、合宿があるとかだったり、他には―――


のどっち>紫炎姫:えぇっと、また合宿があるんですけど、、
のどっち>紫炎姫:智紀さん、よろしくお願いしますね
紫炎姫>のどっち:あ、うん…
ステルスモモ:あ、そうそう忘れるところだったっすけど
ステルスモモ:来週私ら3人ともいないんでよろしくっす
namber:え!?
namber:……
namber:それは、その、オフ会と言うものだったりするのでしょうか……?
ステルスモモ:まぁ、似たようなものっすね
namber:
namber:元より独りの修行旅の身、長居しているからとてここに情が湧いてなどいません
ステルスモモ>紫炎姫:南場さんがメンドくさい子モード突入したんすけど
紫炎姫>ステルスモモ:……お土産買って送ってあげよう
ステルスモモ>紫炎姫:……リアルの南場さんについて全く知らないんすけど
紫炎姫>ステルスモモ:……言い出しっぺの私が聞けばいいのよね


 ―――だとかで、そもそも智紀もいなかったり、他にも―――


のどっち>紫炎姫:それでは智紀さん、全国大会に行ってきますね
紫炎姫>のどっち:いってらっしゃい…
ステルスモモ:あ、私明日から最長2週間ほど離れるんでよろしくっす
namber:……長旅ですか?
ステルスモモ:ちょっと東京まで行ってくるっす
namber:まさか全国大会ですか!?
namber:いえ、ですがステルスモモさんの麻雀の腕ならおかしくないですね……
ステルスモモ:残念、違うっす
のどっち:あ、実は私も明日から最長で2週間ほど離れます
namber:……長旅、流行っているんでしょうか?
紫炎姫:……えぇっと
namber>紫炎姫:でも、そうなると、しばらく私と沢村さんで二人っきりに、なってしまいますね
ステルスモモ>紫炎姫:そういえば龍門渕の人達も明日から東京に応援しに行くんすよね
紫炎姫:


 ―――と、智紀も東京にいるというのに、必死で毎日部屋を立てていた全国の時くらいである。

 だから、それが自惚れとはわかっていても、智紀はのどっちが自分のことをきっと憎からず思ってはいてくれるのだろうと思っていた。
 “きっとあの子の周りには居ないタイプの変わった人間として面白がられている”
 卑屈な考えではあるが、智紀はのどっちが側にいてくれる理由を分析していた。
 そうでもなければ、あんな良い子が自分なんかとつるむわけがないと思っていたからだ。

 だというのに、最近のチャットでは着飾らない自分を前面に出していて、それどころか合宿では文字通り着飾らない自分を見せてしまっているのだ。
 合宿の前の晩など、智紀は素の自分に幻滅されるのが嫌で、やはり合宿を不参加しようかと悩んでいたくらいである。
 幸いにも合宿が終わった後も、智紀に対しての態度は何も変わらず、それどころか折角こうして直接でもお友達になったのだからと、“智紀さん”と名前で呼んでくれるようになってくれたのだが。

 そこで喜んで気を抜いていたら、今日のコレである。

 のどっちはきっと誰へも別け隔てなく優しい子で、智紀への名前呼びもその一つなのだろう。

 それなのに、そこで調子に乗って気安く擦り寄った挙句に、チャット上でどもっているのだ。

 智紀は天を仰いだ。
 モニターの光りに照らされて天井に張ってあるキャラ物のポスターが見える。

 しかし、いつもならば活力の元となるそれも、どうにも今は溜息を増やすばかりだった。

「はぁぁ…」

 反らした上体を戻し、俯くほどに大きく溜息をつく。
 正直、これ以上モニターを見たくはなかった。

 しかし、見なければならない。ならないのだ。

 顔を上げる。

ステルスモモ>紫炎姫:むらさきさん、寝落ちっすか?

「え…?」

 いつの間にやら常連のステルスモモが入室していた。
 見れば他にnamberも入室し、のどっちと話している。

namber:紫炎姫さん、どうかされたんですか?
のどっち:他のネットゲームに夢中なのかもしれませんね
ステルスモモ:またネトゲっすか
ステルスモモ:流石の世界ランカーっすね
namber:麻雀でですか!?
のどっち:いえ、別のジャンルです
ステルスモモ:RTSらしいっすよ
namber:……私にはよくわかりませんが、皆さんよくご存知なんですね
のどっち:いえまぁ
ステルスモモ:付き合い長いっすからね
namber:

「―――」

 眼の前に広がるいつも通りのチャット風景に智紀は一瞬現実を疑った。
 都合のいい妄想を考えるのが得意ではあるが、まさかそれが実現したのだろうかと一瞬考える智紀。

 勿論、そんな筈はない。

のどっち>紫炎姫:智紀さん、皆が来ましたので話の続きはまたという事で
紫炎姫>のどっち:あ、うん

 問題が先送りになっただけである。

のどっち>紫炎姫:……それで、あの、大事なお話でしたら、直接聞いた方が良いですよね?
紫炎姫:
ステルスモモ:あ、ようやく戻ってきたっすか
namber:紫炎姫さん、こんばんは

 しかもより難易度を増して。

 智紀は目眩がした。


 それから三時間後にその日の部屋はお開きになった。
 いつもならば、まだ夜の十時だからと、それこそ先ほどステルスモモが指摘していたネットゲームを始めるところなのだが、今日に限っては智紀はそれどころではなかった。
 何故ならば―――

のどっち>紫炎姫:今週の土曜日、私部活お休みなんですが、智紀さんのご予定は?
紫炎姫>のどっち:取り敢えず今のところ何も…
のどっち>紫炎姫:良かった…
のどっち>紫炎姫:それでは、その日に伺いますね
のどっち>紫炎姫:時間については追って連絡しますので

 ―――最後の最後にとんでもない約束を交わしてしまったからである。

 コレはマズい、と智紀は呟いた。

 何がマズいかと言われると何から何までである。

 唯一良かったことといえば、どうやらのどっちに愛想を尽かされたと言うわけではないということが確認できたことくらいだ。

「……でも直接引導を渡されるのかも」

 しかし、それさえも不安がってしまうほど、智紀の心情はいっぱいいっぱいだった。

 本日二度目、智紀は天を仰ぐ。

 そこには変わらずキャラ物のポスターが変わらぬニヒル顔を智紀に向け―――

「――外さなきゃ、っていうか…」

 のどっちは何と言ってきたか?
 智紀の見間違いでなければ伺いますとチャット欄には表示されていた。

 それ即ち、この部屋に、このゲームやアニメBDや、フィギュアに漫画、とどめには同人誌が散乱しているこの部屋に、あの天使のようなのどっちを入れるという事に他ならない。

「…掃除しなきゃ!」

 龍門渕の屋敷に来てから早二年。

 智紀は初めて自主的に部屋の掃除をすることを決意した。


「メイドとして働けばお給金も出しますわよ?」

 二年前、北海道から長野までへと向かうヘリコプターの中で透華は智紀に一つの提案をした。

 それは屋敷で暮らす限り、衣・食・住の提供は勿論の事、お小遣いとして月1万円程度を与えるが、それで足りない分は、お給金で賄いなさいとの事だった。

 智紀は趣味もあるため頷き、屋敷のチェインバーメイドを任せられることになった。

 チェインバーメイドは主に寝室や客室などの整備を担当するメイドである。

 最初こそミスもしたり、時には透華から雷を落とされることもあったが、しかし、この二年の経験は、智紀を一流へと成長させた。

 しかし、その一流チェインバーメイドをしても、この部屋の掃除は厳しかった。

「……物理的に片付かない」

 まるで物置…、と智紀は自分の部屋を指して例えた。
 昨日の夜に片づけを決意し、いつになく早起きして掃除を試みた智紀だが、その進捗は牛の歩みだった。

 床には漫画が山脈のように積み並び、ところどころにはゲームのパッケージ、そしてフィギュアの箱がこれまた山脈と化している。
 更にパソコン周りにはアニメやゲームに登場するキャラクターフィギュアが所狭しと並び、決めポーズを取っている。

「……どうするのよ、コレ」

 押入れや、それこそ物置の類に収納すればと思うなかれ。
 既に智紀へと与えられた分は既に満員御礼、段ボール箱一つとして入る隙間は無くなっている。

 だからこそ、だからこそ、こうして部屋に積み上げる他なくなっていたのだ。

『だったら売るなり捨てるなりすればいい』

 智紀の心の中の悪魔が真っ当な解決方法を囁きかける。
 しかし、それが出来るようならば、そもそもにしてこのような状況にはなっていない。

 智紀は片付けられない女ではない、捨てられない女なのだ。

 この部屋に散乱しているものは、どれもこれも、智紀にとって大事な宝物である。

 だがしかし、その行き過ぎた所有欲は、今になって智紀自身の重い枷となってしまっていた。

「……でも、のどっちが来る前にどうにかしないと、でも…」


 涙の二者択一。


 これらの大半を捨てて、どうにか綺麗になった部屋に、のどっちを迎えるか。

 どうせ趣味嗜好はバレているのだからと開き直り、このままのどっちを迎えるか。


 ひたすら悩み、そして智紀の出した答えとは―――


「一日だけ空き室の一つを使わせてほしい?」
「お願い…」

 ―――まさかの第三の選択だった。
 部屋がないのならば、もう一部屋使えばいいじゃない。
 智紀はなかなかにしたたかな女だった。

 学校から戻り食堂でくつろぐ透華を捕まえ、智紀は頼み込む。

「理由は何ですの?まさか部屋が趣味の物で埋まったからでは……」
「……それなら一日だけって言わない」
「まァ、それもそうですわね」

 しかし透華の言ったこと自体は間違ってはいない。
 間違ってはいないだけに、智紀は少し心苦しくはあった。
 それでも、こればかりは聞いてもらわないと困るのだと割り切り、智紀は続けた。

「……実は、今週の土曜日に友達が遊びに来る。だから…」

 智紀は事情を正直に説明する。
 特にやましい事に使うのでなければ、透華は大体無条件で許してくれることを知っているからだ。

 なので、友達が遊びに来ることを伝え、そして重ねてお願いの言葉を続けようとしたのだが…。

「     」

 何故だか透華は固まっていた。
 しかも少女漫画の古典「ガラスの仮面」の登場キャラクターのような表情で。

 厨房の方から食器の割れる音がする。
 智紀は一瞬驚いたが、しかしまた同僚メイドの萩野歩がドジをしたのだと思い、気にすることを止めた。
 それよりも今はフリーズしている透華に元に戻ってもらい、話の続きを―――

「ともきー、お友達連れてくるって本当!?」
「マジかよおい!?」
「お、おおお落ち着きなさいな、ともきだって、交友の一人や二人は…」

 ―――しようと思ったのだが、今までどこにいたのか、智紀はあっという間に同級生達に取り囲まれた。

 なにこの過剰反応。

 なんだか智紀は悲しくなってきた。


「へぇ~、ネットで知り合った人なんだぁ…」
「うん…」
「男?女?」
「女の子…」
「で、出会い系サイトというものではないでしょうね!?」
「……違うから安心して」

 なんだかんだと、空き部屋を使わせてほしいと言う智紀のお願いは無事に通った。
 さぁ良かった、と部屋に戻ろうとした智紀だったのだが…。

「年上?年下?」
「住所は同じ長野なん?」
「当日は車を用意したほうが良くて?」

 好奇心旺盛な同級生はそれだけで智紀を開放するわけもなく、質問攻めをしていた。
 しかし、智紀も気持ちはわからなくもない。

 この屋敷に誰かの友達が遊びに来ることなど、今まで無かったのだ。

 ここに来るのは、龍門渕の関係者ばかりである。
 例外として今年の夏は奈良県代表の阿知賀女子の面子が練習試合に訪れた事くらいであろうか。

「年下で同じ長野…。車は、聞いてみる…」
「そうなさいな」
「ボク出迎えに行こっか?」
「……国広くんは、うん、オレと一緒に屋敷で出迎えようぜ、な?」
「?」

 だから、誰かを招く時に、こんな柔らかに話したことは、今まで無かったのだ。

 きっと皆もそれが嬉しくて、楽しくて、仕方がないのだろう。

 少し照れくさくはあったが、智紀は出来る限り、これに付き合おうと思った。

「それで、ネットで出会ったってことはHNで呼び合うんだよね?」
「うん…」
「お、て事は智紀のHNもわかるって事か」
「ともきは“Tomoki”でなくて?」
「あー、いつもやってるネトゲだとそれ使ってたよねー」
「……ノーコメント」
「って、違うのかよ!?」
「……気になりますわね」
「まぁまぁ、それより相手の人のHN教えてよ。お出迎えする時に知らないと不便だし」

 照れくさく、恥ずかしく、そして自分の厨二病なHNを必死に隠したり。

 智紀もそれが楽しくて、嬉しくて。

「相手のHNは“のどっち”…」
「「「え゛」」」
「え…。あ……!」

 ついつい、うっかり口を滑らせてしまったのも、また仕方のない事かも知れなかった。


 のどっちは夏の県予選前から透華が自称ライバルと言い張っている相手なのだ。
 そして周りもまた、それを知っている。

 当然、智紀も知っていたのだが、のどっちと親交があるのは伏せていた。
 何故ならば、言ってしまえばとてつもなくメンドくさくなる事が、容易に想像できたからだ。

 そして、その予想は正しかった。

 智紀に詰め寄り、根掘り葉掘りと問いただし、終いにはお付きの執事ことハギヨシにその“のどっち”が本物かどうか確かめさせようとした所で、一に取り押さえられた。


「おはよう智紀…。なんの話だ?」
「おはよう衣。えぇっとね…」

 夕方になってようやく起きてきた衣の質問に曖昧に返しながら、智紀は後悔し始めていた。

 二者択一のどちらかを選択した方がまだマシだったかもしれない。

 智紀は思ったが、しかしもう時既に遅し。


 取り敢えず、貸与される部屋が空き部屋から迎賓室に格上げされた。


 そして当日、午後一時十五分、遂にその時はやってきた。
 智紀の耳には、聞き慣れた車のエンジン音、「あ、マジで本物じゃん」と純の声にざわめく室内の様子が耳に届いてはいたが、しかしそのどれも聞こえてはいなかった。
 ただただ、どうしようどうしようと、緊張と不安に震えて、それどころではなかったのだ。

 日頃、寡黙でクールと捉えられがちな智紀ではあるが、感情を表に出さないだけで人並み程度には緊張もする。
 そして、初めて家に友達をあげるというのと、その相手がのどっちである事の両方で、智紀の緊張は既にピークに達しようとしていた。

 まずはのどっちを玄関口で皆で出迎える手筈になっている。
 これは透華が決めたことで、提案された当初こそ恥ずかしいと智紀は思ったものだったが、しかし今は逆に感謝している。

「(……一人で出迎えるのなんて無理!)」

 それでも一応、送迎並びに案内役のハギヨシが付いているので、厳密には一人ではないのだが、人数は多い方が智紀は気が紛れて楽だと感じた。

 しかし、この緊張した状態で出迎えをするのは少々難儀かもしれない。
 いらっしゃいの一言も言えるか怪しいのだ。

 そう考えた智紀は、なにはともあれ一度深呼吸をと息を吸って……

『こちらでございます…。どうぞ』

 タイミング悪く開いた扉に危うくむせかけた。


 扉が開いた先には、執事のハギヨシと、そして―――



「こんにちは、おじゃまします」


 ―――のどっちが――原村和――が、そこにいた。


 智紀は“いらっしゃい”と言おうとして、声が喉に詰まった。
 やはり危惧した通りに、緊張のあまりに言葉が出て来なかったのだ。

 どうしよう?折角来てくれたのにお出迎えの一つもろくに出来ないなんて…。

 このままではまたあの時のチャット宜しく呆れられてしまうと、何とか声を出そうとする智紀。
 しかし、どうしても声が出ず、そして―――


「い、いらっしゃいまし!よ、ようこそ我が龍門渕の屋敷へ、歓迎いたしますわ!!」
「あ、はぁ…」

 ―――代わりにとばかりに、透華が物凄くテンパった挨拶を和に対して行なっていた。

 ナイスフォロー。

 智紀は透華に内心感謝をしたが、しかし、それがフォローを目的での事だったかどうかは謎だった。


 その後しばらく、透華はテンパり続けていた。
 一と純は溜息を付き、衣は和に飛びつく。

 智紀はその間、色々な意味で恥ずかしがっていた。


「それじゃあ、後はお若いお二人で」

 一の言葉に、「待てそこの同級生」だとか「それはお見合いの時に使う言葉だ」とか、色々と言いたい事はあったが、しかし、その心遣いに智紀は素直に感謝した。

 そうでもなければ、いつまでも透華が和の相手をし続けていることになってしまう。
 一と純とで透華を抑えている内に、智紀は和を連れて部屋へと向かうことにした。

「いらっしゃい、のどっち…」
「はい、おじゃまします」

 その途中、ようやく緊張もほぐれて和と挨拶を交わす智紀。
 こうして、直接和と会うのは夏の全国大会ぶりである。
 しかしその時は和も大会に出場中だったり、清澄や阿知賀女子の面子とも交友を深めていたりとで、こうしてゆっくりと話す機会がなかったのだ。

「あ、そうです。これ、評判のお菓子だそうでして、お口に合うといいのですが…」

 そんな事を智紀が考えていたら、和が手に持った紙袋を智紀に手渡してきた。
 中身はケーキのようである。
 受け取りながらも、智紀は複雑な気持ちだった。
 なにせ、自分が相談をする側だというのに、その相手を呼び立てている結果となってしまっている現状なのだ。
 だからせめてしっかりともてなそうと念入りに準備もしたし、前日のチャットでも……。

「ありがとう…でも気遣いは無用って言ったよね?」

 和にしっかりと伝えておいたのだ。
 用があるのはこちらなのだから、手土産不要と。
 しかし、和はというと、

「……ゆーきが」
「うん?」
「……ゆーきが、“オフ会にはタコスが一番!”と用意を」

 ……何やら聞き捨てならない事を智紀は聞いた気がした。
 もう一度紙袋の中を除く。
 中身はパッと見でケーキが入っているような箱である、のだが…。

「……ひょっとしてタコスなの、コレ?」
「……いえ、ですのでケーキを購入してそれを持ってくことで断念してもらいました」

 どうやらここに来るまで和も色々とあったようだ。
 智紀は和の苦労が目に浮かんだ。

 それと同時に昨日のチャットのことを思い出す。
 和は片岡優希に話していたようだが、それとは別に、どこから漏れたのか何故かステルスモモやnamberにも、今日の予定がバレていたのである。

「今日の夜、どうしよう…」

 智紀は今日の夜のチャットが今から不安になった。
 昨日はというと、ステルスモモは面白がって話の何から何まで聞いてくるし、namberはと言うと何故か話せば話すほど段々と不機嫌になっていくわで、大変だったのである。
 そして今日もまた昨日以上の質問攻めが来ることを憂い、智紀は独りごちた。

「…え?」

 しかし、和にも聞こえていたようで、少し驚いたように返されてしまう。
 智紀としては完全に独り言だったのだが、ここで話を終わらせるのも印象が良くないと考え、話を続けてみる。

「うぅん…のどっちも一緒だなって…」

 いつものチャットの話なのだからと、智紀は今夜のチャットが自分もそうだが和も大変だということを、簡潔に伝えた。

 意味が通じるかどうかは言ってみてから智紀は不安になったが、しかし、和は理解してくれたようだ。

「え、あの…その、、はい」
「ん…」

 よし、普通にお喋りできていると智紀は内心ホッとしていた。

「(特訓の成果出てきた…)」

 何しろこの一週間、今日の日に備えて、必死にお喋りの自主トレーニングを続けてきたのである。

 現実の和と相対する前にまずは慣らしておかなければと、透華の協力のもと、顔写真や等身大パネルを利用して努力を重ねてきたのだ。

 端から見れば異様な光景だがしかし、智紀は真剣だった。
 今日も玄関に集合する直前まで自分の部屋で練習していたくらいだ。

 お出迎えの挨拶こそ失敗したが、緊張もほぐれた今、ようやく普通に話せている事に智紀は喜んだ。

「えっと、もう少ししたら私の部屋だから…」

 来客が重なった時のことを想定し、龍門渕の屋敷に迎賓室は幾つか存在する。
 今日はその中で一番上等な部屋を使わせてもらえるのだ。

 智紀も何度か入ったことがある。
 広くて、綺麗で、間違いなく和にも気に入って貰えるだろう。

 それに比べて自分の部屋は、と智紀が考えた所で、和が足を止めた。

「あ、こちらですね」
「え?」

 智紀は戸惑った。
 迎賓室はまだ少し歩いた先にあるのだ。

 それに、ここは―――

『智紀の部屋ですの』

「こちら、ですよね?」
「―――――」

 ―――紛うことなく、智紀の部屋だった。

 透華が手ずから作ってくれたネームプレートが、いっそ愉快なほど智紀の部屋だと言う事を強調していた。

「……違うから、ここじゃないから」
「え、でも、」
「違うの」

 ネームプレートを外し、ほんの少しだけドアを開けてその中に放り込む智紀。
 いかにも怪しかったが、背に腹は代えられない。

 間違っても、こんな部屋の中を見せるわけには―――

 ドアが閉まる直前、放り込んだネームプレートが積んである山の一つのどれかにあたったのか、崩れる音がした。

 ここで放っておけばよかったのだが、しかし、一瞬だけ智紀のドアを閉める手が止まる。


 そして、その一瞬でドアの隙間から一冊の本が部屋の外に出てきてしまう。

 それを智紀は掴もうとしたが、片手にはドアノブ、もう片手には和から頂いたお土産で、対応が遅れてしまった。

 ダメ!と智紀は内心叫ぶが、それが聞こえる筈もなく、その本は和が拾い上げてしまった。

「これは、マンガ雑誌…?」

 これがもしも少年コミックや少女コミックの類だったら、集めてるの、の一言で済んだ話だった。
 これがもしも青年コミックやヤングレディースコミックの類だったら、まだ誤魔化しが効いた。
 これがもしも成人コミックやレディースコミックの類だったら、純には悪いがスケープゴートになってもらってどうにかなった。

 しかしまさか、よりにもよって。

「コミック…百合姫」
「――――」

 よりにもよって、そのマンガ雑誌は女の子同士の恋愛を取り扱ったものだったのだ。

 誤魔化し云々以前に、気まずいというレベルではない。

 さっきまでの浮かれた気持ちはどこへやら、智紀はこの場からステルスモモ宜しく消えてしまいたくなった。

「(あ、でものどっちには見えるんだったっけ…)」

 正に逃げ場なし。
 しかも追い打ちを掛けるように、またもやドアの隙間から何かが出てきてしまう。

 これ以上何を見られた所で、とも思ったが、ひらりひらりと舞うそれに智紀は見覚えがあった。

「――――」

 最悪中の最悪である。
 今度こそ何があっても取らなければならない。

 そう思い、扉から手を離し、必死になって飛びつくも、それはするりと手からすり抜けていく。

「あ…。えっと、私が取りますね」
「――だめ!」

 今度こそ声に出せたが、しかし、もうそれは和の指につままれていた。

「あ」

 そして、それ――写真――を見て、和が驚いたような声を出した。


 それは、和の写真だった。


 この一週間、智紀が練習用に毎日話しかけていた、和の顔写真だったのだ。



 智紀は、泣き崩れたくなった。


 気まずい空気、重い足取りでようやく迎賓室に着く。
 両者ともに無言。
 無理はない、と智紀は思う。

 なにせ和にしてみたら同性愛疑惑の、それも自分をそういう目で見ているような相手に招かれたようなものだ。

 智紀自身、そういう――百合――雑誌こそ買えど、そういう趣味はない。
 二次元と三次元は別腹なのである。

 だから和がいくら可愛くてもだ、決してそういう目では―――

「―――」

 ―――見惚れるほど可愛かった。
 これは確かにマスコミも騒ぐわね…、と智紀は今更ながらに感心した。

 和と視線が合う。

「―っ!」

 しかし目を逸らされてしまい、その事実に智紀は凹んだ。

 元々は進路の悩み相談だったのだが、それどころの騒ぎではなくなってきた。

「(……せめて、これ以上嫌われないようにしなくちゃ)」

 智紀がいっそ悲壮な決意を固めたその時、和がポツリと智紀の名前を読んだ。

「智紀さん」
「な、なに…?」
「覚えていますか、二年前の事?」
「え…」
「智紀さんと私が初めてチャットで出会った時のことです」

 とうとう引導を渡されてしまうのかと智紀は構えたが、しかし、和は思い出を語りはじめた。

 二年前とは言っていたが、和の口から語られる思い出は、それより前からの出会いと別れの過去の話だった。


 父は弁護士で母は検事。
 恵まれた環境といえる家庭の中、和はほんの少しの寂しさを胸に秘めていた。
 和が小学校に上がってからしばらくして、両親と食事を摂る機会が極端に少なくなった。
 それは、和が一人で留守番出来るようになったからである。
 それまでは、父か母のどちらかは必ず一緒にいてくれたのだが、それからは家に帰っても誰も居ないのが当たり前になってしまった。

 寂しい、とは言えなかった。

 和は、両親の仕事が大変なものだということを、子供ながらに理解していたのだ。
 だから、へいきへっちゃらとまではいかなくても。
 せめて、家に帰るまでは寂しくないよう、和なりに頑張った。

 同級生で友だちを作ったり、ある時を境に麻雀も覚え、知り合った気のいいおじいさんやおばあさんと卓を囲んだりと、楽しく過ごしていたのだ。

 しかし、それらは転校という形で失われることとなる。

 母の仕事は二、三年で転属になるのだと、和はその時初めて知った。

 お別れの日に、多くのクラスメイトが自分のために泣いてくれるのを見て、和は泣いた。

 寂しくて。
 悲しくて。

 そして、またこれが次でも繰り返されるのかと、未来を案じて、和は泣き続けた。

 ここから和は友達付き合いを避けるようになる。

 東京に転校してすぐの頃はやはり寂しくて、転校生をもの珍しがって集まってきた何人かと交友を深めたりもした。
 しかし、六年生の先輩の卒業式を迎えた時を境に、それまでの友達と距離を置くようになった。

 それは彼女たちの“自分たちの卒業式の話”に、自分は入れないとわかってしまったから。
 残りもう一年も居ない自分には、この学校で卒業式を迎えることが出来ないから。

 代わりと言ってはなんだが、マイノリティな服飾にハマっていったのもこの頃からである。
 ヒラッヒラでフリッフリ。
 どうせ転校するんだからと、憚ることなく和は趣味のロリータ・ファッションを着るようになったのだ。

 しかし皮肉かな、これこそが、次の転校先の奈良で友達をつくるきっかけとなったのだ。

「やぁ、転校生さん」
「今日もまったまたフリフリだね―。それ東京で流行ってんの?」

 高鴨穏乃と新子憧。
 この二人との出会いは、和のそれからの学校生活を色鮮やかなものへと変えていった。

 慣れない外での遊び。
 こども麻雀教室。
 松実玄や赤土晴絵との出会い。

 毎日、日が暮れるまで笑い、遊んだ。

 春は花見をし、夏は川で遊び、誰かの誕生日会に参加するのももう何年ぶりだったか。

 毎日が充実していて、和の小学校生活の中で一番楽しかった日々だった。


 そうした中で、ようやく和は誰かといる事がこんなに楽しいものだと、思い出す事が出来たのだ。


 だから、小学校を卒業してからの話が出た時も、いつかとは違い、和は話に乗ることが出来た。

「あ…じゃあ和…来年は阿知賀に?」
「そうですね…そうしたいです」

 阿知賀の制服を発端とした、他愛もない話。
 再来年の事を考えると、少しだけ寂しく、だけど来年だけでもと返す和。

 穏乃が呑気な顔で「ここの部室好きだし」と、なんとも彼女らしい理由で阿知賀への進学を決めるのを見て、和の頬がゆるむ。
 そう、例えまたお別れの時が来ても、それまでは、せめてそれまでは一緒に―――

「………あたしは阿太中かな…」
「―――え?」

 憧はこの先も麻雀を続けたいと思っていた。
 それは和も穏乃も同じである。

 しかし、憧のそれは、遊びでの麻雀ではなく、本気の物だった。

 この奈良で麻雀といえば晩成高校である。
 そして、阿知賀には部室こそあれど、もう麻雀部は存在していなかった。

「…そっか。でも、たまにはあそぼうな!」
「そりゃもう!」

 強がってはいたが、それでも元気に腕を組み合う穏乃と憧。
 その光景を見ながら、和は言い様のない不安に駆られていた。

 何かが、少しずつ崩れていっているような、そんな気がしたのだ。


 次の崩壊は、それから間髪をいれずだった。

 こども麻雀教室の先生をしていた晴絵が福岡の実業団にスカウトされたのである。


 しばらくして、晴絵の壮行会という名の、お別れ会が開かれた。


 和にとって、これが初めての、自分以外のお別れ会だった。


 そして、久しぶりの涙だった。


 恩師である晴絵がいなくなってしまう悲しみと、こども麻雀教室が無くなる悲しみに、和は泣いた。


 阿知賀へと進学し、憧と別れ、穏乃こそ一緒だったけれどクラスは別々。
 新しい生活と言えば聞こえはいいが、和にとってはまた昔のように戻ったような気がしていた。

 中学生になってすぐの頃は、まだ春休みまでと同じように、放課後に穏乃や憧と遊んでいられた。
 しかし程なくして憧が麻雀部に入部し、その機会も少なくなり、そして穏乃とも……。

『んー…いや、いいよいーよ。和と違うクラスになった時から覚悟はしてたよ』

 来年の春にはもういないかも、と告げてから距離が開いていた。

 ドライに聞こえる穏乃の言葉は、寂しさの裏返しと言う事に和は気づいていたので、何も返さなかった。

 そして、また一人きりの時間を過ごし、奈良から長野へと転校した。


 ネット麻雀を始めたのはこの頃からである。


 この時、また一人の方が寂しくないとの考えに戻りつつあったのだが、それでも人と関わる温もりが忘れられず、せめてもと思ったのがきっかけだった。

 今まで麻雀のコンピューターゲームこそ経験はあれど、ネットを通じてのそれは全くの未経験。
 和が苦労したのはチャットだった。
 匿名故に、言葉遣いもマナーもあったものではないと噂には聞いていたが、実際のそれは予想を上回っていた。

 特に、ネット麻雀の初心者だからと入った『初心者育成部屋』の面子がまた酷かったのである。

player1:いや、強すぎでしょのどっちさん!!
player2:何ですか、プロですか?
のどっち:いえ、違います…
player1:いやだって、自分達フルボッコでしたし!!
player2:ここ初心者育成部屋ですよ?わかってます?
のどっち:はい、ですからそのつもりで入室しまして、今から牌譜の見直しを……
player1:何?先生とか?
player2:いやいや、教えられるために居るわけじゃないですから

 一局打って、和が圧勝した結果に対して文句をいう他の住人。
 初心者育成部屋とは名ばかり。
 身内だけで打って、やれ勝ったやれ負けたと盛り上がりたいだけの部屋だったのである。

 だというのにフレンド限定とも身内限定とも部屋コメントに一言も書いていない、そんなどうしようもない部屋で、和は困り果てていた。

 こんな部屋すぐに抜けてしまえばいいのだが、しかしネット麻雀初心者の和は抜けるタイミングがわからず、言われたい放題。
 例えチャット越しといえど、自分に向けられる悪意に対して、いよいよ心折れそうになった時―――


 紫炎姫さんが入室しました

紫炎姫:使えない子ノシ

 ―――智紀が入室してきたのだ。

 それから数分後、元々いた部屋主とその連れを煽りに煽って追い出した智紀と、ただただそれを見ていた和だけが残った。

 そして、

紫炎姫:ああ言うのに丁寧に相手してても付け上がるだけだから
のどっち:……あの、そう言われましても、私、そういうのが苦手でして…
紫炎姫:苦手でもやらなきゃ。馬鹿はどこにだっているんだし

 和は麻雀を教えることを交換条件にと、智紀にネットでの振舞い方を教えてもらっていた。
 聞くと、智紀はネット麻雀こそ初心者だったが、ネットゲーム自体は大ベテランだったのだ。

のどっち:……ですけど、どう言えばいいのか
紫炎姫:んー
紫炎姫:取り合えず出会い頭に『よう、ゴミクズ共!!』とでも言えば間違いないかも

 若干、偏りがあるような気がしないでもなかったが、しかし和は素直に信じた。
 出会い頭の挨拶については、しばらくチャレンジしたものの、やはり和には向いてないと断念したのは別の話である。

 それから、智紀と和は毎日ネットで顔を合わせるようになった。

 智紀は麻雀を教えてもらうため、そして和は麻雀を教えるため。


 和にとって、智紀は長野に来て初めての友達だった。


 和の話をそこまでを聞いて、智紀もまた二年前のことを思い出していた。

 そういえば、そうだったかもしれない。
 麻雀特待生として龍門渕に連れて来られたものの、智紀は当時全くの麻雀未経験者だったのだ。
 もしもあの時に和と出会っていなかったらと思うと、正直空恐ろしくもある。


 屋敷について早々に、透華は智紀に客室の一つと一台のパソコンを用意した。
 とにもかくにも、まずは基本中の基本から覚えなければならないと言われていたので、指南書やら専属の講師でも呼んで教えてもらうのかと思っていた智紀は面食らった。

「……これで何をしろと?」
「貴女はネットゲームが得意…!即ち、好きこそものの上手なれ!これが最良のマニュアルでしてよ!!」
「………」

 おい待てそこのアホ毛お嬢と文句を言ってもいい場面ではあったがしかし、ここで機嫌を損ねると屋敷から追い出されてしまうやもしれない、と智紀は素直に従うことにした。
 決して、ネット麻雀用にと与えられたパソコンが当時最高クラスのスペックだったからと、釣られたわけではなかった。なかったのだ。

 そして、どうせやるからには全力でとの心意気で智紀はパソコンに向かった。

「……黒は基本よね」

 それは主にアバターの作成に掛ける情熱ではあったのだが。
 しかし麻雀ゲームの筈なのに好みの炎系やダークで瘴気な素材が揃っていたのだから仕方ない。

 そして、作成開始からおおよそ三時間をも費やし、アバターは出来上がった。

 イメージは漆黒の墮天使。

 十二天使と並ぶだけの天使でありながら、人を守るために堕天した存在。
 純白だったその羽根は漆黒に―――
 神の元へもと飛んで行けたその翼は羽撃くことも出来ない片翼へと―――
 しかし彼女は失いつつも(略

 纏う紫のオーラは、かつて彼女が守りし人の魂の炎で(略

 紫炎(しえん)の姫(ひめ)は、今はそのまま紫炎姫(しえんき)と名乗っている。

 ……………
 なお、アバターの設定に二時間半、アバター本体の作成に三十分の配分だった模様。

 この時、沢村智紀、中三の冬。
 まだまだ厨二の病の完治は遠かった。


 さておき、自信作も出来た所で、智紀はいかにもな初心者部屋を検索し始めた。
 何しろ麻雀についてなにもわからないのだ。
 まずは、適当な所に入り、どういうものなのかを触ってみようと思ったのだ。
 しかし、

「……ここも?」

 入るなりキック、キック、キックと智紀は追い出されてばかりだった。
 随分排他的…と智紀は思ったが、しかしそれは仕方のない事だったのである。

 なにせ智紀のアバターに使用されている装備の大半が月例イベントの上位ランカーへと渡される景品なのだ。
 そんなのを付けて入室すれば「上位が荒らしに来た」と思われても文句の一つも言えない。

 知らぬは当の智紀ばかり。
 もしも初心者が作成した部屋だったならば、気づかずにいられたかもしれなかったが、残念なことに、智紀の入った部屋は名前に反して中級者が部屋主をしている部屋ばかりだったのだ。

 しかし、これでは埒があかないと智紀は思った。
 麻雀をゲームで覚えようとしても、まず部屋に入れなければ、それすらも出来ないのだ。

「……次蹴られたら、いっそ自分で部屋作成しよう」

 でもどうせ蹴られるんだろうな、と智紀は“初心者”でワード検索を行う。
 そして、パッと目についたその部屋に、そのまま入り込んだ。

『初心者育成部屋』

 まさかそこで、これからを変える出会いがあるだなんて、その時の智紀は考えてもいなかった。


 そこからは和の語る通りである。
 入室したなり蹴られる事はなかったが、なにやら入るなりゲスいやり取りの真っ最中。

紫炎姫:使えない子ノシ

 で、目に余ったので、ついつい煽って追い出してしまったのだ。
 智紀が小学校に上る前から鍛えた煽りスキルは伊達ではない。

 そして全くの気紛れで、苛められていたプレイヤーに声をかけてみたのだが…。

のどっち:あの、ありがとうございました

 何とも素直そうな良い子っぽかったので、どうせ助けたんだからと智紀は麻雀の教えを請うてみた。
 智紀がログを読む限り、この子が他の面子に麻雀で圧勝したから問題になっていたようである。

 するとその子は、智紀の提案を快く了承してくれ、それこそ何から何まで教えてくれたのだ。
 まるで、こども麻雀教室で授業を受けているみたいだな、と智紀はその時思った。

 そして、一日だけでは到底教えきれないとなると、フレンド登録をし、また次の日にと。
 次の日からは智紀が部屋を作成し、のどっちがそれに招待されて教えるパターンになっていき。
 その内、のどっちも交じっての実践をしたり、それも慣れたらゲーム中のランクアップに挑戦したりと、智紀は本来の目的を忘れて、しかし短期間の中で着実に麻雀の腕を上達させていった。

 それは勿論、ネット麻雀から離れても―――

「ふむ。やはり私の見立てに間違いなし、ですわね!」

 屋敷に来てから一月も経った頃、どの程度まで打てるようになったかと智紀に対しての抜き打ち試験が行われた。

 結果は三位。

 明らかに力を抜いている風に見えた相手に対してのこの結果に、智紀は悔しい思いをしたのだが、周囲の反応はその結果を攻めるものではなく、その逆であった。

 麻雀をはじめて一ヶ月で、しかも独学でここまで打てるだなんて凄いとの言葉を聞いて、ようやく智紀は自分の成長に気がついた。

 それを楽しく思い、
 それを嬉しく思い、

 その日の夜、智紀は麻雀の先生こと、のどっちに上機嫌で報告をした。

 おかげ様でノルマクリア出来そう、ありがとう、と。


 たしかその時、のどっちはどのように返しただろうか。


「いつの日だったか、智紀さんが私に対してありがとうって言ってくれた時がありましたよね」

 丁度、和がその時の事を語り始める。
 智紀はもう試験の合格ラインをクリア出来た事と、和に対してお礼を言ったぐらいの記憶しか残っていなかったのだが、和はしっかり覚えていたようだ。

 どうやら和は頭だけではなく、記憶力もずば抜けているらしい。
 そんな、彼女には取るに足らない、ほんの日常の一コマも覚えているだなんて―――

「私、あの時寂しかったんです」
「――え?」
「あぁ、これでこの人も私から離れていってしまうんだなって」

 和の言葉に驚く智紀。
 離れるだなんて、そんな、和と出会ってから一度たりとも考えたことがない。

 智紀にとって和――のどっち――は、麻雀の先生で、ちょっと目を話せない存在で、友達なのだ。
 後半二つは智紀自身が勝手に思っている事だとは、勿論自覚している。

 しかし、和がそんなことを思っていただなんて…。
 智紀は、驚きながらも、「離れて行かないで欲しかったの…?」と内心喜び、そしてそんな自分をキモがった。

「でも、智紀さんは言ってくれました」

 何を言ったかなんて正直覚えてはいない。
 しかし、自分なら、間違いなくこういった筈だと智紀は呟く。

「コンゴトモヨロシク…」
「…覚えててくれたんですね!」

 嬉しそうな和に笑顔で返しながら、智紀は内心謝り倒していた。

 ゲームの台詞でごめんなさい…。

 当時の智紀にとって、仲間にかける挨拶といったら、コレだったのだ。
 ちなみに初めて衣と応対した時もこの台詞を引用し、そして麻雀でフルボッコにされていたりする。

「ネット麻雀なら、紫炎姫さん――智紀さん――と、ずっと一緒にいれるんだなって、嬉しかったんです」
「………」

 ずっと一緒とまで言った覚えはなかったが、しかし智紀は黙っていた。
 その後、なんだかんだこうして二年間、ほぼ毎日の間、ネット麻雀で交流を深めてきたのだ。

 和が同級生の片岡優希に出会い、高遠原中学の麻雀部に入部してからも、
 智紀が龍門渕高校に進学し、県予選を突破し、全国大会へと出場しても、
 同じ年に和が個人戦インターミドル王者になっても、

 いつからか、ステルスモモがこの部屋のレギュラーメンバーになってからも、

 ずっと、ずっと和と一緒に麻雀をし、そしてチャットをしてきたのだ。

 確かに、間違ってないなと智紀は内心納得した。
 それにしても、だ。

「あ、ごめんなさい…。私の方がずっと喋ってしまって…」

 和が自分のことを必要だと思っていてくれていた事実に、智紀はどうしようもなく浮かれていた。

 嬉しいと、素直にそう思う。

 和は智紀の事を長野に来てからの初めての友達と言ったが、智紀も同じなのだ。

 龍門渕の皆は今でこそ友達以上に家族のような関係ではあるが、来た当初は全くそんなふうに思っていなかった。

 今までと全く違う生活。
 知らない他人との生活。

 そんな中で、のどっち――和――だけが、当時の智紀にとって唯一の癒しだったのだ。

「うぅん…。のどっちの気持ちが聞けて嬉しい…」
「智紀さん…」
「これからも、ずっとよろしく…」
「――っ、はい!」

 あぁ、自分は何を心配していたのだろうか。

 色々とありはしたが、今日はのどっちとより友情を深めることが出来る、最高の日じゃないか。


 智紀は、幸せだった。



「紅茶…お砂糖2つで良かった…?」
「あ、はい…。でも、どうして?」
「前、紅茶の話をしてた時言ってたから…」
「ぁ…」

 紅茶を飲みながらチャットの昔話に話を咲かせたりと、智紀と和は優雅なひとときを過ごしていた。
 勿論、紅茶の銘柄も和が好きなものをしっかりと用意しておいてある。
 いつかの話題がどこで役立つかわからないものだ。

「ふふ、そういえば、最近は麻雀より、チャットの割合の方が多いですよね」
「確かに…」
「全国大会を機に、随分と人も増えたせいもあるんでしょうが…」

 そうなのである。
 最近は、どこぞで見たようなのが次々と訪れてくるのだ。

 それこそ、先の麻雀プロやら、アナウンサー、果ては…。

「…この間のアレは、本物だと思う?」
「…咲さんのお姉さんの事ですよね」

 あの宮永照までもが現れたのだ。
 しかし、智紀にはアレが本人だとは思えなかった。
 何せ――


 てる☆てるさんが入室しました

てる☆てる:やっほー、オジャマするね―☆彡


「――騙りだとしたら相当質が悪いわよね」
「……ですけど、続いて入室してきた人達が」


 九月愛さんが入室しました
 大星たんさんが入室しました

てる☆てる:
大星たん:あ、テルー発見!
九月愛:おい、妹が遊びに来るのは今日だろう。何をしている
てる☆てる:
九月愛:随分と楽しみにしてたんだろう、早く迎えに行ってやれ
てる☆てる:
てる☆てる:緊張して胃が痛い
九月愛:だからと言ってこんな所で現実逃避してるんじゃない
大星たん:テルー大丈夫?
大星たん:それなら明日のおやつは私が代わりn
てる☆てる:それはダメ
九月愛:
紫炎姫:
のどっち:


「……あの日、連休を利用して咲さんが東京に出発した日でした」
「……なのよね」

 宮永咲の目的は全国大会で姉と仲直りする事だとは、いつか聞いたことがある。
 そして、見事それは果たされたとも、チームメイトである和からチャットで教えてもらったのだが…

「……まだまだしこりはありそうね」
「……咲さんは本当に嬉しそうだったんですけどね」

 色々とあるようである。
 智紀は、宮永家の事情に興味はあったが、好奇心猫を殺すとの言葉もあるのでそれ以上はツッコまなかった。
 それに、咲の方に何かあれば、和が教えてくれるのだ。

 なにせ、咲と和は親友の仲なのだから。

「でも、のどっち」
「?」
「あの子がお姉ちゃんの話ばっかりで、少し嫉妬とかは…」
「あ、それはないです」

 言い切られてしまった。
 それを聞いて、自分が情けなくなる智紀。
 実は智紀の方こそ、和が咲との学校生活を話す度に内心嫉妬していたのだ。

「咲さんとは友達ですので」

 つまりそれは、誰とどれだけ仲良くしていようが、その友情は堅いものだと信じているのだろう。
 先の和の話では、友との別れを怖がる節が強く聞こえたが、今は違うのだ。

 阿知賀女子との再会した事による影響が大きいのは間違いないだろう。

 友達だと思う限り、
 また会いたいと願う限り、

 その友情は決して変わらないのだと、和は、強くなる事が出来た。

 だというのに――

「そういえば宮永照、受験生なのに大丈夫なの…?」

 強引だとわかっていても、智紀は話を逸らした。
 ――これ以上話していると自分の器の小ささが浮き彫りになるような気がしてならなかったのだ。

「お姉さんなら、麻雀でならどこでも推薦で行けると思いますよ」
「あぁ…」
「プロからも誘いが来てると聞きますし」

 しかし、ものの一会話で終了した。
 確かに白糸台最強、ひいては日本でも最強クラスの高校生雀士なのだ。
 そんな彼女の進路だなんて心配するまでも――――

「あ゛」
「…智紀さん?」
「えぇっとね、のどっち…」

 ここで、ようやく智紀は今日の本題を思い出した。

 そうだ、そうだったのだ。
 すっかりと、和と会うことが目的のようになってしまっていたが、違うのだ。

 今日は元々―――

「私のこれからのこと、話してもいい…?」


 智紀の進路の悩み相談がメインだったのである。



 話を切り出して、まず卒業してからの明確なヴィジョンはなく、このまま流れで大学に進学するか、それともいっそメイドを専業としてしまうか、はたまた、その他の選択肢をこれから探せばいいものかと、智紀は和に語った。
 和はそれをまるで我が身のことのように真摯な態度で聞いてくれていた。
 それだけではない、もしもこのお屋敷から出て行くことがあるのならば賃貸物件が必要になってくるなど、具体的に話を展開させてくれたのだ。

 やはりこの子に相談して正解だった。
 智紀は心の底からそう思った。

 ただ気のせいか、和の提案は、まず最初の一年はというフレーズが多用されていると智紀は感じた。
 しかし、何事も初めが肝心との気持ちの表れなのだろうと、智紀は解釈した

 和の話は次第に和自身の進路についてをも織り交ぜる。

 それを聞きながら、一つ年下なのに、もうしっかりと考えているのだな、と智紀は感心するばかりだった。
 ただ、それでもまだ将来のヴィジョンに不明瞭な所が幾つかあるらしく、和が口篭る時もあった。

 少し恥ずかし気に智紀の方を見る和に対し、和も同じように悩む時があるのだと、少し嬉しくなり、思わず呟く。

「一緒…」
「――はいっ!」

 和はそれを聞いて、はにかんだような、可愛らしい笑顔を智紀に向けてくれた。

 正直、何も考えていない自分と一緒くたにされたのだから怒ってもいいところよね…と、智紀は思ったのだが、黙っておいた。

 きっと、気遣ってくれたのだろう。
 本当に優しい子だ。

 そして、それからも、お悩み相談にしては、やけに具体的な進路相談は続いた。

 智紀は和に様々なことを話した。

 この二年間、チェインバーメイドとして務めてきて、部屋の整備や掃除の腕には自信をつけた事。
 透華が本気でメイドを続けるのならと、スティルルーム(食品室)メイドやキッチンメイドも薦めてくれている事。
 最近、紅茶を淹れるのが上手くなった事。
 最近、洋菓子の作り方をハギヨシに教えてもらっている事。

 その全てを、和は笑顔で聞いてくれ、そして智紀が語り終えた時には、こうも言ってくれた。

「智紀さんはいいお嫁さんになれますね」

 その言葉を聞いた時、智紀は持っていたティーカップを落としそうになった。
 いいお嫁さんだなんて自分に一番似つかわしくないと思っている言葉なのだ。

 なので、智紀は即座に否定する。

「それはない…」
「そんなことはないですよ、智紀さんは…」
「……そもそもに結婚できない」

 そう、そもそもにして結婚できなければお嫁さんにだってなれはしない。
 何を基準にか和は自分のことを高く評価してくれているみたいだが、世の男性たちはまた別であろう。

 一生涯独身だっていいじゃない、喪女だもの。

 智紀がいっそ自虐的にそんな事を考えていると、しばらく何も返さず――返せず――に、黙りこくっていた和が、ここでようやくまた言葉を返してきた。

「大丈夫ですよ」

 一体何が大丈夫なのだろうか。
 智紀は少し考えたが、和なりのフォローなのだろうと考えた。

 それに、こんな喪女みたいな会話なんて、和とするものではない。
 こういう会話はもっと別の人とチャット上でするものなのだから。

 智紀は別の話に切り替える事にした。
 結婚だ何だのは進路相談の範疇を超えている、なのでまた話を戻そうとし―――

「そういえばiPS細胞というもので同性の間でも子供が出来るらしいです」

 ―――完全に脱線した。

 そして話は冒頭へと戻る。


 智紀の指に絡みついていた和の指が離れる。
 開放された右手はしかし、未だ囚われているかのように動かない。

 まるで指から伝わった和の熱が、右手を、体全体を蕩けさせたようである。

 熱い、と智紀は思った。

 充分に効いた部屋の空調では冷ませない程に、智紀の体は、頬は、熱く紅くなり、じんわりと汗が滲み始める。

「(あ、手汗びちゃびちゃ…)」

 気持ち悪がられてないだろうか。
 熱に浮かされた智紀の頭は、しかし、未だに和に対する気遣いと、それに勝る自虐的思考を考えていた。

 確かハンカチを持っていた筈だと、智紀はポケットから取り出そうとするが、しかしその右手はまた絡み取られてしまう。

「智紀さん…」

 いつの間にか、隣の座席に移動していた和が指を絡めながら、智紀の瞳を覗きこんでくる。
 その端正な顔と綺麗な瞳に智紀は一瞬見惚れるも、しかしそれよりも、恥ずかしくなった。

 こんな至近距離で顔を合わせているのだ。
 智紀もまた和に見られているのだと思うと、恥ずかしくて、智紀は顔を逸らそうとする。

 しかし、それは出来ない。

「……のど、っち…?」
「和って、呼んでください…」

 和の右手が智紀の左頬に触れる。
 ただ、それだけの事で、智紀はもう何も動くことが出来なくなっていた。

「のど、か…」
「はい、智紀さん…」

 言った智紀よりも照れて、しかし嬉しそうに微笑む和。
 そうか、確かに一方的に名前呼びだったな、と今更ながらに思うが、

 それどころではない。

 なにがどうして、こんな状況になっているのか、改めて、智紀にはサッパリだった。

 もしかすると人付き合いそのものが乏しい自分が知らないだけで、もしかしてこれが一般的な友情なのかもしれないと智紀は一瞬考える。

 しかし、どう考えてもこれは一般的な友情と言うには、その、何だ、百合百合しい…。
 だが待て、去年や今年の全国大会に出場していた選手たちのことを考えるとこれくらいは普通なのかも――

「最近、私ずっと嫉妬していたんですよ…」
「え…」
「南場さんと、個人的に仲良くしてるって聞いてから」

 ……確かに、最近は南場ことnamber、南浦数絵とはチャット以外でも仲は良い。
 四校合宿のお土産を送るからと、お互いに名乗り合い、そしてメールアドレスまで交換した。

 しかし、それだけである。

「えっと…」
「だから、大事な話があるって言ってくれた時、すごく嬉しかったです」

 ここでようやく、智紀は違和感を感じた。
 どうにもこうにも、和と話が食い違っているような気がしてならないのだ。

 そして、どうして和の顔が近づいてきているのだろうと、智紀は不思議でならなかった。

「私だけの片思いじゃなかったんだなって」

 それには智紀も同意する。
 友情を感じていたのは自分からだけではないとわかって、すごく嬉しかった。

 しかし、どうしてだろう、和の言っていることは、まるで―――

「智紀さん、大好きです」

 ―――愛の告白にしか、聞こえなかった。


 智紀はその告白に答えることは出来なかった。


 それは、ふわり、と触れた唇が智紀の答えを奪っていったからであり、

「智紀さん…」
「ぁ…」

 物欲しげなその瞳が応えだと、和が受け取ったからである。


 ちなみに、天江衣が「衣もののかと遊ぶー!」と言って部屋に踏み込んでくるまで残り五分。
 それ幸いと龍門渕透華が続き、そしてそれを追って国広一、井上純、萩野歩が部屋に入るまで残り五分。


のどっち:そういう訳で、智紀さんと正式にお付き合いすることになりました
namber:
ステルスモモ:おぉ!

 チャットをなるべく見ないようにと、智紀は手元のプリントを見ていた。
 それは学校から配布された進路希望調査票。

namber>紫炎姫:どういう事ですか!?沢村さん、沢村さん!?
ステルスモモ:結婚式には呼んでほしいっす
のどっち:それまでにパスポート取得しておいてくださいね

 その第一志望・第一希望欄には、智紀の筆跡ではない字で「お嫁さん」と書いてあった。


そんなこんなな話
………
別所に投稿したものの逆輸入をば

こんな結末もきっとありえるのやらそうでないのやら

  • お久ー、そして乙 あああ南浦っぽォ…w またはっちゃけた楽しい話もみたいです -- 名無しさん (2013-09-14 15:24:15)
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最終更新:2013年09月14日 15:24