趙崇凝
?-905
唐末の官人。御史大夫。
韓偓の師にあたり、官位は武泰軍節度、黔中監察処置等使、光禄大夫、検校尚書左僕射、黔州刺史、御史大夫、上柱国に登り、天水県開国子に封じられ、食邑五百戸を賜ったが、韓偓は昭宗に宰相に推薦したものの、
崔胤の妨害のため果たせなかった。
裴枢・
裴贄と親しかったため、裴枢が
朱全忠と対立すると連座し、天祐二年(905)五月に曹州司戸に左遷され、さらに同年六月、白馬の禍で
朱全忠に殺害された。
列伝・史料
『新唐書』
巻一百八十三 列伝第一百八 韓偓
『旧唐書』巻二十上 本紀第二十上 光化三年七月丁亥朔条
『旧唐書』巻二十下 本紀第二十下 天祐二年六月戊子朔
外部リンク
最終更新:2023年08月01日 23:34