朱全忠

朱全忠

852-912
唐末の群雄、五代後梁初代皇帝(在位907-912)。名は朱温。唐より全忠の名を賜わる。907年晃と改名。神武元聖皇帝。後梁の太祖。父は朱誠、母王氏。太祖はその第3子。黄巣の反乱軍に投じのち唐朝にくだって宣武節度使から累進し901年には梁王に進封された。904年昭宗を殺し、哀帝をたて譲位を迫って907年帝位につき大梁と号し、開平と改元した。宣武堂書記太府卿敬翔を知崇政院事として軍民政を委任し、宣武節度副使朱友文を開封手判建昌院事として財政を掌握させた。しかし河東の李克用、鳳翔の李茂貞、淮南の楊行密は天祐の、また剣南の王建は天復の年号を用いて梁朝を奉ぜず、江南諸地方も名目的な服従であったから、その支配領域は黄河中・下流域にかぎられた。この後、楚王馬殷の攻撃に敗れ、潞州包囲も晋の李存勗に打破され、「吾児豚犬のみ」の声を発するにいたった。ついで淮南を撃って勝たず、忠武節度使劉知遠を李茂貞に走らせ、趙王(成徳)王鎔を討って、かえって趙を結合させた。うちつづく失敗は彼を焦燥にかりたて、小過でも功臣宿将を殺すことが多く、また荒淫であったから、衆心はますます動揺離反した。12年鎮定の王鎔を討ち、晋遊騎にかき乱され、魏州に退き、憤と病をもってようやく洛陽に帰った。かくて次仮子博王朱友文を東都より召したが、次子郢王朱友珪にはかられ殺された。太祖は即位前唐朝下にあって宦官を一掃し、また清流を誇った貴族官僚を黄河の濁流に投じ、新しい宋代への道を開き、即位後もおおむね農耕をすすめ、税役の軽減につとめたから、その没後もなお王朝は10年の命脈を保つことができた。夫人は元貞皇后張氏(末帝の母)。

参考文献

『アジア歴史事典6』(平凡社,1960年)

外部リンク

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』朱全忠
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%85%A8%E5%BF%A0

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最終更新:2023年05月21日 01:15
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