崔胤

崔胤 さいいん

854-904
唐末の宰相(在任893-895、895-896、896-899、900-901、903-904)。唐代に「七姓十家」と称された名門・清河崔氏の分家・南祖崔氏の出。宣宗の宰相崔慎由の子。字は垂休。進士に及第、給事中、中書舎人、御史中丞などを歴任した。当時唐朝は黄巣の乱のあとをうけて全く無力化し、他方諸藩鎮は天子を擁して覇を唱えようと、しのぎをけずっていた。昭宗朝内部では、官僚と宦官がそれぞれ諸藩鎮とむすんで朋党の争いをくりかえしていた。崔胤は崔昭緯の推薦で同中書門下平章事となったが、政情が鳳翔節度使李茂貞に不利になると、これと結んだ崔昭緯は殺され、崔胤も武安節度使に左遷された。崔胤は宣武軍節度使の朱全忠に助けを求め、また天子を洛陽に迎えるようすすめた。同平章事に復任し、度支、塩鉄、戸部の三司使を兼ね、政敵王搏および宦官宋道弼景務修らを殺した。四度宰相となったから、「崔四入」といわれた。宦官劉季述が昭宗を東宮内に幽閉して徳王をたてると、朱全忠の出兵を要請し、劉季述が殺されて、昭宗は復位したが、宦官韓全誨らは帝を擁して鳳翔にのがれ、李茂貞をたよった。西進した朱全忠は李茂貞を破り、韓全誨を殺して李茂貞と和睦し、帝は朱軍に守られて帰京し、崔胤は百官をひきいてこれを迎えた。その後宦官を皆殺しにして宦官の勢力は壊滅、天祐元年(904)、崔胤は朱全忠の唐朝奪取をおそれて禁軍増強を策したが、朱全忠によって急襲されて崔胤とその一党は殺され、昭宗ら長安の民を強制的に洛陽に移住させた。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。

列伝

『新唐書』巻二百二十三下 列伝第一百四十八下 姦臣下 崔胤
『旧唐書』巻一百七十七 列伝第一百二十七 崔慎由 慎由子胤

参考文献

『アジア歴史事典』4(平凡社,1960)

外部リンク

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 崔胤
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%94%E8%83%A4

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最終更新:2024年09月17日 11:07
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