巻一百八十三 列伝第一百八

唐書巻一百八十三

列伝第一百八

畢諴 崔彦昭 劉鄴 陸扆 鄭綮 朱朴 附 孫偓 兄儲 韓偓 兄儀



  畢諴は、字は存之で、黄門監の畢構の従孫である。畢構の弟の畢栩は、畢浚を生み、畢浚は畢勻を生み、代々官位につけず、塩商となっていた。畢勻は畢諴を生んだが、早くに父を亡くした。夜は薪を燃やして読書し、母は疲れるのを憐れんで、火を奪って休ませたが、休むことをよしとせず、遂に経史に通じ、文章を巧みにした。性格は正直で謹厳で、みだりに人と交わることはなかった。

  大和年間(827-835)、進士・書判抜萃科に推挙され、合格した。忠武の杜悰の幕府の下僚に任命された。杜悰は度支を掌握しており、上表して巡官となり、また淮南に任命され、京師に入って侍御史に任命された。李徳裕ははじめ杜悰とともに宰相となって政務にあたったが、不仲となり、そのため杜悰は剣南東川節度使に出された。そのため下僚であった吏は慮ったが、畢諴は餞すること平日のようであったから、李徳裕に嫌われ、京師から出されて慈州刺史となった。累進して駕部員外郎・倉部郎中となった。その昔、権勢ある家の師弟がなる職であったから、倉部・駕部の二曹は官吏によって恥辱の任官であったが、畢諴は揚々と名誉ある官職であるかのように、異議を言うことはなかった。宰相はこれを知って、職方郎中兼侍御史知雑事に任じ、召還して翰林に入れて学士とした。

  党項(タングート)が河西に侵入したから、宣宗は試しに辺境防衛の事を諮問してみると、畢諴は古今の例をあげて、羌を打ち破る方法をすべて列挙し、帝は喜んで「私がまさに優れた将軍を選ぼうとした時、たとえ廉頗・李牧といった古代の名将が我が禁軍にいたとしても、卿は朕のために行ってもらうだろう」と言い、畢諴は従って、そこで刑部侍郎を拝命し、出されて邠寧節度使・河西供軍安撫使となった。畢諴が軍に到着すると、吏を派遣して懐柔のため説諭し、羌人は皆大人しく従った。当時、辺境を守る兵士は常に調などの税で窮乏しているのに苦しんでいたから、畢諴は兵士を募って屯田を設置し、毎年穀物三十万斛を収め、度支の経費を省き、詔書によってお褒めの言葉をいただいた。にわかに昭義軍節度使、また河東節度使に遷った。河東は最も胡に近く、杷頭峰七十烽を回復し、謹んで敵を侍らし、寇はあえて侵入しなかった。

  懿宗が即位すると、宣武節度使に遷り、召還されて戸部尚書、判度支となった。しばらくもしないうちに礼部尚書同中書門下平章事(宰相)となった。一年後、普段から病であったと称し、兵部尚書に改められて、宰相は罷免された。巡って平章事と河中節度使を兼任した。卒し、年六十二歳であった。

  畢諴は行政手腕が非常に優れ、昇進すると、得た俸禄は一族の貧しい者を扶養し、避難するところがなかった。それより以前、畢諴は宣宗に知られ、宰相となる人物と認められた。しかし令狐綯が畢諴を嫌い、邠寧からおよそ三度転出させられ、還ることができなかった。畢諴は結びつきを得ようと思い、太原に到ると、見目美しい女性を探し求め着飾らせて献じさせた。しかし令狐綯は「太原(畢諴)は私に分けるものがなかったが、今これを餌として与えてくるのは、我が一族を破滅させようとしているのだ」と言って受けなかった。使者は邸宅に留まったが、畢諴もまた女性を手放した。太医の李玄伯なる者がいて、帝を喜ばせようと、銭七十万をもって招き、夫婦で日々自ら食事を与え、その歓心を得ると、そこで女性を帝に献じ、寵愛甚だしくことは後宮に冠たるほどであった。李玄伯もまた丹薬を進上し、帝はこれを服用したが、疽(はれもの)が背中に出来た。懿宗が即位すると、李玄伯および方士の王岳・虞芝らを収容して、ともに誅殺した。


  崔彦昭は、字は思文で、その先祖は清河の人である。広く儒学の通じ、進士に及第した。しばしば藩鎮の帥がその下僚に任じようと奏上し、事務処理能力は非常に優れており、至る所で最も優れた成績をおさめた。累進して戸部侍郎となった。河陽節度使から河東節度使に遷った。これより以前、沙陀の諸部は多く法を犯し、崔彦昭は慰問してねぎらっては威光と恩恵があり、三年にして、国境の内は大いに治まり、耆老たちは朝廷に留まるよう願い、詔して裁可された。僖宗が即位すると、兵部侍郎・諸道塩鉄転運使となった。しばらくして中書門下平章事(宰相)となり、判度支を重任した。それより以前、楊収路巌韋保衡は皆朋比の収賄に連座して罪を得て死に、蕭倣が宰相で、偽ってこれを改めようとして、崔彦昭は協力し、そのため百の官職を推挙し、査察しても煩わしがることはなかった。六ヶ月もしないうちに、門下侍郎に遷った。帝はそこで詔を下して楊収らの過悪を暴き、丁寧に励まし、崔彦昭の素晴らしさを讃えた。

  崔彦昭は宰相であったが、朝廷を退いては母の食事に付き添い、家人とともにあって、顔色や物腰は柔らかで、左右にあっても異なることはなく、士人はその孝行さがあついとした。王凝とは義理の弟であった。王凝は大中年間(847-860)初頭にまず名を知られるようになったが、崔彦昭はまだ仕えてすらいなかったから、かつて王凝と会うと、王凝は足を投げ出して冠を被ったり帯をしめたりせず、侮って「いっそのこと進士ではなく明経科から推挙されるんだな」と言ったから、崔彦昭は恨みに思った。ここにいたって、王凝は兵部侍郎となった。母は崔彦昭が宰相になったことを聞いて、婢に命じて多く屨(くつ)と襪(しとうず)をつくらせ、「王氏に嫁いだ妹は、必ず子とともに皆逐われるだろうから、私も一緒に行こう」と言い、崔彦昭はこれを聞いて、泣いて拝礼し、あえて恨みをなすことはなかった。王凝はついに免れた。

  俳優の李可及は懿宗の寵愛を得て、専横はなはだしく、崔彦昭は奏上によって放逐し、嶺南で死んだ。累進して兼尚書右僕射を拝命したが、病によって職を去っており、太子太傅を授けられ、卒した。


  劉鄴は、字は漢藩で、潤州句容県の人である。父の劉三復は、文章をよくしたため名を知られた。若くして父を亡くし、母が病で臥せっていたから、劉三復は粟を貰い受けて養った。李徳裕が浙西観察使となると、その文章が優れていると思い、上表して掌書記とした。李徳裕は三度浙西および剣南・淮南の節度使となり、常に付き従った。会昌年間(841-846)、李徳裕は宰相となると、劉三復を刑部侍郎・弘文館学士に抜擢した。

  劉鄴は六・七歲にして文章に優れ、李徳裕は憐れんで、自分の子とともに師につかせて学ばせた。李徳裕が排斥されると、劉鄴は頼るべきものがいなくなり、去って江湖の間を居候した。陜虢観察使の高元裕は上表して官に任命しようと推薦し、高少逸もまた自ら統括する鎮の幕府に任命した。咸通年間(860-874)初頭、左拾遺に抜擢され、召還されて翰林学士となり、進士の及第を賜った。中書舎人を経て、翰林学士承旨に遷った。劉鄴は李徳裕が朋党を抱えたために誣告されて海上(海南島)で死んだことを悲しみ、令狐綯が長らく宰相となって執政の座にあり、しばしば恩赦があったが、官爵は戻されなかった。懿宗が即位すると、令狐綯が宰相の位を去ると、劉鄴はそこで直ちにその冤罪を申し上げ、官爵が復されることとなり、世間はその義が高いとした。戸部侍郎・諸道塩鉄転運使となった。礼部尚書同中書門下平章事(宰相)、判度支となった。僖宗が即位すると、再び尚書左僕射に遷った。

  それより以前、韋保衡路巌は劉鄴とともに宰相の位にあり、親しいもの同士であった。突如、蕭倣崔彦昭が宰相となると、劉鄴を罷免して淮南節度使・同平章事とした。黄巣の乱が激しさを増してくると、高駢に詔して淮南節度使を交替し、鳳翔節度使に遷されることとなったが、固辞して、左僕射に戻った。帝が黄巣を避けて西狩すると、乗輿を追いかけたが及ばず、崔沆豆盧瑑とともに将軍張直方の家に匿われたが、賊に捕らえられ、三人とも黄巣の臣となることをよしとせず、共に殺された。


  豆盧瑑は、字は希真で、河南の人である。仕えて翰林学士・戸部侍郎を経て、崔沆とともに同中書門下平章事(宰相)を拝命した。この日、朝廷で任命の宣告があったが、大風と雷雨があって樹を抜き払った。しばらくもしないうちに、禍いが及んだ。それより以前、咸通年間(860-874)、暦見の者がいて巧みに禍福について述べており、ある者が「この頃の宰相は多くても四・五人にもならないが、どうしてなのか」と尋ねると、「紫微で災になろうとしており、そしてその人もまた免れないだろう」と答えた。後に楊収韋保衡路巌盧攜劉鄴于琮・豆盧瑑と崔沆は、全員終わりをよくしなかったという。


  陸扆は、字は祥文で、宰相陸贄の族孫である。陜州に居候し、遂に陜州の人となった。光啓二年(886)、僖宗が山南に行幸するのに従い、進士に及第し、翰林学士・中書舎人に累進した。陸扆は巧みに文章をつくり、迅速なことは水が流れたり射られた矢のように速かったから、当時書信を担当する者で、同僚たち自らは陸扆に及ばないと思っており、昭宗は陸扆を優遇した。帝はかつて賦をつくり、学士に詔して全員に唱和させ、陸扆ひとり最も先に行った。帝はこれを見て、「貞元の、陸贄・呉通玄が内廷の文書をよくしたが、後に継ぐ者がいなかった。今朕はこれを得たのだ」と感嘆した。それより以前、進士に推薦された時、まさに帝が遷幸しようとしており、六月に牓(合格通知)が出された。ここに到って、暑くなるごとに、他の学士はふざけて「造牓の季節だな」と言い、陸扆の進士及第がその時ではなかったことを謗った。累進して尚書左丞となり、嘉興県男に封ぜられた。戸部侍郎・同中書門下平章事(宰相)に移った。昔、三省から宰相となった者は、光署銭があり、宴会の資金としたが、学士院ではいまだにこれが行われたことがなかった。陸扆が宰相になると、光院銭五十万を贈り、近侍する者の栄誉とした。中書侍郎となり、戸部を司った。

  嗣覃王李嗣周は兵をあげて鳳翔(李茂貞)を討伐しようとしたが、陸扆は諌めて、「国はこれから安寧へと歩みを進めようとしていますが、兵を近隣に用いることはよくありません。必ず他の賊に乗じられてしまい、無益です。また親王が軍事に仕えることは、必ず後害があるでしょう」と言ったが、帝は軍の出兵の方に目先が行って、陸扆が妨げたことを責めて、峽州刺史に左遷した。軍が案の定敗れた。しばらくして工部尚書を授けられた。天子が華州より帰還すると、兵部尚書となって宰相に復帰し、呉郡公に封ぜられた。

  天復年間(901-904)初頭、帝は密かに韓偓に向かって「陸扆・裴贄はどちらが私に対して忠誠があるか」と尋ねた。韓偓は「陸扆らは全員宰相で、どうして他の考えなぞありましょうか」と言うと、帝は「外部では陸扆が私の復位を喜ばず、元日に服を替えて啓夏門に奔ったというぞ。信じられるか」と言い、韓偓は「誰が陛下にこのことを言いましたか」と言い、帝は「崔胤令狐渙だ」と言い、韓偓は「もし陸扆がこのようなことでしたら、また責めるにたりません。また陛下が正しい道に戻られた時、陸扆は最初からこの謀を知りませんでした。だからたちまち兵をおこしたというのを聞いて、奔り出ようとしただけなのです。陛下が国難に死ななかったこと責められるのでしたら、そうなのでしょうが、喜ばなかったというのは、それは讒言です」と言い、帝はようやく理解した。戸部尚書を兼任した。

  帝が鳳翔より帰還すると、天下に大赦し、全国諸道はすべて詔を賜ったが、ただ李茂貞だけは賜らなかった。陸扆は、「国の西は、鳳翔が最も近いところで、その罪を追いかけ続けるのでしたら、もとより赦すべきではありません。しかしなおも職貢を納められ、朝廷もこれを絶やしていないのに、詔書で差別してはなりません」と述べた。それより以前、崔胤は宰相を罷免され、陸扆がこれに代わった。崔胤は心内に恨みに思い、ここに及んで陸扆が密かに党派を組んでいると議し、沂王傅に貶し、東都分司とした。崔胤が死ぬと、復帰して吏部尚書を授けられ、洛陽より遷った。柳璨は始め朱全忠に付き従い、朝廷で衣冠が有望な者を去らせようとし、陸扆を濮州司戶参軍に貶し、白馬駅で殺害した。年五十九歳。陸扆の初名は陸允迪で、後に改名したという。


  鄭綮は、字は蘊武である。進士に及第し、監察御史を経て、左司郎中に抜擢された。非常に貧しかったから、廬州刺史に補任されることを願った。黄巣が淮南を侵略すると、鄭綮は触文を出して黄巣が州境を攻撃することがないよう願い、黄巣は笑って、そのため兵を収めたから、廬州だけは無事であった。僖宗は喜び、緋魚(五品)を賜った。任期満了で去ると、余剰の銭千緡を州の庫に納めた。後に他の盗がやってきたが、終に鄭使君の銭だけは手を触れなかった。楊行密が刺史となると、この銭を都に送って鄭綮のもとに戻った。王徽が御史大夫となると、兵部郎中によって上表して知雑事となり、給事中に遷った。杜弘徽が中書舎人に任じられると、鄭綮は杜弘徽の兄の杜譲能が宰相で、兄弟で禁中の要職にあってはならないとし、奏上して詔書を差し戻すよう訴えたが、返答がなかったから、ただちに病と称して官を去った。召還されて右散騎常侍となり、時々失政を摘発したから、衆は喜んでこれを伝えたから、宰相は怒り、鄭綮を国子祭酒に改め、議する者は正しくないとし、また常侍に戻った。大順年間(890-891)の後、王政は衰え、鄭綮は詩を詠むごとに自らの気持ちを諷刺して託するようになり、宦官は鄭綮の詩を天子の御前で詠んた。昭宗は詩の蘊奥を読み取りきれず、そこで役人が官僚名簿を提出すると、鄭綮の名前の側に「礼部侍郎・同中書門下平章事(宰相)とすべきだ」と書いた。鄭綮はもとより詩をよくし、その語は多く諧謔姓があり、そのため格調を落とさせていたが、世間では「鄭五の歇後の体」と言った。ここにいたって、省の役人が鄭綮の家に走って面会すると、鄭綮は笑って、「諸君は間違ってるぞ。人は皆字を知らないのなら、宰相もまた私には及ばないのだろう」と言ったが、役人は間違いではないと言った。突如制詔が下されたから、「万が一、本当にそうなら、天下の人は笑い死にしてしまうぞ」と言い、政務を見るようになってから、親戚が就任のお祝いに訪ねてきたが、頭を掻いて「歇後なんかつくる鄭五を宰相なんかにするくらいだから、天下の事はおして知るべしだな」と言って固辞したが、聴されなかった。朝廷に立っては剛直で、前のように諧謔に戻ることはなかった。自らを人々が瞻望するところではないと思っていたから、三か月で病気のため辞職を願い、太子少保を拝命して致仕し、卒した。


  朱朴は、襄州襄陽県の人である。三伝三史科に推挙され、荊門県令から京兆府司録参軍に進み、著作郎に改任された。乾寧年間(894-898)初頭、太府少卿の李元実は内外の九品以上の官吏の二か月分の月俸を取り上げて軍資にしようとしたが、朱朴は上疏してその不可を申し上げたから、沙汰止みとなった。

  国子毛詩博士に抜擢された。上書して当時の世事を申し上げ、遷都を議して次のように述べた。「古の王者はその居場所は一定ではなく、皆天地の興衰をみて、随時物事を定めていました。関中は隋朝が都とするところで、我らは実にこれによることおよそ三百年、財物・銭貨や、奢侈品や礼物ではない物品は、すべてきわめつくされているのです。広明年間(880-881)大悪党が宮殿を陥落させ、役所の国庫、村や街はあるものは十二でしたが、その頃に石門・華陰に帝が行幸すると、十二の中、八・九が滅びており、高祖・太宗以来の制は焼失してしまったのです。夫襄州・鄧州の西は、平坦な土地が数百里あり、その東の漢輿・鳳林はこの関となっており、南は河の流れは屈折して漢中に流れ、西の上洛県は山が折り重なる険阻の地で、北は白崖が連なっており、形勝の地で、平坦で肥沃で何もない土地です。もし広く運河を浚渫すれば、天下の財を運び、大いに集めさせることができるでしょう。古より中興の君主は、すでに衰れて、さらに衰えきっているのから去り、いまだ王ならざるところから即位して王となりました。今南陽は、漢の光武帝が蹶起したとはいえ未だ王ではなかったところです。臣が山河壮麗たるところが多いのを見ますに、故都はすでに栄えてから衰え、再興するのは難しいだけです。江南は土薄く水浅く、人心は浮ついて騒がしく、軽薄で偽りが多いので、都とすべきではありません。河北は土厚く水深く、人心は偏狭固執かつ凶悪惨忍で、都とすべきではありません。思いますに襄州・鄧州は真に中原の地で、人心は良質で、長安からは距離も近く、上洛から通行を制限すれば、長らく夷狄の侵入の心配はなくなり、これは都を建てるのに極選の地なのです」 しかし返答はなかった。

  朱朴は人となりが質実剛健で、他に才能はなかった。当時、天子は政務の権を失い、特別に人材を起用して任命し、中興に用いようと思っていた。しかし朱朴は方士の許巌士と親しく、許巌士は昭宗の厚遇を得て、禁中に出入りし、朱朴に経済の才能があると申し、また水部郎中の何迎もまた朱朴の賢人ぶりを上奏したから、帝は召還して共に語り、左諌議大夫・同中書門下平章事(宰相)に抜擢した。普段より聞いたこともなかったから、人々は大いに驚き、突然戸部を司り、中書侍郎に昇進した。帝はますます軍事増強をはかり、裁可するところはすべて朱朴に一任した。朱朴は四方に触文し、近き者は兵士を出させ、兵糧を運送し、遠き者は羨余を進上した。その後数か月して、許巌士は韓建に殺害され、朱朴は宰相を罷免されて秘書監となり、三度貶され郴州司戸参軍に左遷され、卒した。朱朴とともに宰相であった者は孫偓である。


  孫偓は、字は龍光である。父の孫景商は、天平軍節度使となる。孫偓は進士に及第し、顕官を歴任し、戸部侍郎同中書門下平章事(宰相)となって、門下省に遷り、鳳翔四面行営都統となった。突然、礼部尚書・行営節度諸軍都統招討処置等使を兼任した。それより以前、邸宅の堂柱に槐枝が生えており、十日ほどして茂り、その時孫偓は宰相となり、楽安県侯に封ぜられた。朱朴とともに衡州司馬に貶され、卒した。

  孫偓の性格は闊達で、人を騙すことはなく、かつて「士はいやしくも行いがある人物なら、必ず自身の長所を相手の短所にあてはめて形としたり、自身の清を相手の濁にあらわすようなことはしない」と述べ、客と面会するごとに、奴童は互いに罵りあって客の前で引き倒すようなことをしても、責めることはなく、「もし怒りの心を持てば、それは自分を歪ませることになる」と言った。


  兄の孫儲は、天雄節度使を経て、兵部尚書で終わった。


  韓偓は、字を致光といい、京兆万年県の人である。進士に及第して、河中節度使の補佐として仕えた。都に召還されて左拾遺の官を授かったが、病気のために解任された。その後、官位が次々うつって左諫議大夫になった。宰相の崔胤が判度支となり、韓偓を自分の副使に任命した。王溥が推薦して翰林学士となり、中書舎人に転任した。韓偓は崔胤と画策して、劉季述を誅殺したことがあった。昭宗が正位に復され、韓偓を功臣とされた。帝は宦官の横暴に心を傷められ、一人のこらず除去しようと考えられたが、韓偓がいった、「陛下が劉季述を誅されました時に、のこりの者はみな赦してお咎めになりませんでした。それが今になって誅罰されるとしたら、誰もがいつ殺される目に会うかわからなくてびくびくしなければなりません。ですから今は恥をしのんで辛抱され、後の機会を待つのがよろしいかと思われます。天子の御権力は、今日では方々に散らばってしまっています。もし上の者と下の者とが一つの気持ちになり、政権の大綱を統御すれば、天下の治ますることも可能でありましょう。宦官の中で忠義で任用できる者に、恩寵を貸しあたえ、自分でその派閥を滅ぼさせれば、何事も為しうるでしょう。今、朝廷の禄を食んでいる者は、八千人います。公けの属吏から身うちの係累までをすべて数えれば、その数は二万人を下りません。六七人の大物を誅したところで、無益なことで、謀反の気持ちを固めさせるだけです」。帝は体を乗り出していわれた、「このことはいっさいにまかせよう」。

  中書舎人の令狐渙は巧智にたけていた。帝は彼に国事を担当させようと考えたことがあったが、すぐに後悔していわれた、「令狐渙が宰相になると、ひょっとしたら国政をしくじることになるかもしれぬ。朕はまっさきに卿を採用すべきであった」。韓偓は辞退していった、「令狐渙は父子二代にわたる宰相の家柄で、故実に習熟しております。陛下はすでに令狐渙を宰相にすることを承認されました。もし令狐渙の任用を承認されたことを変更できるのでしたら、臣の御承認でも変更できないことはないでありましょう」。帝がいわれた、「私はまだじかに命を下してはいないのだから、はばかることはない」。韓偓はそこで、清廉で威厳があり、朝廷のうちそとも模範となりうる人物として、御史大夫の趙崇を推薦した。帝は韓偓が趙崇の門下生であることを知られると、彼の人に譲ることのできる意力に感嘆された。

  以前、李継昭らは功績をたてたことで、いずれも同中書門下平章事(宰相)に昇進した。時の人々は彼らを「三使相」とよんだ。その後はふたたび韓全誨周敬容にしだいに近づいていき、彼らは皆な崔胤をきらっていた。崔胤はそのことを耳にすると鳳翔の李茂貞をよびよせて朝廷に入れ、李茂貞の一族の子、李継筠を宮中において宿直にあたらせた。韓偓はそれを聞いて、いけないと考えたが、崔胤はききいれないので、韓偓は令狐渙に語った。令狐渙は、「うちでは宰相をだいじにしないのかね。護衛の兵がいなかったら、茶坊主どもの思うままになってしまう」といった。韓偓は「そうではありません。兵がいなければ家も国も安泰ですが、兵がいれば家も国も守ることはできません」といった。崔胤はその話を聞くと心配になったが、どうしてよいかわからなかった。李彦弼は帝を前にしても、はなはだ傲慢であったので、帝は心中おだやかでなかった。韓偓は、「彼をおいはらい、その徒党は罪を問わずに新生の道を歩ませれば、気違いじみたたくらみはひとりでにつぶれてしまいましょう」と願い出たが、帝はその意見を採用されなかった。李彦弼は、韓偓と令狐渙とは朝廷内の話を外部に漏らしているので、彼らと国政を相談することはできないと讒言した。帝は怒っていわれた。「卿にも手下の役人がいて、日夜相談しておるのに、どうして私が私の部下の学士と会うことをいやがるのだ」。李継昭らは宮中で酒を飲んで、平然としていた。帝がそれに立腹されると、韓偓がいった、「三使相が手柄をたてた時、手厚く金、官爵を与えて、政治には参与させない方がよかったのです。今では宰相も事を自分で決定することができず、李継昭たちが申し上げたことは、何でもお聴きとどけになります。後日になって急に変更されたら、彼らは誰もがうらみをいだくでありましょう。以前は警護の兵に宦官を取り締らせていたのが、今では宦官と警護の兵とは一体になっております。臣は内心胆を冷しております。どうか李茂貞に詔を下して、彼の警備の兵を朝廷から引き挙げさせるよう、お願いいたします。そういたしませんでしたら、二つの藩鎮の軍が宮門の下で戦闘し、朝廷は危険にさらされることになりましょう」。崔胤朱全忠をよびよせて韓全誨を討たせようとする時になり、朱全忠の軍隊が都に近づいていた。韓偓は令狐渙に、李茂貞をせきたてて護衛の兵を都からひかせるように勧告した。また「宦官の罪を暴露して、それによって韓全誨らを誅殺するように。もし李茂貞が詔勅にしたがわないのなら、ただちに朱全忠に入朝を許しなさい」と勧めた。その言葉がとりあげられないうちに、韓全誨らは帝に強制して長安から西へ行幸させた。韓偓は夜に帝の後を追いかけて鄠県まできて、帝にお目にかかると声をあげて泣き出した。鳳翔に着くと、韓偓の官は兵部侍郎にかわり、承旨に昇任した。

  宰相の韋貽範は母の喪で退いていたが、もとの官位にもどす詔勅を下すことになった。韓偓は起草をする当番であったが、帝に申しあげた。「韋貽範はまだ数か月しか喪に服しておりません。いそいで仕事につかせたら、孝子の心情を傷つけることになりましょう。今、中書省の仕事は、一人の宰相でも処理できるものです。陛下が心からの能力を大切にされようとお考えでしたら、喪服のとける時になってからお召しになっても、さしつかえありません。どうして家の外では宮廷に高々と冠をかぶせ、家の中では柩のかたわらに血涙を流させる必要がありましょうか。身のやつれるほど悲しめば、勤務をおろそかにすることになりますし、精勤すれば喪の悲しみを忘れることになります。これは人間の情愛がある者が処置できることではありません」。学士使の馬従皓が韓偓に起草を強要した。韓偓は、「私の腕は断ちきることができても、詔勅は起草できません」といった。馬従皓が「あなたは殺されることを求めているのか」というと、韓偓は「私の職務は内署であるから、黙っておられようか」といった。翌日、官職のある者が集まったが、詔勅は下されなかった。宦官ががやがや騒ぎ、李茂貞は入殿して帝にまみえて、「宰相を任命されたのに、その詔勅を学士が起草しないということは、謀叛ではありませぬか」というと、むっとして出ていった。それを聞いて姚洎が、「私を起草の担当にあてられるなら、後で死罪になってもかまいません」といった。こういうことがあった後、帝は李茂貞をおそれて結局、韋貽範を宰相の位にもどす詔勅を下すことにして、姚洎が韓偓に代わって起草した。これ以後、宦官派はひどく憎むようになった。馬従皓は韓偓をなじっていった。「南司(朝臣)は、はなはだ北司(宦官)を侮蔑しております。あなたは崔胤王溥の推薦で朝に入った人です。今日、北司の者があなたを殺すこともありうるのです。両軍と枢密は、あなたが一年中給料をもらえないでいると言っています。私たちがあなたを救おうと相談して、事態が切迫していることを、御存知ですか」。韓偓は返事をしようとしなかった。

  李茂貞は帝がこっそりぬけだして朱全忠のもとに身を寄せはしまいかと心配して、行在に見張りの兵をつけた。帝は武徳殿の前に行かれ、その機会に尚食局まで足をのばされると、ちょうど学士が独りいるだけであった。おつきの者が韓偓を手招きした。韓偓はやってきて再拝すると涙を流し、「崔胤はとても元気です。朱全忠軍がきっと助けにきます」といった。帝は喜ばれた。韓偓が「どうか陛下、宮中にお帰り下さい。人に知られませんように。」というと、帝は麦粉や豆を賜われて立ち去った。韓全誨が誅せられ、宦官の多くは死罪になった。帝は残党を一掃されようとしたが、韓偓がいった。「家来たる者は謀反を考えることもならね。謀反を考えただけでも必ず誅罰する。宮仕えの女が恩に背いたら、許してはならね。それが礼だといいますが、しかし人は三十年たたなければ、一人前になれません。一人のこらず誅罰することは、陛下の仁徳を傷つけることになりましょう、どうか特にひどい者だけを追い払い、宦官の仲間の内部から外を静めるようにし、そうして人々の心を落ち着かせ下さいますように」。帝は「よかろう」といわれた。帝は輝王(後の哀帝)を元にしていただきたいと願いでた。帝は「後日、私の子(輝王)がまきぞえにされることはなかろうか」とたずねた。韓偓がいった。「陛下が東内に押し込められました時、空が曇りがたちこめた中で、王は鳥の鳴き声をお聞きになると「天子様も皇后様もとらわれの身にあると、鳥や雀の鳴き声までもの悲しい」とおっしゃり、それを耳にされた陛下は胸を痛められたということがあったのではございませんか」。帝がいわれた。「そのとおりだ。この子は生まれながらにして忠孝の心ばえを持っており、並の者とは違う」。そこで、元帥にすることを決められた。韓偓の意見はみなこんなぐあいに崔胤に従っていた。帝は正位に復され、政治に努められた。韓偓が機密な事がらを認可する際の処置は、たいがい帝の意見と一致した。三、四回、宰相になりそうなことがあったが、人にゆずって引きうけようとしなかった。蘇検が政務の補佐にまねいたこともあったが、結局ことわった。

  これより以前、韓偓は宴会の場で、京兆の鄭元規と威遠使の陳班と席を並べることになったが、「学士というものは外班に近づかないのです」といってことわった。主催者がどうしてもとたのむと、やっと坐ったが、鄭元規と陳班がやってくると席を離れ、とうとう同席しなかった。朱全忠崔胤とが殿の前で詔勅をよみあげ、坐っていた者は皆な席を離れたが、韓偓は坐ったままでいった。「宴会の席では、やたらに立ちあがるものではない。お二人は私のことを礼をわきまえた者と思われるであろう」。朱全忠は韓偓が自分を軽んじたのに腹を立て、むっとした顔で出ていった。韓偓は高い官にある者をはずかしめるのが好きだと讒言する者があった。崔胤も韓偓と仲違いした。ちょうど王溥陸扆が放逐され、帝が王賛趙崇とを宰相にされようとすると、崔胤が王賛と趙崇を宰相の器でないといった。帝は仕方なく中止された。王賛と趙崇とはどちらも韓偓が宰相に推薦した者であった。

  朱全忠は帝に見えて韓偓の罪状をあからさまに指弾した。帝は何度も崔胤の方をみて弁護を求められたが、弁明してやろうとしなかった。朱全忠は中書省にやってきて、韓偓をよびよせて殺そうとした。鄭元規が、「韓偓の官位は承旨であるから、軽々しいことをなさってはいけません」といったので、朱全忠は思いとどまり、韓偓を濮州司馬に左遷させた。帝は韓偓の手をとると、涙を流していわれた。「私のまわりには誰もいなくなった」。また栄懿尉に左遷され、それから鄧州司馬にかわった。天祐二年(905)、ふたたび学士として故の官位にもどるように召還したが、韓偓は朝廷に入ろうとせず、彼の一族をつれて、南方の王審知のもとに身を寄せ、そこで没した。


  兄の韓儀は、字は羽光で、同じく翰林学士から御史中丞となった。韓偓が左遷された翌年、帝は文思殿の毬場で宴したが、朱全忠が入ってきても、百官は廊下に座ったままであったから朱全忠は怒り、棣州司馬に左遷され、侍御史の帰藹も登州司戸参軍に左遷された。


  賛にいわく、懿宗・僖宗以来、王道は日に日に、次第に失われていき、官吏は腐敗して朝廷は逼塞し、賢人は逃れ、四方の豪傑英雄は、それぞれ合うところに従って奮闘するだけであった。天子は孤独で、一緒にいる者はおべっか使いの見識の浅い人物で、災禍を防ごうとして、すでに倒れているものを支えているようなもので、何と危ういことであろうか。鄭綮朱朴のような輩を通例によらぬ方法で用いたのは、豚の脛を壊して、猛獣の貙の牙を防ぐようなもので、滅びの道を歩むだけなのである。ただ韓偓一人すら容れられなかったのに、どうして賢者を用いられようか。


   前巻     『新唐書』    次巻
巻一百八十二 列伝第一百七 『新唐書』巻巻一百八十三 列伝第第一百八 巻一百八十四 列伝第一百九

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2024年01月09日 00:49
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。