傅奕 ふえき
554-639
隋唐に活躍した人。相州(河北省安陽県)の人。彼は北周の廃仏事件によって設けられた通道観学士に選ばれ、のち道士となった。元来天文暦数に通じていたため、隋では漢王楊諒に仕え、唐の高祖のときには、太子令の要職についた。621(武徳4)年に「寺塔僧尼沙汰十一条」を著わして、仏教の寺院尼を整理して、富国強兵の策を上書した。このことは当時の朝野、とくに仏教界に大衝撃をあたえ、以後数年間この問題について、論難往復した。まず第1に仏教側では
法琳が『破邪論』を著わし、さらに『弁正論』を著わして痛烈にこれを反論したが、明欒も『決対論』を、法琳門下の
李師政も『内徳論』を著わして、傅奕の論を打ち破った。一方、道教側は傅奕を助けて、李仲卿は『十異九迷論』を、到進喜は『顕正論』を著わして仏教を攻撃した。傅奕はこの間に7度上書して、このことの決行をしたため、高祖はついに626(武徳9)年仏道2教を整理することとし、京師には3寺2観を、諸州には各1寺1観を残し、ほかは全部廃することとした。しかし、これも高祖がまもなく退位したために断行されなかった。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
参考文献
『アジア歴史事典』(平凡社,1961年)
外部リンク
最終更新:2024年05月04日 18:59