唐書巻一百七
列伝第三十二
傅弈 呂才 方毅 陳子昂 王無競 趙元
傅弈は、相州鄴の人である。隋の開皇年間(581-600)、儀曹に任じられて漢王楊諒に仕えた。楊諒が反乱をおこすと、傅弈に尋ねた。「今、熒惑(火星)が井に入ったが、いったいどういうことか」。傅弈は答えて「東井は、黄道のよるところで、熒惑の星宿は、怪しむに足りません。もし地上の井に入れば、これは災いです」と言ったから、楊諒は怒った。しばらくして敗れたが、傅弈は誅殺を免れ、扶風に移った。
高祖は傅弈を扶風太守とし、礼遇した。高祖が即位すると、傅弈は太史丞に任命された。当時、太史令の
庾倹が父の庾質が占候(天文による吉凶占い)によって煬帝の意をたのんで死んだから、その事にこり、術官であることを恥じたから、傅弈を推薦して自身の職と代わった。傅弈は太史令となり、庾倹と同列になったが、しばしば排撃したにも関わらず、庾倹は恨みと思わなかった。ここに人は庾倹に真心があるとし、傅弈を罪とし、恐れて憤った。
当時、国制は草創期で、多くは隋の旧制によっていたから、傅弈は乱世の後であるから変更すべきであるとし、そこで上言した。「龍紀・火官を黄帝は廃止し、咸池・六英を堯はそぐわないとし、禹は舜の政を行わず、周は湯王の礼を踏襲しませんでした。『易』に、「すでに革(あらた)むべき時に至ってこれを革めれば孚とされるのは、革めてしかも人々がこれを信じることである」とあり、だから「革の時は偉大なことである」というのです。隋末の世になると、天意は違って民を害し、刑法はほしいままに行われ、賢俊の人を殺戮し、天下の民は心を同じくして叛いたのです。陛下は乱をしずめて正しい世にもどしましたが、官名・律令はすべて隋の旧制によっています。また沸騰した羹(あつもの)に懲りた者は冷たい齏(なます)を吹き、弓で傷つけられた鳥は曲がった木にも驚きますが、ましてや天下の人は長らく隋の暴政に苦しんできましたのに、どうしてその耳目を改めないということができましょうか。正朔をあらため、服色をかえ、律令をかえ、官名をあらため、功が大きければ楽をつくり、治が終えれば礼をつくし、民に盛徳がおこるのを知らしめるのは、まさに今なのです。しかしながら官や貴族は少なければならず、夏后の官は百人をこえず、虞氏は五十人、周は三百人をこえず、商は百人でした」また次のように述べた。「夏に政令を犯す者が現れて「禹刑」がつくられ、商に政令を犯す者が現れて「湯刑」がつくられ、周に政令を犯す者が現れて「九刑」をつくりました。衛鞅(商鞅)が秦のために法を制定し、額に刺青し、肋の筋を引き抜き、鼎で煮殺す等の六篇を増やしました。始皇帝は挟書律を制定し、この煩いを失いましたが、法令を制定しなければなりません」
この当時、太僕卿の
張道源が建言して、「官曹の文簿は繁多で欺きやすいのです。これを減らして官吏のよこしまに制限を加えられますように」と述べた。公卿は全員そうだと思わなかったが、傅弈は一人そうだと思い、周囲に騒ぎ文句を言ったものの、実施されなかった。
武徳七年(624)、上疏して力をつくして仏法を誹謗した。以下にいう。「西域の法は、君臣父子の間柄がなく、三塗(さんず)や六道によって愚か者を脅かし凡人を欺くのです。既往の罪を追って、将来の福をうかがい、身が悪逆に陥ることがあっても、獄中で礼仏し、口で梵言を誦えれば、免れることができるようになるといいます。また生死や長寿・夭折は、もとよりすべて自然のことです。刑徳威福は、人主につながるものです。今その徒は何事も仮託するのに、すべて仏によるといい、天の理をはらい、人主の権力をぬすむのです。だから『尚書』に「ただ君主だけが褒賞を与えることができ、ただ君主だけが刑罰を加えることができ、ただ君主だけが美食することができるのであります。家臣は、褒賞を与えたり刑罰を加えたり美食したりしてはなりません。家臣が褒賞を与えたり刑罰を加えたり美食したりすれば、その家臣自身の家をそこない、その君主の国によくないことがあるでしょう」とあるのです。
三皇五帝の時代には、まだ仏法はありませんでしたが、君が明君で臣は忠臣であり、王朝の時代は長らく久しいものでした。漢の明帝の時代になって始めて胡祠(仏寺)が建立されましたが、西域の僧侶が自分でその教えを伝えに来ました。西晋以降、中国では髪を剃って胡(仏)に仕えることは許しませんでした。石氏(後趙)・苻氏(前秦)が中華を乱すと、その禁は緩み、君主は凡庸で臣は佞臣となり、政治は暴虐で王朝の時代は短かくなりましたが、事は仏がそうさせたのです。梁の武帝・北斉の文襄帝(高澄)はもっとも誡めとすべき者です。昔、褒姒一女で、幽王は乱され、その国を滅ぼすことができました。ましてや今、僧尼十万、繒に描いて泥の像をつくり、これによって天下を惑わしていますが、滅びることはないとでもいうのでしょうか。陛下は僧尼十万の衆を還俗させて自ら夫婦に見合わせられ、十年もすれば子供を養育し、十年教を垂れられれば、兵士や農民とするのに両方とも可能なのです。利はすでに邪に勝っているのではないのでしょうか。昔高斉の章仇子佗は、「僧尼が外では宰相や臣下、内では妃や公主に取り入って、表では讒言し裏では誹謗中傷している」といいましたが、ついに都市で処刑されました。北周の武帝は北斉を平定すると、その墓に封戸をつけました。臣はひそかに賢人であると思います。」
また十二論を奏上したが、言葉はますます悲痛であった。帝は傅弈の建議を役人に下したが、ただ
張道源だけがその奏上を助けた。中書令の
蕭瑀は、「仏は聖人です。聖人を非難するのは無法者です。この者を誅殺してください」と言った。傅弈は、「礼は始めは親に仕え、終わりは君に仕えるものです。しかしながら仏は父から逃げて出家し、匹夫たちとともに天子にあがらい、子を親に逆らわせています。蕭瑀は親が誰だかわからない人でもないのに、その言を尊んでいます。思うにいわゆる「孝にあらざる者は親無し」というのは彼のことです」と言ったから、蕭瑀は答えず、ただ手を合わせて、「地獄というのはまさにこの人のためにつくられたのだ」と言った。帝は傅弈の答えを善しとしたが、実行する前に帝位から譲ってしまった。
これより以前、武徳九年(626)、太白(金星)は秦分(東井)にまとわりついた。傅弈は秦王(後の太宗)がまさに天下をとるであろうことを奏じ、帝はこの奏上を秦王に告げた。太宗が即位すると、呼び寄せて食を賜い、「お前の奏上のせいで、私はどれだけ大変な目にあったことか。だからといって今から煩わしいからといって発言を尽くさないなんてことはしてはならんぞ」と言った。またかつて「卿は仏法を拒んでいるがどうしてか」と尋ねると、傅弈は「仏は西胡の詐欺師なだけで、夷狄を騙し唆して自らを神といっているのです。中国に入ってくると、小児や術師が老荘を模倣して文を飾り、国家に有害であり、百姓に無益だからなのです」と答えた。帝は珍しいことだと思った。
貞観十三年(639)卒した。年八十五歳。傅弈が病となると、今まで医者を呼んだことはなかったが、突然病に臥した。勢いよく起き上がって悟って「私は死ぬのだ」と言い、そこで自ら「傅弈、青山白雲の人である。酒に酔って死んだ。ああ!」と墓誌を書いた。遺言で子に「六経や礼教の言葉は、少しは習いなさい。妖胡の法(仏教)は慎んで行ってはならない。私が死んだら裸で葬りなさい」と戒めた。傅弈は数学に優れていたとはいえ、今まで自らその学を言ったことはなかったから、伝えられなかった。また『老子』の注釈書をつくり、晋・魏以来の仏教徒と議論した者の伝を集めて『高識篇』をつくった。武徳年間(618-626)、漏刻を改め、十二軍の号を定めたが、すべて傅弈が定めて詔が出されたという。
呂才は、博州清平の人である。貞観年間(627-649)、
祖孝孫に楽律を増損させた。音楽家の王長通・白明達と何度も激しい議論を交わし、決めることができなかった。太宗は侍臣に音楽をよくする者をたずねると、中書令の
温彦博が呂才はいかなる人物よりも聡明で、一度見聞きしたものは、すぐさまその本質にたどりつけると申し上げた。侍中の
王珪・
魏徴も、さかんに呂才が尺八を約十二枚つくったとき、長短が同じではないのに、それぞれの律管に応じており、すべて韻にあっていないことはなかったと褒め称えた。そこで呂才をめして
弘文館にて直学士を務めさせ、音楽について論じることに参加させた。
帝はかつて北周の武帝が著した『三局象経』を読んで、理解できず、あるとき太子洗馬の
蔡允恭がこれをよくしていたから召し出して尋ねたが、少し知っていただけで、老いて忘れてしまっていた。そこで試しに呂才に尋ねると、すこしばかり退いて解釈してしまい、詳細に図をつくって申し述べた。蔡允恭が前に記しておいたものと比べてみると、呂才と同じであった。そのため名を知られるようになった。太常博士に累進した。
帝は陰陽家に伝えられた書に多く誤りがあって、こじつけもはなはだしく、世の人はますます恐れで縛り付けられていたから、呂才と専門の老学者に命じて誤りを削除させ、使えるところを残して五十三篇とし、旧書の四十七篇と合わせて、合計百篇とし、詔して天下に頒行した。呂才は儒者が意見した持論をとりあわず、経義によってその験術を推定判断したから、諸家はともに欠点を非難した、また世相を禍福で惑わしているといったが、ついに理解することはなかったという。
呂才の言には文彩をつくすことはなかったが、俗失から救おうとすることが大事であるとし、時局にあわせ、易によって明らかにさせた。そのためその三篇を略出する。
「卜宅篇」にいう。「『易』に「上古の人々は穴に住み野宿をして生活していたが、後世の聖人がそのかわりに家屋をつくり、棟を上方にしつらえ軒を下に垂らして風雨に備えるようにしたのは、おそらく大壮の卦であろう」とある。殷・周の時には卜択の文があり、詩経に「その陰陽を相(み)て」とあり、土地の吉凶を占った。近世、五姓の説があり、宮・商・角・徴・羽の音律にあてはめたのであり、天下万物はすべてここに配属され、吉凶の結果によって、これによってその法とした。張・王氏は商とし、武・庾氏は羽とするのは、音階が似ているからである。柳氏を宮とし、趙氏を角とするのは、またそうではない。また同じくこの一姓があって、宮・商の両方に属しているが、復姓の数字はこの法に帰することはできない。これは野人巫師の説にあるだけである。『堪輿経』をみてみると、黄帝は天老(黄帝の輔臣)に対し、はじめて五姓のことを言った。また黄帝の時、ただ姫・姜などの数姓があるのみであったが、後世に族を賜わる者が次第に多くなり、すなわち管・蔡・郕・霍・魯・衛・毛・聃・郜・雍・曹・滕・畢・原・酆・郇はもと姫姓で、孔・殷・宋・華・向・蕭・亳・皇甫はもと子姓で、官によって氏を授けられ、邑によって族を賜り、もとは同じで末が異なっているから、宮・商に配することは難しいのである。『春秋』では陳・衛・秦を水姓とし、斉・鄭・宋を火姓としているが、あるものは出身の祖により、あるいは所属の星に繋け、あるいは居住の地からとられているが、そうなっている理由は、宮・商・角・徴・羽が互いに統轄しているからである。」
「禄命篇」にいう。「漢の宋忠と賈誼は司馬季主に、「卜筮は、人の禄や命が高くなると言って、人の心を喜ばせる。災難がおこると勝手な予言をして、人の財をつくすのだ」と謗った。王充は、「人の体つきを見れば、禄命(天命)を知ることができる。禄命を見れば、人の体つきを知ることができる」と述べたが、これは禄命が長らく行われてきたことを言うのである。その本源を探し求めてみると、もとからそうではなかった。「善行を積み重ねた家には、その福慶の余沢は必ず子孫におよぶ」(『易経』坤)とあるのに、どうして禄を建てた後に吉となるのであろうか。「不善を積み重ねた家では、その災禍がひいて必ず子孫に及ぶ」(『易経』坤)とあるのに、どうして脅し殺した後で災いがおきるのであろうか。「天の行なう道には、依怙贔屓が無く、常に善人に味方する」(『史記』伯夷列伝)、天と人の交に影響があるかのようである。「有夏に多くの罪があり。天命これを殺す」(『書経』湯誓)とあるが、宋景が徳をおさめれば、妖星が退いたのである。「道を得るために学んでいれば、俸禄はそこに自然に得られる」というが、生きられないのに学で身を立てることができようか。文王は国事に憂いて寿命を損なったが、禄が空亡であったわけではない。長平で穴埋めにされた降伏した兵たちは、ともに三刑を犯したわけではない。光武帝は南陽の近親縁者を用いたが、ともに天地四方をあわせたわけではない。歴陽が一晩で湖になったのも、叢辰法が河魁の凶神となったからではない。蜀郡が火のように暑いのは、災厄をつくしたからではない。世の中には同年同日に生まれても貴賎の違いがあり、同じ母親から共に生まれた双子であっても、早死したり長生きしたりと異なるのだ。魯の桓公六年七月、子の同が生まれた。これが荘公である。暦を確認してみると、歳は乙亥にやどり、月は申にやどり、だから禄は空亡にあたり、法は窮賎に応じ、また勾絞・六害の凶相に触れ、福神の駅馬星にそむき、身は駅馬三刑にきまり、この時に産まれた者は、無官となる。命火(七月)に生まれると病郷にあたり、法に「人となりは弱々しく小さい」とある。『詩経』に荘公を、「ああ容貌が立派な方、身のたけは頎然として美しく、目元も額も共にうつくしい人だ、器用に小走りで出てくる」と言い、ただ命一物に向かうだけで、法では長寿であるとしているが、荘公は四十五歳で薨去した。当たらなかった一つ目である。秦の昭襄王の四十八年、始皇帝は正月に産まれたから、名を政とした。この歳は壬寅正月、背禄にあたり、法では無官で、たとえ禄を得たとしても、奴婢より少ないとある。また駅馬三刑で、身は駅馬星にきざみ、法によると官を望んでも至らないとあり、金は正月にあたって、生は絶え、始めなくして終りあり、老いてから吉であるとする。また命生を建て、法では長生きするとあるが、帝が崩じた時は五十歳をすぎなかった。当たらなかった二つ目である。漢の武帝は乙酉歳七月七日平旦に産まれ、禄は空亡にあたり、法によると無官である。駅馬星に向かうとはいえ、四辰を隔て、法によると若い頃は無官で、老いてから吉であるという。武帝が即位した時は年十六歳で、晩年は漢の戸口は減少した。これが当たらなかった三つ目である。後魏の高祖孝文皇帝は皇興元年八月に産まれ、これは丁未にやどり、禄命と駅馬三刑に背き、身は駅馬星にきざみ、法では無官である。また生まれて父は死に、法では父を見ず、とあるが、孝文皇帝はその父顕祖(献文帝)より皇帝位を譲られている。礼では、君主は継承してから年をこえなければ、正位を得ることはできない。だから天子に父なく、三老に仕えるのである。孝文皇帝は天下を率いながらその親につかえているが、法では「まさに父を識るべからず」とある。当たらなかった四つ目である。宋の高祖は癸亥三月に産まれ、禄と命では両方とも空亡であり、法では無官である。また子は墓中に生まれ、法では嫡子をよしとし、次子がいたとしても、早くに死ぬとしている。しかし高祖の長子は先に弑され、次子の義隆は国を継いだ。また祖禄の下に生まれ、法では「嫡孫を得て財は禄のようである」としている。しかしその孫の劭・濬は双方簒逆され、ほどなく断絶して宗廟を失った。これが当たらなかった五つ目である。」
「葬篇」にいう。「『易』には「昔は使者を葬る場合、薪を幾重にも屍体にかぶせて野原に埋葬するだけで、封(土饅頭)をつくることも、樹を植えて墓標とすることもせず、喪に服する期間にも定めがなかった。後世の聖人がこれにかえて棺槨を用いるようにしたのは、おそらく大過の卦から思いついたことであろう」とあり、『孝経』に「葬とは蔵である。蔵とは物をしまって人に見えぬようにすることである」とあり、「その宅兆(墓域)を選んで、これを安置する」とあるように、これによって感念仰慕とするところを、魂神の宅地とするのである。朝市のような場所では将来どうなるかわからないし、山中の渓流では石や水の侵食で地下がどうなっているかわからないのである。これは葬地をえらぶのに卜筮によってはかり、後難なきを願い、そして慎重の礼を備えるのである。後代、葬説は祭事・神事を司る巫祝が行い、一つでも間違えると災いが死生に及ぶと言い、多くの妨げや禁忌を言い、その術を売り、みだりに物怪が憑依しているといい、その葬書に到っては百二十家もある。『春秋』に「王者は死後七日目に殯(仮埋葬)し、七月目に葬る。諸侯は五日目に殯し、五月目に葬る。大夫は三月目に、士・庶人は月をまたぐだけである」とあり、葬方は貴賎によって同じではなく、礼もまた異なるのである。同じようにしようとすれば、弔いに遠近の期があり、事を制法で図るのである。そのため期に先んじて葬るのを、これを不懐というのである。期を後になってするのを不葬といい、これを殆礼というのである。これは葬礼には定まった期間というものがあり、年と月を選べないのである。これが一つ目である。また、「丁巳、定公の葬儀が挙行された。雨のため完了せず、翌日に完了したのは礼に合している」(左伝定公十五年)とあるのは、君子はこれを善としている。『礼記』に、「葬事は遠い日を先に占う」とあるのは、末日より進んで、不懐を避けることをいうのである。今の法では己亥日を葬に用いるのを最凶としているが、『春秋』をみると、この日に葬られた者は二十族あまりにたっしている。これ葬とは日を選ばないのである。これが二つ目である。礼に、「周の時代は赤を尊んだから、大事のことには日出の時を用いた。殷は白を尊んだから、大事は日中を用いた。夏は黒を尊んだから、大事は日の暮れを用いた」とある。大事とはなにか。喪礼のことである。これによって当代の尊んだところをみれば、時刻は早晩である。『春秋』に「鄭卿子産および子太叔が簡公を葬った。この時、司墓大夫の家屋で道路にひっかかるものがあり、これを壊して直進すれば、早朝のうちに埋葬が終わるが、壊さないと迂回して埋葬が日中になってしまう。子産は家屋を壊すことを望まず、日中まで待とうとした。子太叔は「もし日中の埋葬になってしまうと、諸侯大夫で会葬に来た者を待たせてしまう」と言った。」とあるが、これは子産・太叔が時の得失を尋ねたのではなく、ただ人事の可否を論じただけであった。曾子は、「葬礼の時に日蝕に遭遇したら、路の左で止まり、明るくなるのを待ってから進むのだ」と言っており、非常に備えた理由であった。だが『葬書』によると、葬家は多く乾・艮の二時を採用しているが、つまり夜半に近づいており、この一文は礼に背いている。葬は時を選ばないのだ。これが三つ目である。『孝経』に「身を立て道を行い、名を後世に揚げるのは、父母の名をあらわすためである」とあり、『易』には「天地にあやかる聖人の偉大な宝物は、天子の位である。しからば何によってその位を守るかといえば、それは仁である」とある。しかし法には、「官爵や富貴は、葬がもたらすものである。寿命の長短や、一族子孫繁栄も、葬が招くのである」とある。日に一日慎めば、輝きは無限となる。徳は行われなければ、子孫が絶える最大の不孝となる。臧孫氏は後裔が魯で栄えたが、葬で吉を得たとは聞いたことがない。若敖氏の祭祀は楚で途絶えたが、葬で凶を得たとは聞いたことがない。これによって葬に吉凶があるとは信じるべきではないのである。これが四つ目である。今葬法はすべて五姓の別によって実施されているが、古の葬では、国都の北であった。趙氏の葬は九原で行われ、漢家の山陵はあちこちに墓域がある。まだどうして上利や下利、大墓や小墓の意味があるのだろうか。漢の劉氏の子孫は本流・支流ともに絶えず、趙の後裔は六国の王となった。つまり葬は五姓を用いるというのは信じるべきではないのである。これが五つ目である。また人には、始めは卑賎で後に高貴となり、逆に始めは穏やかで終わりはそうではない者がいる。子文(闘穀於菟)は令尹となって、三たび仕えて三たび辞め、展禽(柳下季)は三度士師の職を追放された。彼の墓はすでに定まって改められず、この名位は固定される。何故なのか。そのため栄辱の高低は各自諸人によるのであって、葬が原因ではないのを知るのである。これが六つ目である。世の人は葬の巫祝のために欺かれ、悲しみを忘れ、幸福になりたいと願うのである。これによって塚や墳をみて、官爵をこいねがうのである。そこで日時を択び、金銭の利益をつくすのである。あるいは辰の日に哭さず、喜んで弔を受けるといい、あるいは同一の相に属する場合は埋葬することができず、礼服をきてその親を送るのを避けるという。これは欺いて礼俗を崩すものであり、法は用いるべきではないのである。これが七つ目である。
帝はまた詔して「方域図」および「教飛騎戦陣図」をつくらせ、しばしばお褒めをいただいた。太常丞に抜擢された。麟徳年間(664-665)、太子司更大夫の官のまま卒した。普段より書物を校正したり著述が非常に多かった。
子の
呂方毅は、七歳にしてよく経をよんだ。太宗はその賢さを聞いて、召見させると優秀であるとし、束帛を賜った。成長すると右衛鎧曹参軍となった。母を喪くすと、哀悼のあまり卒した。布車は母の葬にしたがい、友人の
郎余令は白粥・玄酒・生芻で道の傍らに祭った。世の人はともに哀しんだ。
陳子昂は、字は伯玉で、梓州射洪の人である。その先祖は新城におり、六世の祖の陳太楽は南斉の時代にあたり、兄弟で豪桀ぶりを競い、梁の武帝は命じて郡司馬とした。父の陳元敬は財産があり、ある年に飢饉になると、粟一万石を出して郷里に配給して救った。明経科に合格し、文林郎に任命された。
陳子昂は十八歳になってもまだ書物を知ることはなく、富豪の子であるから、男だてをきそい、博徒と交際していた。ある日村の学校に入り、自分の無学さを後悔し、それまでの自分を振り捨てた。文明年間初頭(684)、進士に及第した。当時高宗が崩御し、柩が長安に帰ろうとしており、ここに関中は歳時の定めがなく、陳子昂は盛んに東都が優れた土地であるとを述べ、山陵を造営すべきとした。上書に以下のように述べた。
「臣は以下のように聞いています。秦が咸陽により、漢が長安を都としたのは、山河が堅固となって、天下が帰服したからで、北は胡・宛の利を仮り、南は巴・蜀の囲みに助け、関東の粟を転送し、山西の宝を収容し、長らく異民族に対する政策に利があり、世界を制したのです。今はそうではなく、燕・代の地は匈奴が圧迫し、巴・隴の地は吐蕃がまとわりつき、西は疲弊して千里の地も食料が乏しく、北は十五城もの要塞があります。歳月はめまぐるしく、秦は首尾完うせず、ただ関中の間のみ残っているだけになったのです。この頃飢饉となり、百姓は連年の飢饉で、河に迫ってあちこち移動したところで、ただ赤い土地があるだけなのです。隴をめぐって北に行っても、青草に遭遇することはありません。父兄は転々と移動し、妻子は流浪して離別するのです。天に頼って災いを去るべく願っても、去年の実りは少なく、消耗のあまり、何人かは盗賊に身をやつさざるを得ませんでした。しかし流亡すると帰ることはなく、白骨はあちこちにあり、田野には主はおらず、蓄積したとしても、なお悲しむべきことなのです。陛下は先帝の遺志によって、まさに長旅にお出かけになられ、西京に留まろうとされており、千乗万騎の大軍も、どうして命令に従わないということがありましょうか。山陵は中腹に穴を掘り、必ず徒役をついやし、疲弊した者たちを率い、数万の軍をおこし、近畿を徴発し、老いも若きも笞打って監督し、山をけずって石をはこび、走って功績を得ようと、春になにもしなければ、どうして秋の実りがあると望むのでしょうか。病にやせ衰えて噛み残し、再び艱苦にかかり、その苦しみに耐えられない者が出て、そのため盗賊に身をやつし、叫喚にテコ入れすることになり、詳細に検討しなければなりません。また天子は四海を一家とし、舜は蒼梧に葬られ、禹は会稽に葬られましたが、どうして夷人の末裔の地を愛して中国を田舎にしてしまうのでしょうか。他に無いのを示すのです。周の平王・漢の光武帝は都を洛陽においてましたが、山陵・寝廟はともに西土の地にあり、本当に当時はそうせざるを得なかったので、そのため小事をのこし大事をのこすのも、禍去って福をとるのです。今高い山々は高くそびえ、北は嵩山・邙山に対し、西の汝・海の地は、祝融・太昊の故地があるのです。園陵の美は、どうしてまた加えられないのでしょうか。かつ太原の蔵は巨万の倉で、洛口は天下の粟をもうけ、そこで捨てて顧みられないようしようとすれば、鼠の集団がひそかに盗みに入り、西は陝州郊外から、東は虎牢から侵入し、敖倉一抔の粟を奪いますが、陛下はどうやって遮られるのでしょうか。」
武后はその才能を優れているとし、金華殿に召し出した。陳子昂の容貌は柔和で、風采があがらなかったが、上記の回答をおこなったから、麟台正字に任命された。
垂拱年間(685-688)初頭、詔して群臣に「元気(宇宙自然の気)を調えるのはどのような方法をすべきであるか」と尋ねた。陳子昂はこれによって武后に明堂・
太学をおこすことをすすめ、そこで上言した。
「臣は師にこのように聞いています。元気というのは、天地の始で、万物の祖で、王政の大端です。天地は陰陽に大なるものはなく、万物は人に霊なるものはなく、王政は人心を安心させるのに先んじるものはありません。そのため人心が安心すれば陰陽は和し、陰陽が和するなら天地は平らかで、天地が平らかならば元気は正なのです。先王は人心によって天に通じさせたので、ここに群生を養成し、天徳に奉順し、人をしてその業を楽しませ、その食を美味いものとし、その服を美なるものとし、その後に天瑞が降り、地符が升り、風雨は季節にかない、草木は生い茂るのです。だから顓頊・唐・虞はあえて荒寧しませんでした。その書に、「百姓たちの行いが明らかなものになると、さらにすべての国々が仲良くなるように図られた。このようにして、民衆たちは、みな教化を被り、その風俗がやわらいだのである。そこで羲氏と和氏のものに命じ、大いなる天につつしみ従って、日月星辰の運行を暦に写し取り、人々に季節を丁寧に教え授けさせられた。」とあるのは、これらを得て和したのです。夏・商が衰え、桀・紂が暗逆であったのは、陰陽は行いにそむき、天地は震え怒り、山川には神鬼があらわれ、妖が発して災いがおこり、疫病が流行し、ついに滅亡したのは、和を失ったからです。周の文王・武王の創業にいたると、誠信忠厚を百姓に加え、そのため成王・康王は刑の執行を四十年あまりも差し控えたので、天人はまさに和したのです。しかし幽王・厲王は乱れること常であり、邪悪かつ暴虐で、天地をはずかしめ、山川や塚や社は沸き崩れ、人は憂いて恨みを懐いだのです。その詩に、「大いなる天よりの恵みはなし。あるのはただ、災いばかり。」というのは、天が先でもなく後でもなく、虐げられて病となり、思うになんと悲しいことでしょうか。近くは隋の煬帝が四海の富をたのんで、溝を掘って河をくずし、伊州・洛州より揚州に繋げましたが、生きる人の力を疲れさせ、天地の蔵を洩らし、中国は立ち上がれなくなり、そのため身を人の手によって殺され、宗廟は廃墟となりました。元気の理にそむくのです。臣は禍乱の動きをみるに、天人の際は、先師の説であることは、あきらなかことであり、欺くべきではありません。
陛下は天地の徳を含み、日月の光は、遠くから眺められてお考えになり、天地の沖和の気を求めようと考えられていますが、これは伏羲氏が三皇の首となった理由であります。昔、天皇大帝(高宗)は元符を手中におさめ、東は太山(泰山)に封禅されましたが、しかしまだ明堂を建立せずに上帝を享り、万世の鴻業を伝えましたが、欠如して照らすことはなく、ほとんどその盛徳を留め、陛下に発揮させるものとなりました。臣は元気を和するというのは、人倫睦まじく、これを捨てれば無用のものとなります。昔、明堂は、黄帝は合宮、有虞は総期(総章)、堯は衢室、夏は世室といい、すべて元気を調えるのがそのいわれであり、陰陽を治めるのです。臣は以下のように聞いています。明堂は天地の制で、陰陽の統、二十四気・八風・十二月・四時・五行・二十八宿、すべて備わっていないものはないのです。王者が失政すれば災いがおこり、善政であれば祥瑞がみられます。臣は願うところは陛下よ、唐のために万世の業を回復し、南郊におまつりし、明堂を建て、天下を民とともに改めてはじめ、『周礼』・「月令(『礼記』)」によって考察してこれを行います。つまり月は孟春の季節に、鸞輅(天子の車)に乗り、蒼龍(逞馬)に引かせ、三公・九卿・大夫を率い、明堂の東の部分を占める青陽殿の北室に起居し、後ろに屏風を立て、玉几(玉の机)によりかかり、天下の政を聴きます。自ら籍田で耕し、親蠶をおこなって農業・養蚕をすすめ、三老・五更らの長老を養って孝悌の道を教え、訴えを明らかにして獄徒囚人を憐れみ、残忍な刑罰をやすませ、文徳を修して戦争を止め、孝廉な人物をあきらかにして貪欲な官吏を排除します。後宮で妃嬪御女ではない者は宮中から出します。珠玉などの宝石、錦や美しい刺繍、巧みな彫り物は無益なのでこれを破棄します。巫鬼・淫祀で人を惑わせるような者を禁止します。臣はしばらくもしないうちにまた太平を見ることができると言えるのです。」
また申し上げた。「陛下はまさに広く教化を行いましたが、
太学を廃止されてから久しく、広大な殿堂は荒れ果てて埃が被っており、『詩経』・『尚書』を読む声は聞こえることはなく、英明な詔はまだ及んでいないかのようで、愚臣はひそかに恨みとするところです。太学は、政教の地で、君臣上下の礼がここでおこり、祭器に酒食を盛って礼拝するところなのです。天子はここに賢臣を得るのです。今詳しくは論じませんが、人倫を睦まじくしたいと思い、治世の大綱をおこそうとしても、その根本が失われているのに無いものを求めたところで、得ることはできないのです。「親の喪は三年ですが、長すぎませんか。君子が三年間礼法と音楽を稽古しないと、忘れてしまいます。」(『論語』陽貨第十七)と言いますが、どうして天下のために礼楽を軽んじるのでしょうか。願わくは貴族の長子を引き連れて太学に帰らせてください。国家の大務は廃してしまうべきではありません。」
武后は召喚して謁見され、筆札(文具)を中書省で賜い、箇条書きで利害を上書させた。陳子昂は三事を応えた。
その一にいう。「全国に大使を出して天下を巡察させ、官吏の考課を上申させ、人民の労苦のもとを探させるのは、臣はいまだに最善をつくしていないと思います。陛下が使者を発すれば、必ず天子が早朝深夜も天下に勤め憂いていることを百姓に知らせることになります。群臣はこれを知って治績を考えてこれを任命しますし、姦暴不逞の徒はこれを知って邪心を除こうとするでしょう。そこで選ばれるようでなければ、仁であれば孤児を憐れむことができ、賢明であれば用いられない者を見出すことができ、剛であれば強い守りを避けず、智であれば悪者を見つけ出すことができ、そのような後には使となったら、そのため使者がまだ行動する前から、天下は首を長くして待っているのです。今、使がまだ出ないのでしたら、道路の人は皆すでに指さして笑い、賢能の士を推薦し、出来の悪い者を下そうと望んでも、どうしてできるというのでしょうか。宰相は詔書を奉って、遣使の名目だけを果たすだけで、使を任命する実効性はありません。そのような状態で使が出発したところで、天下の弊害となるだけで、いたずらに百姓に道路を直させ、往来を送迎させることになり、その有益性は見いだせないのです。臣は願うところは陛下よ、さらに威厳荘重で節度があり、衆によって推薦された者を選んで、そこで前殿に臨御され、使者の礼遇によってこれを謁見され、よくわかるよう繰り返し勅して使が出発する意義をいい聞かせ、そこで節を授けます。京師から州県にいたるまで、才子・賢人を抜擢・登用し、人民の労苦のもとを探させ、上意を宣布し、もしくは家を見させて戸ごとにわけを納得させます。昔、堯・舜は席を離れることなく天下を教え導いたというのは、思うに官吏の考課の良し悪しの意見を集約できたからでしょう。陛下、適任者を得ることができないことがわかれば、使を出すのは少なくするのにこしたことはありません。使をしきりに何度もすれば教化に無益であり、これは小魚を煮てしばしば傷つけるようなものです。」
その二にいう。「刺史・県令は、政教の首です。陛下は恩恵をしかれ、詔書を下し、必ず刺史・県令を待って謹んでこれを宣して執行させます。その人材を得ることができなければ、役人を捨て置いて建物の壁に掛けているようになるだけで、百姓はどうしてこれを知ることができましょうか。一州は賢明な刺史を得ると、十万戸はその福を頼るのです。不才の刺史を得ると、十万戸は禍を受けるのです。国家の興廃はこの職にあるのです。今、吏部は選任にあたって県令を任命するのに県尉を任命するようにしており、ただ資格と考課を見るだけで、才子・賢人を求めているわけではありません。人事に序列によらずに行ったことがあったとしても、天下はやかましく謗り合い、なれて常に変わることはないのです。そのため凡人は皆県令に任じられ、教化はひたすらに遅く、思うにこのようにひどいものがありましょうか。」
その三にいう。「天下の危機は、禍福によって生じています。機が静かならば福があり、動であれば禍となり、百姓が安心すれば楽が生じ、不安なら生を軽んじるのです。今軍事の弊害は、夫妻は安心できず、父子は互いに養えないこと、五・六年になります。剣南より河州・隴州まで、山東では青州・徐州・曹州・汴州、河北では滄州・瀛州・趙州・鄚州が、あるいは洪水や旱魃で困窮し、あるいは兵役や疫病で苦しみ、死亡や流浪でほぼ払底してしまいました。なおも陛下を頼ってその失職を憐れまれ、おしなべて軍事徴発を一切罷められました。人は妻子に再開し、父兄は互いに守り合い、よく機を静かにしたというべきでしょう。しかしながら臣は将軍が夷狄の利に貪欲であることを恐れており、地を広げ軍が強いからと陛下を説得する者は、機を動かそうとしており、機が動けば禍いを構えることになるのです。文徳を修し、刑罰を去らせ、農業・養蚕をすすめ、民の疲弊を休ませるのです。蛮夷も中国に聖王があるのを知れば、必ず通訳を重ねてやってくるでしょう。」
当時、吐蕃と鉄勒九姓が叛き、
田揚名に勅して金山道の十姓(西突厥)の兵を発してこれを討伐させた。十姓の君長は三万騎をもって戦い、功績があり、遂に入朝を願った。武后はかつて命を奉らず勝手に回紇を破ったことを責め、聴さなかった。陳子昂は上疏して以下のように述べた。
「国家がよく十姓を制するできる理由は、九姓は強大であるから、中国に臣服し、そのため勢力が微弱でありながら、下吏の命令を受けているのです。今九姓が叛き、北蕃が争乱となり、君長に主がおらず、回紇は破られ、磧(ゴビ砂漠)北の諸姓はすでに国を保っておらず、挟撃して背いた者を滅ぼそうとしても、ただ金山諸蕃が形勢を共にするだけとなあっています。有司はそれを理解せずに
田揚名が勝手に回紇を破ったことを十姓の罪に帰し、拒んで帰らさせ、入朝させないことは、恐れながら羈戎に対する長期の策ではありません。戎には鳥や獣のような心があり、親など戦いに則さない年長者が子に順い、疑いがおこればただちに反乱するようなものたちで、今その善意を阻むのでしたら、十姓の心内には国家に対する親信の恩がなくなり、外には回紇への仇敵の患いがあり、心が安心せず、鳥は驚き狼が後方を警戒するようになり、そのため河西諸蕃は自然と命令を拒むようになります。また夷狄は互いに攻撃し合うことは、中国にとって福なのです。今、回紇はすでに破られているので、もうどうなっているのかわかりようがありません。十姓に罪はなく、また絶えさせてはなりません。罪は田揚名一人にとどめれば、その酋領を慰めることができるでしょう。
近頃、同城に仮に安北府を置くという勅を出されました。この地は磧(ゴビ砂漠)の南口にあたり、匈奴を制する要衝で、常に激務の要地です。臣は近頃、磧北の突厥の帰順した者はすでに千帳あまりにおよんでおり、来る者はまだ止むことなく、甘州の降伏した戸数は四千帳にもなり、これもまた同城に置かれました。今、磧北は戦乱・飢饉のため、頼る所とてありません。陛下は安北府を開いて降伏する者を招きいれられ、誠に戎狄を撫育する真心であるといえるでしょう。しかしながら同城はもとより蓄えがなく、降伏した蕃人の部落は寒さや飢えを免れず、さらに互いに奪い合うのです。今、安北府には官有の牛・羊が六千頭あり、粟麦は一万斛で、城は孤立して兵は少なく、降る者は日々多くなりますが、救済することができず、盗賊が日に日に多くなるのです。夫人の情は生を求めるのに危急なのですが、今、粟麦・牛羊はこれを餌としていますが、その死を救うことができないのに、どうして盗賊になることを阻止できましょうか。盗賊がおこれば安北は全うできず、そうなれば甘州・涼州以北は失われて、後に辺境の禍となり、その禍は計り知ることが出来ないのです。これはわざわざ誘って乱を誘発しており、盗賊に教えているようなものなのです。また夷狄が代わって雄となり、中国に抗し、勃興するようになり、散り散りとなった者を寄せ集め、衆が興隆するようなことになれば、これは国家の大きな危機であり、失うべきではありません。」
また次のように述べた。「河西の諸州は、軍が興って以来、公私の備蓄は嘆かわしいものがあります。涼州は年間六万斛を消費し、屯田から収穫されても補填することができません。陛下は河西を制し、敵の戎を平定しようとしますが、この州は空虚で、いまだ動かすべきではありません。甘州が積むところは四十万斛あり、その山川をみるに、誠に河西の喉元の地で、北は九姓にあたり、南は吐蕃にせまっており、両者は邪悪ではかりがたく、我が辺境の隙を伺っています。そのため甘州は地が広く粟などの穀物は多いのに、左右からの敵を受けているから、ただ戸は三千戸どまりで、精兵となるべき者は少ないのですが、屯田は広遠で、倉庫は満ち足りて、瓜州・粛州以西は、すべてその輸食に頼り、一旬(十日)も輸送に行かなかれば、兵士はすでに飢餓空腹となってしまいます。この河西の命脈は甘州にかかっているのです。その収穫量は四十屯あまりで、水泉は良質で、天の時を待つことなく、毎年二十万斛の歳入がありますが、ただ人力は乏しく、未だ開梱をつくしていません。他日、吐蕃があえて東侵しないのは、甘州・涼州にいたる兵士・馬が強盛なためです。今、甘州は粟を積むこと一万ばかりで、兵が少ないため賊を制することができず、もし吐蕃が敢えて大挙侵入すれば、貯蓄の穀物は焼き払われ、諸屯は蹂躙され、そうなったとき河西の諸州を我らはどうやって守ればいいのでしょうか。屯兵を増やし、外では盗賊を防ぎ、内は農業を営ませ、数年の収入をとり、兵士百万を食わせるのでしたら、天兵が臨むところ、どうして求めて得られないことがありましょうか。」
その後吐蕃はやはり入寇し、ついに後世に辺境の患いとなること最も甚大なものであった。
武后はまさに蜀山を開き、雅州道より生羌を討ち、そこで吐蕃を襲撃しようと謀った。陳子昂は上書して七つの理由によって諫止した。それにいう。「臣は、乱がおこるのは必ず怨みによるからだと聞いています。雅州の羌はいまだかつて一日たりとも盗賊となったことはなく、今罪なく殺戮を被るのは、怨みは必ず激しいものとなり、怨みが激しければ蜂の巣を突っついて驚かせるようにして滅び、辺境の村々は兵を連ねて守備体制は解けず、それは蜀の禍や乱を招くことになります。昔後漢の時に西涼で敗れて喪失しましたが、乱のはじまりは諸羌によるものでした。これが一つ目の理由です。吐蕃は狡猾で、天誅に抗うこと二十年あまりです。先日、
薛仁貴・
郭待封は十万の軍で大非川にて敗れ、一兵士も帰ることはありませんでした。
李敬玄・
劉審礼は十八万の軍をあげて青海に侵攻しましたが、身は賊の朝廷に捕らえられ、関・隴は空地となりました。今すなわち李処一をたてて上将としようとしていますが、駆け疲れた兵に攻撃させてこれを吐蕃の幸運とさせてはならず、賊に笑われてしまいます。これが二つ目の理由です。物事には利を求めて害を得ることがあります。蜀は昔中国とは通じておらず、秦は金牛・美女によって蜀侯をそそのかし、蜀侯は五丁の力士を使って桟道を掛け、山を削って谷に通し、秦の贈り物を迎えさせました。秦は兵を従わせて内部に入って蜀侯を滅ぼしました。これが三つ目の理由です。吐蕃は蜀の富を愛し、蜀の富を盗もうとしています。いたずらに山川の険難に阻まれ、餓狼の喙に苦しみ食を得ることができないのです。今山羌を撤し、隘道をひらくことは、その逃亡の原因を解決させ、先導となって辺境を攻めさせることになります。これは道を除いて賊を待ち、全蜀をあげてこれに派遣します。これが四つ目の理由です。蜀は西南の一都会で、国の宝庫で、また人材は豊かで粟は多く、江にしたがって下れば、中国は利益を感受することができます。今、僥倖の利をはかろうとするのに、事を西羌の一件にゆだねています。羌の地を得ても耕やす地は不足しており、羌の財を得ても富むには足りません。これはいたずらに無辜の民を殺して、陛下の仁を傷つけるのです。これが五つ目の理由です。蜀の地のたのむところは険難の地であることです。蜀が安全なところは、戦争がないことです。今、蜀の険を開き、蜀の人を戦争に動員すれば、険を開けば侵攻されることになり、人は戦争で財を失うのです。臣が恐れるのは羌だけではなく、内部に悪者・盗賊がいることなのです。他日、益州長史の李崇真は吐蕃が松州に侵入したのを口実として、天子は軍勢を集合させて、兵糧を転送して備えましたが、三年もたたないうちに、巴・蜀は大いに騒動しましたが、一人の賊とて見ることはなく、李崇真はすでに巨万の賄賂を受けていました。今、奸臣がこのように利益をはかろうとしなければ、また生羌とて計略の助けとなることができるでしょうか。これが六つ目の理由です。蜀の兵士は臆病で戦闘経験がなく、一人の敵が矛を持って攻撃してくれば、百人でもあたることはできません。もしただちに西戎を破り滅すことができなければ、臣は蜀の辺境は守られず、羌夷が跋扈することになるでしょう。これが七つ目の理由です。国家が近ごろ安北府を廃止し、単于を抜き、亀茲(キシュ)・疏勒(カシュガル)を放棄し、天下は思うところは、国家の務めは仁であって領土を広げることではあく、養うことであって殺すことではなく、太古の三皇の政事を行うことなのです。今、欲深い者の建議に従えば、無罪の羌を誅殺して、全蜀の患いをのこし、これは臣の理解できないところです。今、山東は飢餓となり、関隴は疲弊し、生人は流浪しており、誠に陛下が安寧になされれば、天人が和する時であって、どうして甲兵を動かして大戦役を起こして、自ら乱を生じさせるのでしょうか。また西の軍は守りを失い、北の軍は不利で、辺境の人は動揺しているのに、今また軍をおこして不測の事態に投じており、つまらない者がいたずらに夷狄に利する建議を行っており、これは帝王の至徳ではありません。よく天下をなす者は、大をはかって小をはからず、徳に務めて刑罰に務めず、安全にありながらも危険を思い、利をはかって害をおもんばかります。願わくば陛下、審らかにお考えくださりますように。」
武后は再び召喚して謁見され、為政の要、現状に不便なものを論じさせ、上古の故事を援用せず、空言を批判した。陳子昂はそこで八科を奏上した。一つ目は措刑、二つ目は官人、三つ目は知賢、四つ目は去疑、五つ目は招諫、六つ目は勧賞、七つ目は息兵、八つ目は安宗子であった。その大略に言う。
「今、各種制度はすでに備わっていますが、ただし刑や獄は厳しいのに法自体の密度は高くなく、為政の要となってはいません。だいたい君主がはじめて天下を制した時は、必ず凶乱叛逆の人があって、駆除をすれば天誅が明らかとなります。凶賊叛徒がすでに滅びれば、そこで人の心がしたがい、過ちを赦して罪を宥すのです。思うに刑は乱を禁じるものであって、乱が静かなれば刑もやみ、刑罰自体が泰平となる原因にはならないのです。太平の人は、徳を楽しんで刑を憎み、刑が加えられれば、人必は悲痛憂鬱となり、そのため聖人は刑罰をすえおくことを貴んだのです。この頃大赦となり、群罪が一掃されると、天下は慶びとなり、皆過去を悔い改めることができたのです。近日、詔獄はややしきりとなり、支党を捕縛すれば、芋づる式に尋問していますが、思うに獄吏は天意を知らず、凄惨な態度であたるのです。誠に和楽平易の道を広め、勅法して罰を慎み、無実の誣告・冤罪をはぶけば、これは太平で人を安心させることになるでしょう。
官人が賢人ならば、政事が治まるところです。しかし君子は小人でそれぞれ自分の党類をたっとびます。もし陛下が賢人を好みながら任命されないのでしたら、任命は信をおくことができず、信があっても功績をあげられず、功績があっても賞しなければ、賢人がいたとしても、ついには来るのをよしとせず、また勧めてもよしとしないのです。これに反するならば、天下の賢人は集まるでしょう。
議する者は、「賢は知るべからず、人は識るべからず」と言いますが、臣は、賢はもとより知りやすく、人ももとより知りやすいと考えています。徳行をたっとぶ者は凶悪陰険ではなく、公正につとめる者は邪心がなく、清廉な者は貪欲を憎み、信ある者は偽りを憎み、智ある者は愚者の謀をおこなわず、勇ある者は臆病者のような死に方をせず、なお鸞と隼は翼を接することはなく、香草と臭い雁金草では臭気をともにせず、その理は自然なものなのです。なぜならば、徳を凶と並べれば、勢は相容れることはありません。正で佞を攻めても、勢は有利になることはありません。清廉な者に貪欲をすすめても、勢は相容れることはありません。信によって偽りを正しても、勢は融和することはありません。智者は謀を尊びますが、愚者は聴くことすらありません。勇者は死に逍遥として従いますが、臆病者は従いません。この趣向の反するものなのです。賢人はいまだかつて効用を思わないことはなく、その同類を知ることができず、これが時世に埋没させてしまう理由なのです。誠によく俊才・賢良を信任し、左右の者に明らかに賢行の者がいるのを知り、これに爵位・高禄を賜い、賢行の類を互いに推挙させるのであれば、天下の理得なのです。
陛下は賢人を得たこと知って任用するべきところですが、信任を多くしておりません。信任をしていても効らないのです。
裴炎・
劉禕之・
周思茂・
騫味道のようにもとより用いられましたが、皆恩徳に背いて死んでしまいました。世間はこれを陛下が信賢を疑っているからだといいます。臣はもとよりそうだとは思いません。昔の人は食にむせいで病となるのだから、食をやめましたが、食が絶えれば死ぬのを知らないでの言いなのです。国にとっての賢人は、人にとって食べるようなものなので、人は一回むせぶからといって食べるのを止めるべきではなく、国は一人の賢者が誤りをおこすからといって正しい士を遠ざけるべきではありません。これは神鑑知る所なのです。
聖人の大徳は、よく諌めを受け入れることにあります。太宗の徳は三皇より上回っていますが、それはよく
魏徴の直諌を受け入れたことにあります。今、誠にあえて諫める硬骨の臣があり、陛下が広く受け入れて従われるのでしたら、新たな盛徳によって、万世語り継がれるでしょう。
臣は以下のように聞いています。功臣が賞されなければ、功を勧めるものはいなくなるでしょう。死士が賞されなければ、勇を勧めるものはいなくなるでしょう。今、勤労や決死の働きをした者に名爵が及ぶことはありません。ひそかに栄禄をとったり無意味に職をしめたり、寵愛によってみだりに官職を加えられたりすれば、功績を広く世の中に示して行いを励ますことができなくなります。願わくば節を全うして死んだ者を表彰し、百僚を励まされますように。古人が「賞一人にして千万人悦ぶ」とあるのは、思うにこのことをいうのでしょう。
今、国家の事の最大のものは、出兵の憂いが毎年おこることで、賦役は省みられず、軍をおこすこと十万人であれば、百万の家が本業を安心して行うことができなくなります。北狄の有事から今まで十年、中国の勝利を聞いたことがありません。凡将が兵力の逐次投入を行い、徭役は日に日に拡大し、兵力は日に日に多くなりました。願わくば詳細に損益をはかり、利害を計算し、有意は行うべきではなく、出兵を虚しくしてはなりません。出兵をやめればそれは人心を安心させることになります。
賊が規律違反するということは、自ら屠り滅ぼされるのを選ぶことですが、罪は叛逆した首謀者にとどめ、また連座することはありません。宗室の子弟は、皆更生することができました。しかしながら臣が願うところは陛下、重ねてこれを慰撫され、天子の慈善仁愛を明らかに知らせさせれば、下々は安心できるのです。臣は、人の心は自分から表明することはできず、そこで疑いとなり、疑えば恐れ、恐れがあれば罪が生じると聞いています。和楽平和の徳を賜われ、過ちのない地におらしめられますように。」
しばらくして右衛冑曹参軍に遷った。
武后は既に皇帝を称し、国号を改めて周とし、陳子昂は「周受命頌」を奉って媚びたから武后は喜んだ。しばしば召喚して謁見され、政治の意見を尋ねられたとはいえ、論じれば歯に衣着せず正邪を論じたから、奏聞してもそのつどとりあげられることはなかった。母の喪によって官を去り、服喪が終わると右拾遺に抜擢された。
陳子昂は病がちとなり、職にあっても楽しまなかった。当時、
武攸宜が契丹を討伐し、高位のものが幕府に置かれたが、上表によって陳子昂が参謀となった。漁陽に行くと、前軍が敗れて全軍が震撼し、武攸宜は軽視して戦略を立てることがなかったから、陳子昂は諌めて、「陛下は天下の兵を発して大王に委ねられました。どうして敗北の危機がここにあるのに、簡単になされようとするのですか。今、大王の法制は立たず、小児の戯れのようです。願わくば、智者と愚者を詳細に調べ上げ、勇者と臆病者をはかり、軍の多いのと少ないのを見極め、長をもって短を攻撃し、これによって恥の道を刷新しましょう。軍をみてみますとまだ威厳があるようですが、十分信頼できる者を選んでこの不測の事態に対処しましょう。大王は重装歩兵と精兵を率いて、境の上にとどめていますが、朱亥のような者がひそかにこの変を発して軍権を奪うようなことがあるのを、本当に恐れています。王はよく我が愚計を聞かれ、麾下一万人を分けて前駆とすれば、契丹の小醜など日もたたないうちに捕虜にできます」と述べたが、武攸宜は陳子昂が儒者であるから、謝絶して受け入れなかった。数日いて、再び計略を進めたが、武攸宜は怒り、陳子昂を参謀から軍曹に降格した。陳子昂は合わないことを知って、再び言うことはなかった。
聖暦年間(698-700)初頭、父が老いたのを理由として、辞職して帰って父のもとにいたいと上表し、詔して在官待遇のまま生計を供給された。父を喪うと、家に並べて葬り、哀しみ慟哭するたびに、聞く者は涙を流した。県令の
段簡は貪欲で酷い人物で、陳子昂の財産が多いのを聞いて、陳子昂を痛めつけようとし、家人に銭二十万緡を納めさせたが、段簡はその賄賂をまだ少ないとして、捕えて獄中に送った。陳子昂は捕えられると、自ら占い、卦が出たのを見て驚いて「天はたすけてくれない、私はもう死ぬのだ」と言い、はたして獄中で死んだ。年四十三歳。
唐が興ると、文章は徐摛・庾肩吾の宮体詩の余風をうけ、天下は祖として尊んだが、陳子昂がはじめて雅正に変えたのである。はじめ感遇詩三十八章をつくると、
王適が、「これは必ず天下の文豪となるだろう」と言い、そこで交際を願った。陳子昂の論著は、当世の法となった。大暦年間(766-779)、東川節度使の
李叔明が旌徳碑を梓州に建て、学堂は今なお残っている。
子の
陳光は、また
趙元の子の趙少微と親しく、ともに文によって称えられた。陳光は商州刺史で終わった。子の陳易甫・陳簡甫は二人とも官位は御史となった。
王無競は、字は仲烈で、代々東莱に遷り、南朝宋の太尉の王弘之の遠裔である。家には財があり、非常に気をおって豪放であった。下筆成章科に選ばれ、欒城尉に任命され、三度官位が遷って監察御史となり、殿中侍御史に改められた。朝礼の時、宰相の
宗楚客と
楊再思が遠くからしゃべっているのを見て、王無競は笏をあげて、「朝礼ではお上を敬い、公たち大臣も敬っているのに、きまりを軽視するのはけしからん」と言ったから宋楚客は怒り、王無競を太子舎人に左遷した。
神龍年間(705-707)初頭、権勢者を謗ったから、出されて蘇州司馬となった。
張易之らが誅されると、かつて交際していたのに連座して、広州に貶され、恨みを持つ者に詔と偽られ、笞で打ち殺された。
趙元は、字は貞固で、河間の人である。祖父の趙掞は、通儒と号し、隋の時代に同郡の劉焯とともに召されて京師に至り、黎陽長に任じられ、居所を汲州に移した。
趙元は幼い頃から志があり、議論を好んだ。洛陽にやって来て遊ぶと、士は争って慕いなびき、搢紳たちの選に謝する返句をつくったからであった。武后が称制すると、その高雅な精神が受け入れられないのを恐れたが、宜禄尉に任じられた。職に就くと、公事でなければ言わず、琴を弾いて薬を育て、隠者のようであったが、自ら隠逸の志がありながらも実現しなかった。卒したとき年四十九歳。その友の
魏元忠・
孟詵・
宋之問・
崔璩らは共に「昭夷先生」と諡した。
賛にいわく、
陳子昂は武后に明堂・
太学を興すことを説き、その言は非常に高雅で、本当に驚くべきものがあった。武后は威柄をぬすみ、大臣・宗室を誅殺し、長男を脅して権力を奪った。陳子昂はそこで王者の術をもってこれに勉めさせ、卒に婦人のために侮り軽蔑されて用られず、玉器を閨房にすすめたが白粉で汚されてしまったというべきであろう。盲目の人には泰山は見えず、耳の聞こえない人には雷の轟音は聞こえない。陳子昂の言は、目や耳の不自由な者に語ったものになってしまったというべきだろうか。
最終更新:2023年08月18日 00:45