王昌齢
?-755
盛唐の詩人。『新唐書』には江寧の人とあるが、『全唐詩』小伝にいうように京兆(陝西省長安)の人である。字は少伯。当時は、王江寧と呼ばれた。その経歴は、あまり明らかでないが、727(開元15)年進士に及第し、秘書郎に任ぜられ、のち、さらに博学宏詞科の試験に及第して、汜水の尉に移った。しかし、放漫な人であったため、江寧県の丞、竜標県の尉などに、しばしば左遷されて、安史の乱後、郷里に帰ったところを、刺史の
閭丘暁に殺されたといわれる。
高適・
王之渙と名をつらねたが、七言絶句の名手としては
李白と並称される。その作品には、恋の詩が多いが、なかでも漢の成帝の後宮、班婕妤のうらみによせた「西宮春怨」「長信秋詞」などがすぐれ、薄命の佳人によせる同情を、きわめて艶麗にうたいあげている。かと思うと、一方には「芙蓉楼にて辛漸を送る」詩のように、透明にして清冽きわまりない作品もあり、その創作に、詩才の幅の広さがうかがわれる。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
参考文献
『アジア歴史事典』2(平凡社,1959)
外部リンク
最終更新:2023年09月03日 12:38