高適 こうせき
702-65
盛唐の詩人。「こうてき」とよむ。滄州・渤海(山東省恵民県)の人。ただしそうではないとする説もある(『四庫全書総目提要』集部2、別集類2にある『高常侍集』の提要)。字は達夫、仲武。諡は忠。韶州刺史の高従文の子。豪放な性格で若いころには生業にしたがわず、梁・末(山東・河北省)地方で放浪の生活を送った。
李白・
杜甫と親交を結んだのもその時期の終わりごろである。749(天宝8)年宋州刺史
張九皋にその才を認められ、有道科に推挙されて封丘尉を授けられたが志を得ず、のち左暁衛兵曹掌書記として河西節度使
哥舒翰の幕府に仕えて重要された。安史の乱のとき、監察御史に任ぜられ哥舒翰を助けて潼関を守った。粛宗のとき、諫議大夫に登用され直言してはばかるところがなかった。永王
李璘の反乱にさいし、淮南節度使をかねて戦功をたてたが、宦官
李輔国にその才を憎まれて太子少詹事に左遷され、ついで彭州刺史として中央を追われた。761(上元元)年梓州副使
段子璋が反乱を起こすにあたり西川節度使
崔光遠にしたがってこれを殺し、崔光遠の失脚後は代わって成都尹剣南西川節度使となって功績をたてた。763(広徳2)年チベットの侵入を防いで失敗し、松・維2州と雲山城を失い、召還されて刑部侍郎となり、散騎常侍に転じ、銀青光禄大夫を加えられ、渤海県侯に封ぜれた。死後、礼部尚書を贈られた。高適がはじめて詩を学んだのは50才ごろからといわれるが、李白・杜甫につぐ当代の代表的詩人の1人に数えられ、友人の
岑参と並称して「高岑」とよばれる。その詩は沈痛で気骨があり、辺境の風物や戦争の苦しみを題材にとったものが多く、詩体としては特に七言にすぐれている。文集『高常侍集』20巻のほか、至徳より大暦にいたる26人の詩140首を選んで収めた『中興間気集』2巻を編集した。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
参考文献
『アジア歴史事典』3(平凡社,1960)
外部リンク
最終更新:2023年09月03日 12:50