唐書巻二百三
列伝第一百二十八
文芸下
李華 翰 観 孟浩然 王昌齢 崔顥 劉太真 邵説 于邵 崔元翰 于公異 李益 盧綸 欧陽詹 秬 李賀 呉武陵 李商隠 薛逢 李頻 呉融
李華は、字は遐叔で、趙州賛皇の人である。曽祖父の
李太沖は、名声は宗族間で冠なるものがあり、郷里の人々は「太沖に兄なし」と語り合った。
太宗の時、祠部郎中に任命された。
李華は若い頃から物事にこだわらず、外面は平坦のようであったら、内面は慎み深く、信を守って物事を受け入れ、事あるごとに前漢の汲黯の人となりを慕った。進士・宏辞科に及第した。天宝十一載(752)、監察御史に遷った。宰相の
楊国忠が外戚の地位にあって狡猾・横暴で、李華を監察使に出したが、弾劾してくじけず、州県は粛然とした。権力者のために勝手に病気とさせられ、右補闕に移された。
安禄山が叛乱を起こすと、上敵を誅殺して守る策を上奏したが、皆留められて返答はなかった。
玄宗が蜀に入ると、百官は散り散りとなって逃げ、李華は母が鄴にいたから、輦車で母を逃がそうとしたが、賊に捕らえられ、鳳閣舎人の偽官に任命されてしまった。賊が平定されると、杭州司戸参軍に貶された。李華は自ら危機・戦乱に対して節を全うできなかったことを悲しみ、また親を安心させることができず、孝養をつくしてその死まで見届けたいと思ったが母を亡くし、遂に江南に引き籠もった。
上元年間(760-761)、左補闕・司封員外郎の官職によって召還された。李華は驚いて「どうして節を失墜し親を危うくしたこの私が天子の寵愛を担いたいと思うことがあろうか」と述べ、病と称して拝命しなかった。
李峴は江南を領すると、上表して幕府に李華を置き、検校吏部員外郎に抜擢された。中風の痺れに苦しんで官を去り、山陽に隠遁して居候となり、子弟を集めて農業に力をつくし、困窮する農民を安心させた。晩年仏教につかえ、大著を書かず、ただ天下の士大夫の家伝・墓版および州県の碑頌を、時々金や絹を持ってきてお願いされ、そこで強いられて応じるくらいであった。大暦年間(766-779)初頭に卒した。
それより以前、李華は「
含元殿賦」をつくって完成させ、
蕭穎士に見せた。
蕭穎士は「景福(何平叔「景福殿賦」)よりは上、霊光(王延寿「魯霊光殿賦」)の下」と言った。李華の文体は穏やかでありながら華麗で、若い頃から度量が広く傑物の風があり、
蕭穎士は爽やかかつ壮健で気ままであり、当時の人は李華が
蕭穎士に及ばないとしていたが、李華は自分自身が
蕭穎士を超越していると疑っていた。そこで「弔古戦場文」を著し、綿密に思考して詳細に校正し、すでに完成したが、汚して古書のように偽装して、仏書の書棚に隠し置いた。ある日、
蕭穎士と一緒に読み、出来栄えを称えて、李華は「当代は誰がこれに及ぶだろうか」と言うと、
蕭穎士は「君がもう少し心を尽くしたら、当代に見当たらない名文になっただろう」と言ったから、李華は愕然として敬服した。
李華は優れた士を推薦するのを好み、名は従って重んじられたのは、
独孤及・
韓雲卿・
韓会・
李紓・
柳識・
崔祐甫・
皇甫冉・
謝良弼・
朱巨川のように、後に宰相となったり顕官に至った者がいた。李華は禍に触れるたびに無念に思い、
元徳秀・
権皐の墓碑銘・四皓賛をつくると、婉曲に道を称えたから、読者はその志を憐れんだ。
李翰は推薦されて進士に及第し、衛県の尉に任命された。天宝年間(742-756)末、
房琯・
韋陟はともに推薦して史官としようとしたが、宰相はよしとしなかった。李翰は
張巡が睢陽で節に殉じて死んだのをよしとしたが、人々はその功績を妬んで、賊に降伏したと上奏したから、
粛宗は未だに張巡の功を知らなかった。李翰は張巡の功状を伝え、以下のように上表した。
「臣は以下のように聞いています。聖主が死難の士を褒め称えるのは、王事に死んだ者の孤児を養い、あるいは親が霊柩車を押し、あるいは封地を追贈し、死を厚く敬って生ける者を慰め、生存者を慰撫して亡き者に答えるからで、だから君は臣を棄てず、臣もまたその君に背かないのです。逆賊の胡どもが叛乱してから、雒陽を根拠地として幽州・朔州を引き連れて河南を併呑しましたが、故御史中丞・贈揚州大都督の
張巡は、忠義者を発奮させ、烏合の衆を率いて雍丘を守り、賊の腹心を壊滅させました。
魯炅が宛州・葉州で敗北し、
哥舒翰が潼関で敗績してしまうと、賊は遂に神器を盗み、占領した長安・洛陽の二京で気勢を上げ、南は漢・江を臨み、西は岐州・雍州に迫ったので、将軍たちは城を並べて、遠望しては出奔するしかありませんでしたが、張巡は孤城を守って退きませんでした。賊は迂回して張巡の背後に出て長江・淮河の地に乱入しようとしたので、張巡は軍を睢陽に退却させ、東南の喉元の領域を縊ったのです。春から冬まで大戦すること数十、小戦は数百、弱兵をもって強兵を制し、奇策を出すこと無限で、凶醜およそ十万あまりを殺害し、賊はあえて睢陽を越えて長江・淮河の地を取らず、長江・淮河の地は全うしたのは、張巡の力なのです。城は孤立して兵糧は尽き果て、外部の救援は到着せず、なおも弱った体を奮い起こして病を癒やし、敵の攻撃を挫いて敵陣を陷し、三軍は人肉を食らって、死ぬとわかっていながらも叛きませんでした。城は陥落して捕らえられましたが、ついに屈する言葉を述べることはなく、兇徒を漫罵し、極端な忠誠は古の忠烈であっても比較できる者はいません。
議論する者は、張巡が食人したのを罪とし、張巡が守れば死ぬことをわかっていながら改めなかったことを愚かであるとしましたが、臣は密かにこれを悲しく思います。忠というのは臣下の教えです。許すというのは法の感情です。張巡は節義のまま死にましたが、臣下の教えが欠けているのではないのです。骸をくだいて竈に入れたのは、本来の感情ではないのです。『春秋』は功績によって過ちを覆し、『尚書』は過ちを赦して刑を宥し、『易』では悪をさえぎって善を称揚し、『国語』では行ないを記録して疵を捨て置きます。今はつまり張巡の罪を議論することは、教を廃して節義を退けるようなものです。功績によって過ちを覆さず、刑によって情を許さず、善をさえぎるべく、悪を称揚すべく、疵を記録して行ないを棄てることは、人倫を勧めるいわれではないことは、勧戒に明らかなのです。また
安禄山が徳に背いて叛乱をおこし、大臣や将軍らが肩を並べて賊に従っているのに、張巡は朝廷に列せられるような官位でもなく、宴にも参加せず、一伍(分隊)の兵士もなく、節刀を賜るような権限もなく、いたずらに身を振るって節義に死に、義兵を動かしたのを、忠とはいわないのでしょうか。数千の兵士を敵の刃の前に斃れさせましたが、もし張巡がいなければ睢陽の防衛戦もなく、睢陽の防衛戦がなければ長江・淮河の地も失われていたのです。賊が長江・淮河の地の物資を得てしまうと、賊の兵力は大きくなって財貨は積まれ、盤石の地を根拠地とされ、西に向けて防衛されるようなことになるので、ついに殲滅したとしても、必ず持久戦となってむなしく日を過ごすことになるのです。今、陝州・鄢州で一戦し、犬羊のような賊どもが潰走し、王師が西に勢力を振るうことができたのは、張巡がその東側で敵勢力を拘束していたからで、天が張巡をして長江・淮河の地をあげて陛下をお待ちしていたのです。しかし援軍が到着しましたが張巡は死んでいました。これを功とはいわないのでしょうか。古は列国が侵略しあっても、それでも危機にはそれぞれが救援しましたが、今、諸将は同じく国恩を受け、命令を奉って逆賊を討伐しなければならないのに、張巡が固守して外部の救援を待っているのに、援軍は来ずに兵糧は尽きてしまい、兵糧が尽きたので食人に及んでしまったことは、つまり張巡の感情を知らなければなりません。たとえ張巡が城を守った当初からすでに食人を計画していた場合、数百人の損害で天下を全うできたとしても、臣はなお功績と過失が互いに拮抗していたと言うべきだと思います。ましてや食人が最初からの計画ではなかったのでしたらどうでしょうか。孔子は『春秋』を編纂して褒貶を明らかにしました。斉の桓公は封禅をしようとしましたが、孔子は略して書きませんでした。晋の文公が周王を河陽に呼び寄せましたが、孔子はそのことを直接的には書きませんでした。張巡があわてて食人に及んだ罪は、封禅を僭称するより軽いのです。王朝を復興させた功績は、あわせたものよりも重いのです。
今、
張巡の子の
張亜夫は官位を得ましたが、飢えや寒さを免れていません。長江・淮河の地は張巡によって保全されたところで、戸口も充実しているので、百戸を割いてその子の食邑とすべきです。また非命に斃れて祟りとなっても、帰るところがあれば災いとはなりません。張巡の身体と首は分裂し、将兵の骸骨は地にさらされています。睢陽で高地を選んで大きい塚を築き、招魂して埋葬し、善の義をあきらかにすべきです。臣は幼い頃から張巡と交遊しましたので、張巡が死難にあったことを悲しみましたが、世間では張巡のことは賛美されたのを見ず、ただ名が高位に登ったのです。もし記録されず、日月が次第に長く経てしまえば、あるいは覆われて伝わらず、あるいは伝えられても事実ではなかったなら、張巡の生き死にが不遇で、本当に悲しみ悼むべきなのです。謹んで伝一篇を撰述しました。臣は愚見ですのであえて死も覚悟して申し上げます。もし史官に列せられることができれば、死骨であっても不朽となるでしょう。」
帝はこれにより心に感じて思い当たるものがあり、
張巡の大節を世間に伝えたから、義士はこれを褒め称えた。
李翰は累進して左補闕・翰林学士となった。大暦年間(766-779)に病のため免職となり、陽翟の地で居候となり卒した。
李翰が文章をつくると精密かつ思弁的であった。常に陽翟県令の
皇甫曾に従い、音楽を求めると、即興で演奏し、ひらめきのまま文章をつくった。族弟の
李紓は
伝がある。
李観は、字は元賓である。貞元年間(785-805)、進士・宏辞科に推挙され、双方合格し、太子校書郎を授けられた。卒し、年二十九歳であった。
李観は文章をよくし、前人のしきたりを踏襲しなかった。当時の人は
韓愈とどちらが上下かを言い合った。李観は若くして死んだが、韓愈は後に文章が益々巧みとなり、議論する者は、李観は文章がまだ完成しきっていなかったのに、韓愈は老いても文章を書き続けたから、だから文壇に名をほしいままにしたとみなした。
陸希声は次のように考えた。「李観は辞(言葉)を大事にしたから、辞に優れたのだ。韓愈は質(内容)を大事にしたから、辞に優れたのだ。韓愈が老いたからといって、ついに李観の辞には及ばなかった。李観が韓愈の後に死んだとしても、また韓愈の質には及ばなかっただろう」と述べた。
孟浩然は、字も浩然で、襄州襄陽の人である。若い頃から節義を好み、喜ん人の患難を救い、鹿門山に隠れた。年四十歳にして京師に遊んだ。かつて
太学で詩を賦して、一堂感嘆し、対抗する者はいなかった。
張九齢・
王維が高雅さを称えた。ここに密かに役所に招き入れたが、突然
玄宗がやって来て、孟浩然は机の下に隠れたが、直接回答すると、
帝は喜び、「朕はその人を聞いたことがあるが見たことがなかった。どうして恐れて隠れるのか」と詔すると孟浩然が出てきた。帝はその詩を尋ねると、孟浩然は再拝し、自ら詩をつくって詠み、「不才にして明主に棄てられる」の句になると、帝は、「きみは仕官を求めなかったのであって、朕がきみを棄てたのではない。どうして私を謗るのか」と言い、帰らせた。採訪使の
韓朝宗が孟浩然と一緒に京師に行こうと約束し、朝廷の人々に推薦しようとした。その時古い友人がやってきて、痛飲して非常に楽しみ、ある者が「君は韓公と約束があっただろう」と言うと、孟浩然は「もう呑んじまったよ。他の事に構ってられるか」と叱り、ついに行かなかった。韓朝宗は怒り、行ってしまったが、孟浩然は後悔しなかった。
張九齢が荊州に赴任すると、任命して府に置かれたが、府を辞めた。開元年間(713-741)末、背中に出来たできもののために卒した。
後に
樊沢が節度使となると、当時、孟浩然の墓は崩れており、
符載は札で樊沢を叩いて「故処士の
孟浩然は、文章は傑出して優れていましたが、歳月が過ぎて落ちぶれ、一門末裔は次第に衰え、墓は崩れ去り、長く人は思いを馳せてきましたが、道の途中に通過すれば憤り嘆くことになります。先に公はさらに大墓を築こうと思っていましたが、全州の縉紳は、風が振動するのを聞くように注目していました。しかし今は外には軍旅が迫り、内は賓客を労い、ただいたずらに歳月だけが過ぎゆき、暇すらありません。本当に風流人に乗じて担わせるなら、公の初志を助けるでしょう」と言った。樊沢はそこでさらに碑を鳳林山の南に刻み、その墓の前に建てた。
それより以前、
王維が郢州を通過し、孟浩然の像を刺史の亭に描き、そこで「浩然亭」と名付けた。咸通年間(860-872)刺史の
鄭諴は賢者の名を忘れてはならないといい、さらに孟亭と名付けた。
開元・天宝年間(713-756)、同じく名を知られた者は、
王昌齢・
崔顥がいたが、全員官位は振るわなかった。
王昌齢は、字は少伯で、江寧の人である。進士に及第し、秘書郎に任命された。又中宏辭、汜水県の尉に任命された。こまごまとした礼儀作法にこだわらなかったから、龍標県の尉に左遷された。世間が戦乱のため郷里に帰ったが、刺史の
閭丘暁に殺された。
張鎬が軍を河南に進め、兵を大いに召集すると、
閭丘暁が最後に来たため、殺そうとした。命乞いして「親がいますから命を助けてください」と言ったが、張鎬は「王昌齢の親は誰が養うのか」と言ったから、
閭丘暁は黙ってしまった。
王昌齢は詩を巧みにし、緻密かつ詩情は清らかで、当時の人は王江寧と言ったという。
崔顥なる者もまた推薦されて進士に及第したが、文章はよくしたが行ないは悪かった。博打を好んで酒を嗜んだ。妻を娶るのにただ容貌の美しい者を選び、しばらくして棄て、約四・五回娶った。司勲員外郎で終わった。
それより以前、
李邕がその名を聞いて、家を出てこれを迎え、崔顥は詩を献じたが、首章に「十五にして王昌に嫁す」とあったから、李邕は「この小僧、無礼者!」と叱り、会わずに帰っていった。
劉太真は、宣州の人である。文章をよくし、蘭陵の
蕭穎士に師事した。進士に及第した。淮南の
陳少游が上表して掌書記とした。かつて陳少游を斉の桓公・晋の文公になぞらえる文章をつくり、義士に非難された。興元年間初頭(784)、河東宣慰賑給使となり、累進して刑部侍郎に遷った。
徳宗が天下を平定すると、貞元四年(788)九月、群臣に詔して曲江で宴し、自ら詩をつくり、宰相に直して文人を選んで和韻させた。
李泌らは群臣が全員で唱和することを願った。
帝が自ら品等を決め、劉太真・
李紓らを上とし、
鮑防・
于邵らを次点とし、
張濛らを下とした。選者にあずかった者は四十一人で、ただ李泌・
李晟・
馬燧の三宰相は採点しなかった。礼部に遷って、貢挙を司り、く大臣や貴族の子弟を採用したから、罪とされて信州刺史に貶され、卒した。
邵説は、相州安陽の人である。進士に及第したが、まだ任命される前に
史思明の手に落ちた。
史朝義が敗れると、
郭子儀のもとに帰順し、郭子儀はその才能を愛して幕府に留めた。長安令・秘書少監に遷った。大暦年間(766-779)末、上言して、「天道は三十年に一度小変があり、六十年に一度大変があります。
安禄山・
史思明の乱から二十年経ちましたが、多難はようやく平定に向かい、今まさに治世に変わろうとしています。旗指し物を建て、天の意を承り、まさに郊廟に謁して罪それぞれ一等を大赦すべきです。そうでなければ雲雨の施がいまだに行き渡らず、鬱結の気がいまだ除かれないのを恐れるのです。願わくばこの時によって享献を修め、郊廟を訪ね、有徳を褒賞し、賢人を記録して、天下とともに更始すれば、災いを払い、ますます長生きさせる術となるでしょう」と述べたが、聴されなかった。
徳宗が即位すると、吏部侍郎に抜擢された。邵説はよって自ら以下のように述べた。「家はもと儒者の家系で、先祖は長白山の人の邵貞一で、
武后革命によって生涯出仕をよしとしませんでした。臣の亡き父の殿中侍御史の邵瓊之は、
玄宗の生前にお仕えしました。臣は十六の時に父を失い、長らく母の手で育てられました。天宝年間(742-756)に始めてお仕えしました。その時母を亡くして服喪し、河・洛の間を居候しましたが、
安禄山が叛乱をおこすと、服喪期間は終わろうとしていましたが、臣は喪服を脱がずまた二年を過ごしましたが、ついに逃れられなくなるのを恐れて、密かに洺・魏に逃げました。
安慶緒が逃げて西城を確保し、儒者を探して脅し、自分に用立てようとし、兵で臣に迫り、遂に醜逆の手に陥りました。突然、
史思明が唐に帰順したので、間道から北の宮中に逃れようと思いましたが、
粛宗は臣を左金吾衛騎曹参軍に任命し、史思明の所に留まることを許しました。たまたま
烏承恩の事件があり、道は途絶して帰ることができなくなりました。
史朝義が敗れると、河陽を防衛しようとしましたが、臣は回紇が野戦に有利であることを知っていたので、密かにそこに行軍するのを勧めて、これによって賊の計略を破りました。史朝義が敗走すると、臣は西に戻って書状を献上し、先帝は翰林に詔して臣がどこで上言したかをを探させました。
王伷とともに召還されました。
先帝は節義があって顕明であると仰せになり、だから王伷を侍御史とし、臣を殿中侍御史とし、使者は宣旨・制詔でつぶさにその状を述べたので、つまり以前の顛末は先帝がご存知なのです。今また抜擢されたのは通常の順序ではなく、天子のご判断によるものであったとはいえ、なお他の人の誹りを受け、陛下のご明察を傷つけるのを恐れるのです。今、吏員は未だに乏しいのに任命を受ける者は多くなっており、ますます功績によって公正の判断に準じて留任者を任命しましたが、去る者は十人中七人となり、彼はまた讒説を吹聴して疑いをお上に投げるので、これは臣の大いに恐れるところなのです。」 そこで戸部郎中の
蕭定・司農卿の
庾準を自身の代任にするよう願ったが、許されなかった。
邵説は在職中に才能によって名があらわれ、ある者は宰相の器であると言った。金吾将軍の
裴儆が
柳載に向かって「邵説は賊に仕えて高官となり、賊の兵を掌握して、戦うこと大小百戦、名家の子を攫って奴婢としたのは数え切れず、死を許されて厚顔無恥で、邸宅や財産を崇め、権力者にくっついて諂っている。国の宰相になろうとしているが、どうして長生きできるだろうか」と言った。建中三年(782)
厳郢が追放されると、厳郢と邵説は親しかったから、密かに
朱泚に仄めかして冤罪を訴え、奏上の草稿をつくったが、帰州刺史に貶され、卒した。
于邵は、字は相門で、その先祖は代州よりやって来て、京兆万年県の人となった。天宝年間(742-756)末、進士に及第し、文章作成能力が超越していたから、崇文校書郎に補任された。比部郎中から道州刺史となり、まだ任地に赴く前に巴州に変更された。たまたまその年は飢饉となり、領内は獠が反乱を起こし、城下に迫った。于邵は兵を激励して防衛し、使者を派遣して諭したから、獠は降伏を願い出た。于邵は儒服を着て出たから、賊は見て皆拝礼し、ただいに引き返した。節度使の
李抱玉は上奏して梓州に遷したが、病気によって辞退して任命を受けず、兵部郎中を授けられた。
崔寧が蜀の地を統治すると、上表して度支副使となった。突然、諌議大夫、知制誥の官職によって礼部侍郎に昇進し、朝廷に大規模な移動による辞令があると、必ずその手中から出た。三司使となって、
薛邕の獄を治めたが、
徳宗の信認を失い、桂州長史に左遷された。戻って太子賓客となったが、宰相の
陸贄と対立し、京師から出されて杭州刺史となった。しばらくして病気で人の介助が必要な身となったため、衢州別駕に貶され、江州に遷された。卒し、年八十一歳であった。
于邵は孝悌で行ないがあり、晩年になるにつれますます身を清くした。
樊沢をはじめ賢良科に推薦しようとし、みてみると「将軍や宰相たる人材である」と言った。
崔元翰を進士に推薦した時、年は五十歳であったが、于邵はその文章がとくに優れていたから、「後に詔令を司るだろう」と言い、その後全員がそうだと思った。
独孤授が博学宏辞に推挙されると、吏部は乙にあたると考課したが、于邵は覆して甲科であるとしたから、人々は于邵に相談することになった。
崔元翰は、名は鵬で、字によって世に通行した。父の
崔良佐は、斉国公の
崔日用と従兄弟であった。明経甲科に選ばれ、湖城主簿に補任したが、母の喪にあって、出仕しなかった。『詩』・『易』・『尚書』・『春秋』を治め、『演範』・『忘象』・『渾天』等の論を数十篇撰述した。共北白鹿山の麓に隠遁した。卒し、門人は貞文孝父と諡した。
崔元翰は進士・博学宏辞科・賢良方正科に推挙され、すべて優秀であった。義成軍節度使の
李勉が上表して幕府に置き、
馬燧はさらに上表して太原掌書記とした。召還されて礼部員外郎を拝命した。
竇参が宰相となると、引き入れてられて知制誥となった。その訓示は温厚で、古代の詔書の風があった。しかし性格は剛直かる意固地で、時節を受け入れることができず、孤独で自身の才能をたのんだ。知制誥をおよそ二年務めたが昇進せず、罷免されて比部郎中となった。当時すでに七十歳を過ぎており、卒した。
学問を好んで老いても倦まず、心構えは緻密で、班固・蔡邕の時代の名家を慕った。
陸贄・
李充を嫌って、そのため
裴延齢に付き従い、裴延齢が上表して京兆の無駄な出費を調査したが、役人は
崔元翰が性急であるのを把握して、李充らは罪がなかったのに、ついには罪に出来ないのを罪としてしまったのだという。
于公異は、蘇州呉の人である。進士に及第し、
李晟は上表して招討府掌書記とした。
朱泚が平定されると、捷報用の旗指し物に「臣はすでに禁中を掃き清め、ただ寝園(おたまや)に奉ります。楽で用いる鍾の虡(きょ。鐘掛台の縦柱)は動かされず、廟の様子は昔のままです」と書き、
徳宗は見て涙を流した。「誰がこの文を書いたのか」と聞くと、ある者が于公異だと答え、
帝は二度ならず嘆息した。それより以前、于公異は
陸贄と因縁があって仲が悪く、当時陸贄は翰林にあって、このことを聞いて喜ばなかった。世間の多くの者が、于公異は継母に仕えることができず、既に出仕しているから帰省しなかったとみていた。陸贄が宰相となって政権を担当するようになると、その事について奏上したから、詔して『孝経』を賜い、罷免して田舎に帰らせた。
盧邁は于公異を推挙したことによって連座し、月俸を二か月剥奪された。当時、中書舎人の
高郢は、かつて御史の
元敦義および
于公異を推薦したが、
于公異が譴責されたことを見て、高郢もまた元敦義の行ないが悪いと弾劾し、詔して元敦義の官を罷免した。
于公異もこれによってうだつが上がらないまま卒した。
李益は、宰相の
李揆の族子で、詩に最も優れた。貞元年間(785-805)末、名を宗族の人
李賀とともに並び称された。詩が一篇できるごとに、楽工は挙って金銭によって求めてこれを得て歌曲の詞とし、天子に供し奉った。「征人」・「早行」などの篇に至っては、天下の人は皆これに絵を施したほどであった。
若い頃から剛直で融通が効かず、また優れた人をみると妬ましく思い、家を守る妻や妾に虐待し、世間では嫉妬のことを「李益疾」と言った。同輩の者が次第に昇進していったが、李益は一人任官されず、鬱々としていた。燕に赴き
劉済は任命して幕府の下僚とし、昇進して営田副使となった。かつて劉済とともに詩を詠んだが、心中の不満を語った。
憲宗は常に名を知っていたから、召還して秘書少監・
集賢殿学士とした。自らの才能を誇るあまり、他の人物を馬鹿にしたから、多くは堪えられず、諌官はそこで幽州にいた時に心中の不満を語ったことを暴き、詔して降格させられた。しばらくして旧官に復し、右散騎常侍に累進した。大和年間(827-835)初頭、礼部尚書で致仕し、卒した。
当時また、太子庶子の李益が同じく朝廷にいたから、そのため世間では「文章李益」と述べたという。
盧綸は、字は允言で、河中蒲県の人である。天宝年間(742-756)の反乱を避け、鄱陽に居候した。大暦年間(766-779)初頭、しばしば進士に推挙されたが及第しなかった。
元載は盧綸の文を取って上進したら、閿郷県の尉に任命された。累進して監察御史となったが、ただちに病と称して去った。
王縉と親しかったことから連座し、しばらく任命されなかった。
渾瑊が河中の藩鎮となると、元帥判官に任じられ、累進して検校戸部郎中となった。かつて京師に来朝したが、この時、舅の
韋渠牟が
徳宗の厚遇を得ており、盧綸の才能を上表すると、禁中に召し入れられたが、
帝は盧綸が詩をつくると、ただちに唱和させた。ある日、韋渠牟に「盧綸と
李益はどこにいるのか」と聞かれたから、「盧綸は渾瑊にしたがって河中にいる」と答えたから、駅路をつかって召還しようとしたが、たまたまその時卒していた。
盧綸は
吉中孚・
韓翃・
銭起・
司空曙・
苗発・
崔峒・
耿湋・
夏侯審・
李端とともに全員詩をよくして名声は等しく、「大暦十才子」と号した。
憲宗は中書舎人の
張仲素に勅して遺文を蒐集させた。
文宗はその詩を最も愛し、宰相に「盧綸の文章はどれくらいあるのか。また子はいないのか」と尋ね、
李徳裕は、「盧綸に四子あり、
盧簡能・
盧簡辞・
盧弘止・
盧簡求がいて、全員推薦されて進士に及第し、官僚となって政府にいます」と答えた。
帝は宦官を派遣して徹底的に家の箪笥を捜索させ、詩五百篇を得て上奏した。
韓翃は、字は君平で、南陽の人である。
侯希逸が上表して淄青軍幕府の補佐とし、幕府を辞すると、十年表に出なかった。
李勉が宣武軍節度使であったとき、再びその下僚に任命された。しばらくして駕部郎中の地位で知制誥となった。当時二人の韓翃がいて、そのうち一人は刺史に任じられたが、宰相はどちらを刺史に任じたのか尋ねると、
徳宗は「詩人の方の韓翃を任じた」と答えた。中書舎人で終わった。
銭起は、呉興の人である。天宝年間(742-756)進士に挙され、
郎士元と名声が等しく、当時の人は「前に沈・宋(
沈佺期・
宋之問)あり、後に銭・郎あり」と語った。考功郎中で終わった。
司空曙は、字は文初で、広平の人である。剣南節度使の
韋皋に従い、虞部郎中で終わった。
李端は、趙州の人である。はじめ
郭曖は
昇平公主を娶ったが、公主は賢明で才能と思慮があり、優れた人物を招いて受け入れ、そのため李端らは多く郭曖に従って交遊した。郭曖は昇進し、大いに客を集め、李端は詩を賦して最も優れていた。
銭起が「こんなのは簡単だろう。姓から韻にして詠んでくれ」と言ったから、李端は一章を献じ、また以前のものより優れていたから、客は感服し、公主は帛を百賜った。後に病のため江南に遷り、杭州司馬で終わった。
欧陽詹は、字は行周で、泉州晋江の人である。その先祖は皆代々泉州の州佐・県令を務めた。閩越の地は肥沃で山泉や禽魚に恵まれたが、よく文書に通じている吏がいても、北で官吏となることをよしとしなかった。
常袞が宰相を罷免されて観察使となって赴任してくると、始めて県郷の優秀者でよく文章を書ける者を選んで、共に主客平等の礼を行ない、遊んだり宴会では必ず一緒になったから、里人は自慢し、そのためその習俗は次第に官吏として出仕を勧めるようになった。それより以前、欧陽詹は羅山甫とともに潘湖に隠遁し、そこから常袞に会いに行ったから、常袞は素晴らしいと思った。去る間際、舟を浮かべて餞の宴をした。進士に推薦され、
韓愈・
李観・
李絳・
崔群・
王涯・
馮宿・
庾承宣と連なって及第し、全員天下に名が顕れ、当時の人は「龍虎榜」と称した。閩(福建)人が進士に及第したのは、
欧陽詹から始まった。
欧陽詹は父母に仕えて孝行であり、友人とは信義をともにした。その文章はひたすらに深く、反復すれば明確であった。
韓愈とは友人として親しかった。欧陽詹は先に国子監四門助教となり、その徒を率いて宮中に奉職し、推薦して韓愈を推薦した。卒したとき、年四十歳あまりであった。
崔群は非常に悲しみ、韓愈は欧陽詹のために哀悼の辞をつくり、自ら書いて崔群に送った。それより以前、
徐晦は進士に推挙されたが及第しなかったが、
欧陽詹は何度も徐晦を褒め称えたから、翌年成績優秀で及第し、仕えて福建観察使となった。語って
欧陽詹のことに話が及ぶと、必ず涙を流した。
従子の
欧陽秬は、字は降之で、また文章を巧みにした。
陸洿が右拾遺から司勲郎中に任命されたが、官を棄てて呉中に隠遁した。詔して召還され、道の途中で、
欧陽秬は書簡を送って出るべき場面と退くところを述べたから、陸洿は到らずに帰った。
欧陽秬の名声はますます高まった。
開成年間(836-840)、進士に及第したが、里人の
蕭本が妄言によって
貞献蕭太后と昵懇となり、恩寵は人を驚かせ、欧陽秬は恥じた。たまたま沢潞節度使の
劉従諌が上表して欧陽秬を幕府に置き、欧陽秬は彼が偽物であると糾す弁を行ったから、ついに罪を得た。その子の
劉稹は朝廷の命令を拒んで、
欧陽秬が休暇によって家に帰っているときに、劉稹は上表して、
欧陽秬が斥損時政を斥け損ない、惑わしの発言を行っていると告発したから、詔によって崖州に流され、死を賜った。刑に臨んで、顔色は変わらず、友人に感謝する手紙を書き、自らの墓誌を書いた。人々は皆憐れんだ。
李賀は、字は長吉で、家系は鄭王の後裔から出ている。七歳でちゃんとした文章を綴ることができた。
韓愈・
皇甫湜は、この噂を耳にしたとき信用しなかったが、李賀の家に立ち寄って、試しに詩を作らせてみたところ、筆を走らせるともう出来あがり、まるで前もって用意してあったかのようであった。そして、自分からその詩に「高軒過(貴き人の訪れたもう)」と題した。二人は非常に驚き、これから彼の名は知れわたった。李賀の風貌は、ほっそりした体つきで、左右の眉がひとつながりになっており、指の爪を長くのばして、字を書くのがすごく速かった。毎朝日が昇ると、ひよわな馬に乗り、従えた供の少年に古い錦の袋を背負わせて、句が浮かぶと書きつけ、その袋の中に投げ入れた。かれの詩はこのようで先に題を立ててそれから詩を作るといった無理に課題にあてはめるような人たちの真似は一度もしなかった。そして、日が暮れて帰宅してから完全な作品に仕上げたのである。大酔した日や、弔問に行った日を除いては、たいていこんなふうであった。そして、詩が出来てしまうと大して手直しもしなかった。母親は下女に袋のなかみを調べさせ、書きつけた詩が多いのを見ると、腹を立てて、「この子は、きっと心を吐き出してしまうまでやめないよ」と言った。父親の名が晋粛だったことから、進士の試験を受けようとしなかった。韓愈が彼のために「諱の弁」を作ったが、しかし結局その試験には応じなかった。
彼の詩文は異常さを好み、作品はすべて人の表に出るもので、完全に文章の定石から飛びはなれていて、当時これをまねることのできる者とてなかった。彼の数十篇は、雲韶部の楽工たちによってすべて節づけし演奏された。太常寺協律郎となり、卒した。年二十七歳であった。交遊のあった者として、
権璩・
楊敬之・王恭元がおり、彼が詩を作るたびごとに彼らによって持ち去られた。それに彼自身も夭折したため、彼に伝わっているものは僅かしかない。
呉武陵は、信州の人である。元和年間(806-820)初頭、推薦されて進士に及第した。淮西の
呉少陽がその才能を聞いて、客人の鄭平を派遣して迎え、賓友として待遇しようとしたが、呉武陵は答えなかった。しばらくして呉少陽の子の
呉元済が反乱をおこしたから、
呉武陵は書簡を送り、自ら東呉王孫と称して以下のように述べた。
「勢力というものは必ずしも得られないこともあり、仕えても必ず疑われないということもあり、いたずらに暴逆の名をとって、物を滅びて卑属に敗れては智ということができません。一日に敗れて、平生の親愛が頭を並べて殺されては仁ということができません。一族郎党が繁栄しておるのに縁によって滅んでは父祖の魂が腐り果ててしまうので、孝というべきではありません。数百里の内に捕らえられて檻や穴に入れられて、常に死が左右の手にあるのを疑い、身を低くして動き回り息を潜めては明というべきではありません。三皇の時代より数千万年、どうして理をおこし常を乱すことをしながら、自らの終わりをよくする者があるのでしょうか。貞元年間(785-805)、
徳宗は寛容の心によって天下を御されましたが、河北の諸鎮は地を占領して臣と称さず、朝廷は爵位・称号によって助け、狡猾な凶徒は自ら対朝廷計略に成功したといい、反逆によって利益としました。ここに
楊恵琳・
劉闢・
李錡・
盧従史らもまた反乱しました。皇帝が即位すると、お怒りになって軍に命じて討伐され、すべてその罪に伏しましたが、これは所謂時勢というものなのです。
近頃、張太尉(
張茂昭)は防衛の務めを嫌がり、易州・定州を奉還して国老となり、田尚書(
田弘正)は物事について深く考えて、俗世とは関わりを持たず、また魏博を帰順させ、幽州・檀州・滄州・景州はすべて信頼できる臣下となりましたが、しかし足下にあるのは、ただ斉・趙のみです。斉はどうして頼むに足るでしょうか。徐州はその首を圧迫し、梁州はその翼を薄め、魏州はその脛をへし折り、滑州はその腹に鉞を浴びせ、淮南はその衝撃を受け止め、兵を分けては互いに救うには足りず、全うすることができても曹・魯・東平はその領有ではないのです。彼はどうして苦しんで自ら棄てるのでしょうか。趙のようであれば小童を固めるだけなのです。前日、主上は沢潞節度使をこのように導き、すでに
盧従史を排斥しましたが、しばらくして罪を赦し、また爵禄に復させました。天下の人で討伐したいと思う者は十人中八人いますが、しばらくもしないうちに丞相・御史を残しているのは、朝廷は足下にまだ斧鉞の刑罰を加えていないからなのです。そうすれば中山は藁城の堅い守りを打ち、太原は井陘の隘地に乗じ、燕は楽寿を従え、邢は臨城を縊り、清河はその南を絶し、弓高はその北を断ち、独り身の鳥や腐った鼠のようなとるに足らない卑しい者は、追求の暇すらないのに、またどうして救援しましょうか。二鎮があえて動かないことはまた明白なのです。足下はどうして待って隠居なされないのでしょうか。
昔、我が師の裴道明は「唐家は二百年で中興の主があらわれ、その時にあたって、傲慢な者どもはすべて滅び、河・湟の地は回復するだろう」と述べました。今、天子は英武で賢人に任せ、
太宗に似て寛仁で賜物はあつく、
玄宗の度量があって、罰しては罪を許すことなく、賞して功績をあますことありません。諸侯は斉・趙を養ってその罪をみのらせ、群帥らは策略をめぐらせて兵器を磨き、進んで房・蔡を窺い、屯田・継漕して兵馬を養い、先鋒は喉を縊り、後陣は背を撫で、左右を開いたところで、そんな多少のことで滅びないとでもいうのでしょうか。
足下は、部下は私を欺くことはないとは言いませんが、実際には人心は足下とともに一つです。しかし足下が天子に叛くと、人もまた足下を叛こうと思うでしょう。地を変えて論ずるなら、つまりは凶悪野蛮な者の命をとりまくのでしたら、大君を奉って官の命令を守るにこしたことはありません。戈を枕にして矛を持ち、死んでも地を得られないのなら、叛乱で動かずに封爵を受けて子孫繁栄を保つに越したことはありません。足下はいやしくも物事を予測する功績は抜きん出ており、一介の身からおこして、兵士や馬や領土を記録してこれを有司に帰すようなことはしないでしょう。お上は恩恵によって、必ず足下を保護されるでしょうから、垢をすすいで瑕を洗って四海に唱えれば、将校や官吏は寵を失わず、また貴くなるでしょう。なぜならば国のためにする者は細かい悪行をもって大事に蓋するのを善とはしないのです。また二心があれば討伐し、服属すれば打ち捨て、寵愛・栄華は厚くでしょうし、身の安全は保たれるでしょう。どうして一人、しようとしないのでしょうか。
足下が領有する三州は非常に狭く、全国は非常に広いので、力の差は同じではなく歴然としています。わからないのでしたら知るべきです。たとえ官軍が百敗したとしても、軍隊は尽きることはありませんが、足下は一敗すれば捕虜となってしまうのです。一人の壮士が十人にあたることができないように、足下の前後左右は全員敵です。ましてや一兵卒が百人と戦いたいと思うでしょうか。おろか者がそれでも帰らずにいたとしても、諸侯の軍が城下に集まり、陣地を取り巻いて塹壕を掘り、濯ぐに雨水をもってすれば、主将は怨みを懐き、士卒はばらばらになり、田儋・呂興のような脇をついて独立するようなものが現れるのです。屍は覆うこともできず晒され、宗族は祭祀ができず、奴僕が戒めとしても、子孫は祖先であるとはみなしません。生きては老いぼれた意地っ張りな人となり、死んでは幽憂の鬼となる、何と痛ましいことではないでしょうか。」
当時、
裴度が東に征伐を行ない、
韓愈が司馬となり、呉武陵は韓愈に裴度のために謀をするよう勧めた。「宦官を採用するのに、常に不快な者を監軍とし、もとより快い者を者を宮中に帰させます。我らのために地を諸侯に与え、帛百万を出して士大夫に給付すれば、どうして丞相とならないということがありましょうか。その後、三人の大将に分けて賊を包囲して駐屯し、斥候を出して、牛や酒で宴会をし、密かに一度切羽詰まっている蔡の諸将に授け、三度賊をあざむけば、弁舌の者に書簡を持たせ
呉元済および将兵をおどして降伏を約束させれば、彼は謀略をめぐらせることはないでしょう。」 当時裴度は一部すでに平定していたから、そのため採用されなかった。呉元済を破ることができないまま数か月がたち、呉武陵は硤石より東南を望んで、気が旗鼓や矛や楯のように、すべて横倒しになっていた。しばらくして黄白の気が西北に出て、めぐって屈折して互いに交わっていた。呉武陵は韓愈に、「今、西北に王師が所在しており、気は黄白で、喜象です。敗気は賊となって、日は木にあたって、数えきれないほど溢れており、六十日もたたないうちに賊は必ず滅ぶでしょう。そもそも天にその祥が見えるということは、事を行って祥にこたえるべきです。また洄曲の守将は危急であるから用いるべきではなく、呉城の賊将の
趙曄は偽りが多くかつ軽率であるので、もし兵を以て誘って伏兵すれば、一挙その城を奪えるでしょう。そうすれば敵の右臂を断つようなものです」と述べた。
呉武陵の怪しげな類はこのようであった。
長慶年間(821-825)初頭、
竇易直は戸部侍郎をもって判度支となり、上表して呉武陵を北辺の塩のことを司らせた。竇易直は実際にはその職にあたっておらず、その待遇も冷たかった。たまたま上表して和糴貯備使を置き、郎中を選んでこれに当たらせた。呉武陵は諌めて、「今、辺境は肥沃の大地で、灌木を育てていますが、父母妻子を互いに生活することはできません。辺境の向こう側は朔方の地で、度支米は値が四十ですが、月をまたいでも積むことはなく、すべてまず商人が取り、その後公文書を求めて都に戻ってから銭を受け取るのです。逃れたとしても外敵は城に迫っており、三十日もしないうちに餓死してしまうのに、どうして財を奪って
和糴(買上げ)というのでしょうか。天下は治らず、原因を役人に帰さないのです。塩鉄・度支はただ戸部郎が行う事ですが、今その仕事を三分して、吏は一万人もおり、財賦は日に日に差し迫るのです。西北の辺境の院官は、すべて御史・員外郎がこれにあたっています。最初のようなことが命令されれば、信頼を責めるようなもので、今また加えてその仕事を任命させれば、御史・員外は長い間行っているので、かえって信頼されなくなるのです。今更に一か月で、また郎中を任命すれば信頼されなくなります。そこでさらに一年して公のためにすれば、またまた信頼されなくなくなります。上下はそれぞれ阻み、一国は交々疑い、誰が信頼するというのでしょうか。ましてや一使を建てたところで、下級役人がいたずらに奔走してしまいにはほとんど百人にもなろうとし、督促して大声で呼びつけ、数千里が安らかではなくなるのです。心から辺境を全うさせようとし、ただ浮民を募り、罪人を移して、肥沃な土地を耕せば、どうして必ず和糴貯備使を加えて官吏を増員することがありましょうか」と述べたが、
竇易直は受け入れなかった。
しばらくして、入京して太学博士となった。大和年間(827-835)初頭、礼部侍郎の
崔郾が進士の試験を東都で行ない、公卿は皆見送りの宴会を行ない、呉武陵は最後にやって来て、崔郾に「あなたはまさに天子のために優れた人材を求めているから、あえて益になるものを献上しよう」と言い、そこで袖中から笏に書いて出し、崔郾はこれを読んでみると、それは
杜牧の「阿房宮賦」であり、文章は人を驚かせたが、さらに
呉武陵の声は明るくのびのびとしており、座客は大いに驚いた。
呉武陵は「杜牧はまさに役人に試する者ですが、第一人にしてはどうでしょうか」と聞くと、崔郾はすでに人が決まっていると謝した。第五人になると、崔郾は答えず、
呉武陵は勢いよく「そうではない、賦をみてくれ」と言うと、崔郾は「おっしゃる通りで」と言い、杜牧は果たして合格できた。後に京師から出されて韶州刺史となり、収賄のため潘州司戸参軍に貶され、卒した。
それより以前、
柳宗元は永州に流謫され、呉武陵もまた連座して永州に流されたが、柳宗元はその人を賢人であるとした。柳州刺史となると、呉武陵は北に戻り、大いに
裴度にその器を厚遇された。柳宗元に子がないと言うたびに、裴度に向かって、「西原蛮はまだ平定されておらず、柳州は賊とともに犬と牙の関係にあるほど密接ですから、武人を用いて柳宗元と交替させるべきで、江湖でのんびり心のままにさせましょう」と説いた。また工部侍郎の
孟簡に書簡を送って「古では人生は三十年であるといったが、子厚(柳宗元)が斥けられたのは十二年にもなり、ほとんど半生にも及ぶ。雷が鳴って電気が空をかけるのは、天の怒りであるが、一日中ではないのだ。聖人は上にあって、どうして死ぬまで人臣に怒ることがあろうか。また程(
程异)・劉(
劉禹錫)・二韓(
韓泰・
韓曄)は皆すでに払拭し、ある者は大州の要職についたが、一人子厚だけは猿や鳥とともに並んでいるだけとなり、実に霧露を赤子が恐れさせるところとなっているから、柳氏には後継ぎが生まれないのだ」と言ったが、裴度はそれを採用する前に柳宗元は死んでしまった。それより以前、
李愬は唐州・鄧州の節度使となり、呉武陵は
李景倹・
王湘を聡明かつ沈着であるとし、上表して副官とするよう推薦したが、当時の人は「知人(人を知る)」と号した。
李商隠は、字は義山で、懐州河内の人である。あるいは英国公
李世勣の裔孫であるという。
令狐楚が河陽を治めていたとき、その文章を優れたものだと思い、自分の息子たちと交友させた。令狐楚が天平・宣武に遷ると、上表して巡官に任じられ、毎年仕度料を宛てがい、思うがままに使わせた。開成二年(837)、
高鍇が貢挙試験の責任者となると、
令狐綯は高鍇と親しく、称賛に力があり、そのため進士に及第した。弘農県の尉に任命された。死刑囚減刑の件で観察使の
孫簡に逆らい、まさに辞職して去ろうとしていたが、たまたま
姚合が孫簡に代わったから、使者を派遣して官職に戻るように説諭された。また抜萃科の試験を受け、中程度で合格した。
王茂元が河陽を治めていたとき、その才能を愛し、上表して書記となり、子を李商隠の妻に娶せ、侍御史を得た。王茂元は
李徳裕と親しく、しかし牛李の党人は李商隠をあなどり、嘘つきで軽薄で行ないに問題があるとし、共に排斥した。王茂元が死ぬと、京師に来遊し、しばらく任命されず、さらに桂管観察使の
鄭亜の府で判官となった。鄭亜が循州に流謫されると、李商隠も従い、おおむね三年にして戻った。鄭亜もまた李徳裕と親しく、令狐綯は李商隠のことを家恩を忘れ、利によって迎合しているとしたから、断りをして交際しなかった。京兆尹の
盧弘止が上表を留めて府参軍とし、箋奏を司った。令狐綯が執政となると、李商隠は帰って弁明しようとし、令狐綯は恨んで置かなかった。盧弘止が徐州を治めると、上表して掌書記となった。しばらくして長安に戻ったが、令狐綯は閑職に戻し、そこで太学博士に補任された。
柳仲郢が剣南東川節度使となると、判官、検校工部員外郎に任じられた。幕府を罷免されると滎陽で居候となり、卒した。
李商隠ははじめ文をつくれば美麗かつ奇特で、そこで
令狐楚の幕府に入って、令狐楚はもとより上奏文をつくるのに巧みであったから、そこでその学を授けた。李商隠には美麗かつ長短があり、文章が苛烈であることであった。当時、
温廷筠・
段成式とともに相手をともに自慢しあい、「三十六体」と号した。
薛逢は、字は陶臣で、蒲州河東の人である。会昌年間(841-846)初頭、推薦されて進士に及第した。
崔鉉が河中節度使となると、上表して幕府の下僚となった。崔鉉が宰相に復帰すると、引き立てられて万年県の尉となった。
弘文館の宿直を務め、侍御史・尚書郎を歴任した。持論の主張は強硬で、謀略によって自らを高めて名声と官職をあげようとした。
それより以前、彭城の
劉瑑と親交があったが、劉瑑の文章は薛逢よりも数段下であり、常に見下していた。劉瑑が次第に昇進していくと、薛逢は不満を持ち、ついに互いに怨みあった。たまたま劉瑑が宰相となって政権を担当すると、ある人が薛逢を知制誥とするよう推薦したが、劉瑑はみだりに「先朝では両省の給事・舎人はまず州県を治め、そこで任命することができるが、薛逢はまだ州を治めていない」と言って、採用しなかった。そこで京師から出されて巴州刺史となった。しかし
楊収・
王鐸が同期であったが、宰相に任命されると、薛逢は詩の中の文章中で婉曲に謗ったから、楊収は怒り、また蓬州・緜州の二州の刺史に左遷された。楊収が罷免されると、太常少卿の職によって召還され、給事中に任命された。王鐸が宰相となると、薛逢はまた詩を以て王鐸を非難したから、王鐸は怒り、当時の官人は薛逢が簡単に人を怒らせるのを嫌っており、だから同期と見なされなかった。秘書監に遷り、卒した。
子の
薛廷珪は、進士に及第した。大順年間(890-891)初頭、司勲員外郎の職によって知制誥となり、中書舎人に遷った。
昭宗に従って華州に行き、引き立てられて左散騎常侍を拝命したが、病と称して辞任し、成都に居候した。光化年間(898-901)、また舎人となり、尚書左丞に累進した。
朱全忠が四鎮を兼領し、薛廷珪は職掌のため告使となって汴に到ったが、客将が先に謁見しており、
朱全忠に拝礼するようほのめかしたが、
薛廷珪は偽ってわからなかった振りをし、「私は何の徳があって、敢えて公の拝礼を受けましょうか」と延べ、謁見したが、ついに礼を加えなかった。
李頻は、字は徳新で、睦州寿昌の人である。幼くして優秀かつ聡明で、成長すると西山に住み、博覧強記で文章をよくし、とくに詩に最も優れた。里人の
方干と親しかった。給事中の
姚合は詩によって名声があり、士は多くが尊崇し、李頻も千里を走ってその品評を請い、姚合は大いに称賛し、自分の娘を李頻の妻とした。
大中八年(854)、推薦されて進士に及第し、秘書郎に任命され、南陵県の主簿となった。推薦で明経科に合格し、再び武功県令となった。ここに畿内の民は多く神策軍に籍を置き、吏がその横暴によって、口実として法によって取り締まらなかった。李頻が来ると、神策軍士の尚君慶は、賦六年を逃れて送らず、目を見開いて村々に出入した。李頻は密かに五人組と競って摘発し、尚君慶は県役人の質を叩いたから、李頻はそこで械を嵌めて獄に送り、悪行を数え上げ、京兆尹に願って尚君慶を殺し、取り締まっては賄賂をもらわず、少しの蓄えもなかった。狡猾な者は大いに驚き、息を潜めて法を遵守したから、県は大いに治った。六門堰があり、塞がって廃棄されてから百五十年たったが、この年飢饉となり、李頻は官倉を開いて民を雇って浚渠し、古道を調査して水を漑田にまいたから、穀物は大稔に実った。
懿宗は喜び、緋衣・銀魚を賜った。突如侍御史に抜擢され、法を守っておもんねったりするようなことはせず、都官員外郎に遷った。上表して建州刺史になるよう願った。既に到着すると、礼法によって麾下を治め、更に箇条書きで教えた。当時、朝廷は混乱しており、盗賊はおこり、互いに人を殺して略奪し、建州では李頻を頼って治安を維持した。在官のまま卒した。父老は互いに柩を抱え合い、永楽州に葬られ、廟を梨山に建立し、毎年祀った。天下が乱れると、盗賊はその墓を暴いたから、寿昌の人は加封に従って保護したという。
呉融は、字は子華で、越州山陰の人である。祖父の呉翥は、大中年間(847-860)の時に名声があり、観察府が署吏に任じようと召したが、応じなかった、観察使はその志を高いとし、全国に伝達して、文簡先生と賜号した。
呉融は独学で、文章の言葉は豊富であった。龍紀年間(889)初頭、進士に及第した。
韋昭度が蜀を討伐するとき、上表して掌書記とし、累進して侍御史となった。連座して官を去り、荊南を流浪し、成汭に住んだ。しばらくして召還されて左補闕となり、礼部郎中の官によって翰林学士となり、中書舎人を拝命した。
昭宗が政務を奪還し、南闕に御すると、群臣は賀を唱え、呉融は先立って祝賀を述べた。当時左右の者は驚喜し、
帝は呉融を指名し、十ばかりの原稿を積み重ね、呉融は跪いて詔をつくり、しばらくして完成したが、語彙はまさに意図が詳細であった。帝はお褒めが大変厚かった。戸部侍郎に進んだ。昭宗が鳳翔に移らされると、呉融は従わず、去って閿郷で居候となった。しばらくして召還されて翰林とされ、承旨に遷り、在官のまま卒した。
最終更新:2025年06月12日 16:02