李白
701-762
盛唐の詩人。友人の
杜甫とともに李杜と並称され、唐詩の最高峰にある。字は太白。青蓮居士。生地もはっきりせず、家系明らかでない。ただ、李白が5才のころ、父がおそらく異民族の住地である西方から四川に移住してきたというのが有力な説である。父は西域貿易の大商人であったらしく、李客とよばれている。李白は幼少のころから詩書に通じ、奇書を好み、賦を作ったが、一方、剣術を好み、また四川の山奥で数年間、小鳥を相手に生活したという。20才前後から任俠の徒に交わり、人を斬殺したこともあり、自身が危いめにあったりもした。25才のころ、四方の志をいだいて四川を出、揚子江を下り、荊州、襄陽、武昌、洞庭湖、金陵、揚州の各地を遍歴したが、揚州では1年たらずの間30余万金を散財したという。こうしたはでな生活ができたのは、父がばくだいな財産をのこしたからであろう。27才のとき、湖北省の安陸に一時身をおちつけた。その地方の名家で元宰相の
許圉師の孫娘と結婚し、男女をもうけた。しかし、地方の名士で満足できず、猟官運動を始めている。このころ、湖北に隠棲していた
孟浩然と知りあった。35才のころから第2の遍歴時代となる。安陸をはなれあと、山西をへて山東に向かい任城で数年とどまった。そこの間、山東の徂徠山に
孔巣父ら5人の仲間と隠棲し、「竹渓の六逸」とよばれた。ふたたび江南におもむき、浙江の会稽で道士の
呉筠とともに剣山に隠れて仙術を修めたが、たまたま呉筠が朝廷に召され、その推薦によって李白も長安に出たときに42才。このとき
賀知章が彼を一目みて謫仙人だとよんだという話がある。玄宗に認められ、翰林供奉となった。詔勅を起草したり、詩を作って天子を喜ばせる役であるが、酒ばかり飲み気ままな生活を送っていた。しかし、彼の奔放な気質と傍若無人な態度は、宮廷では異端視され、足かけ3年長安にいたが、44才のとき中傷をうけ、都を追放された。こうして第3の遍歴時代が始まる。まず河南に向かい、洛陽で杜甫と初めて出会い、汴州で
高適と出会い、また
岑参と知りあったのもこのころである。その後、山東、山西、河北の各地に放浪し、南下して揚州、金陵会稽などに遊び、約10年間、南北いたる所をあるきまわった。この間、家は山東省の兗州にあった(李白は生に少なくとも3度、妻をめとり、子供も何人かいたが、つねに家をかえりみず、非情な父であり夫であった。彼の死後、その子孫は絶えている)。755年(天宝14載)、安史の乱が起こり、賊軍はたちまち長安をおとしいれ、玄宗は四川にのがれ、粛宗が即位した。翌年、玄宗の子の永王
李璘が揚子江方面で
安禄山討伐のためと称して挙兵した。廬山にひきこもっていた李白は、招かれてその幕僚となった。ところが、永王は兄の粛宗と仲がわるく、揚子江を下る永王の水軍は反乱軍とみなされ、官軍と戦って敗れた。永王は殺され、李白も捕えられた。潯陽の獄につながれたの夜郎へ流刑となったが、官軍にいた李白の知友の尽力によって流刑の途中でゆるされ、東に帰った。ときすでに59才。その後、揚子江沿岸の各地に放浪の旅をつづけたが、やがて病気となり、安徽省当塗県の親族、
李陽冰のもとに身を寄せ、ついにその地で没した。李白の一生は放浪の連続であり、得意の絶頂があるかと思うと失意のどん底におちいり、はなやかな都会に出たかと思えば、仙人のすむ山おくにひっこむ。血気盛んのあまり、遊侠の徒と交わり、挙兵にも参加する。波乱万丈、生活の振幅が大きい。そこから自由奔放で豪快な彼の詩が生まれた。しかしまた、彼は政治的関心がつよい。みずから人生の憂愁を体験している。陽気一点ばかりでなく、しみじみとした詩も作った。詩的幻想に富む詩をつくる一方、現実に対するきびしい批判の目をもっていた。詩形のうえでは、絶句と楽府が得意である。彼は初唐の
陳子昂の主張をうけついで、むかしの力づよい詩風にかえることを主張し実践したが、漢魏はもとより六朝の詩をじつによく学んでいる。そして独特の奇想天外にして明朗豁達な詩をつくり、まさにの気象を反映している。李白の詩集は、唐代に李陽冰の編集した『草堂集と、魏顥が序文をつけた『李翰林集』の2種があったが、ともに失われ、現存する最古のものは、宋代の本である。約千首の詩と、数十編の散文がのこっている。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
参考文献
『アジア歴史事典9』(平凡社、1962年4月)
外部リンク
最終更新:2023年09月03日 12:41