甄済

甄済 けんさい

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盛唐の官人。字は孟成。定州無極縣の人。天宝十載(751)左拾遺の職に任命され、安禄山の要請により范陽掌書記に任じられた。安禄山が謀反の気があるのを見て、血を吐いて病と称し、叛乱が勃発すると、病を疑った安禄山の命により頚に刃を受けたが、差し伸べると死を免れた。結局安禄山に仕えなかったため、粛宗に特別待遇を受け、秘書郎を授けられたが、それを冷遇であると言う者がいたため、太子舎人に改められた。来瑱により陝西襄陽参謀に任命され、礼部員外郎となり、大暦年間(766-779)初頭、江西節度使の魏少游の上表により著作郎、侍御史となった。没後その事績は忘れられていたが、子の甄逢の尽力と、袁滋の上奏により世に知られることになった。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。

列伝

『新唐書』巻一百九十四 列伝第一百一十九 卓行 甄済
『旧唐書』巻一百八十七下 列伝第一百三十七下 忠義下 甄済

外部リンク

維基百科,自由的百科全書 甄濟(中文)
https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E7%94%84%E6%B5%8E

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最終更新:2023年12月02日 01:12
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