畢諴 ひつかん
802-864
晩唐の藩鎮。
懿宗の宰相(在任860-863)。字は存之。鄆州須昌県(山東省泰安市)の人。大和年間(827-835)進士・書判抜萃科に推挙され、大和8年(834)
杜悰の幕下に従事し、杜悰が宰相になると監察、侍御史となった。杜悰と
李徳裕は仲が悪く、会昌六年(846)杜悰が東蜀節度使となると畢諴も磁州刺史に左遷された。大中四年(850)翰林学士、中書舎人となる。大中六年(852)、党項が河西に侵入すると邠寧節度使、河西供軍安撫等使となる。大中十年(856)澤潞軍節度使、充昭義節度使となる。大中十一年(857)太原尹、北都留守、河東節度使となり、検校尚書左僕射を加えられた。懿宗が即位すると、大中十三年(859)汴州刺史、充宣武軍節度使、宋毫汴観察等使となる。大中十四年(860)戸部尚書、判度支となり、同年礼部尚書、同平章事(宰相)となり、咸通三年(862)中書侍郎、兵部尚書、集賢大学士となった。咸通四年(863)宰相を罷免されて兵部尚書となり、河中節度使となった。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
外部リンク
最終更新:2025年01月28日 08:27