令狐徳棻 れいことくふん
583-666
初唐の文官。宜州・華原(陝西省銅川市)の人。諡は憲。先代は敦煌の名族で、祖令狐整は北周の大将軍、父令狐煕は隋の鴻臚少卿。若いころから古典・歴史にしたしみ名をしられた。隋末の乱にさいし、淮安王
李神通、ついで李淵(のちの唐の高祖)に召され、大丞相府記室となり、唐朝の開かれると、起居舍人、秘書丞とすすみ、常に高祖の側近にあって文治行政に参画した。隋末の戦乱で典籍の散逸がいちじるしかったので、帝に集書を献策し、さらに前代の歴史編纂の必要を説き、武徳(618-27)・貞観(628-49)2代にわたる周・斉・梁・陳・隋5代史の官撰事業を推進した。みずから『周書』の主編に当たり、さらに『五代史志』『晋書』の編纂にも大きな役割を果たした。632年礼部侍郎、太子
李承乾の事件に連座していった ん除名されたが、のちまた仕え、650年ふたたび礼部侍郎
弘文館学士、晩年国子祭酒、彭陽県公に封ぜられた。この間、朝廷の修撰事業にはほとんど常に参与し、『<新礼』『氏族志』『永徽律令』『高宗実録』などみな彼の手を経ている。
参考文献
『アジア歴史事典』9(平凡社,1962)
外部リンク
最終更新:2024年01月26日 23:48