鄭絪 ていいん
752-829
中唐の儒者・文臣・宰相(在任805-809)。字は文明。若いときから学を好み文章に巧みで、
代宗時代より儒者として名をあらわし、ついで進士にあげられ秘書省校書郎より累進、次の
徳宗の親任を得、翰林学士となった。
憲宗が即位すると、中書侍郎同平章事として宰相となり(805-809)、
杜黄裳とともに元和(806-821)時代当初の国政に当たった。職にあること5年たらずで嶺南節度使に転出し、それ以後中央・地方の要職を歴任したが、828(大和2)年河中節度使よりふたたび中央に帰り、検校尚書左僕射となったが、老齢をもって退官を希望し、翌年78才で辞任した。司空を賜わった。彼は堅実な学者的政治家で、そのために宰相となりつつわずか5年で、実際的な政治的手腕家と交替させられたが、それゆえにまた長く政治的生命を保ち、また学者としても時人よりその徳を仰がれた。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
参考文献
『アジア歴史事典6』(平凡社,1960年)
外部リンク
最終更新:2025年01月16日 22:51