李純
778-820
唐第14代の皇帝(在位805-820)。姓名は李純。諡は昭文章武大聖至神孝皇帝。廟号は憲宗。
順宗の長子。母は
荘憲皇太后王氏。805(永貞元)年4月立太子。同年8月即位。性格は剛明果断。安史の乱勃発以来の宿題である藩鎮の横暴弾圧、朝威の再興を目標として精励した。
徳宗(780-804)が藩鎮弾圧に失敗してのち、後日に備えて蓄積した財力と拡充強化した禁軍(中央直轄軍)とを巧みに活用して、806(元和元)年まず西川節度使
劉闢を捕えて四川地方をおさえ, 同年には夏綏銀の
楊恵琳を斬って西北地方をおさえ、翌年には鎮海節度使
李錡を捕えて東南財源地帯を固め、809年には転じて昭義節度使
盧従史を捕えて河東方面を固め、翌年には2世29年の世襲藩義武軍張氏の帰降をうけいれ、つぎに814(元和9)年より3年を費して、3主33年世襲の淮 西呉氏を攻め滅ぼし、818(元和13)年には5主35年の世襲藩程氏の帰降をうけいれ、翌年には4主54年の世襲藩平盧李氏を平定し、同年宣武の韓氏や5主59年世襲の魏博田氏の降をうけいれ、その余威によって821(長慶元)年には幽州の劉氏もまた降伏した。こうして不逞の藩鎮をことごとく平定威服した帝は、藩鎮の兵権・財政権をけずり、その直接指揮する兵力および徴税権を藩帥が駐在する1州に限定し、藩帥にはつとめて儒臣を任じ、また宦官の監軍を配置して動静を監視させたので、藩鎮の反乱は減じ、朝威が浸透し、よって中興の英主と仰がれた。別に物価安定や税負担の軽減にもつとめたが、のち丹薬を服用して怒りっぽく、侍臣の不安と怨みとをかい、宦官
陳弘志らのために毒殺された。憲宗の藩鎮抑圧は、朝威を振興させたが、同時に地方の治安保持の力を弱め、流賊発生とともに唐朝の滅亡を早める遠因をなした。陵名は
景陵。
年号
元和 806-820
后妃
子女
宰相
本紀
『旧唐書』巻十四 紀第十四
『旧唐書』巻十五 紀第十五
『新唐書』
巻七 本紀第七
参考文献
『アジア歴史事典』3(平凡社,1960)
外部リンク
最終更新:2025年06月24日 12:54