李元紘 りげんこう
?-733
盛唐の宰相(在任726-729)。字は大綱。武后の宰相
李道広の子。仕官して、雍州司戸参軍、好畤県の令、潤州司馬、万年県の令、京兆少尹となる。工部・兵部・吏部侍郎となり、ついで戸部侍郎となる。開元十四年(726)、中書侍郎、同中書門下平章事(宰相)に任命され、清水県男に封ぜられた。同じく宰相であった
杜暹と反りが合わず、玄宗の目の前でたびたび言い合いをしたから、傍観した宰相
源乾曜の三人もろとも罷免された。曹州刺史に左遷されたから病と称して辞職し、戸部尚書の職をもって致仕し、太子詹事に任命されたがすぐに卒した。雍州司戸参軍・京兆少尹であったとき、権力に阿らず民間有利の裁定を行い、また宰相となっても清廉な人物であった。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
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最終更新:2024年04月21日 23:19