唐書巻一百二十六
列伝第五十一
魏知古 盧懐慎 奐 李元紘 杜暹 鴻漸 張九齢 拯 仲方 韓休 洪 滉 皋 洄
魏知古は、深州陸沢県の人である。人品は端正かつ正直で才能があり、進士に及第した。著作郎となって修国史に任じられ、累進して衛尉少卿、検校相王府司馬に遷った。神龍年間(707-710)初頭、吏部侍郎となったが、母の喪のため辞職した。服喪があけると、晋州刺史となった。
睿宗が即位すると、もとの属していた官によって黄門侍郎を拝命し、修国史を兼任した。
当時、
金仙観・
玉真観を造営しており、盛夏にもかかわらず、工程は厳しく督促されていた。魏知古は諌めて次のように述べた。「臣は次のように聞いています。「古の人の上にたつ君主は、常に人の働くところを視ているが、人は懸命に働いても建造が出来るのは稀である。人が蓄財に勤めれば貢賦は少なくなり、人が食に勤めれば百事は廃せられるのである」(穀梁伝 荘公二十九年)。そのため、「役に立たないことをして役に立つことをおしつぶす」(尚書 周書旅獒)といい、また「百姓たちの心に逆らってまでも、御自分の意思を押し通されてはなりません」(尚書 虞書 大禹謨)とあります。『礼』に「季夏の月(六月)、樹木が盛んに茂る。みだりに木を伐らぬよう取り締まりをさせる。また土木工事はいけない」(礼記 月令)とあり、これはすべて人民への教化を興して治世をたて、政治を行って人を養う根本なのです。今、公主のために道観を造営するのは、土木工事によって福を祈っていますが、しかしながらこれらの土地は百姓の家とするところであって、突然事態が差し迫って、彼らを移転・転居させ、老人を抱えて幼児を携えて、椽を変えて瓦を変えて、道路上で阿鼻叫喚するのです。人の事にそむくことは、天の時に違うことであり、無用の造作をおこし、不急の務めを崇めることは、群臣の心を揺れ動かし、多くの口からあれこれと言いはやすことになるのです。陛下は人の父母となられ、どういった手段によって安んじようとなされるのでしょうか。また国には簡冊があり、君主が何か行えば必ず記録されることになり、言動のきざしは慎まなければなりません。願わくば明詔をお下しになられ、人の願いにしたがって土木の徭役を除かれ、この事業を晩年に行われても、その失策は遠いことではないのです」 受け入れられなかった。再び諌めて次のように述べた。「陛下が反逆者を平定して取り除き、国家を保ち定まれてからは、天下は荘重となり、朝廷に新政があると思われます。今、教化は次第に廃れていくことは日々ますます甚だしいものであり、府蔵は空しいものとなり、人力は疲弊し、造営は果てなく、官吏の人員は次第に増え、諸司の試補・員外・検校官はすでに二千人あまり、太符の帛はつきて、太倉の米は支給できなくなっています。臣は以前に
金仙観・
玉真観の造営をやめられるよう願いましたが、それらが終わってもまだ停止されていません。今、水害と旱魃が前後でおき、稲・黍・稷・麦・豆の五穀は育たず、この状態になっては春になると、必ず大飢饉となります。陛下はどこに賑給なされるというのでしょうか。また突厥は中国の憂いとなることは長いことになっており、その人となりは礼義や誠信によって約束すべきではありません。使者を派遣して婚姻を願っているとはいえ、恐るべきは豺狼の心をもち、自身が弱ければ伏せ従い、強ければ驕慢となって逆き、月日がたてば騎乗する馬は肥え太り、中国の飢饉に乗じてきます。講和や和親の際にも、辺境の砦を攻撃せんと狙っていますが、またどうやって防ぐというのでしょうか。」帝はその実直さをよろこび、左散騎常侍によって同中書門下三品(宰相)とした。
玄宗は春宮であったとき、また左庶子を兼任した。
先天元年(712)、侍中となった。渭川の遊猟に従い、詩を献上して風刺し、手ずから制によってお褒めをいただき、あわせて賜物五十段をいただいた。翌年、梁国公に封ぜられた。
竇懐貞らが謀をめぐらせて国を乱すと、魏知古は密かにその奸計を暴いたから、竇懐貞は誅殺され、封二百戸、物五百段を賜った。
玄宗は以前の褒賞が手薄かったのを残念に思い、手ずから勅してさらに百戸を加え、その名節を明らかにした。この冬、詔して東都(洛陽)で吏部の選事を司り、適正な要件によって称えられ、お褒めの詔によって衣一副を賜った。これより帝の恩意は最もあつく、黄門監によって紫微令に改められた。
姚元崇とあわず、工部尚書に任命されたが、宰相を罷免された。開元三年(715)卒した。年六十九歳。
宋璟はこれを聞いて「叔向は古に実直さをのこし、子産は古に愛をのこした。これを兼ねた者は魏公だ」と嘆いた。幽州都督を追贈され、諡を忠という。
文宗の大和二年(828)、その曾孫の魏処訥を探して、湘陽県の尉を授け、
魏徴・
裴冕の後裔も抜擢して任命した。
盧懐慎は、滑州の人で、思うに范陽の有名な盧姓なのであろう。祖父の盧悊は、仕えて霊昌県の令となり、遂に県の人となった。盧懐慎は幼い頃からすでに非凡な人物で、父は友人で監察御史の
韓思彦に「この子の器は図り難い」と嘆いた。成長すると、進士に及第し、監察御史に任じられた。神龍年間(707-710)、侍御史に遷った。
中宗は
武后を
上陽宮に謁し、武后は帝に十日に一朝するよう詔した。盧懐慎は諌めて、「昔、漢の高帝(高祖)が天命を受けると、五日に一朝、太公と櫟陽宮にて謁し、民間から決起して皇帝位に登り、子に天下があったから、尊を父に帰し、だからこのようになったのです。今、陛下は先王以来の法と帝王の位を継承されましたが、どこの法を採用されたのでしょうか。ましてや
応天門は
提象門からはわずか二里の所にあり、警備の騎馬は列をつくることができず、随行車は平行することができず、ここにたびたび出入りしたとしても、愚人が万が一随行車の塵を犯すような襲撃があったところで、これを罪としたところでどういたしましょうか。臣は愚かに申し上げるところは、内朝に従って穏やかかつ清らかであるようにお過ごしになられ、出入りして煩わせるようなことがあってはならないということです。」採用されなかった。
右御史台中丞に遷った。上疏して時政を述べた。
「臣は以下のように聞いています。「善人の政治も百年つづけば、暴力をおさえ死刑もなくせる」(論語 子路第十三)。孔子は「使ってくれる人があったら、一年だけでもいいんだ。三年だと、完全だが。」(論語 子路第十三)と言っており、そのため『書』に、「三年に一度、その役目にあって成果をあげたかどうかを調べられ、三度検査されたあと、輝かしい仕事をしたものは位を上げ、みずほらしくてだめなものはその役から退けられた。」(尚書 虞書舜典)とあります。昔、子産は鄭の宰相となり、法令を改め、刑書を施行し、一年間は人に怨まれ、殺されると思うほどでしたが、三年にして人は徳としてこれを歌い継がれるようになりました。子産は賢者であったから、政治を行ってなお年を重ねてから功績がなったのに、ましてや普通程度の人材ではどうでしょうか。この頃州牧、上佐、両畿の県令はあるいは一・二年、あるいは三・五か月で転任となり、かつて考課を論ずるのに政務統治の成績が良好かどうかで判断せず、まだ戻って来ない者に対しては耳を傾けて聞くことはなく、つま先立ちして望んでいても、無闇に行動して廉潔の聞こえがなく、またどうして陛下のために風を教化して人を憐れむ余裕がありましょうか。礼義を興すことができず、戸口はますます流出し、倉庫はいよいよ乏しくなり、百姓は日に日に疲弊するのは、職はこれが原因となるだけなのです。人は吏の任期が長くないのを知っているので、その教化にしたがわず、吏は転任するまで長くないのを知っているので、その力をつくさないのです。かりそめに爵位に身を置き、これによって経歴や声望を養ったとしても、明主が天下に勤労しようとする志があったとしても、天子の寵遇を得る道を開くことになり、上も下も互いに互いに騙し合い、どうして公正をつくすことができましょうか。これは国の病なのです。賈誼がいうところの誤りというのは、小の小なる者のみなのです。これを改めなければ、平和的に緩慢であっても、なすすべもないのです。漢の宣帝を総合的に考えてみると、治世は勃興して教化がなされ、黄霸はすぐれた郡守であり、秩を加えて金を賜り、その能力をあらわしたが、終に遷任をよしとしませんでした。そのため古で吏となった場合、長きは子孫までに到ったのです。臣が願うところは、都督・刺史・上佐・両畿の県令に任じて四度の考課を得ていない場合は、転任することができないこととすることです。もし統治に最も優れたものがあれば、あるいは加えて車や衣服、秩禄を賜い、使者をくだして臨問させ、璽書によって慰撫して励まし、公卿に欠員があれば、そこで抜擢して能力がある者を励ますのです。職に適さずあるいは貪欲かつ暴虐であった場合、罷免して田舎に帰らせ、信賞必罰の信を明らかにするのです。
昔、唐・虞は古えの道にならって百の官位をたてました。夏・商では官は二倍になりましたが、やはりまたうまく治まりました。これは官を少なくしたからです。そのため「この官は必ずしも員数を揃えなくともよい、ただふさわしい人でなければならぬ」、「もろもろの官に、適当な人をつけないでいて、その官位をむなしくされてはなりません。なぜなら官職というものは、もともと天に属するものであって、天のなさる事を人間が代わってやっているからなのです。」(尚書 周書 周官)というのは、人を選ぶからなのです。今、京の諸司の員外官は数十倍となり、近年いままでなかったことです。必ずしも備わっていないというのに、余剰人員がいるということは、その代わりの仕事を求めて、多くはわずかな仕事もせず、俸給の費えは毎年巨額なものとなり、いたずらに府蔵をつきさせることになり、どうして統治なぞありましょうか。今、民力は疲弊の極みで、河州・渭州は広く運漕していますが、京師に給付されず、公も私も損耗し、辺境はいまだ静寂ではありません。ちょうど今、旱魃や水損で災いとなり、租税は減収しており、辺境で急を知らせれば、賑給する暇とてなく、どうやってこれを救えましょうか。「人事を軽々しく考えてはなりません。つらい困難なものだと知って、慎重に扱ってやって下さい。天子の位に安んじてしまってはなりません。ひたすらに恐れつつその位を保ってゆかねばならないのです」(尚書 商書 太甲下)とあるのは、謹んで慎重に取り扱わなければならないことなのです。員外の官をたずねてみると、全員が当時の重任に値する賢臣であり、選ぶ際に才能を用いながらもその用途を伝えることなく、名を尊んでいるのにその力量を任じませんでした。昔より人を用いるのに、どうしてそのようにしていたのでしょうか。臣が願うところは、才能が太守や上佐にたえる者を官職に昇らせ、力量を全国に知らしめ、考課の責めは治状で行うことです。老いや病、もしくは職にたえられない者は、すべて廃して除き、賢人や不才を確率して一貫性をもたせるのは急務なのです。
私寵や賄賂をおかし、寡婦を侮る者がいるのは、為政者を蝕むものです。ひそかに思いますに、内外の官に賄賂を贈って狼藉し、鼻削ぎして人を蒸し殺し、罪にふれて流黜したとしても、しばらくして戻ってきて、再び牧宰となり、任じるのに江淮・嶺表・磧に、だいたい懲罰的左遷を示しても、心の中では自暴自棄を懐き、貨に従って財貨を集め、終わっても改悛の心なぞありません。明主の万物においては、平分にして恩を施すのに均等ではないことはなく、吏を罪として遠方の太守とするのは、これを奸人に恵みして遠きに残すという。遠州の辺境の村々は、どうやって聖化を負って、ただその悪政を受けるのでしょうか。辺境の官吏がいる地は、異民族・漢族が雑居し、険阻や遠方であることをたのんで騒動をおこしやすく、平定も困難なのです。官はその才能でなければ、民衆は流亡し、蹶起して盗賊となるのです。これに基づいていうのなら、凡才は用いるべきではなく、ましてや狡猾な官吏はどうでしょうか。臣が願うところは、収賄によって解任を詮議された者は、除籍されてから数十年もしないうちは、再任用を賜ってはなりません。『書』に「民のよいものと悪いものをみきわめて」(尚書 周書畢命)とありますが、それは適切なことなのです。」
上疏したが、答えはなかった。
黄門侍郎、漁陽県伯に遷った。
魏知古とともに東都で進士の試験を実施する責任者となった。開元元年(713)、同紫微黄門平章事(宰相)に昇進した。開元三年(715)、黄門監に改められた。
薛王の叔父の王仙童は百姓に暴虐を働き、御史は捜査してその罪を検挙し、事実を列挙したから、詔が紫微・黄門に下されて審理させた。盧懐慎は
姚崇とともに執奏して、「王仙童の罪状は明白で、もし御史を疑うようなことがあれば、他の人は何を信じたらよいのでしょうか」と申し上げ、これによって獄決した。盧懐慎は自ら才能は姚崇に及ばないとみなしていたから、そのため事案はすべて推して専断せず、当時の人は譏って「伴食宰相」と呼んだ。また吏部尚書を兼任し、病のため骸骨(辞職)を乞い、許された。卒すると、荊州大都督を追贈され、諡を文成という。遺言して
宋璟・
李傑・
李朝隠・
盧従願を推薦し、帝は哀悼して嘆いた。
盧懐慎は清廉で経営を行わず、服飾・器物に金玉や模様の飾がなく、身分は貴かったが妻子は寒さや飢えに瀕し、俸禄を得ると、故人や親戚に惜しむことなく、散財し尽くした。東都の貢挙を担当するため派遣されると、身に携えたものは、一つの布袋にとどまった。病となったから、
宋璟・
盧従願が見舞いすると、筵を覆って寝床とし、門には箔を施していなかった。風雨がくると、すべての席が妨げとなった。日が遅くなってから食事とし、豆を蒸して二つの器に盛り、菜と数杯の酒があるだけであった。別れの時がくると、二人の手をとって、「お上は治世を求めること熱心であらせられるが、しかし国を長いことみると、しばらくしてお勤めに飽きられて、奸人が間に乗じて進んでくることがあるだろう。官邸で記録しておきなさい」と言った。葬式になっても、家に貯蓄はなかった。帝は当時東都に行幸しようとすると、四門博士の
張星が上言して、「盧懐慎は忠節かつ清廉で、真っ直ぐな道のまま終えられましたが、お褒めのご下賜を加えられておらず、善を勧めることができません」と言ったから、そこで制を下してその家に物百段、米粟二百斛を賜った。帝が京師に帰還すると、追い込み猟で、杜との間を行き来し、盧懐慎の家が遠望でき、小さな垣根があり、家人が何かしているようであったから、使者を走らせて尋ねてみると、戻って盧懐慎大祥(三回忌法要)をしていたと報じたから、帝はそこで縑帛を賜い、そのため狩猟をやめた。その墓に立ち寄ると、碑表がなかった。行列を止めて眺めていると、涙がはらはらと流れて泣き、官吏に詔して碑を建てさせ、中書侍郎の
蘇頲に文をつくらせ、帝自ら書した。
盧奐は、若い頃から容貌に優れ、吏になると清廉であると称えられた。御史中丞を経て、京師から出されて陜州刺史となった。開元二十四年(736)、帝が西に帰還すると、陜州に立ち寄り、その優れた政治をお褒めになられ、賛を役所に次のように書いた。「太守の任は重要であるが、陝州の政治は優れている。またすでに人々を救い、忠誠の心がある。これは国の宝となり、家風をおとさない人物である。」ついで京師に召喚されて兵部侍郎となった。天宝年間(742-756)初頭、南海太守となった。南海は水陸の集積地であって、物産は怪異で、前太守の
劉巨鱗・
彭杲は収賄で失脚し、そのため盧奐と交替した。汚職にまみれた吏は手を縮め、宦官で市舶に携わる者もまたあえて法を違反せず、遠方の習俗は安じた。当時開元から四十年たち、治世が優れて清廉な者は、
宋璟・
李朝隠・盧奐の三人だけであった。尚書右丞で終わった。
盧弈は「
忠義伝」を見よ。
李元紘は、字は大綱で、その先祖は滑州の人であり、後世に京兆万年県に住んだ。本姓は丙氏である。曽祖父の
李粲は、隋に仕えて屯衛大将軍となり、煬帝は京師の西二十四郡の盗賊を取り締まらせ、安んじ宥めて、よく兵士の心をつかんだ。
高祖は李粲を厚遇し、兵が関内に入ると、多くを帰順させたから、宗正卿、応国公を授け、姓は李氏を賜った。後に左監門大将軍となり、老いたから、乗馬のまま宮中に入ることを許した。年八十歳あまりで卒し、諡を明という。祖父の
李寛は、
高宗の時に太常卿、隴西公となった。父の
李道広は、武后の時に汴州刺史となり、善政をしいた。突厥・契丹が河北に侵攻すると、議して河南の兵で迎撃したが、百姓は震撼しており、
李道広はことごとく慰めたから、人々で離散する者はいなかった。殿中監、同鳳閣鸞台平章事に遷り、金城侯に封ぜられた。卒すると、秦州都督に追贈され、諡を成という。
李元紘は、若い頃から身を謹んで礼法を守り、仕官して雍州司戸参軍となった。当時、
太平公主は天下に勢力を振るい、百官はその勢力に従おうとし、かつて民と公主が水車石臼の使用で争った際に、李元紘は民に帰結させた。長史の
竇懐貞は非常に驚き、駆けつけて改めようとしたが、李元紘は署判の後ろに「南山に移すべし。判決は変更してはならない」としていた。好畤県の令となり、潤州司馬に遷ったが、優れた統治によって名声を得た。開元年間(713-741)初頭、万年県の令となり、賦役は公平であると称えられ、京兆少尹に抜擢された。詔によって京師付近の渠を裁決することになった。当時、諸王・公主・権勢の家はすべて渠の傍らに水車石臼を建て、溜池を堰き止めて水利権を争い、李元紘は吏に命じてすべて破却し、灌漑用の運河から分水して田に下し、民はその恩を頼った。三たび吏部侍郎に遷った。当時、戸部の
楊瑒・
白知慎は徴税の失敗を罪とされ、刺史に貶され、帝は代わりとなるべき者を求め、公卿の多くは李元紘を推薦した。帝は戸部尚書に抜擢しようとしたが、宰相は素質が薄いとしたから、そこで戸部侍郎となった。箇条書きにして利害および政治の得失を述べたから、帝は才能があるとし、帝王の助けとすべき者であるといい、衣一揃、絹二百匹を賜った。翌年、遂に中書侍郎、同中書門下平章事(宰相)に任命され、清水県男に封ぜられた。
李元紘は宰相となると、仕事ぶりは厳しく抑圧し、突っ走る者を抑え、出し抜こうとする者は憚った。五月五日、
武成殿で宴し、群臣に重ね着を賜い、特に紫服、金魚錫は
李元紘と
蕭嵩のみで、群臣に比較できる者はいなかった。当時、京司の職田を廃止し、議する者は屯田を置こうとした。李元紘は「軍と国は同一ではなく、内と外も制度は異なっており、もし人が手隙で戦争がなく、耕作放棄地があれば、手隙の人に耕作放棄地を耕させると、運漕の労を省き、軍糧の実となるので、そうなれば屯田することは、ますます有益なことなのです。今百官が職田を廃止することは一県だけではないので、迎合すべきではありません。百姓の私田はすべて力して自ら耕したものであるので、奪ってはなりません。もし屯田を設置すれば、公と私がそれぞれ置き換わることになり、丁夫を徴発することになります。徴発すれば業は家を廃し、庸を免除すれば賦税は国から欠乏します。内地に屯田を置くことは、古よりいまだなかったことです。恐れるところは損失を補うことができず、いたずらに費用を費やすことです。」と述べたから、遂に議は止んだ。それより以前、左庶子の
呉兢が史官となり、『唐書』および『春秋』を撰述したが、完成せず、喪があけてから、後に上書してその仕事を終わらせるよう願った。詔して
集賢院にて成書することを許した。
張説が致仕すると、詔して自邸で史書を編纂させた。
李元紘はそのため「国史は、人君の善悪や王政の損益を記録し、毀誉褒貶がつながることは、前聖が最も重んじたことです。現在、国の大典は、分散して一つではありません。また
太宗が史館を禁中に別置したのは、秘密を厳重にしたからなのです。願うところは、張説に対して書によって史館につかせ、撰録に参与させることです」と述べた。詔して裁可された。
後に
杜暹と合わず、しばしば帝の御前で弁論したから、帝は不快に思い、全員を罷免し、李元紘を曹州刺史とし、蒲州に遷したが、病と称して辞職した。後に戸部尚書で致仕し、再び太子詹事に起用された。卒すると、太子少傅を追贈され、諡を文忠という。
李元紘が宰相となると、清廉で節度があり、宰相となって年を重ねたが、いまだかつて邸宅を改築したことはなく、子馬は貧弱で、封物を得ても親族に散財した。
宋璟はかつて「李公は
宋遥の美点を引き継ぎ、劉晃の貪欲さを退け、国の宰相となっては、家に蓄えを留めることなく、季文子の徳であっても、どうしてこれに加えることができようか」と嘆いた。
杜暹は、濮州濮陽県の人である。父の
杜承志は、武后の時に監察御史となった。懐州刺史の
李文暕が人に告発され、
杜承志に詔があって審理させたところ、無実とした。李文暕は、宗室の近族であり、ついに罪を得て、
杜承志も貶されて方義県の令となり、天官員外郎に遷った。羅織の獄がおこり、病と称して辞職し、家で卒した。
高祖の時代から杜暹の時代までは、五世代が同じところに居住した。杜暹は最も慎み深く、継母につかえて孝行であった。明経化に推薦されて及第し、婺州参軍に補任され、任期満了で帰還し、吏は紙を一万枚贈ったが、杜暹は百枚のみ受け取った。皆が「昔、清吏であっても大銭を受け取ったが、なんと珍しいことだろうか」と感嘆した。鄭県の尉となり、また清廉かつ節度によって名が有名となった。華州司馬の
楊孚は、公明で正直な人であり、たびたび杜暹を重んじて意見を聞いた。たまたま楊孚が大理正に遷任することになったが、杜暹もたまたま罪に連座し、楊孚は「もし人を罪にさせたら、皆にどうやって善を勧められようか」と言い、宰相に進言し、これによって大理評事に抜擢された。
開元四年(716)、監察御史となって磧(ゴビ砂漠)西に滞在した。安西副都護の
郭虔瓘と西突厥可汗の阿史那献、鎮守使の劉遐慶が相互に訴え、杜暹に詔して審議させた。突騎施(テュルギシュ)の帳に入ると、証拠を探した。虜は金を杜暹に贈り、杜暹が固辞すると、左右の者が「公は絶域に使者となって来たのですから、彼ら戎の心を失ってはなりません」と言ったため、受けたが、密かに幕下に埋めた。境界から出ると、文書で命じて受け取った物を取り出させた。突厥は大いに驚き、磧を渡って追跡したが、間に合わず去った。給事中に遷ったが、母の喪に遭って辞職した。安西都護の
張孝嵩が太原尹に遷ることになり、ある者が杜暹を安西に行かせると、虜はその清廉さに心服し、今なお思い慕っていると申し上げたから、そこで奪服(服喪を終える前に官に呼び戻されること)されて黄門侍郎兼安西副大都護となった。翌年、于闐(ホータン)王の尉遲朓が突厥諸国と約束して叛こうとしたが、杜暹はその謀を暴き、兵を発して討伐して斬り、支党をことごとく誅殺し、さらに君長を立てて、于闐を安んじた。功によって光禄大夫を加えられた。辺境を守備すること四年、戎を撫育して兵士を訓練し、よく自ら勤め励ましたから、戎も漢人もとも心服した。
開元十四年(726)、召喚されて同中書門下平章事(宰相)となり、中使を派遣して迎えに行かせた。謁見すると、絹二百、馬一匹、邸宅一区画を賜った。
李元紘とあれこれ反りが合わず、罷免されて荊州都督長史となり、魏州刺史、太原尹を歴任した。帝が北都(太原)に行幸すると、戸部尚書に昇進し、行幸の随行を許されて帰還したが、再び東に行幸すると、杜暹は京師留守となった。杜暹は当番の衛士を率いて三宮城を修繕し、池を浚ったが、監督は少しもなまけなかった。帝は聞いてお褒めのお言葉をいたただき、しばしば書を賜って労った。礼部尚書に昇進し、魏県侯に封ぜられた。
開元二十八年(740)卒し、尚書右丞相を追贈され、使者を派遣して葬列を護送させ、禁中から絹三百匹を出して賜い、太常は諡を貞粛とした。右司員外郎の
劉同昇らは杜暹が忠孝を行い、諡はまだつくされていないとし、博士の裴総は杜暹が黒い喪服を着て安西への赴任の命を受け、国に勤労したとはいえ、孝を尽くすことができなかったと言った。その子は訴え、帝はさらに役人に勅して考定させ、ついに諡を貞孝とした。
杜暹は友愛のある人物で、異母弟の
杜昱を非常に可愛がった。その人となりは学問が希薄で、そのため朝廷で議論すると、時々浅薄を露呈した。しかしよく公に清廉で自己保全に勤め、倦まず休まず努め励んだ。若い頃より誓って親友からの贈り物を受け取らず、こうして身を終えた。卒すると、尚書省および吏が贈り物をしたが、その子の
杜孝友は一つも受け取らず、杜暹の普段の志を行ったのだという。
杜鴻漸は、字は之巽である。父の
杜鵬挙は、
盧蔵用とともに白鹿山に隠遁し、母の病のため、
崔沔とともに同じく医術を蘭陵県の蕭亮に授けられ、遂にその術を窮めた。右拾遺に任命された。
玄宗が東は河に行くと、そこで狩猟したから、賦を奉って風刺した。安州刺史で終わった。
杜鴻漸は進士に及第し、
延王府参軍に任じられ、
安思順は上表して朔方節度判官とした。
安禄山が叛乱をおこすと、皇太子は軍を率いて平涼に行ったが、駐留に適当な場所がわからなかったから、議して蕭関道を出て豊安に赴いた。杜鴻漸は六城水運使の
魏少游、節度判官の
崔漪、支度判官の盧簡金、関内塩池判官の
李涵と謀って、「夷どもが秩序を破壊し、長安・洛陽の二京は占領されてしまった。太子が兵を平涼で収められたが、土地が分散していて根拠地とするのは難しい。今朔方が勝利を制しようとするなら、太子を奉迎し、西は河・隴に詔し、北は回紇と手を結び、回紇は最初から国家とともに、協力な騎馬を収め、兵力を合同し、南方を鼓舞すれば社稷の恥を雪ぐのは、また簡単なことではないであろうか」と述べ、そこで兵馬召集の軍を詳細に上奏し、また軍の資材、攻城用器械、兵糧を記録し、李涵を平涼に派遣して太子に引見させると、太子は大いに喜んだ。たまたま
裴冕が河西よりやって来て、また朔方に行くことを勧めた。
杜鴻漸は崔漪とともに白草にやってきて迎え謁し、「朔方軍は天下の強兵で、霊州は本領発揮の地です。今、回紇は和平を願い、吐蕃は付き従っており、天下は城を並べて堅守し、王命を待っています。たとえ賊に占領されていても、日夜官軍を待ち望み、回復しようとはかっています。殿下が兵を手に入れ長駆すれば、逆胡どもを滅すことは簡単なことです」と説き、太子は喜んで「霊武は私にとっての関中だ。卿は私にとって蕭何だ」と言った。
霊武に到着すると、
杜鴻漸は
裴冕らとともに皇帝の位に即位することを勧め、内外の望みであるとした。六度要請し、聴された。杜鴻漸は朝廷の作法に明るく、故事通りに采配し、壇を城の南に設け、一日前にその儀式の次第を詳細にして草案を上奏した。太子は「聖皇は遠くにあらせられ、逆賊どもは結束しようとしている。壇場をやめて、他は奏上の通りとせよ」と言い、太子は即位した。これが
粛宗である。杜鴻漸に兵部郎中を授け、中書舎人とした。にわかに武部侍郎となり、河西節度使に遷った。長安・洛陽の両京が平定されると、また荊南節度使となった。乾元二年(759)、襄州の大将の
康楚元らが叛き、刺史の王政は脱出して逃走し、康楚元は偽って南楚霸王と称し、そこで荊州を襲撃した。杜鴻漸は城をすてて逃走し、人々は皆南へ逃れ、舟を争って溺死する者が非常に多かった。澧・朗・復・郢などの州は杜鴻漸が逃れたのを聞いて、皆山谷に隠れた。にわかに商州刺史の
韋倫がその叛乱を平定した。
しばらくして、
杜鴻漸を召喚して尚書右丞、太常卿とし、礼儀使にあてた。
泰陵・
建陵の二陵の制度はすべて
杜鴻漸が統括したもので、優れた成績によって、衛国公に封ぜられた。また、「『周官』に「災害時には礼を省く」(周礼 掌客)とあり、今大乱をうけ、人民は殺されたり重症を負っています。婚礼・葬送の行列は、国に大功がある者や二等の以上の場合でなければすべて許されませんように」と建言し、詔して裁可された。
代宗の広徳二年(764)、兵部侍郎同中書門下平章事(宰相)に任じられた。ついで中書侍郎に昇進した。
崔旰が
郭英乂を殺して成都を占領し、邛州牙将の
柏貞節、滬州牙将の
楊子琳、剣州牙将の
李昌巙が兵で崔旰を討伐し、蜀の地は大乱となった。杜鴻漸に命じて宰相の地位のまま成都尹、山南西道剣南東川副元帥、剣南西川節度副大使を兼任して鎮圧・撫育に向かわせた。杜鴻漸の性格は臆病で、他に遠大な計略はなく、晩年は仏教におぼれて殺戮を恐れた。剣門を過ぎるにあたって、
張献誠が敗北したのを教訓とし、また崔旰の武勇を恐れ、先に許したから死ななかった。面会すると、礼をもって待遇し、あえて譴責せず、かえって成都の政務を委ね、毎日従事の
杜亜・
楊炎と宴会泥酔し、そこで崔旰を推薦して成都尹とし、柏貞節に邛州刺史、
楊子琳に滬州刺史を授け、それぞれ戦闘を停止した。そこで入朝を願い出て、聴された。帝に謁見すると、盛んに崔旰の武威・知略が任じるにたえうるものであり、留後とすべきであるとした。宝器五床、羅錦(刺繍入りの錦)十五床、麝臍(ジャコウジカのへそ近くの麝香嚢から製する香料)五石を献上した。また宰相に復帰した。議論する者は乱を長引かせたことを憎んだ。門下侍郎に昇進した。大暦三年(778)、東都留守、河南淮西山南東道副元帥を兼任したが、疾と称して赴任しなかった。また山南、剣南副元帥の地位を譲り、聴された。大暦四年(779)、病が重くなり、宰相を辞任し、辞めて三日して卒した。年六十一歳。太尉を追贈され、諡を文憲という。
杜鴻漸が蜀より帰還すると、千僧供養を行い、報いがあると思ったから、貴紳たちはこれに倣った。病が重くなると、僧に頭を剃らせ、仏葬(火葬)するよう遺命し、土を盛って木を植えるような墓地をつくらなかった。
張九齢は、字を子寿といい、韶州曲江の人である。七歳で文章をつづることをおぼえた。十三歳のとき、広州の刺史であった
王方慶に書簡を送った。王方慶は感心していった、「こいつはきっと出世するぞ」。ちょうど
張説が嶺南地方に左遷されてきたが、一見すると彼を厚遇した。父親の喪にあって、哀しみにやつれて、その結果役所にある樹木の枝が連なりあうという瑞祥が現れるほどだった。進士に選抜され、最初校書郎に任命されたが、道侔伊呂科の試験でよい成績をあげたため、左拾遺となった。当時
玄宗は即位したところで、まだ郊見をしていなかったので、
張九齢は建白書を奉った。
「天は、百神の君主であって、王者は天より受命によるところです。古より帝統を継いだ主は、必ず郊祀で始祖を配祭しますが、思うに天命を敬い、受命したところに報いるからなのでしょう。恩恵がいまだに行き渡らず、一年の稔りもまだ実っていなければ、その礼を欠くのです。昔、周公旦は后稷を郊祀して天に配えたのは、成王が幼かったから自ら行ったのだといい、周公は摂政となってその礼を用いたので、廃さないことを明らかにしたのです。漢の丞相の匡衡は「帝王の事で郊祀より重いものはない」と言い、董仲舒はまた「郊祀せずに山川を祭るのは、祭祀の序列を失うことになり、礼にそむく。『春秋』はこれを謗っている」と言っています。臣は匡衡・董仲舒は古の礼を知っているというべきで、皆郊祀を先に行うべきだとしています。陛下は先聖の美業をお継ぎになって、今にいたるまで五年になりますが、まだ天を大いに報祀しておらず、これを経によって考えてみるに、義は通じていません。今、百穀はめでたく実り、鳥獣にも帝王の教化が行われ、夷狄は朝廷に帰順し、武器は使うことをやめていますが、だから天につかえることを怠るのは、後世への教訓とすべきではないと恐れています。願わくば長日(冬至)を迎えて紫壇にのぼり、美しい席をならべ、天位を定めれば、聖典の教えをあますことはないでしょう。」
また申し上げた。「失政の気は発して水害や旱魃となります。天道は遠いとはいえ、こたえることは非常に近いのです。昔、東海で孝婦が無実の罪で殺されると、天はしばらく旱となりました。一官吏の愚かさのため匹婦が非業の死を遂げたとしても、ただちに天はその無実を明らかにします。ましてや全世界の人民の多くは、県では県令に命じられ、家では刺史に生かされ、陛下はこれと共に統治するところで、もっとも人に親しい者においてはどうでしょうか。もしその任にあたいしなければ、水害や旱魃になる道は、どうしてただ一婦だけがたどるのみになるのでしょうか。今刺史や京近の雄望の郡は、まだ多少は人材が選ばれているようですが、江・淮・隴・蜀・三河の大府の外は、そのような人材ではない者もいるのです。京官より出た者は、ある者は昇進した者ですが、またある者は政務に功績がないのに州郡の長官の任に用いられた者で、これは外地の長官が追放・左遷の地となったからです。ある者は追従によって高官となり、勢力が衰えるとこれを京職とは称さないといい、出て州の刺史となったのです。武官や流外官は財産を積んでこの職を得たのであって、才能によったのではありません。刺史がそうなのですから、県令に到っては言うまでもありません。民百姓は国家の根本で、物事の根本の事柄に努力すべきつとめで、よく進上する者は軽んじられ、疲弊した民は、不才の人に遭うと騒擾となり、聖化はこれによって消沈して晴れ晴れとせず、親近の人を選ばないからこのような弊害がおこるのです。古の時代、刺史は入っては三公となり、郎官は出ては百里もの地をつかさどりました。今朝廷の士は一度入ってしまえば外地に赴任することはなく、計略を私用ではかって、かなり得意になってうぬぼれているのです。京師の衣冠を集めると、身名出るような身分の者は、京師に落ち着いて外に赴任しない理由を無理にこじつけ、外地への勤めずに出世しますが、これは大きな利益が京師の内にあるからであって、外にはないからなのです。智能の士で利を欲する心がある者は、どうして再度出て刺史・県令になることを承諾しましょか。国家は智能の士に頼って統治していますが、常に親しい人がいない者は、陛下が法を理由に改めないからなのです。臣は思いますに、治めようとするの本義は、刺史を重んじるのに他はなく、刺史が既に重きを置かれているのなら、すなわち優れた者を任命すべきです。試験してその資質を見定めるのがよいでしょう。概ね都督・刺史を歴なければ、高位の子弟であっても、侍郎・列卿に任じさせるべきではありません。県令を歴なければ、善政したとしても、台郎・給事・舎人に任じるべきではありません。都督や刺史は遠地であっても十年以上外地に任じることをさせてはなりません。このことを行わずにその失を救うようなことがあれば、恐らくは天下はまだ治まっていないようなものです。」
また申し上げた。「古の時代の士を選ぶには、思うによくその任にあたる者を採用し、これによって士は素行を修養するから、思いがけない幸せとはならず、悪巧みは自然と止み、官位はおかしなことにならないのです。今天下は必ずしも上古のように治まらず、一日の事務量は以前の倍に達しており、本当にその根本を正しくなければ、末節が虚偽を行うことになります。所謂末節というのは、吏部条章は千百人にも及んでいます。役人は文墨に溺れ、文筆に優れた悪賢い者共は、悪者によって奮うのです。臣は思うに、当初、出納簿をつくることとは備忘に備えるのみでしたが、今はかえって精密さを案牘(調査文書)に求めており、それなのに人材を求めるのに性急になっていますが、これは所謂剣を流れの中に残して、契丹で記すようなものです。おしなべて吏部で優れた者は、すなわち尉と主簿より、主簿と丞より、ここに文をとって官次を知るもので、それが賢者であろうが不肖な者であろうが論じることはないのは、どうして誤ちではないというのでしょうか。吏部尚書や侍郎というのは、賢者に授けるものですが、どうして賢者を知ることができないというのでしょうか。賢者を知ることが難しいようでしたら、十人を抜擢してうち五人を得られれば、これでよいのです。今かたく格条を用い、資質によって職を配し、官のために人を選んでも、当初からこの意がなければ、そのため時の人は品評調配の誹りを受け、役所は賢人の実を得ることができなくなります。」
「臣が申し上げます。選部(吏部)の法はおとえても変わることはありません。今、刺史・県令のようにその人を詳細に調べ上げ、そこで管内で毎年選にあたる者は、才行を選考して、流品に入るべきであれば、その後に御史台に送り、また選に加えられるのであり、多少でも用いるところは州県の役人の功過についてその上功下功を評定し、そこで州県は慎んで推挙された者で、官吏となるべき才能が多ければ、吏部はその作成された推挙文によるので、凡人がやたらめったらいるということがなくなります。今毎年選ばれるのは一万人を数え、京師の米や物が消耗していますが、どうして士が多いというのでしょうか。思うにみだりにこれがそれにあたるとしているだけなのでしょう。まさに一詩一判をもってすれば、その是非が定まり、たまたま賢人をのがし漏らしたとしても、これは当代の失政なのです。天下は広く、朝廷に人は多いとはいえ、必ず悪口と賞賛があい乱れ、聞く者も受ける者もわからなくなると、事は終わってしまうのです。もしその賢能を知り、それぞれ品第があり、官吏に一人欠員が出るごとに、次にこれを用いることをしなければ、どうしてできないというのでしょうか。もし諸司要官が、下等の者をみだりに昇進させれば、この議に高貴も卑賎もなく、ただ得るのとそうではないのがあるだけになります。そのため公正な議論はおこらず、名節はおさまらず、善士は節を守って時を失い、中人は追求して操つりやすくなるのです。朝廷はよく令名によって人を推挙し、士もまた名を修養して利を得ており、利が出ると、多くはそれに走るのです。そうでなければ小者はいやしくも求めることを得て、一変して私事におもんねることになり、大者は名分を守るのに従うことを許しながら、二変して朋党をなすのです。そのため人を用いるのには身分の高い低いで落第にすべきではなく、身分の高い低いに序列があるからといって、簡単に閑職に追いやるべきではなく、天下の士は必ず心の中で己の品徳を修養するよう刻んでいるから、政務や刑罰はおのずから清廉となり、これは興衰の大事な部分なのです。」
急に左補闕に昇任した。
張九齢は人才を見抜く能力をもっていた。吏部が抜萃と被推挙者を試験する場合、いつも右拾遺の
趙冬曦と席次を考査し、ゆきとどいて公平だと評判された。司勲員外郎に転任した。当時
張説が宰相であったが、彼をいつくしみ大事にし、同じ張姓というので同族扱いをした。常に「わが家の若者は、文学者仲間の第一人者だ」といっていた。中書舎人内供奉に昇任し、曲江の男爵に封じられた。中書舎人に進んだ。そのころ、
玄宗は泰山で封禅を行った。張説は門下省の録事と中書省の主書それに身近な部下を泰山に連れて行くために数多く抜擢した。特進して五品の位に登るものがいた。張九齢は詔勅を起草するときに、張説に向かっていった。「官位爵位というのは天下の公器で、徳義と人望を第一とし、功労と旧識を二の次とするものです。現在、泰山に登って封禅を行い天に成功を報告しようとしており、千年に一度の大典です。それなのに高潔な人々は格別の御恩から遠ざけられており、小役人の方が高官のしるしである章韍をつけるでたらめさです。詔が発布されると、四方の人々の期待を裏切ることが心配です。今、草稿をさし出すときなので、まだ変更が可能です。公はよろしく熟慮して下さい」。張説はいった。「事柄は決定ずみだ。いいかげんな議論は、気にかける必要はない」。その結果、果たして非難を受けた。御史中丞の
宇文融は田法に専念していたところで、それに関連して上奏したことがあった。張説は事あるごとにそれに異議をとなえた。宇文融は彼に対しふんまんが積み重なった。
張九齢はそのことについて注意したが、張説はききいれなかった。突然、宇文融に手ひどくとがめだてられ、危うく処刑されるところだった。
張九齢も太常少に配置がえされ、冀州刺史として出されたが、母親が故郷を離れることを承知しないので、上表して洪州都督に変えてもらい、桂州都督に移り、嶺南按察選補使を兼任した。
以前、
張説は集賢院の長だったときに、張九齢を帝の顧問となる資格があると推薦したことがあった。張説がなくなってから、天子はその言葉を思い出し、召し帰して秘書少監・集賢院学士知院事に任命した。ちょうどそのとき、渤海国王に詔勅が下されることになったが、その文書を作れるほどのものがいなかった。そこで張九齢を召してそれを作らせたが、詔を受けると直ぐに作りあげた。工部侍郎・知制誥に昇任した。度々郷里に帰って孝養をつくしたいと願い出たが、勅許されず、彼の弟の
張九皋と
張九章を嶺南刺史に任命し、節季ごとに馬を支給して家を見舞うことをゆるした。中書郎に昇任したが、母親の喪ため職を離れた。悲しみにたえずやつれはてた。紫芝が居間の側に生え、白鳩と白雀が庭の木に巣をかけた。その年、服喪期間をきりあげさせられ、中書侍郎同中書門下平章事(宰相)に任命された。固辞したが、許されなかった。翌年、中書令に昇進した。初めて河南に水を開くことを建議し河南稲田使を兼任させられた。年功序列の廃止とふたたび十道採訪使を設置することをした。
李林甫は学問がなかったので、張九齢が文章によって帝の知遇を受けているのを見て、心中を嫌った。たまたま范陽節度使の
張守珪が可突干を斬る功績を立てたので、帝は彼を侍中にとりたてたいと思った。張九齢はいった。「宰相とは天に代わって万物を治めるものです。しかるべき人がいて、始めて任命するもので、功績のほうびとして与えるべきではありません。国家の失敗は、官吏のまちがった任命から起こります」。帝はいった。「宰相の名をかすのだが、どうかね」。答えて「名義と器物はかすべきではありません。東北の二蛮族(奚と契丹)を平定するようなことがありましたなら、陛下は侍中の上に何をつけ加えられますか」。かくて中止になった。また、涼州都督の
牛仙客を尚書にとりたてようとした。張九齢はあくまでも反対した。「いけません。尚書は昔の納言です。唐朝では元大臣を起用する場合が多いのです。そうでないとしても、内外の高官を歴任しすぐれた徳義人望を有するものを、それにとりたてます。牛仙客は黄河・湟河流域の一地方官に過ぎません。大臣の一員となれば、天下はいったい何ととりざたしましょうか」。さらに実際の領地を賜与しようとした。張九齢はいった。「漢の法律では、功績があるのでなければ、領地を与えませんでした。唐が漢の法律を活用することは、
太宗の定められた規則です。国境地帯の将軍が穀物絹帛を貯え、兵器具に手入れすることは、職務からいって当然のことに過ぎません。陛下がどうしても彼にほうびを授けるおつもりなら、金と帛を下賜されればよろしいことです。土地をさいて領土を与えることは、絶対によろしくありません」。帝は腹を立てていった。「牛仙客の出身が賎しいから、彼を毛嫌いするのではないか。卿は実際もとから名門だとでもいうのかね」。張九齢は頭を地につけて辞儀をしていった。「臣はさいはての地より参った孤独の身です。陛下にはうっかり文学者として臣の採用をゆるしになりました。牛仙客は小役人から抜擢されまして、書物を読んだこともございません。韓信は淮陰の一壮士でありましたが、周勃・灌嬰らと同列になったことを恥としました。陛下がどうあっても牛仙客を起用されるならば、臣は実際それを恥と考えます」。帝は不気嫌だった。翌日、李林甫が参内して申しあげた。「牛仙客は宰相の器です。それを尚書になることが無理だというのでしょうか。張九齢は文官で、古くさい道理にこだわって、本筋を見失っているのです」。帝はこの発言によって牛仙客起用を決定してためらわなかった。張九齢は帝の気持ちに逆らってからは、全く心中に危惧し、かくては李林甫に陥し入れられる結果となるのを心配した。帝が白羽扇を賜与された機会に、賦を献上して扇に託して心境を述べた。その末句に「いやしくも効用の所を得れば、身を殺すといえども何をか忌まん」とあり、また「たとい秋の気の移奪するも、ついに恩を篋の中に感ず」とあった。帝はねんごろなお言葉で答えられたが、けっきょくは尚書右丞相の資格のままで政権から退け、牛仙客を起用した。それ以後、朝廷の官僚たちは俸禄を大事にして天子の恩寵をそこなわないようにした。以前、張九齢は長安尉であった
周子諒を推薦して監察御史としたことがある。
周子諒は牛仙客を弾劾したが、その上奏文の中に讖緯の書を引用した部分があった。帝は怒り、政事堂において
周子諒を杖で打たせたうえ、瀼州に流したが、彼は道中で死んだ。
張九齢は不適当な者を推挙したかどで、荊州長史に降等された。まともな行為によって左遷されたにもかかわらず、怨みの念にとりつかれて悲しむこともなく、ただ文学歴史を楽しみとして過ごした。朝廷ではその名声を認めて、しばらくしてから始興県伯にとりたてた。彼は郷里に帰って墓守りをすることを願い出たが、病気でなくなった。六十八歳であった。荊州大都督を追贈された。諡は文献という。
張九齢はひよわな体質で、おくゆかしい人であった。慣例によると、高級官僚はみな笏を帯にはさんでから馬に乗ったが、
張九齢だけはいつも人にそれを持たせていた。そのため笏袋を設けたが、それは
張九齢から始まる。以後、帝が人を起用するとき、必ず「ものごし態度は
張九齢みたいになれるかね」と訊ねるのが例であった。以前千秋節のとき、公・王がたはいずれも宝の鑑を献上したが、
張九齢は「千秋金鑑録」と名づける事がらの鑑となるべき十章の書を献上して諷諭の意を述べた。
厳挺之・
袁仁敬・
梁昇卿・盧怡と仲がよく、彼らが終始変わらぬ交友関係を保ったことを、世間では称賛した。宰相となると、ずけずけと発言して大臣の節義があった。その当時、帝は在位も長く、次第に政治をおろそかにしだした。従って張九齢の議論は必ず善悪を遠慮なく指摘し、推挙する人物はすべてまともな人々だった。
武恵妃が皇太子
李瑛を陥し入れようとたくらんだとき、張九齢はあくまでも反対した。武恵妃はひそかに宦奴の牛貴児を彼のもとにやっていわせた。「廃されるものがおれば必ず起用されるものがおります。公が加勢して下されば、宰相の位に長くおれましょう」。張九齢はどなりつけた。「奥向きのものが、どうして外に口をはさむのです」。急遽そのことを奏聞した。帝はそのため表情を変えた。おかげで張九齢が宰相である間は、皇太子に災厄は起こらなかった。
安禄山が初めて范陽偏校下級士官として参内して上奏したとき、おごりたかぶった気色だった。張九齢は
裴光庭に向かっていった。「幽州を乱す者は、このえびすのひよっこだ」。安禄山が奚・契丹を討伐して敗れた時、
張守珪は逮捕して都に行った。張九齢はその間の事情を書き記して述べた。「司馬穰苴は出陣するとき、遅刻した荘賈を処刑しました。孫武は模擬戦のときですら、兵士として使った宮女を死刑にしました。張守珪が軍法とおり厳正に執行するならば、
安禄山は死を免れるべきではありません」。帝はききいれず、
安禄山をゆるした。張九齢はいった。「
安禄山は狼の子で荒々しい心のままで、反逆の相があります。事件を利用して彼を処刑して、将来の禍根を絶つべきだと存じます」。帝はいった。「卿は王衍が石勒の下ごころを知っていたためしにならおうとして、忠良の人を害してはならんぞ」。けっきょく採用されなかった。帝はのちに蜀にいるとき、彼の忠義を思いかえし、彼のため涙を流した。その上、使者を韶州に派遣してお祭りをし、手厚い贈り物を送って彼の家族を慰問した。開元(713-749)以後、天下の人は曲江公と称号でよび、名まえをいわなかったという。建中元年(780)、
徳宗は彼の風格を評価して、更に司徒を追贈した。
子の
張拯は、父の喪にあって節行があり、後に伊闕令となった。
安禄山が河州・洛州を陥落させたが、終に偽官を受けなかった。賊が平定されると太子賛善大夫に抜擢された。
張九齢の弟
張九皋もまた名を知られ、嶺南節度使でおわった。その曾孫に
張仲方がいる。
張仲方は、生まれたときから優れており、父の友の
高郢は面会して、普通の人ではないと思い、「この子は必ず国の器となるだろう。私が高官になれたら、必ず引き立てよう」と言った。貞元年間(785-805)、進士・博学宏辞科に推薦され、集賢校理となったが、母の喪に遭って辞職した。当時、高郢が御史大夫を拝命し、上表して御史となった。累進して倉部員外郎となった。
当時、
呂温らが宰相の
李吉甫を弾劾したが証拠はなく、罪とされて排斥され、
張仲方は呂温の与党であったから、金州刺史に補任された。宦官が民間の田を奪い、
張仲方は三度上疏して明らかにし、ついに民間有利の裁決となった。京師に入って度支郎中となった。李吉甫が卒すると、太常は諡を恭懿とし、博士の尉遅汾清は諡を敬憲とし、
張仲方は以前の恨みをかかえてまだやむことがなかったから、そこで議を奉って「古の諡は、大節を考え、細かい行いを略し、善悪が一言で足るようになっています。李吉甫を考えてみますに、多芸多才でしたが、君側に媚び、別人に取り入って自分の安全をはかり、重ねて高官となり、信は少なく謀は安直で、事は成功しませんでした。また兵は凶器であり、こちら側から開戦すべきではありません。罪を討伐するには、迎撃して必ず功績をなすのです。内に輔臣を害する賊がおり、外に害毒を懐く災いがあるのです。兵士は野に暴れ、敵の馬は郊外で生息しています。皇帝は職務多忙のため夜食と夜着で過ごすことになり、公卿・大夫もまた恥じ入り、農民は田畝におらず、糸紡ぎ婦には桑が得られないのです」と述べた。また又言、「李吉甫は平易かつ柔和で、名は配行でありません。願うところは、蔡が平定されるのを待って、その後に議論することです」と申し上げたが、
憲宗は兵を用いようとしており、発言に悪意があるのを憎んで、貶して遂州司馬とした。しばらくして河南少尹、鄭州刺史に昇進した。
敬宗が即位すると、
李程が宰相となり、引き立てられて諌議大夫となった。帝は当時、
王播に詔して競舟三十艘を造船させたが、半年分の運費を用いた。張仲方は
延英殿で謁見し、厳しく論じたてたから、帝はそのため三分の二に減らした。また詔して
華清宮に行幸することとなったが、張仲方は「万乗の君が行かれる際には、必ず儀仗の兵を備えなければなりません。簡易にすれば威重を失います」と述べた。意見に従わなかったが、慰労された。鄠県の令の
崔発は宦官を辱めて獄に繋がれ、大赦となっても許されなかった。張仲方は「恩は天下にこうむると、昆虫にも流れるものですが、御前の場合は行われないのでしょうか」と言ったから、崔発はこのため死なずにすんだ。大和年間(827-835)初頭、京師から出されて福建観察使となった。召還されて、左散騎常侍に昇進した。
李徳裕が宰相になると、太子賓客の地位で東都分司となった。李徳裕が罷免されると、再び常侍を拝命した。
李訓の変で、大臣はある者は誅殺され、ある者は拘禁された。翌日、群臣が
宣政殿で謁見しようとしたが、宮殿は開かなかった。群臣はバラバラに朝堂に立ち、衛兵の門が開いていなかったため、しばらくすると半扉が開いたが、使者が張仲方に伝えて「詔があった。京兆尹となるべし」と言い、その後門が開き、天子がお出でになる合図があった。その説き、宰相や将軍が皆殺しとなり、頭や脚があちこちに転がっており、張仲方は密かにその死体が誰であるのか識別するために使者を派遣した。にわかに埋葬が許可されると、そのため遺体に混乱が生じなかった。すでに禁軍は横行し、多くが政治に干渉し、張仲方はこれを嫌ったが、弾劾することができなかった。宰相の
鄭覃は京兆尹を
薛元賞と交替させ、京師から出されて華州刺史となった。召還されて京師に入り、秘書監を授けられた。人々は鄭覃が
李徳裕を助けて、
張仲方を追い出して用いなかったと言った。鄭覃はそこで丞・郎に任命しようと上奏した。
文宗は、「侍郎は、朝廷の花形である。彼の刺史はとくに功績もないから、任命すべきではない」と言ったが、ただ曲江県伯に封じた。卒し、七十二歳であった。礼部尚書を追贈され、諡を成という。
張仲方は実直で風骨節操があったが、すでに
李吉甫の諡を論駁しており、世間はその発言を修正しなかったから、ついに名声が現れなかったのだと言い、没すると、人々の多くは悲しんだ。
それより以前、
高祖が隋に仕えていた時、
太宗は幼くして病となったから、そのため玉像を熒陽の寺院に刻んで、毎年祈祷していたが、しばらくして削れてわからなくなってしまい、
張仲方が鄭州にいたとき、吏に命じて守らせ、石を刻んで上奏し、当時広く伝わった。
韓休は、京兆長安県の人である。父の
韓大智は、洛州司功参軍で、その兄の
韓大敏は、武后に仕えて鳳閣舎人となった。梁州都督の
李行褒は居民に謀反を告発され、詔して
韓大敏に審理させた。ある人が「李行褒は李氏の一族で、武后は除きたいとの思いがあるのだろう。その冤罪をつくることなければ、恐らくはあなたに累が及ぶであろう」と言ったが、
韓大敏は、「どうしてこの身を顧みて人の罪に捻じ曲げて殺すことがあろうか」と言い、そのため証拠事実のまま判決を出した。武后は怒り、御史を派遣して再審し、ついに李行褒を殺して、
韓大敏は家で死を賜った。
韓休は文章を巧みにし、賢良方正科に推挙された。
玄宗がまだ東宮であった時、国政の対策を箇条書きにさせ、校書郎の
趙冬曦とともに成績は乙科にあたり、左補闕、判主爵員外郎に抜擢された。昇進して礼部侍郎、知制誥となった。京師から出されて虢州刺史となった。虢州は洛陽・長安の近州であり、乗輿が来る場所で、常に厩の秣が税となったから、韓休は賦を他の郡と同じくするよう願った。中書令の
張説は「虢州が免除されて他州に与えられるのなら、これは刺史となった臣が私に恩恵を与えるだけになる」と言ったが、韓休は再び議論をとりあげたから、吏は宰相の意にさからうことを恐れると言った。韓休は、「刺史は幸運にも民の弊害を知ったのに救わなかったなら、どうして政務ができようか。罪を得たとしても、甘んじて罰を受けよう」と言ったが、ついに韓休の要請の通りとなった。母の喪があけ、服喪がとけると、工部侍郎、知制誥となった。尚書右丞に遷った。侍中の
裴光庭が卒すると、帝は
蕭嵩に勅して代わりとなる者を推薦させ、蕭嵩は韓休の志や行いを称え、遂に黄門侍郎、同中書門下平章事(宰相)を拝命した。
韓休は公正で行動につとめず、宰相となると、天下は一致してよしとした。万年県の尉の李美玉に罪があり、帝は嶺南に放逐しようとした。韓休は「尉は微官で、犯した罪は大悪ではありません。今、朝廷に大奸がいて、先にこちらを治めてください。金吾大将軍の
程伯献は天子の恩寵をたのんで貪欲で、自宅に輿や馬があって法度をおかしていますので、臣は先に程伯献を、後で李美玉を裁くことを願うのです」と言ったが帝は許さず、韓休は強く争って「罪が小さいのに容赦しないのに、巨悪であったなら差し置いて問わない、陛下が程伯献を追放しないのでしたら、臣もあえて詔を奉りません」と言い、帝は韓休の考えを換えさせることができなかった。大体お堅く正直な様子はこのようであった。それより以前、
蕭嵩は韓休が物腰柔らかく平易な人物であったから、推薦した。韓休は事に臨んではある時は蕭嵩を糾弾したから、蕭嵩とは不和となった。
宋璟はこれを聞いて「意とせず韓休がこのようであったなら、仁者の勇だな」と言い、蕭嵩は寛容で多くを受け入れたが、韓休は厳正剛直で、時政の得失は、これを言うのに徹底しなかったことはなかった。帝はかつて苑中で狩猟し、ある時は大いに楽を演奏し、しばらく贅沢をしていると、必ず左右に向かって、「このことを韓休は知っているか」と尋ね、すでに韓休の上疏がたちまち到着していた。帝はかつて鏡の前で、黙って楽しまなかった。左右の物が「韓休が朝廷に来てから、陛下は一日も喜びがなく、どうして御自ら憂い悲しまれて、韓休を追放しないのですか」と尋ねると、帝は「私は痩せていっても、天下は肥えていく。また蕭嵩は何か言うごとに、必ず私の意見に従うが、我は退いて天下のことを思うと、不安で寝られない。韓休が政治の道を述べると、多くを議論し、私は退いて天下のことを思うと、安心して眠れるのだ。私が韓休を用いるのは、社稷の計のためなのだ」と言った。後に工部尚書で罷免された。太子少師に遷り、宜陽県子に封ぜられた。卒し、年六十八歳であった。揚州大都督を追贈され、諡を文忠という。宝応元年(762)、太子太師を追贈された。
韓浩は、万年県主簿となったが、
王鉷の家が財貨を隠したのに連座したから、京兆尹の
鮮于仲通に弾劾され、循州に流された。
韓洪は司庫員外郎となったが、
韓汯も一緒に全員連座して貶された。韓洪は後に華州長史となった。
韓渾は、大理司直となった。
安禄山の反乱軍が京師に侵攻すると、皆賊に捕らえられ、賊は官につくよう迫ったが、韓浩は韓洪・韓汯・韓滉・韓渾とともに出奔し、行在まで逃走しようとしたが、韓浩・韓洪・韓渾および韓洪の四子は再び賊に捕らえられて殺された。韓洪は人と交わるのをよくし、節義があり、当時最も評判が高く、見る者は涙を流した。
粛宗は大臣の子で難事に死んだ者をよしとし、詔して韓浩に吏部郎中を、韓洪に太常卿、韓渾に太常少卿を追贈した。韓汯は上元年間に諌議大夫で終わった。
韓洽は、殿中侍御史で終わった。
韓滉は、字は太沖で、蔭位によって左威衛騎曹参軍に補任された。至徳年間(756-758)初頭、山南に避難し、采訪使の
李承昭が上表して通川郡長史とし、彭王府諮議参軍に改められた。それより以前、
韓汯が知制誥となり、
王璵への詔の草稿をつくるにあたって、古典よりの借言がなかったため、恨まれた。王璵が宰相となると、韓滉の兄弟は全員冗官に退けられた。王璵が罷免されると、そこで殿中侍御史に抜擢され、三遷して吏部員外郎となった。性格は強直で、吏の事務に精通し、南曹にいること五年、帳簿に最も詳しい人物となった。給事中に遷り、兵部の選抜試験の責任者となった。当時、富平県令の韋当が盗賊に殺され、賊は北軍に所属しており、
魚朝恩はその凶徒に通じ、奏上して死罪を許したが、韓滉は執拗に追いかけ、ついに罪に伏した。右丞に遷った。吏部の選抜の責任者となり、戸部侍郎判度支となった。
至徳年間(756-758)より戦争が勃発してから、賦税に制限がなくなり、財務の官吏は輸送にあたって財物を横領した。韓滉は下級官吏および全国の運送を調査し、罪を犯した者は法にてらして追放とした。この数年しばしば豊作となり、軍事はやや収まり、そのため穀物や帛が山谷のように積み上がり、しばらくの間充実した。しかし公文書を再審理し、法律を厳格に適用して捜索して取り立てたから、人々はまた恨みの声をあげた。大暦十二年(777)秋、大雨により収穫への影響は十のうち八にいたり、京兆尹の
黎幹が言上したが、韓滉は租税が免除されてしまうのではないかと恐れ、頑なに事実ではないと上表した。
代宗は御史に命じて視察させてみると、実際には損田は三万頃あまりにのぼった。それより以前、渭南県令の劉藻が韓滉にしたがい、領内の田に損害がないと報告し、御史の趙計も査察したが、劉藻の報告の通りにし、帝がまた御史の朱敖に事実を調査させると、田の損害は三千頃であった。帝は怒って、「県令は民を養うのが職務であって、田の損害を不問としたら、どうして百姓の辛苦を心配できようか」と言い、劉藻を南浦員外尉とし、趙計もまた豊州司戸員外参軍に左遷された。まさにこの時、長雨で黄河が結界して塩池に注ぎ込んだが、韓滉は池が瑞塩を産んだと上奏した。帝は疑い、諌議大夫の
蒋鎮を派遣して事由を調査させたが、蒋鎮は韓滉を恐れ、戻ってそこで帝に祝賀して、また祠を設置することを願い、詔して宝応霊慶池と名付けた。
徳宗が即位すると、韓滉が民の財物を搾り取るのを嫌って、太常卿に遷した。議論する者は満足しなかったから、そこで京師から出して晋州刺史とした。しばらくもしないうちに、浙江東西監察使に遷り、ついで検校礼部尚書として鎮海軍節度使となった。百姓を慰撫し、租・調を公平に実施すると、一年もしないうちに、領内での統治が称えられた。帝が奉天にあって、淮・汴が騒動となると、韓滉は兵卒を訓練し、兵を分けて河南を守った。帝が梁州に行くと、また縑十万匹を献上し、鎮兵三万を以て賊の討伐の助けとするよう願い出ると、お褒めの詔があり、検校尚書右僕射に昇進し、南陽郡公に封ぜられた。
李希烈が汴州を陥落させると、韓滉は部将の
王栖曜・
李長栄・
柏良器に精兵一万人を率いさせて討伐に進撃させ、睢陽に至ると、賊はすでに寧陵県を攻撃しており、王栖曜らは打ち破って賊を敗走させ、運送路は塞がることなく、東南の安全を全うできたのは、韓滉の功績が大きかった。
当時、里長が有罪となると、たちまち殺されてしまい、許されることはなかった。人々はこれを怪訝に思った。韓滉は「
袁晁はもともと一鞭を持った小役人にすぎなかったが、賊を捕らえては衆望をあつめ、その類を集めて叛乱をおこし、これらの輩はすべて郷県の凶徒であって、殺すにこしたことはない。年少の者を用いれば、身を惜しんで家を保つから悪事をしない」と言った。また賊は牛酒がなければ集まって盗となることができないから、牛を屠ることを禁止し、その謀を絶やした。婺州の属県で法令を犯す者がいて、誅殺は隣伍(隣組)二及び、連座で死んだのは数十数百人に及んだ。また役人を派遣して境内を分けて査察させ、罪は嫌疑がかかれば必ず誅殺し、一度の裁判でたちまち数十人にもなったから、下々の者は皆恐怖した。
京師がまだ平定されていないことを聞いて、関所と橋梁を閉鎖し、牛馬が境から出ることを禁止し、石頭の五城を築城することは京口から玉山までであった。上元県の道観・仏寺四十箇所を破壊し、壊れた城壁を修築し、建業から京峴まで城墻から望見できるようにした。朝廷に晋の永嘉南遷のような事がおこると思い、館邸数十を石頭城に設置し、井戸を掘削することすべて百尺に及んだ。部将の丘涔に命じて徭役を監督させ、毎日数千人、丘涔はその衆を虐待し、朝で命令して夕には完成し、先代の墳墓はすべて暴かれた。楼艦を建造すること三千柁、舟師(水軍)を海門で大閲兵し、申浦から帰還した。
李長栄らを追って帰還し、側近の盧復を宣州刺史とし、堡塁を増設し、演習して兵器に熟達し、鐘を壊して軍器を鋳造した。
陳少游は揚州にあって、兵士三千で江に臨んで大規模な閲兵を行い、韓滉もまた兵士を総指揮して金山に臨み、陳少游と会同し、金や絹を互いに贈りあった。しかし韓滉は精兵を掌握していたが、出発を延長して国難に赴かず、兵糧を徴発し朝廷を救う者と結びつきを強め、当時の人はこれを頼った。
李晟は渭北に駐屯しており、韓滉は米を運送して贈り、船に十弩を設置して警備したから、賊は脅かすことができなかった。それより以前、船を操船して江に臨み、韓滉は属官に向かって、「天子が宮中を出て流浪することになったのは、臣下の恥である」と言い、そこで自ら一袋を背負い、将校も争って背負った。
貞元元年(785)、検校左僕射を、同中書門下平章事(宰相)、江淮転運使を加えられ、鄭国公に封ぜられた。石頭城を修造し、人々はかなり謀略をめぐらせていると言っており、帝であってもまたその言に惑わされた。当時、
李泌が難儀しながらも弁解の訴えをしたから、帝の誤解は解けた。貞元二年(786)、晋国公に改封された。この年入朝した。韓滉は既に熟達の宿老であって、非常に志が大きくて人に高ぶり、新入りに接して用いても、その意を満足させることができず、衆はこれを恨んだ。
羨銭五百万緡あまりを献上し、詔して度支諸道転運、塩鉄等使を加えられた。
右丞の
元琇が判度支となると、関内の旱を調査し、江南の租米を運んで西は京師に供給するよう願った。帝は韓滉に委ねて監督を一任したが、元琇は韓滉の剛直が一緒に仕事するのが難しいことを恐れ、長江より揚子江まで、韓滉が担当し、揚子江から北は、元琇自身が担当することを願った。韓滉はこれによって元琇を愚かな人間であるとした。たまたま元琇が京師では銭重貨軽(銭納の税納者よりも物納の税納者の方が負担が大きいこと)であって、江東塩監院を出発した銭四十万緡が関中に入った。韓滉は欺いて「銭を運送して京師まで持ってくれば、費用は一万あたり千にも及ぶので、従ってはなりません」と奏上したから、帝は元琇に叱責した。元琇は「千銭はその重量は米一斗と同じで、費用は三百ほどでしょう」と言ったから、帝は韓滉を諭したが、韓滉はあくまでも反対した。ここにいたって、元劾は米を淄青の
李納、河中の
李懐光に贈ったと誣告された。帝は怒り、再審を行わず、元琇を降格して雷州司戸参軍とした。左丞の
董晋が宰相の
劉滋と
斉映に向かって、「昨年、関中では軍事を援助しました。当時、蝗害や旱魃となりましたが、元琇は一賦も増税せず、戦時体制をすべて支援しました。これを労臣というべきでしょう。今罪名なく流刑とされ、刑罰はしきりで人心を恐れさせています。たとえ権臣の思い通りのままになっても、公はどうして三司の審問を要請しないのですか」と言ったが、劉滋と斉映は採用することができなかった。給事中の
袁高が皇帝に直言して申し上げたが、韓滉は党派による訴えであると誣告したから、次第に用いられなくなった。
劉玄佐が入朝せず、帝は密に韓滉に詔して入朝を勧めさせた。汴州を通過すると、劉玄佐は最初から韓滉を憚り、属吏に礼で出向かえさせた。韓滉はそれには当たらないと辞退し、そこで兄弟の契を結び、劉玄佐の母親に拝礼し、酒席を設けて女楽を演奏させた。がすすむと、韓滉は、「速やかに天子に謁見すべきだ。夫人の白首と新婦や子孫を宮掖の奴とさせてはならない」と言うと、劉玄佐は泣いて悟った。韓滉は銭二十万緡を劉玄佐のための旅の準備金としてやり、また綾(あやぎぬ)二十万で軍を労った。劉玄佐が入朝すると、韓滉は辺境の軍事に任用すべきであると推薦した。当時、両河地域では兵乱がやみ、韓滉は上言して、「吐藩は河湟を長らく根拠としていましたが、近年次第に弱くなり、しかし西には大食が、北は回鶻を防ぎ、東は南詔に抗い、軍を分けて外戦し、兵は河隴にあっては五・六万を数えるに過ぎず、もし朝廷が将に命じて、十万の軍で城州・涼州・鄯州・洮州・渭州にそれぞれ兵二万を置いて防御すれば、臣が願うところは、本道の財物で軍に送り、三年の費えを給付し、その後田を営んで収穫された粟を積み上げ、耕しては戦うことです。そうすればつま先立てて待ち望んだ河隴の地の回復ができるのです」と述べ、帝はその上申をよしとし、そこで劉玄佐を訪れ、劉玄佐の行くことを願った。たまたま韓滉が重病となり、
張延賞は州県の冗官を減員して、俸禄を収公し、戦士を募って西へ討伐するよう奏上した。
劉玄佐は張延賞が、備蓄が減るのを物惜しみしており、また犬戎がまだ弱体化しておらず、軽々しく進撃すべきではないからと辞退し、そのため病と称した。帝は宦官を派遣して慰問し、
劉玄佐は臥して命を受けた。張延賞はこのことを知って
劉玄佐を用いるべきではないとしたから、沙汰止みとなった。韓滉はついで卒し、年六十五歳であった。太傅を追贈され、忠粛と諡された。
韓滉は宰相の子であったが、性格は節倹で、衣服や毛布は十年に一度変える程度であった。非常に暑くても扇をとらず、住むところは粗末で、庇で風雨を防ぐ程度であった。門には戟を並べ、父の時の邸門であったから毀すのに忍びず、そのため修復を願わなかった。堂の先とは庇で接続されておらず、の弟の
韓洄がようやく増設すると、韓滉は見て即座に撤去させ、「先君が受け入れられたものは、我らが奉らなければならず、常に失墜するのではと恐れている。もし倒壊したら、修理すればすむのであるから、どうしてあえて改作して倹徳を傷つけるのか」と言った。朝廷の重職にあって、潔癖で悪を憎み、家族のために資産をなさなかった。仕官の始めから将相に至るまで、五匹の馬に乗るだけで、飼い葉桶のもとに繋ぐだけであった。鼓や琴を好み、書は
張旭の筆法を得て、画は宗族の人の
韓幹と双璧をなした。かつて自ら「定筆することができなければ、書画を論じるべきではない」と言い、急務ではないから、自らひた隠しにし、人に伝えなかった。よく『易』・『春秋』を修学し、『通例』および『天文事序議』各一篇を著した。はじめて判度支となると、
李晟は裨將に軍事のことを上申させると、韓滉はこれに答申した。李晟は礼を加え、その子に拝礼させ、器物や鞍・馬を贈った。後に李晟は終に大功を立てた。韓滉は幼い頃からすでに名声があり、交友するところはすべて天下の豪俊であった。晚年はますます苛烈かつ残酷となり、そのため論ずる者は自身の本意が行いによって悪く言われているのは、目的のための手段ではなかったかと疑っていた。すでに志を得て、そこで独断専行するようになったのは、思うに自然とその性格の現れであったのだろう。子に
韓群・
韓皋がいる。
韓群は国子司業で終わった。
韓皋の字は仲聞で、人格は重厚で、大臣の器があった。雲陽県の尉から賢良方正異等科に及第して、右拾遺を拝命した。累進して考功員外郎に遷った。父を喪うと、
徳宗は使者を派遣して弔問し、父韓滉の行状の事を論述させ、号泣して命を承諾し、数千言の草稿を書いて進上し、帝はお褒めの言葉を賜った。喪があけると、宰相は考功郎中に任命しようとしたが、帝はさらに加えて知制誥とした。中書舎人、御史中丞、兵部侍郎に遷り、仕事ぶりを称えられた。にわかに京兆尹を拝命した。奏上して
鄭鋒を倉曹参軍に任命した。鄭鋒は苛斂誅求な役人で、そこで韓皋に、徹底的に府中の雑銭を探し求め、これで強制的に粟麦三十万石を買い上げて帝に献上することを説き、韓皋は喜び、奏上して興平県令とした。貞元十四年(798)、大旱魃となり、民は租賦税の免除を願い出たが、韓皋は京兆府の金庫がすでに空っぽであったから、心の中で心配かつ恐れ、奏上してあえて事実を言わなかった。たまたま宦官が出くわした際に、百姓が道を遮って訴えたから、事案が上聞され、撫州員外司馬に貶された。しばらくもしないうちに、杭州刺史に改められ、京師に入って尚書右丞を拝命した。
王叔文が政権を掌握すると、韓皋はこれを嫌い、ある人に向かって、「私は新入りで偉くなった奴なんかに仕えることはできない」と言い、それを従兄弟の
韓曄が王叔文に告げたから、王叔文は怒り、京師から出されて鄂嶽蘄沔観察使となった。王叔文が失脚すると、節度使を拝命し、鎮海節度使に遷り、京師に入って戸部尚書となり、東都留守、忠武軍節度使を歴任した。大抵、簡素かつ倹約で仕事をし、至るところで実績があった。召還されて吏部尚書を拝命し、太子少傅を兼任した。
荘憲太后が崩ずると、
大明宮留守となった。
穆宗はもと太子少傅であった恩から、検校尚書右僕射を加えられた。また左僕射に昇進した。長慶四年(824)、再び東都留守となったが、赴任の道中に卒した。年七十九歳で、太子太保を追贈され、諡を貞という。
韓皋の容貌は父に似ていたが、父を失うと、見て鑑とするものはなかった。生来音律を知り、常に、「長年、後々まで音楽を聴きたいとは願わなかった。なぜなら門内の事は多く逆にこれを知ったからだ」と言っていた。鼓・琴を聞いて、「止息」まで至ると、嘆いて、「なんと素晴らしいのだろうか。嵆康がこの曲をつくったのは、当時晋の時代になろうとしていて、魏の終焉期であったのだ。その音域は商を主調としていて、商は音が秋と一緒であり、秋は天がまさに寒々として草木が枯れ落ちていくところで、その年が終わろうとするのだ。晋は金運に乗じ、商もまた金声であり、これは魏が末期で晋がまさに代わろうとしているからなのである。その商弦を緩めると、宮音と同音になり、臣が君権を奪うという意味になり、司馬氏が簒奪しようとしているのを知るのだ。王陵・毌丘倹・文欽・諸葛誕が相次いで揚州都督となり、全員が魏を復興させようとの謀があったが、全員司馬懿父子に殺された。嵆康は揚州がもと広陵の地であり、王陵らは全員魏の大臣で、だからその曲を名付けて「広陵散」とし、魏が滅亡するのは広陵から始まるのだと言うのだ。「止息」は、晋が突然勃興しても、終にはここに止息するのを言うのだ。その哀憤、焦りと苦しみ、哀悼、逼迫の音は、ここに尽きるのだ。永嘉の乱はその兆しなのか。嵆康が晋・魏の禍いを避け、自身の身を鬼神に託したのは、後世が音を知るのを待ったからだろうか」と述べた。
韓洄は、字は幼深で、蔭位によって弘文生となり、任期が満了で、吏部侍郎に任じられ、
達奚珣が家柄と声望があるから抑圧した。
章懐太子陵令に任じられたが、怒りの顔色を見せなかった。
安禄山が叛乱をおこすと、韓家の七人は殺害され、韓洄は難を江南に逃れ、菜食して音楽を聴かなかった。乾元年間(758-760)、睦州別駕に任命され、
劉晏は上表して屯田員外郎とし、知揚子留後となった。召還されて諌議大夫を拝命し、補闕の
李翰とともにしばしば奏上して得失を申し上げ、知制誥に抜擢された。
元載と親しかったのに連座し、邵州司戸参軍に貶された。
徳宗が即位すると、起用されて淮南黜陟使となり、再度諌議大夫となった。
劉晏が罪に伏し、天下の銭穀といった財政のことは尚書省に帰属することになったが、省司は廃止されてから久しく、綱紀はなく、その任を統括する者がいなかった。そこで韓洄を抜擢して戸部侍郎、判度支とした。韓洄は上言して、「江淮七監は、毎年銭四万五千緡を鋳造して京師に運んでおり、巧みに運送しても、運送費用は緡ごとに二千にもなり、これは元本に対して利子が二倍になるのです。今、商州の紅崖冶で銅を算出していますが、洛源監が長らく廃止されています。願うところは山を掘って銅を採取し、そこで洛源監を復活させ、十炉を設置して鋳造を行えば、毎年銭七万二千緡が得られ、費用は緡ごとに九百で、そうすれば元本を浮かすことができるでしょう。江淮七監は、願わくばすべて廃止されますように」と述べた。また上言して、「天下銅鉄の鋳造、山沢の利は、まさに王者に帰属すべきものであり、願わくばことごとく塩鉄使の所属とされますように」と述べ、これに従った。また胥史の余剰人員二千人を罷免し、米を長安県・万年県の二県にそれぞれ数十万石を積み、毎年の豊作・不作を見て出納させたから、そのため人々は食に苦しむことはなかった。
韓洄は
楊炎と親しく、楊炎が罪を得ると、不安となったがどうすることもできず、
韓皋が上疏して楊炎の罪をおさめたが、帝は韓洄にこれを教えたのだと思い、蜀州刺史に貶した。興元元年(784)、京師に入って兵部侍郎となり、京兆尹に転任した。貞元十年(794)、国子祭酒で終わり、戸部尚書を追贈された。
賛にいわく、人が事を立てるや、最初は巧みに行って、始めは鋭く、その半ばに至ると次第に怠り、ついには放縦となって振るわなくなるのだ。
玄宗の開元年間(713-741)の治世を見ると、精力的に励んで治世を求め、元老は前時代の大物たちで、ややもすれば皇帝も憚るところであり、そのため
姚元崇・
宋璟の時は人の言うことに耳を傾け、全力で諌めても難なく功績がなったのである。太平の世が長引くと、左右の大臣は皆帝自ら選んだのを知っていたから、慣れて与しやすしとした。玄宗の野心と意欲が満たされて、自己満足で独りよがりとなったのである。しかし
張九齢は論争しては切羽詰まったもので、申し上げてもますます聴かれなかったのである。野心と意欲が満たされると、たちまち謀略が行われるところとなり、自己満足で独りよがりとなると、柔和で円熟であるのを楽しみ、厳しい諌めを憎んだから、全力で諌めたことが多いといっても、聞き入れられることは姚崇・宋璟の時から遠く及ばないのである。ついに胡の小人どもに中華を乱され、身をもって辺境に逃れたのは、天運であるというのは違っており、また人事が要因であるというのが正解なのである。もし
魏知古らが皆宰相に選ばれたのが、天宝年間(742-756)の時に当たっていたのなら、どうしてよく救うことができただろうか。
最終更新:2025年05月17日 17:59