李思訓 りしくん
651-718
初唐の宗室・官人・画家。
李孝斌の子。
高宗時代に江都令であった。則天武后の武周革命になって、唐の宗室がつぎつぎに殺害されたので、身の危険を感じ、官職を棄て地下にもぐった。神竜元年(705)、唐が復興し
中宗が権威を回復、 唐の宗室も陽のめをみるようになり、宗正卿(宗正寺の卿。従三品)にうつり、隴西郡公に封ぜられた。ついで益州長史を歴任し、開元初年(713)に左羽林大将軍、彭国公に封ぜられ、ついで右武衛大将軍に転じ、開元六年(718)死亡。秦州都督を追贈されて橋陵に陪葬された。ただ死亡年に ついては別説がある。欧陽棐撰『集古録日』(および多くの金石書)に「右武衛大将軍李思訓碑」を載せ、開元八年六月の年紀をしるしている。『歴代名画記』が「開元六年贈秦州都督」とかくのは『旧唐書』の「開元六年卒。贈秦州都督」の句中の「卒」字を脱したとみられ、開元六年死亡説を裏書きする。後世、金碧山水画風を代表するものとして有名となった。ただ『唐朝名画録』にのせる逸話に、「天宝中に大同殿に蜀道嘉陵江三百余里の山水を呉道玄にえがかせ、李思訓にも山水図をえがかせ、李思訓は数ヵ月をかけたが、呉道玄はたった一日で完成。ともに妙絶と
玄宗が讃嘆した」とあるのは、李思訓の死亡年からみてまったく有りえないことがらである。しかし李思訓は開元以前に益州の長史になっており、実地の経験から蜀の山水をえがいたろうことが推察できる。したがって「天宝年間」を「開元初年」と改めれば、呉道玄、李思訓いずれも蜀道山本図をえがいたとすることができ、玄宗が両大家の大きな作風の差異に驚嘆することもありうる。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
『新唐書』
巻七十八 列伝第三 宗室 太祖諸子 長平粛王叔良 彭国公思訓
『旧唐書』巻六十 列伝第十 宗室 太祖諸子 代祖諸子 長平王叔良 孝斌子思訓
参考文献
長廣敏雄訳注『歴代名画記2』(平凡社東洋文庫,1977年)
外部リンク
最終更新:2024年09月22日 02:16