巻七十八 列伝第三

唐書巻七十八

列伝第三

宗室

江夏王道宗 広寧県公道興 永安王孝基 涵 淮陽王道玄 漢 長平王叔良 郇国公孝協 彭国公思訓 新興郡王晋 長楽王幼良 襄武王琛 河間王孝恭 晦 漢陽王瓌 廬江王瑗 淮安王神通 膠東王道彦 梁郡公孝逸 国貞 暠 説 斉物 復 襄邑王神符 従晦 隴西公博乂 渤海王奉慈 戡


  太祖に八子があった。いちばん上が李延伯、次が李真、次が世祖皇帝、次が李璋、次が李絵、次が李禕、次が李蔚、次が李亮といった。

  南陽公李延伯は、早く薨去し、跡継ぎがなかった。高祖の武徳年間(618-623)、六王とともに同じく追封された。

  譙王李真は、太祖に従って戦没し、跡継ぎがなかった。

  畢王李璋は、北周に仕えて梁州刺史となり、趙王宇文祐とともに隋の文帝の殺害を計画したが、失敗して、死んだ。二子を生み、李韶といい、李孝基といった。李韶は隋代に死に、武徳年間(618-623)のときに東平王に追封され、子の李道宗を生んだ。

  江夏郡王李道宗は、字を承範といった。高祖が即位すると、左千牛備身・略陽郡公を授与された。裴寂劉武周と索原を渡って戦うも、裴寂は敗れ、賊は河東に迫り、李道宗は年十七歳で、秦王に従って賊を討伐した。秦王は玉壁城に登って望見すると、李道宗に向かって「賊は大勢であるのをたのんで戦おうとしているが、お前は計略をどうすべきと思っているか」尋ねると、「劉武周は勝利を重ね、鋒は鋭くまだ当たるべきではありませんが、正しく計略によって打ち砕くべきでしょう。また烏合の衆は持久戦を嫌がり、もし防備を固くしてその勢いを弱めるのなら、食がつきて士気は削がれるのを待てば、戦わずして捕虜とできるでしょう」と答えた。秦王は「これは我が意と合致した」と言い、その後賊の兵糧は乏しくなると、夜に退却したから、追撃して殲滅した。
  京師から出されて霊州総管となった。当時、梁師都の弟の梁洛仁が突厥の兵数万を率いて砦を守っていたが、李道宗は城を閉じて守り、隙を伺って出撃してこれを破った。高祖裴寂に向かって、「昔、魏の任城王曹彰が敵を迎撃して功績があったが、道宗はこれに似ている」と言い、そこで任城王に封ぜられた。
  それより以前、突厥の郁射設が入って五原に居したから、李道宗は駆逐し、威武は震え輝き、地の千里にわたって退けた。貞観元年(627)、召還されて鴻臚卿を拝命し、大理卿に遷った。太宗はまさに突厥を経略しようと、再び霊州都督を授けた。貞観三年(629)、大同道行軍総管となり、李靖を助けて敵を打ち破り、親ら頡利可汗を捕虜とし、封六百戸と賜り、京師に戻って刑部尚書となった。吐谷渾が侵犯してくると、李靖は崑丘道から出撃し、詔して侯君集とともに李靖の副官となった。賊は兵がまたやって来ると聞いて、嶂山を逃げること数千里であった。諸将は止めようとしたが、一人李道宗は追撃することを願い、李靖は「よし」と言ったが、侯君集は従わなかった。李道宗は単軍で進み、大軍から去ること十日で捕捉した。吐谷渾は険阻な地によってとくに死闘したが、李道宗は密かに千騎を率いて山を越えてその背後に乗じ、賊は驚いて、遂に大いに壊滅した。江夏郡王に移封され、鄂州刺史を授けられた。しばらくもしないうちに、収賄を罪とされ、は聞いて怒って、「朕が四海の富を引っ提げて、兵士や馬は林のようにおり、轍の跡は天下をめぐるかのようにさせたいと思い、遊覧は行わず、絶域の玩・海表の珍をとることが、どうしてできないというのか。特にこれによって民を労して自ら楽しむなんてことは、してこなかった。人心は定まった法がなく、誼みによって制するべきである。今、道宗はすでに王であり、官の賜与は多いのに貪ること止まず、どうして卑しくないといえようか」と言い、そして免官し、封戸を削減し、王を自邸に居らせた。翌年、召還して茂州都督とし、まだ出発する前に、晋州刺史を拝命した。礼部尚書に遷った。
  侯君集が高昌を破って帰還すると、非常に恨まれた。李道宗はかつて従容として上奏して、「侯君集の智力は少なく大口をたたくのに、どうして指揮官とされたのですか」と述べたが、は必ず叛くと知っていたから理由を問いただした。「その嫌うところを見てみると、自信の功績を誇って、房玄齢李靖の下にあることを恥とし、官は尚書(吏部尚書)でありながら、常に鬱々として不平を述べているからです」と答え、帝は「侯君集は本当に功績があり、人材としては不足がない。朕はどうして爵位を惜しもうか。君が及ばないだけだ。軽々しい憶測をして自ら猜疑心をおこさせるようなことははしてはならんぞ」と述べたが、その後、侯君集が叛くと、帝は笑って「公の読み通りだったな」と言った。
  は高麗を征伐しようとし、まず営州都督の張倹の軽騎兵を派遣し、遼水を渡って形勢を伺おうとしたが、張倹は恐れ、あえて深入りしなかった。李道宗はそのため百騎で行くことを願い、帝は許し、その帰還を約束し、「臣は二十日で行き、十日留まって山川を観覧し、天子にお目見えしに戻れます」と言い、そこで飼馬を兵に束ねさせ、南山によって賊地に入り、険阻も平坦も交々し、陣地をつくるに適した場所を通過した。帰還しようとすると、その時になって高麗兵がその道を遮断したから、改めて間道を走り、帝に謁見することは期日の通りであった。帝は「孟賁・夏育といった太古の勇士もどうしてこれ以上ということがあろうか」と言い、金五十斤、絹千匹を賜った。
  そこで詔して李勣とともに前鋒とし、遼水を渡って、蓋牟城を陥落させた。その時になって賊は救援のためやって来て、李道宗は総管の張君乂とともに騎兵わずか四千を領し、敵は十倍で、全員が塹壕で防衛してがやって来るのを待とうと思ったが、李道宗は「賊はにわかに来たから、その兵は必ず疲れており、我が一鼓で砕けば、しっかりとする。昔、耿弇が賊に君父を合わせなかったが、私が前軍となっては、道を清めて乗輿を迎えなければならない。なおどうして待つのか」と言い、李勣はこれをよしとした。壮騎数十人を選び、賊の陣営に突進し、左右から出入りし、李勣と攻撃を合わせて、大に破った。帝がやって来ると、お褒めの言葉を頂戴し、奴婢四十口を賜った。そこで距闉(城中を偵察・攻撃するため城壁につけて築いた土山)を築いて、安市城を攻撃したが、距闉は破壊されて付城となり、李道宗が部分を失い、かえって賊のよるところとなった。帝はその果毅の傅伏愛を斬り、李道宗は素足で進み出て罪を請うたが、帝は「漢の武帝は王恢を殺したが、秦の穆公が孟明を赦したのにこしたことがない」と言い、ついに不問とした。戦場で足を負傷すると、帝は親ら鍼治療を行い、御膳を賜った。帰還すると、病によって激務を辞して閑職に就き、太常卿に改められた。
  高宗の永徽年間(650-655)初頭、房遺愛が叛いて誅殺されたが、長孫无忌褚遂良は李道宗と宿怨があり、房遺愛と親しかったと誣告され、象州に流され、道中病によって薨じた。年五十四歳。長孫无忌が罪となると、詔して爵邑を復せられた。李道宗は晩年学問を好み、士大夫に接して、貴んで、その前で足を投げ出して座るようなことはしなかった。国初の宗室ではただ李道宗・李孝恭が最も賢人であった。子の李景恒は、盧国公に封ぜられ、相州刺史となった。
  李道宗の弟の李道興は、武徳年間(618-623)初頭、広寧郡王となり、宗族関係が疎遠となったから県公に降封された。貞観九年(635)、交州都督となったが、南方の疾病のため、恐れて年を重ねることができず、非常に茫然自失として憂い悲しみ、在官中に卒し、交州都督を追贈された。

  永安壮王李孝基は、武徳年間(618-623)初頭、永安郡王となり、陝州総管・鴻臚卿を歴任したが、罪によって官を剥奪された。
  武徳二年(619)、劉武周が太原に侵攻すると、夏人の呂崇茂が夏県を根拠にして賊に呼応した。李孝基に詔して行軍総管として攻撃させ、工部尚書の独孤懐恩・内史侍郎の唐倹・陝州総管の于筠を配下とした。于筠は城を急襲して外部の援軍を絶ち、また内紛がおこさせることを願った。その時、独孤懐恩は計略に異を挟み、欺いて李孝基に説いて、「夏城は固く、攻めれば日を費やすので、宋金剛が近くにおり、内は防がれ外には強敵がおり、一敗地に塗れるほどの大敗となります。兵を駐屯させて秦王を待って賊を破るのにこしたことがなく、そうすれば夏城は自ら孤立し、これを戦わずして人を屈するというのです」と述べ、李孝基はそうだと思った。その時になって尉遅敬徳が到着し、呂崇茂とともに官軍を挟撃し、遂に大いに敗れた。李孝基および于筠らは全員賊に捕らえられ、逃亡して帰還を謀ったが、賊に殺害された。高祖は哀悼し、その家に賜い物をした。晋陽が平定されると、死体を贖おうとしたが得られず、招魂して葬り、左衛大将軍を追贈し、諡した。
  子がおらず、兄の子の李道立を後嗣とし、高平王に封ぜられ、後に県公に降封され、陳州刺史で終わった。曾孫に李涵がいる。

  李涵は、簡素かつ忠勤で、宗室の英俊であった。累進して賛善大夫を授けられた。郭子儀が上表して関内塩池判官となった。粛宗が平涼に到着したが、まだ誰が従っているのかわからなかった。朔方留後の杜鴻漸が兵士・馬・兵糧を箇条書きに記録して、李涵に粛宗のもとを訪れさせ、粛宗と謁見した。李涵は粛宗と謁見すると、明瞭に説明したから、粛宗は喜び、左司員外郎に任じられ、再び宗正少卿に遷った。
  宝応年間(762-763)初頭、河朔が平定されると、李涵は当時母の喪に服していたが、奪喪されて使者として宣慰のために派遣され、到着した州県では、公事でなければ話したことはなく、粗食で水を飲み、地面に座って眼を瞑っていた。使者の任務が終わって帰還すると、喪の期間を継続することを強く願い、代宗は酷くやつれているのを見て、許可した。服喪があけると、給事中に抜擢され、兵部侍郎に遷った。
  朱希彩李懐仙を殺すと、再び河北に宣撫し、戻って浙西観察使となった。任にあること五年、入朝して、御史大夫・京畿観察使を拝命した。徳宗が即位すると、李涵は温厚で人を摘発することがなかったから、太子少傅・山陵副使に任じた。父の諱に触れるから光禄卿に遷った。しばらくもしないうちに、左散騎常侍に遷り、尚書右僕射の職をもって致仕し、襄武県公に封ぜられた。卒すると、太子太保を追贈された。
  子の李鰅は、貞元年間(785-805)初頭に饒州別駕となった。妾の高氏が歌をよくしたから宮中に入れ、李鰅はそこで御医の許泳と書簡を通じたため、罪のため誅殺された。

  雍王李絵は隋の夏州総管となった。子の李贄は、河南王を追爵された。李道玄を生んだ。

  淮陽壮王李道玄は、性格は慎み深く篤実で、武芸を習っていたが、立ち振舞は優雅であった。武徳年間(618-623)初頭、例によって淮陽王に封ぜられた。年十五歳にして、秦王に従って宋金剛を介州で攻撃し、先頭にたって城壁に登り、秦王は勇敢だと思い、報賞は非常に厚かった。王世充を討伐すると、戦闘が多かった。竇建徳が虎牢に駐屯すると、秦王は軽騎兵で賊のもとに到着し、李道玄を派遣して伏兵で待機させ、賊がやって来ると、敗走させた。汜水に転戦し、南坂を登り、賊の陣を貫いてその背後に出て、また引き返し、賊は皆靡き、弓を放つと命中した。秦王は喜び、馬副いとした。敵に赴くごとに、飛んでくる矢が体についてハリネズミのようであり、士気はますます励んだ。東都が平定されると、洛州総管となった。洛州府が廃止されると、改めて洛州刺史を授けられた。にわかに山東道行軍総管となって劉黒闥を討伐し、これによって多く褒賞された。
  劉黒闥が再び叛くと、李道玄は史万宝を率いて下博で戦い、泥濘を越えて駆け、史万宝と後に続くよう約束するも、史万宝はもとより少なく、前進することをよしとせず、「私は詔を受けて、王の児子を名目上の大将としているが、軍の進退は実は私にあるのだ。今軽々しく戦い、もし大軍が馳せて地を尽くせば、必ず泥濘に陥るから、王を賊に食わるにこしたことはなく、我らは陣を築いて待機し、王が不利であったとしても、国に利するのだ」と言い、李道玄はついに戦没した。年十九歳。史万宝は賊に乗ぜられて、全軍が壊滅し、単身免れた。太宗は追悼して「兵をおこしてから、この児は常に私に従い、私が見るたびに深入りしてたちまち勝利し、だから慕ったのだ。その年少さは惜しくも、遠望な経略を極めるまでには到らなかった。なんと悲しいことだ」と言い、そこで涙を流した。左驍衛大将軍を追贈され諡された。
  子がなく、弟の李道明に王を嗣がせ、左驍衛大将軍に遷った。貞観十四年(640)、武衛将軍の慕容宝節とともに弘化公主を吐谷渾に送ったが、弘化公主が帝の娘ではないことを漏らしたことを罪とされ、王を剥奪され、鄆州刺史で終わった。六世の孫が李漢である。

  李漢は、字を南紀といい、若くして韓愈に師事し、古学に通暁し、文辞は雄渾で、人となりは剛直であることは、ほぼ韓愈に類似した。韓愈は重ねて可愛がり、娘を嫁がせて妻とさせた。進士に及第し、左拾遺となった。
  敬宗は宮殿の造影を過度に行い、船商人が沈香亭の材を献上し、帝は受け取ったが、李漢は諌めて「沈香を亭に用いるのは、どうして玉で出来た楼台や、紂王がつくった玉で出来た部屋といった華麗な宮廷と異なりましょうか」と述べ、この時、王政のでたらめ偏屈さを、李漢は詞厳しく述べたのは、多く救い補ったのである。朝廷を牛耳る者のために罪とされ、京師から出されて興元(山南西道節度使)の幕府に仕えた。
  文宗が即位すると、召還されて屯田員外郎・史館修撰となった。憲宗実録の編纂が議論され、宰相の李吉甫の事績を書いて容赦しなかったから、子の李徳裕は憎んだ。ちょうどその時、李宗閔が宰相となり、知制誥に抜擢され、しばらくして御史中丞、吏部侍郎に昇進した。それより以前、李徳裕が袁州に貶され、李漢は李徳裕の排除を助けたから、後に李徳裕が宰相に復帰すると、李漢は李宗閔の党に連座し、京師から出されて汾州刺史となり、李宗閔は再び追放されると、汾州司馬に改められた。役人に詔して、二十年たたなければ用いることはできないとした。しかし数年もせずして、絳州長史に遷され、遂に再び振るうことがなかった。大中年間(847-860)、召還されて宗正少卿を拝命し、卒した。
  それより以前、李漢が御史中丞であったとき、上表して孔温業を御史とした。李漢が晩年召見されると、孔温業はすでに御史中丞となっており、宴会で集まるごとに、人々はそれを栄誉とした。

  郇王李禕は、隋の上儀同三司となった。子の李叔良李徳良李幼良を生んだ。

  長平粛王李叔良は、武徳年間(618-623)初頭、王に列せられ、涇州に駐屯し、薛仁杲を防いた。薛仁杲の内史令の翟長孫が軍とともに降伏した。この時、大飢饉となり、米は一斗あたり千銭となり、李叔良は兵士を憐れまず、兵糧を失ったことで不当な利益を得たから、部下は全員恨んだ。薛仁杲はそれを知って、表向きは兵糧が尽きたと言って撤退し、高墌の人を派遣して偽って降伏させた。李叔良は驃騎の劉感に降伏を受けさせることとし、まだ城に到着する前に、三度狼煙が上がり、薛仁杲の兵が南原より喧騒をあげて戻ってきて、大いに百里細川で戦い、劉感は賊に捕らえられた。李叔良は恐れ、ことごとく金を出して軍を労い、事を長孫に委ね、そこで安心することができた。
  しばらくして、突厥が入寇してきて、李叔良に詔して五将の軍を率いて迎撃させたが、流矢にあたり、道中に薨じた。左翊衛大将軍・霊州総管を追贈された。
  子の李孝協が跡を継いだ。

  李孝協は、始め范陽王となり、にわかに降封されて郇国公・魏州刺史となった。麟徳年間(664-6654)、収賄を罪とされて死罪に相当し、司宗卿・隴西王の李博乂らが高宗に死を赦すよう申し上げたが、は許さず、遂に自殺した。
  弟の李孝斌は原州都督府長史となった。子の李思訓を生み、李思訓は江都県令となった。武后が多く宗室を殺害したから、李思訓は官を棄てて去った。中宗が復位すると、旧老によって宗正卿に抜擢され、隴西郡公に封ぜられ、益州都督府長史に任じられた。開元年間(713-741)初頭、彭国公に進封し、戸満四百を加えられ、右武衛大将軍に昇進した。卒すると、秦州都督を追贈され、橋陵に陪葬された。李思訓は絵をよくし、世間では「李将軍山水」といわれた。弟の李思誨は、揚州参軍事となった。子の李林甫は、自らがある。

  新興郡王李徳良は、若くして病によって職に任じられなかった。薨去すると、涼州都督を追贈された。
  孫の李晋は、先天年間(712-713)、雍州長史となり、優れた治世で有名となり、新興郡王を襲封した。太平公主の謀に預かったことを罪とされ誅殺され、「厲」氏と改められた。李晋は処刑されるにあたって、部下の役人たちは散り散りとなったが、ただ司功参軍の李撝が王に従うこと過日のようであり、李晋が死ぬと、その遺体にすがりついて哭泣した。姚元崇は「欒布・向雄の仲間ではないか」と感嘆し、抜擢して尚書郎とした。

  長楽郡王李幼良は、生まれつき粗暴で、高祖はしばしば改めさせようとしたが、改悛しなかった。盗賊が李幼良の馬を盗むと、たちまち殺した。は怒って、「盗賊は罪があったことは信じられるが、だからといって王が勝手に殺してよいのか」と言い、礼部尚書の李綱に詔して、宗室を召還して、ただちに朝堂で杖で百叩きに処し、そこで釈放された。京師から出されて涼州都督となり、不逞の輩を集めて側近とし、市や村々は苦しんだ。
  太宗が即位すると、ある者が、が密かに兵士を養って、境外で交わっていると告発した。中書令の宇文士及に詔して代任として派遣し、あわせて事実関係を調査させた。宇文士及の究明は厳しく、側近は恐れ、王を拐って間道から長安にはして自ら弁明させ、できなければ北は突厥に逃げようとした。宇文士及は弾劾奏上し、はまた侍御史の孫伏伽を派遣して審問させ、奏上とは異なることはなかったから、遂に死を賜った。六世の孫の李回は、別にがある。

  蔡烈王李蔚は北周の朔州総管となり、子の李安李哲を生んだ。

  西平懐王李安は、隋に仕えて右領軍大将軍となり、趙公に封ぜられた。武徳年間(618-623)のとき、王に列せられた。子の李琛李孝恭李瑊李瓌を生んだ。
  襄武郡王李琛は、字を仲宝といった。木訥とした人で、文才にかけた。隋の義寧年間(617-618)初頭、襄武郡公に封ぜられ、太常卿の鄭元璹とともに女伎を持参して突厥の始畢可汗への使者となり、和親を約束した。始畢可汗はこれを礼遇し、手厚く贈り物をし、骨吐禄特勒を派遣して李琛に従って入献させたから、刑部侍郎を授けられた。武徳年間(618-623)初頭、王に封ぜられ、利州・蒲州・絳州の三州総管を歴任した。宋金剛が澮州を陥落させると、稽胡の多くが叛いたから、李琛に詔して隰州に駐屯させた。政務は寛大かつ簡潔で、そのため異民族たちは慕って頼りとした。薨去すると、子の李倹が王を襲封したが、例によって降封されて公となった。

  河間元王李孝恭は、若くして沈着かつ聡く、見識と度量があった。
  高祖が京師を平定すると、詔して山南招尉大使を拝命し、巴蜀を従え、三十州あまりを麾下においた。進軍して朱粲を攻撃して破り、その軍を捕虜としたが、諸将が「朱粲の徒は食人し、賊に贈っていました。穴埋めにしてください」と言ったが、李孝恭は「そうではない。今城を並べて皆我らと戦っている。もし捕虜を殺してしまえば、後でどうして降伏する者があろうか」と言い、ことごとく許した。ここに檄文を掲げると到るところでたちまち降伏した。
  翌年、信州総管を拝命し、皇帝に代わって臨時の職権を行使した。この時、蕭銑は江陵を根拠地としていたから、李孝恭はしばしば蕭銑に対する策略を進上すると、は喜んで受け入れた。趙郡王に進封し、信州を夔州と改称した。そこで大いに軍艦を造船し、水戦を自在にした。ちょうどその時、李靖が江南に使者を送り、李孝恭はその謀によって、遂に江陵を版図とし、ことごとく巴蜀の首領の子弟を呼び寄せて用い、外には引き入れて任命したように示したが、内実は人質であった。にわかに荊湘道総管に昇進し、水陸十二軍を統率して夷陵を出発し、蕭銑の二鎮を破り、戦艦を自在に長江の中で活動させた。諸将は「舟を鹵獲して我々のために用いるべきで、これを破棄すればかえって賊を助けることになりますが、どうでしょうか」と言ったが、李孝恭は、「蕭銑の境は、南は南嶺を際とし、左は洞庭湖にせまり、地は険しく兵士は多い。もし城が陥落できないのに援軍が到着したら、我々はまた内外に心配ごとが発生するから、舟は多くても、どうして用いることがあろうか。今、蕭銑は長江に添って守備しているか、艦船が長江を覆って下っているのを見ると、必ず蕭銑はすでに敗れたと言って、ただちには兵は進撃してこないだろう。状況を見て往還し、救援の時期を引き延ばせば、そこで我らは江陵を陥落させることになる」と言い、その後救援軍が巴陵に到着し、船を見ると、疑って進まなかった。蕭銑は内外の連絡が途絶し、遂に降伏した。帝は喜び、荊州大総管に昇進し、詔して蕭銑を破った時の状況を描いて進上させた。
  李孝恭は荊州を治めると、屯田を設置し、銅の鋳造所を建設し、百姓の利益となった。襄州道行台左僕射に遷った。当時、嶺表はまだ平定されておらず、そこで分けて使者を派遣し、安んじて和合し、人々の心を安らかにさせて慰め、心から従う者は四十九州、朝廷は「令暢南海(南海をのびやかにさせしむ)」と号した。
  しばらくもしないうちに、輔公祏が叛き、寿陽に侵攻してきたから、李孝恭に詔して行軍元帥に任命して討伐させた。兵を率いて九江に急行し、李靖李勣黄君漢張鎮州盧祖尚は皆その指揮下に入った。出発しようとした時、大いに兵士と宴会すると、杯の水が変わって血となったから、席についていた者は全員顔色が青ざめたたが、李孝恭は泰然としており、おもむろに「禍福に基なく、ただ人が自ら招くだけのことだ。我を振り返ってみると物に負うことはないのだから、諸君らは心配を重ねることはないぞ。輔公祏の罪悪は満ちており、今、威霊によって罪を問うのだから、杯の中は血となり、それは賊臣が首を授けるの祥(きざし)なのだ」と言い、すべて飲み干すと、軍の心は安心した。輔公祏の将軍の馮恵亮らは嶮岨で防衛して迎撃し、李孝恭は陣地を固く守備して出撃しなかったが、奇襲の兵を派遣して糧道を絶つと、賊は飢え、夜に軍営に迫ったが、李孝恭は寝ていて動かなかった。翌日、老弱兵に賊の砦への攻撃を行わせ、盧祖尚は精鋭の騎兵を選抜して陣地で待機した。にわかに兵が退き、賊は敗走する兵を追撃して騒然としたが、盧祖尚の軍に遭遇すると、接近戦となり、遂に大敗した。馮恵亮は退却して梁山に籠もったが、李孝恭は勝利に乗じてその別鎮を撃破し、賊で水に逃れて死ぬ者は数千を数えた。輔公祏は窮地に陥り、丹楊を放棄して敗走し、騎兵が追撃して捕虜とし江南は平定された。璽書でお褒めの言葉をいただき、第一等の邸宅一区、女楽二部、奴婢七百口、宝物は数え切れないほど賜った。東南道行台左僕射に昇進した。東南道行台が廃止すると、改めて揚州大都督となった。
  李孝恭は再び大賊を破り、北は淮水より、東は長江を包括し、嶺をわたって南まで統治した。威厳によって遠俗に誇示しようとし、そこで邸宅を石頭城に建て、建物を並べて迎撃して自ら防衛しようとした。ある者が、李孝恭が謀反を企てていると誣告したから、召還され、非常に御史によって厳しい取り調べが行われたが、事実関係はなかったから、赦されて宗正卿となった。実封千二百戸を賜った。涼州都督・晋州刺史を歴任した。貞観年間(623-649)初頭、礼部尚書となり、河間王に改封された。
  性格は豪奢で、後室の歌舞の女伎は百名あまりいたが、しかし寛大で謙譲の心を持ち、おごった様子はなく、太宗は李孝恭を親しく重用し、宗室では比類なかった。かつて人に向かって、「私は非常に壮麗な場所にいるが、これは私の心ではない。邸宅など別に一区画があれば、だいたい事が足るのみだ。私が死んだ後、子もまた才能があれば、守るのは容易いが、不才であれば、他人のために利するところではない」と言った。貞観十四年(640)、飲酒の最中に突然薨去した。年五十歳。帝は慟哭し、司空・揚州都督および諡を追贈し、献陵に陪葬した。
  それより以前、隋が滅亡すると、盗賊が天下にあまねくおこり、すべて太宗が自ら討伐して平定し、謀臣や勇将が居並んで麾下に属したが、特に将軍が専ら勲功をあげた者がいなかった。ただ李孝恭一人のみが方面にあって功績によって自らを知らしめたという。子に李崇義李晦がいる。
  李崇義は河間郡王を継いだが、譙国公に降封され、蒲州・同州の二州刺史・益州都督府長史を歴任し、威名があった。宗正卿で終わった。
  李晦、乾封年間(666-668)営州都督となり、優れた治世が上聞され、璽書で慰労褒賞された。右金吾将軍、兼業雍州長史に遷り、隠れた悪事を摘発して漏らすことなかったから、部下の吏は恐れた。高宗が洛陽に行幸しようとすると、李晦に詔して長安の留守とし、「関中の事はすべて公に委ねる。しかし法令にこだわって、これによって政務をしてはならない。法令の外はかりそめにも人に利することによってこれを行うべきで、上聞を待つべきではない」と言い、そこで李晦は統治に優秀な成績を修めた。武后の時、秋官尚書に遷った。卒すると、幽州都督を追贈された。これより以前、李晦は邸宅に観閣を建て、下は店を望見したが、その人が李晦の様子を伺って、「庶人には礼するに及ばないが、しかし家には私事があり、外から覗き見られることは望まない。今公のもとを去りたいと思う」と言ったから、李晦は驚き、突然壊して撤去した。子の李栄は、呉王李恪の祭祀を継承した。

  済北郡王李瑊は、武徳年間(618-623)、尚書左丞となり、王に列せられた。始州刺史に終わった。

  漢陽郡王李瓌は、始め漢陽郡公となり、漢陽郡王に進んだ。高祖は使者の幣を持たせて突厥の頡利可汗のもとに派遣して和親の事を申させた。頡利は始め李瓌を見ると、非常に驕り高ぶった。李瓌は説得を行い、使者として手厚い贈り物をしたから、大いに喜び、儀礼を改変して礼を加え、そこで使者を派遣して名馬を献上した。後に再び使者となり、頡利はその部下に向かって、「前に李瓌がやってきたとき、悔いることは少しも李瓌を屈服させられなかったことだ。私を拝させよ」と言い、李瓌は伺ってこの事を知り、既に頡利と面会すると、ただちに長揖(両手を組み合わせて前方やや上にあげ、そのまま下におろす略式の礼)した。頡利は怒り、留めて帰さなかった。李瓌の心境は落ち着いており、そのため屈しなかった。敵は脅かすことができないことを知り、ついに礼によって帰還させた。
  左武候将軍に遷り、李孝恭に代わって荊州都督となり、政務は静謐であった。嶺外の酋豪はしばしば互いに攻め合っていたが、李瓌は使者を派遣して威徳によって諭し、皆約束の通りとし、あえて乱すことはなかった。後に例によって公に降封された。長史の馮長命は、かつて御史大夫となり、もとより高貴な身分であったから、事にあたっては多く勝手な判決を行ったから、李瓌は怒り、馮長命を杖叩きにし、罪となって免官された。起用されて宜州刺史・散騎常侍となり、薨じた。

  済南郡王李哲は、隋の柱国・備身将軍となり、王に追封された。
  子に李瑗があった。

  廬江郡王李瑗は、字を徳圭といった。武徳年間(618-623)、王に列せられ、山南東道行台右僕射に遷った。河間王李孝恭とともに合同で蕭銑を討伐したが、功績がなく、改めて幽州都督となった。李瑗はもとより臆病で、朝廷は職に堪えられないのを恐れ、そこで右領軍将軍の王君廓を補佐とした。王君廓はもと盗賊であったから、その勇敢さは人より超越し、李瑗は王君廓を頼り、結婚を許し、心腹を寄せた。
  当時、隠太子に陰謀があり、厚く李瑗と結びついた。隠太子が死ぬと、太宗は通事舎人の崔敦礼に李瑗を召還させたが、李瑗は変事があることを恐れた。王君廓は心の中では陰険で陰謀を企み、李瑗を陥れる計略によって自分の功績を取ろうとし、そこで李瑗に向かって、「事変はまだわかりようもありません。大王は国家の宗室で、命令を受けて辺境を守り、兵は十万を擁しているのに、一使者ごときの召還に従えましょうか。また趙郡王は以前に属吏の手におち、今太子斉王もまたそうなっています。大王の勢力が自ら守ることができましょうか」と言って泣いた。李瑗は王君廓を信じて、「命をあなたにつなげよう」と言い、そこで崔敦礼を捕らえ、兵を集めて、北燕州刺史の王詵を呼び寄せてともに計略をはかった。兵曹参軍の王利渉は李瑗に向かって、「王は今詔がないのに勝手に兵を発していますが、これは謀反です。権力が固まるのを待って兵士の心と結ぶべきです。もし諸刺史たちを召還したのにやって来なかったら、どうやって全うしようというのですか」と説き、李瑗は「どうすればいいか」と言ったから、「山東の豪傑はかつて竇建徳に用いられましたが、今失職して戸籍は異民族と一緒に編入されており、これらは反乱がおこらないかと思っており、まるで旱の時に雨を望むかのようになっています。王が使者を派遣して、全員を旧職に復帰させ、在所で募兵を募集し、従わない者がいたときに、たちまちに誅殺することができれば、河北の地は呼応して領有できるでしょう。そうしてから後で王詵を派遣して外部は突厥と連携し、太原から南は蒲州・絳州をはしり、大王は駕を整えて西は関に入り、両軍が勢いを合わせるなら、一か月もしないうちに天下は定まります」と答え、李瑗はこれに従い、内外の兵をことごとく王君廓に授けた。利渉は王君廓がどっちつかずでいることが多いから、兵を王詵に授けるよう願い、李瑗の考えがぐらついた。王君廓は密かにこのことを知ると、駆けて王詵の首を斬って、軍中に布告して、「李瑗が王詵とともに背いた。勅使を捕らえて、勝手に兵に脅迫している。今王詵はすでに斬ったから、ただ李瑗があるだけで、もはや打つ手をもたないだろう。諸君はこれに従うと族滅されるが、私を助けた者は富貴が得られるだろう」と言い、軍は「賊を討たせてください」と言い、そこで崔敦礼を獄から出した。李瑗はこのことを聞いて、側近数百人を率いて甲冑を着用して出てきた。王君廓は「李瑗が反乱し、諸君らは皆連累となっている。どうしてこれに従って一族皆殺しになろうとするのか」と叫ぶと、軍は退却してきた。李瑗は王君廓を「小人が私を売った。行いは自分自身に及ぶぞ」と罵ったが、ただちに李瑗を捕らえて縊り殺し、首を京師に伝送し、王を廃して庶人とし、宗属の籍を絶った。

  鄭孝王李亮は、隋に仕えて海州刺史となり、王に追封された。子の李神通李神符を生んだ。

  淮安靖王李神通は、若くして男伊達を好んだ。隋の大業年間(605-618)末に長安にいた。ちょうどその時、高祖が兵をおこし、吏は李神通を逮捕しようとし、亡命して鄠南山に入り、豪傑の史万宝・裴勣・柳崇礼らとともに兵をあげて太原の挙兵に応じ、司竹園の賊の長の何潘仁と約束して和を結び、進撃して平陽公主の兵と合流し、鄠県を従えて下した。自ら関中道行軍総管に任じ、史万宝を副官とし、裴勣を長史とし、柳崇礼を司馬とし、令狐徳棻を記室とした。京師が平定されるに従って、宗正卿、典兵宿衛となった。永康郡王となり、にわかに淮安王に移封された。
  武徳年間(618-623)初頭、山東安撫大使を拝命し、黄門侍郎の崔幹を副使とし、進軍して宇文化及を魏で攻撃した。宇文化及が聊城に敗走すると、李神通が敗軍を追撃し、賊の兵糧はすべて尽きて投降を願ったが、李神通は受けることをよしとせず、崔幹は投降を受け入れるよう願ったが、李神通は、「軍は長い間行軍しており、今賊の兵糧が尽きたから、勝利は遅くはならないだろうから、ただちに破るべきであるが、玉帛によって兵の働きに報いるべきである。もし投降を受け入れたなら、我らはどこから手にいれるのか」と言い、崔幹は「竇建徳が危くも接近しており、宇文化がまだ平定していないのに、我らは両賊の間に位置が入れ替わることになり、勢力は必ず危くなります。王もまたその玉帛に貪欲であれば、敗れるのにそう日を経ないでしょう」と言ったから李神通は怒り、崔幹を軍中で捕らえた。
  ちょうどその時、宇文士及は済北より軍が補給され、宇文化及は再度盛り返した。李神通は進軍してその砦に迫り、貝州刺史の趙君徳が先に城壁を登ったが、李神通は趙君徳が功績をあげるのを嫌って、軍を止めて進まなかった。趙君徳は怒り、罵って帰還したから、城は再び堅固となってしまった。李神通は兵を派遣して魏州に走らせて城攻具を取りに行かせたが、莘県の人に乗ぜられて、引き返させられた。二日後、竇建徳が聊城を奪取し、勢力は伸長し、山東の州県は草木が風になびくように竇建徳に帰順した。李神通の麾下の多くを失い、そこで退却して黎陽を守り、李世勣を頼ったが、にわかに竇建徳の捕虜となった。後に同安公主とともに賊から帰還した。竇建徳が滅ぶと、官に復して河北行台左僕射を授けられた。劉黒闥の平定に従い、左武衛大将軍に遷った。薨ずると、司空を追贈された。
  李神通に十一子いて、王号を得た者は七人、李道彦李孝察李孝同李孝慈李孝友李孝節李孝義で、後に全員が降封された。李孝逸は公に陞爵した。李孝鋭は封ぜられなかったが、子の李斉物がいて名が顕れた。

  膠東郡王李道彦は、幼い頃から父母によく従った。それより以前、父李神通が捕吏を鄠県に避け、山谷の間にて病気となり、数十日で食が尽きると、李道彦は破れた服で人がいるところで物乞いをし、またある時は野生の実を採取して父に進めたが、李神通がまだ食べないなら、敢えて先に食べず、そこで李神通が食べ物を分けると、お腹いっぱいだと断ったが、それは貯蔵して備えとしていた。高祖が即位した当初、義興郡公に封ぜられ、例によって王号を得た。貞観年間(623-649)初頭、相州都督となり、さらに岷州に遷ったが、父の喪により解官した。土を背負って父の墳墓をつくり、自ら松や柏を種まき、墳墓の前に家をつくり、悲しみのあまり痩せて芝のようになり、親友であってもわからないほどであった。太宗は非常に感心して褒め称え、侍中の王珪に勅して説諭させた。
  服喪がとけると、復帰して岷州都督を拝命した。折を見て党項(タングート)に使者を派遣して国の威重を述べ、あちこちで帰順させた。李靖に従って吐谷渾を討伐し、李道彦に詔して赤水道総管とした。帝は厚く利によって党項を貪らせ、教え導きさせ、その酋の拓拔赤辞は李靖のもとにやってきて「隋は吐谷渾を攻撃したとき、我らはその軍を助けたが、隋は信がなく、かえって攻撃された。今将軍に他心がないのなら、我らは兵糧を助けさせてもらうが、また隋のようにしようとしているのではないか」と言ったから、諸将は一緒に血をすすって約束して送った。李道彦が闊水に到着すると、備えが無いのを見て、そこで牛羊を掠奪したから、諸羌は怨み、ただちに兵を率いて野狐峡に籠もり、李道彦は進むことができず、拓拔赤辞に隙をつかれて、軍は大敗し、死者数万となり、退却して松州を守った。詔して死一等を減ぜられ、辺境の防衛に流謫された。しばらくして、召還されて媯州都督となった。卒すると、礼部尚書を追贈された。
  それより以前、武徳五年(622)同じく封ぜられた者は、李孝察が高密王に、李孝同が淄川王に、李孝慈が広平王に、李孝友が河間王に、李孝節が清河王に、李孝義が膠西王となった。ここに唐が始めて勃興すると、つとめて支蕃を広くして天下を鎮め、そのため従昆弟の子で成人の衣服を着られる者以上は、皆郡王を授けた。太宗が即位すると、属籍をあげて大臣に「すべての宗族の子を天下に王とするのは、よいだろうか」と尋ねた。封徳彝は「漢が封じたのは、ただ帝の子、もしくは親しい兄弟のみで、血統が疎遠な者は、大功がなければ王とはしませんでした。周の郇侯葡・滕叔繍、漢の劉賈・劉沢のように功績をあげた者でも、封土を得られなかったのは、血縁が近い者と遠い者を分けたからなのです。先朝が親族一切を王に封じ、彼らに奉仕する力役人を多くしましたが、天下が私のために奉ることになり、公に示す理由にはならないのです」と答えると、は「朕は天下に君主となったのは百姓を安養させるためである。百姓を労して自分の親族を養わせる必要はない」と言い、ここに血統が疎遠な王は、全員降封して公とし、ただかつて功績があった者のみ降封しなかった。そのため李道彦らは並んで降封されて公となった。

  李孝逸は、若くして学問を好み、非常に文辞をよくした。始め梁郡公に封ぜられた。高宗の時、四度転任して益州大都督府長史となった。武后が国家を専横すると、京師に入って左衛将軍となり、親しく厚遇された。
  徐敬業が兵をあげると、李孝逸を左玉鈐衛大将軍・揚州行軍大総管とし、軍帥として南を討伐した。淮水に到着すると、徐敬業はすでに潤州を攻め、弟の徐敬猷を派遣して淮陰に立て籠もり、偽将の韋超は都梁山によって李孝逸を防ぎ、多くの軍が険阻の地によって陣地を保全した。李孝逸は諸将を集めて会議し、「賊は今山を頼っており、攻めれば兵士は力をつくすことができないし、騎兵は馬を走らせることができず、敵は決死であるから、殺傷される者は必ず多くなる。部隊を分けて守るにこしたことがなく、全軍で揚州にはしれば、敵勢力は数日もせずに破ることができよう」と言ったが、支度使の薛克構は「韋超は険阻の地によっているとはいえ、兵は少なく、もし小敵を放置して攻撃しなければ、これによって威を示すことができなくなります。大軍を分けて守ったところで、戦えば問題があります。これを捨て置けば後の憂いとなり、韋超を攻撃するのにこしたことがありません。もし韋超に勝てば、淮陰の地は自ら震撼し、淮陰が破れれば、楚の諸県は門を開いて官軍を待つでしょう。これによって江都へ走れば、逆賊の首を取ることができます」と言ったから、李孝逸はこの意見に従い、山を登って急襲して韋超を撃破し、数百人を殺し、日暮れに包囲を解くと、韋超は夜に逃走した。進軍して徐敬猷を淮陰で攻撃して破った。徐敬業は軍を戻して阿渓を下ったから、李孝逸は兵を率いて直ちに渡河すると、徐敬業は大敗して、遂に揚州を陥落させた。軍功によって鎮軍大将軍に昇進し、呉国公に移封され、威名は輝いた。
  武承嗣らは李孝逸の声望を嫌い、讒言して左遷されて施州刺史となった。また人に誹謗中傷を伝えてお上に聞かせ、武后はこれを信じて、かつて功績があったから死を許して、儋州に流し、薨じた。景雲年間(710-712)初頭、金州大都督を追贈された。

  李孝同の曾孫は李国貞である。
  李国貞の父の李広業は、剣州長史となった。李国貞は剛直で、官吏としての才能があった。乾元年間(758-760)、長安県令から河南尹に遷った。史思明が東都に侵攻すると、李光弼は河陽を防衛し、李国貞は官吏を率いて西は陝州に逃げ、数カ月して召還されて京兆尹となった。
  上元年間(760-761)初頭、剣南節度使を拝命し、さらに召還されて殿中監となり、戸部尚書となって朔方・鎮西・北庭・興平・陳鄭節度行営兵馬および河中節度都統処置使となり、絳県を治所とした。ついで晋・絳・慈・隰・沁等州観察処置使を加えられた。到着すると、兵糧が乏しく、貯蓄物は腐り果て、民は貧しく緊急の徴収するにはたえられず、上書・奏上した。しかし軍中では騒がしく罵るようになり、突撃隊長の王振は軍の怨みに乗じて偽って「もっこを備えて労役させようとしているぞ」と言い、軍は皆怒り、夜に牙門を焼き払った。側近は走って緊急事態を報告し、逃げるよう願ったが、李国貞は「私は命令を受けて将となった。城を棄てることができようか」と言ったが、強く願ったため、そこで獄中に逃れた。王振は軍を率いて李国貞を拐い、食べ物を李国貞の前に置いて、「これを食べてその力を労役になどと、できるというのか」と言うと、李国貞は「お前たちと一緒に賊を討伐しようというのに、どうして労役に従事させようというのか。貯蔵の兵糧が腐って少なくなっているから、すでに朝廷に願い出ている。私はどうして事を一緒にしようというのか」と言うと、軍はその言葉に心服し、しばらくして引き去った。王振は「都統が死ななければ、我らの仲間は何と危ういことか」と言って、遂に殺害し、あわせてその二子および三大将を殺した。
  詔があって郭子儀を代任とした。李国貞は清廉潔白でよく法律を用い、世間は清廉な役人であると称えたが、部下を使うのは厳しく、そのため軍は郭子儀が来るのを願っていたが、しかし王振がこれによってその悪事を勝手に行った。郭子儀が到着すると、王振は自らの功績を示したが、郭子儀は「お前は賊の境に臨んで主将を殺害し、賊がもし虚に乗じてくれば、絳県を失うというのに、また功績としようと思っていたのか」と怒り、ただちに斬って布告した。詔して李国貞に揚州大都督を追贈した。
  子の李錡は、自らがある。

  李孝節の曾孫の李暠は、若くして父を失い、母に仕えて孝行であった。初め枝江県の丞となり、荊州長史の張柬之は、「帝宗の千里駒、私はその人を得たぞ」と言った。衛尉少卿に昇進した。母の喪にあうと、痩せて柴のようになり、服喪が解けても、家人は今まで李暠がおしゃべりしたり笑ったりしたのを見たことがなかった。兄の李昇・弟の李暈とは互いに親しかった。
  開元年間(713-741)初頭、汝州刺史となり、政務は厳格かつ簡潔で、統治を称えられた。兄弟が東都からやってきて側にいたが、たちまち破れた衣服で行ったから、州の人は知る者がおらず、その清慎さはこのようであった。四度転任して黄門侍郎、検校太原以北諸軍節度使となった。太原の習俗では、仏教信者は死ぬと埋葬せず、死体を郊外の鳥獣のところに棄て、その地を「黄阬」と呼んでいた。犬が数百頭いて、死骸を食べるよう躾けられ、非常に人々の迷惑となっていたが、吏はあえて禁止しなかった。李暠がやって来ると、人を派遣して群犬を捕らえて殺し、禁止の条文を掲げ、再犯しないことを約束させ、遂にその習俗が改まった。開元二十一年(733)、工部尚書の地位によって持節して吐蕃への使者となり、帰還すると、金城公主は国境を明確し、赤嶺の上に石で表すよう願い、盟約は遂にかたく定まった。帰還すると、使者としての指名を果たしたから、再び吏部に遷った。
  李暠は、風儀が美しく、荘重であったから称えられ、当時は宰相たるべく声望があった。累進して太子少傅・武都県伯となった。卒すると、益州大都督を追贈された。
  李暈は太僕少卿まで昇進した。李暈の子の李進もまた名が知られ、当世の賢士に従って遊ぶのを好み、人の急事に施しをし、累進して給事中に抜擢された。至徳年間(756-758)初頭、広平王に従って東征し、工部侍郎の職によって雍王元帥府行軍司馬に任じられたが、回紇に鞭打たれて危うく死ぬ所であった。兵部に遷り、卒した。礼部尚書を追贈された。

  李孝節の四世の孫の李説は、字を巌甫といった。父の李遇は、天宝年間(742-756)に御史中丞・東畿採訪使となった。李説は父の蔭位によって率府兵曹参軍に補任された。馬燧が太原節度使となると、少尹に任命され、汾州刺史に遷った。李自良が馬燧と交替すると、再び奏上されて少尹となった。大将の張瑤が兵士の心をつかみ、かつて後を継ぐことを願って許されなかったが、李自良が卒すると、李説は監軍の王定遠とともに李自良の喪を秘匿し、まず張瑤に休暇を与え、毛朝陽に代わらせ、その後に喪を発表した。詔して通王を節度大使とし、李説を行軍司馬・節度留後とした。
  王定遠は自ら李説に対して功績があるとして、非常に専横を極め、別に賜印を要請し、監軍に印があるのは王定遠から始まった。これより勝手に補吏をつかい、簡単に諸将を配置換えした。彭令茵は、長い間功績があったから王定遠に服さず、王定遠は怒って、彭令茵を殺し、馬糞の中に埋め、彭令茵の家族が遺体の引き渡しを願っても許さなかったから、全軍が怨んだ。李説はその事を奏上し、徳宗は奉天に扈従した功績によって、死を許して免官とした。詔がまだ到着する前、王定遠は李説を刺そうと図り、李説が逃げて免れた。王定遠は諸将を招集し、書類箱の中から詔書を出し、「李景略を知留後とし、李説を召還するという詔が下った。諸君らは全員昇進する」と欺いたから、諸将が拝しようとすると、大将の馬良輔が「大嘘だ。受けてはならんぞ」と叫んだから、王定遠は恐れ、乾陽楼に逃げ、麾下を呼び寄せたが全員やって来ず、自ら身を投げて死んだ。李説は同謀の者を全員斬り、そこで静安となった。李説を抜擢して検校礼部尚書・節度使とした。重ねて隴西県男に封ぜられた。
  李説は職務に精勤し、天成軍を築き上げ、辺境の備えや備蓄は全うされた。晩年病となり、職務を行うことができず、軍はしばしば乱れた。卒すると、尚書右僕射を追贈された。

  李斉物は、字を道用といった。天宝年間(742-756)初頭、陝州刺史に任じられた。砥柱山を切り開き、漕路を通し、重い石を掘り起こすと、下から古い鉄戟を拾い、鋤のようで、「平陸」と銘してあった。これを進上すると、詔してこれによって県を平陸県と名付けた。河南尹に遷り、李適之と親しかったのに連座して、竟陵太守に貶され、帰還すると、京兆尹、太子太傅、兼宗正卿に遷った。卒すると、太子太師を追贈された。性格は細かく詮議して恩恵が少なく、人の私事を暴くのを喜んだが、その一方で清廉潔白で自ら喜んだから、吏はあえて欺く者がいなかった。陝県の尉の裴冕に腹を立て、拘束して侮辱したが、裴冕が宰相となると、李斉物を太子賓客に任命したから、世間は裴冕がよく怨みを押し留めたと言っていた。
  子を李復といった。

  李復は、字は初陽で、蔭位により官に仕え、累進して江陵司録参軍となった。衛伯玉に才能があると認め、上表して江陵県令とした。少尹に遷り、饒州・蘇州の二州の刺史を歴任した。李希烈が叛くと、荊南節度使の張伯儀はしばしば賊に苦しめられ、朝廷は李復を江陵に派遣して兵士の心を得させようとし、そこで母の喪にあったのを奪喪(服喪が終わる前に強制的に官に呼び戻されること)して少尹、充行軍司馬とし、張伯儀を補佐した。ちょうど張伯儀が罷免されると、容州刺史に改められ、本管招討使を兼任した。これより以前、西原で叛乱がおき、吏は叛いた者を捕らえて没籍して奴婢とし、長らく使役していた。李復がやって来ると、親戚を訪れさせ、すべて許して釈放した。容州にいること三年、人々は李復を頼って安心した。嶺南節度使に転任し、当時、安南経略使の高正平・張応が相次いで卒し、その補佐の李元度・胡懐義らはそのため兵を阻んで州県を脅かし、勝手に不法に賄賂を受け取った。李復がやって来ると、胡懐義を誘い出して杖殺し、李元度を配流とし、南方の辺境は粛然とした。民に教えて陶瓦をつくらせ、蛮獠を説得し、瓊州を収め、都督府を置き、これによってその人々を安んじて定めた。召還されて宗正卿を拝命した。華州刺史に任じられた。貞元十年(794)鄭滑節度使の李融が卒すると、軍乱となり、李復を検校兵部尚書として李融に代わって節度使とした。李復は命令を下して営田を耕させてその軍に支給し、賦税を民に及ばさなかったから、民衆は喜んだ。検校尚書右僕射を加えられた。卒した時、年五十九歳で、司空を追贈され、諡を昭という。李復は方鎮に転任するたび、所在の地で統治を称えられたが、非常に蓄財を好んだから、そのため世間の謗りを受けた。
  従父の李若水は、左金吾大将軍、兼通事舎人となり、容貌は立派で、朝廷にあること三十年、多くの旧儀を知り、命を受けて職務にあたるごとに称賛を受け、進退は優美で、見るべきものがあった。

  襄邑恭王李神符は、字を神符といい、若くして父を失い、兄に仕えて恭しかった。高祖が兵をおこすと、李神符は長安に留まり、衛文昇に捕らえられた。京師が平定されると、安吉郡公に封ぜられた。が禅譲を受けて唐が建国されると、例によって王に封ぜられた。并州総管に遷った。
  頡利可汗が侵入すると、李神符は頡利可汗と汾東で戦い、首級五百を斬り、馬二千を鹵獲した。また沙河で戦い、乙利達官を捕虜とし、可汗の乗っていた馬と鎧を得た。召還されて太府卿となった。揚州大都督に遷り、丹楊より長江を渡り、隋の江都の故郡城を治所とし、揚州の人はこれを役立つものとした。しかし威厳が少なく、麾下に恐れられなかった。累進して宗正卿となったが、足が悪いため光禄大夫に改められ、邸宅に帰り、毎月羊酒を給付された。太宗が邸宅にやって来て慰問し、また小輿に乗って紫微殿(洛陽城)に入らせ、三人の護衛が輿を守って昇殿した。開府儀同三司に遷った。永徽二年(651)薨じ、年七十三歳であった。司空・荊州都督を追贈され、献陵に陪葬された。
  子が七人いて、並んで郡王に昇爵したが、例によって公に降封された。ただ李徳懋李文暕が名を知られた。李徳懋は、官は少府監・臨川郡公であった。五世の孫に李従晦がいる。李文暕は、幽州都督・魏国公である。垂拱年間(685-688)、連座によって藤州別駕に貶され、誅殺された。子に李挺李捷がいて、李捷は襲封した。李挺の曾孫の李程、李捷の曾孫の李石は、別にがある。

  李従晦の祖父の李模は、仕えて至徳年間(756-758)に猗氏県令となった。史思明が洛陽を陥落させると、賊軍の長は諸県を掠奪し、李模は民衆を率いて防衛し、平定した。しばらくして黔中観察使に遷った。太子賓客で終わり、太子太保を追贈された。諡を敬という。

  李従晦は、宝暦年間(825-827)初頭に進士に及第し、太常博士に抜擢された。甘露の変で、御史中丞の李孝本が誅殺されると、李従晦は族兄弟であったため朗州司戸参軍に貶された。澶王府諮議に改められ、東都分司となった。嫌っている者が重ねて前の罪を告発し、亳州司馬に左遷された。しばらくして吏部郎中、兼侍御史、知雑事に転任した。京師から出されて常州刺史、鎮海軍節度使となった。李琢がその優れた政務を上表し、金紫を賜った。京兆尹・工部侍郎・山南西道節度使を歴任した。また考課が最も優れていたため銀青光禄大夫に昇進した。卒し、年六十三歳であった。吏部尚書を追贈された。
  李従晦の姿は卓越し、至るところで優れているとの評判であった。若い頃から崔亀従李景譲裴休と親しかった。後進を引き立て、名を人に知らしめさせた。楊収がまだ布衣(平民)であった時、面会すると、李従晦は一見して常に見知っていたかのようであり、そこで大臣となる機会を待ったが、後に果して宰相となった。


  世祖皇帝に四子があった。いちばん上が李澄、次が李湛、次が李洪、次が高祖神堯皇帝といった。

  梁王李澄は、早く薨去し、跡継ぎがなかった。武徳年間(618-623)初頭、二王とともに同じく追封された。

  蜀王李湛は、子の李博乂李奉慈を生んだ。

  隴西恭王李博乂は、武徳年間(618-623)初頭、李奉慈とともに王に列せられた。高宗のとき、礼部尚書、特進に抜擢された。驕って法律を守らず、伎妾が数百おり、美しい織物を曳き、美食に舌鼓を打ち、声楽を演奏させて自ら楽しんだ。その弟の李奉慈もまた放縦に荒み、二人ともに嫌われ、かつて「私は仇敵であっても良いところがあれば用いる。ましてや親戚ならどうであろうか。王らは小人と昵懇となり、もっぱら決まりを守らず、古人の書物を学んでいるとも聞かない。どうして良きことをしないのだろうか」と言って、それぞれに書物を買うための絹二百疋を賜り、恥じさせてやめさせようとしたが、自ら刷新することができなかった。薨ずると、開府儀同三司・荊州都督を追贈された。

  渤海敬王李奉慈は、顕慶年間(656-661)に原州都督となり、薨去した。
  七世の孫に李戡がいる。

  李戡は、字を定臣といい、幼くして孤児となった。年十歳で学問を好み、極寒になると、薪を拾って自ら温めた。夜には油がなかったから、黙って書いたものを思い出していた。年三十歳になると、六経に詳しいから、進士に貢挙され、礼部の試験を受けたが、会場で吏が名を呼んでから入ってくると、李戡はこれを恥じた。翌日、ただちに江東に引き返し、陽羨里(江蘇省宜興市)に隠遁した。陽羨里の民は争いごとがあって決着しなければ、官ではなく李戡のもとに行って判別させた。だいたい論著は数百篇あった。常に元和年間(806-820)の元稹白居易の詩を憎んで、技工を多く凝らしたのに不満をもって、世間では競って重んじた。そこで詩人の類で古様である者を集めて、断じて『唐詩』をつくり、失を糾弾したという。平盧節度使の王彦威が上表して巡官とし、その幕府に遷り、洛陽に戻って卒した。


  賛にいわく、景皇帝元皇帝の子孫は、草創の初めにあたって、気運に乗じて奮闘し、高祖が全国を平定しようとしたときに尽力したから、皆名があらわれて当時の豪傑となったのである。河間王の功績、江夏王の軍略に至っては、宗室の指標というべきものである。
  始め、唐がおこると、血縁が遠くても王となったが、太宗の時代になると、しばしば降封した。当時、天下はすでに定まり、帝は名臣蕭瑀らとともに嘆息して封建の事を取り上げ、三代(夏・殷・周)の興隆にならいたいと思ったが、魏徴李百薬が皆そうではないと言った。魏徴の意は、唐が大乱を受けて、民人が衰亡し、始めて生業が戻りつつあるのに、にわかに建議して国土を分割しようとしており、そのため五不可の説を述べた。李百薬は帝王には自ら天命があり、王朝の時代の長短は封建の有無によらないと述べた。また春秋二百四十二年の禍を述べ、漢の哀帝・平帝・桓帝・霊帝が繰り返しており、曹元首(曹冏)・陸士衡(陸機)の言がこれによって虚偽を述べて事実ではないことを暴いた。しかし顔師古が一人諸侯を建てようと建言したが、諸侯の力を少なくし、州県とバラバラに治めさせ、これによって互いに維持させようとした。しかし天子はこれによって取りやめとし、再度議論しなかった。
  名儒が漢の劉氏が封建によって武氏の禍のようなことがおこらなかったと、そこで論を立てて以下のように上奏した。爵位を設けて封土なく、官に任じて職がないのは、古の道ではなく、そのため権力を外家に移せば、宗廟が絶えてもさらに存続する。これが存続する理は、順を取って逆を難ずることにあり、これが絶える原因は、弱きものが単一であるから憚る必要がないことにある。郡県制が短い間の安寧にはよいが、長い間の安寧にはよくないと述べたのである。だいたいは曹元首(曹冏)・陸士衡(陸機)と似たようなものであった。しかし杜佑柳宗元は深くその根本を探し、古によって今の兆しとし、反駁したのである。
  杜佑は以下のように述べた。「人が君主を置くのは、繁栄を望んでいるからであり、その繁栄は郡県の制度にあるので、だからこそ帝業は常に促されるのだ。君主が人民を置くのは、その人々の少なさを忌まずに封建することにあり、だから帝業が長いものになるのである。そのため、封建の制度は一宗族に利益となり、郡県の制度は百姓に利益となるのであるというのである。また法を立ててまだ破られることがないのは、聖人がその患いの長短をはかってつくるからである。封建の制度は、初めは磐石のようであるが、しかし衰えれば鼎立して力を尽くして奪い合い、衰退してから後は、そのため患いとなって長引くのである。郡県の制度は、始めは天下を統一し、衰えれば世が崩壊する共に一緒に潰えるのであるが、乱を平定する者には簡単に功となり、そのため患いとなる期間は短いのである」また以下のように述べた。「三王(夏の禹王、殷の湯王、周の文王)以来、郡県の利を見ないのは、やってみてよくなかったからではないから、後世の諸儒がそこで古に拘泥して強いてこの説を唱えるのは、よくないのである」
  柳宗元は以下のように述べた。「封建は聖人の意ではない。しかし堯・舜・三王の時代を経てこれを撤廃できなかったのは、撤廃しようとしなかったのではなく、成り行き上できなかったのである。秦が六国を破り、都会を並べて、太守を設置し、天下に版図をしき、全国を統制し、その状況を把握していた。二世皇帝になって滅亡したのは、理由があってのことである。刑罰をふるい、国力を枯渇させたから、天下が互いに団結して、県令を脅し、太守を殺し、周囲のあちこちで蜂起がおこった。当時、叛乱を起こす民はいたが、叛乱を起こす吏はいなかった。漢は秦の過ちをただし、全国をおさめ、宗室の子や功臣を立てたが、数十年の間、命を救ったり負傷者を助ける余裕がなく、当時封国が叛いたことがあっても、郡が叛いたことはなかった。唐が建国され、州県を設立したが、獰猛狡猾な人が時折蜂起した。その過ちは州にあるのではなく、そこに兵があったからで、その当時、叛乱をおこした将はいたが、叛乱をおこした州はなかったのである。」その上で「唐が前王朝の過ちをただし改めて二百年になろうとしているが、諸侯がいなかったからであるのは明白である」と述べた。また「湯王が蜂起すると、諸侯で帰順したのは三千で、これによって夏に勝利することを助けたのである。武王が蜂起すると、会する者は八百で、これによって商を滅ぼすのを助けたのである。封建にしたがっていれば安泰であり、そのためこれによって慣例とし、封建は湯王・武王にとって仕方がないことであったのである。仕方がなかったのは、制度として優れていたからではなく、その諸侯の力を自身に私的に用いたかったからなのである。秦が封建を改めたのは、諸侯を抑えるためで、制度として優れていたからであるが、その心情はやはり私的なものであった。しかし天下を優れた制度とした発端は、秦から始まったのである」と述べた。
  諸儒の発言をみてみると、本当にその通りである。しかし侯を封建して太守を設置するというのは、内容と実際が互いに救い合っているかのようで、また一概に責めることはできないのである。土砂崩れの困難を救うには、諸侯を封建するような方策ではなく、尾根を大きく削って、太守を置くのにこしたことがないのである。唐には藩鎮の軍帥がおり、古の諸侯に比するものである。そのため王者は救えるところを見て実行し、破れるところがなければよしとしたのである。李百薬が天命を数え、杜佑が郡県が百姓に利益があって帝業を促進すると言ったようなことは、臆測の議論なのである。


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最終更新:2024年09月30日 19:14
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