呂崇賁 りょすうほん
?-773
盛唐の武将・藩鎮。
玄宗の天宝年間(742-756)河西節度使となる。安史の乱がおこると、
哥舒翰が潼関の守備に失敗して捕虜となると、
李承光・
王思礼とともに逃亡したが、
粛宗の怒りを買い、全員を死刑にするとしたが、
房琯の弁明により李承光のみが処刑され、死を免れた。至徳元載(756)七月、関内節度使兼順化郡太守に任命された。太府卿となり、さらに大暦七年(772)広州都督、充嶺南節度使に任じられた。大暦八年(773)九月、循州刺史の
哥舒晃に叛かれ、殺害された。
本紀・列伝・史料
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最終更新:2025年01月04日 23:58