李亨
711-762
唐第10代の皇帝(在位756-762)。幼名は嗣昇、のち浚、璞、紹、亨と改名。諡は文明武徳大聖大宣孝皇帝。廟号は粛宗。
玄宗の第3子。母は
元献皇后楊氏。2才で陝王、27才で忠王・朔方節度大使・単于大都護となる。738(開元26) 年、兄
李瑛に代わって皇太子となった。安史の乱のとき、玄宗が蜀へのがれるさい、これにしたがったが、馬嵬駅で 父老に長安奪回を懇請され、玄宗と別れて北西方の霊武(寧夏回族自治区霊武県北西)で即位、玄宗を上皇と尊称した。同地を根拠にウイグルおよび西域諸国の援兵を請い、翌年長安・洛陽を回復した。
李泌らを顧問として公正な政治を期したが、
張皇后や禁軍をにぎる宦官
李輔国の権勢をおさえ得ず、またこれら粛宗派は功をたのんで玄宗派を圧迫した。その後、李輔国と張后の抗争が生じ、そのさなかに没した。陵名は
建陵。
年号
至徳 756-758
乾元 758-760
上元 760-761
宝応 762
后妃
子女
宰相
本紀
参考文献
『アジア歴史事典5』(平凡社、1960年)
外部リンク
最終更新:2025年06月24日 12:49