唐書巻六
本紀第六
粛宗 代宗
開元四年(716)、安西大都護となった。性格は仁孝で、学問を好み、
玄宗はかれを最も愛して、
賀知章・
潘粛・
呂向・
皇甫彬・
邢璹らを側近として侍読させた。
開元十五年(727)、名を李浚とあらため、忠王に移封され、朔方節度大使・単于大都護となった。
開元十八年(730)、奚・契丹が辺境を寇すと、
粛宗を河北道行軍元帥とし、御史大夫
李朝隠ら八総管の兵十万を派遣してこれを討伐させた。前線にあること二年、
李朝隠らが奚・契丹を范陽の北で破り、
粛宗は統帥の功により司徒に遷された。開元二十三年(735)、また名を李璵とあらためた。
開元二十五年(737)、皇太子
李瑛が廃されて死ぬと、明年、立って皇太子となった。官吏が冊礼を行うと、その儀に中厳・外辦があり、その服は絳紗であった。太子は「これは天子の礼である」といった。そこで公卿に下して議論させた。太師の
蕭嵩と左丞相の
裴耀卿が「外辦」を改めて「外備」とし、絳紗の衣を朱明の服とするよう請願したので、これに従った。開元二十八年(740)、また名を李紹とあらためた。天宝三載(744)、また名を李亨とあらためた。
安禄山が来朝すると、
太子はかれに反相があると知り、罪によりこれを処刑するよう請願したが、
玄宗は聞き入れなかった。
安禄山はそむいた。
天宝十五載(756)、
玄宗が賊を避け、行して馬嵬に至り、父老が道を遮り太子を留めて賊を討たせるよう請うと、
玄宗はこれを許して、寿王
李瑁および内侍の
高力士を派遣して太子を諭すと、太子はそこで帰還した。六月丁酉、渭北の便橋に到達したが、橋は絶たれており、水浜の居民を募ると三千人あまりを得て、渡りきることができた。潼関の敗残兵に遭遇し、賊となっていたから戦ったが、負傷する者が多く、発覚するまでにその他の者を収容して渡り、後軍の多くは水没した。夕方に永寿県に行き、吏民はしばしば牛酒を献上しに来た。新平郡太守の薛羽・保定郡太守の徐瑴は賊が到達しようとしているときいて、皆城を捨てて逃げた。己亥、太子は保定郡に行き、薛羽・徐瑴を捕らえて斬った。辛丑、平涼郡に行き、牧馬牛羊を得て、兵は始めて勢いを取り戻した。朔方留後支度副使の
杜鴻漸・六城水陸運使の
魏少游・節度判官の
崔漪・支度判官の
崔簡金・関内塩池判官の
李涵・河西行軍司馬の
裴冕が朔方で太子を迎えて兵を治めた。庚戌、豊寧に行き、大河が険しいのを見て、ここで守ろうとしたが、たまたま大風が吹いたから、霊武に帰還した。
七月辛酉、霊武に到着した。壬戌、
裴冕らが
皇太子に皇帝の位につくよう請願した。甲子、霊武で皇帝の位につき、
皇帝を尊んで上皇天帝といい、大赦し、至徳と改元した。文武の官に階・勲・爵を賜り、侍老に太守・県令を授けた。
裴冕が中書侍郎・同中書門下平章事となった。甲戌、
安禄山が扶風を寇し、太守の
薛景仙がこれを破った。
八月辛卯、
張巡が
安禄山の将の李廷望と雍丘で戦い、これを破った。
十月辛巳朔、日食があった。癸未、彭原郡に行った。詔して御史・諌官が事を論じるにあたって先に大夫や宰相に報告することを禁じた。始めて売官し、僧尼を得度させた。
房琯が招討西京・防禦蒲潼両関兵馬元帥となり、兵部尚書の
王思礼がこれを補佐した。南軍を宜寿に入れ、中軍を武功に入れ、北軍を奉天に入れた。辛卯、河南節度副使の
張巡が
令狐潮と雍丘で戦い、これを破った。辛丑、
房琯が中軍・北軍をもって
安禄山の軍と陳濤斜で戦い、敗れた。癸卯、
房琯がまた南軍をもって戦い、敗れた。この月、永王
李璘を蜀郡に派遣して
上皇天帝に朝させた。
李璘がそむき、丹徒郡太守の閻敬之が
李璘と伊婁埭で戦い、ここに死んだ。
十一月辛亥、河西で地震があった。戊午、
崔渙が江南宣慰使となった。
郭子儀が回紇を率いて
安禄山と河上で戦い、これを破った。
史思明が太原を寇した。
十二月、
安禄山が魯・東平・済陰三郡を陥落させた。戊子、彭原郡を二年間免税とした。
安禄山が潁川を陥落させ、太守の
薛愿および長史の
龐堅を捕らえた。
この年、吐蕃が巂州を陥落させ、嶺南溪の獠の
梁崇牽が容州を陥落させた。
至徳二載(757)正月、永王
李璘が鄱陽郡を陥落させた。乙卯、
安慶緒がその父の
安禄山を弑した。丙寅、河西兵馬使の
孟庭倫がその節度使の
周佖を殺し、武威郡をもってそむいた。乙亥、
安慶緒の将の
尹子奇が睢陽郡を寇し、
張巡がこれを破った。
二月戊子、鳳翔に行った。
李光弼が
安慶緒の衆と太原で戦い、これを破った。丁酉、関西節度兵馬使の
郭英乂が
安慶緒と武功で戦い、敗れた。
安慶緒が馮翊郡を陥落させ、太守の
蕭賁がここに死んだ。
安慶緒の将の
蔡希徳が太原を寇した。戊戌、庶人
李璘が処刑された。庚子、
郭子儀が
安慶緒と潼関で戦い、これを破った。壬寅、河西判官の崔称が武威郡を落とし、
孟庭倫が処刑された。甲辰、
郭子儀が
安慶緒と永豊倉で戦い、これを破り、大将の李韶光・王祚がここに死んだ。
三月辛酉、
韋見素・
裴冕が宰相を罷免された。憲部尚書として致仕した
苗晋卿が左相となった。
四月戊寅、
郭子儀が関内・河東副元帥となった。壬午、戦死者を埋葬した。庚寅、
郭子儀が
安慶緒の将の
李帰仁と劉運橋で戦い、これを破った。
五月癸丑、
郭子儀が
安慶緒の将の
安守忠と清渠で戦い、敗れた。丁巳、
房琯が宰相を罷免され、諌議大夫の
張鎬が中書侍郎・同中書門下平章事となった。
六月癸未、
尹子奇が睢陽を寇した。丁酉、南充郡の民の何滔がその太守の楊斉曾を捕らえてそむいたので、剣南節度使の
盧元裕がこれを破った。
七月己酉、太白が天を通過した。丁巳、
安慶緒の将の
安武臣が陜郡を陥落させた。
八月丁丑、
長春宮が焼失した。甲申、
崔渙が宰相を罷免された。
張鎬が河南節度使を兼ね、淮南の諸軍事を都統した。霊昌郡太守の
許叔冀が彭城に逃れた。癸巳、大規模に閲兵した。
閏月甲寅、
安慶緒が好畤を寇し、渭北節度使
李光進がこれを破った。丁卯、広平郡王
李俶が天下兵馬元帥となり、
郭子儀が副元帥となり、朔方・安西・回紇・南蛮・大食の兵をもって
安慶緒を討った。辛未、京畿採訪宣慰使の
崔光遠が
安慶緒と駱谷で戦い、これを破った。行軍司馬の
王伯倫が苑北で戦い、ここに死んだ。
九月丁丑、
安慶緒が上党郡を陥落させ、節度使の
程千里を捕らえた。壬寅、広平郡王
李俶が
安慶緒と灃水で戦い、これを破った。癸卯、京師を奪回した。
安慶緒が陜郡に逃れた。尚書左僕射の
裴冕が
太清宮・郊廟・社稷・五陵に告げ、百姓を宣慰した。
十月戊申、広平郡王
李俶が
安慶緒と新店で戦い、これを破り、陜郡を落とした。壬子、東京を奪回し、
安慶緒は河北に逃れた。興平軍兵馬使の
李奐が
安慶緒の軍と武関で戦い、これを破り、上洛郡を落とした。吐蕃が西平郡を陥落させた。癸丑、
安慶緒が睢陽を陥落させ、太守の
許遠および
張巡・鄆州刺史の
姚誾・左金吾衛将軍の
南霽雲はみなここに死んだ。癸亥、鳳翔を五年間免税とし、父老に官を授けた。太子太師の
韋見素を派遣して
上皇天帝を蜀郡に迎えた。丁卯、霊武から到着し、太廟で饗し、三日哭した。己巳、関内節度使の
王思礼が
安慶緒と絳郡で戦い、これを破った。
十一月丙子、
張鎬が、四鎮伊西北庭行営兵馬使の
李嗣業・陜西節度使の
来瑱・河南都知兵馬使の嗣呉王
李祗を率いて河南の郡県を落とした。庚子、九廟の神主(位牌)をつくり、
長楽殿に告享した。
十二月丙午、
上皇天帝が蜀郡から到着した。甲寅、
苗晋卿が中書侍郎・同中書門下平章事となった。戊午、大赦した。霊武で元より従っていた者、蜀郡で扈従した者で官三品以上は一子に官を授け、四品以下は一子に告身を出した。戦死者を祭り、その家は二年間免税とした。天下の租・庸を翌年は三分の一を免税とした。珠玉・宝鈿・平脫・金泥・刺繍を禁じた。諸州および官名を復した。蜀郡を南京とし、鳳翔郡を西京とし、西京を中京とした。潞州を五年間免税と、并州・鄧州・許州・滑州・宋州の五州、雍丘県・好畤県・奉先県は二年間免税とし、益州は三年間免税とした。文武官に階位・勲位・爵位を賜い、父老の八十以上に版授し、緋衣・銀魚を加え、民に五日宴会とした。広平郡王
李俶が太尉となり、楚王に進封された。
苗晋卿が侍中となり、
崔円が中書令となり、
李麟が同中書門下三品となった。子の南陽郡王
李係を進封して趙王とし、新城郡王
李僅を彭王とし、潁川郡王
李僩を兗王とし、東陽郡王
李侹を涇王とした。子の
李僙を封じて襄王とし、
李倕を𣏌王とし、
李偲を召王とし、
李佋を興王とし、
李侗を定王とした。乙丑、
史思明が降った。壬申、
達奚珣らが処刑された。
乾元元年(758)正月戊寅、
上皇天帝が
宣政殿に御し、
皇帝に伝国・受命の宝符を授け、冊号して光天文武大聖孝感皇帝といった。乙酉、宮女三千人を出した。庚寅、大規模に閲兵した。
二月癸卯、
安慶緒の将の
能元晧が淄州・青州をもって降り、能元晧を河北招討使とした。乙巳、
上皇天帝に冊号をたてまつって聖皇天帝といった。丁未、大赦し、改元した。王朝に尽くして死んだ者および偽朝の命を拒んだ者に官位を追贈した。賊に陥された州は三年にわたって税を免除した。文武の官に階・爵を賜った。
三月甲戌、
李俶を移封して成王とした。戊寅、淑妃
張氏を立てて皇后とした。
四月辛亥、神主(位牌)を太廟に設置した。甲寅、太廟で朝享し、南郊を有事摂祭した。乙卯、大赦し、文武の官に階・勲・爵を賜り、天下で租・庸ではないのに使役することを禁じ、貧窮の者に賑給し、寵臣に官爵を授け、京官九品以上、二王・三恪の一子に官を授けた。
史思明が范陽節度副使の
烏承恩を殺してそむいた。
五月戊子、
張鎬が宰相を罷免された。乙未、
崔円・
李麟が宰相を罷免された。太常少卿の
王璵が中書侍郎・同中書門下平章事となった。
七月、党項羌が辺境を寇した。
九月丙子、招討党項使の
王仲昇が
拓抜戎徳を殺した。庚寅、
郭子儀が
李光弼・
李嗣業・
王思礼・淮西節度使の
魯炅・興平軍節度使の
李奐・滑濮節度使の
許叔冀・平盧兵馬使の
董秦・鄭蔡節度使の
季広琛を率いて
安慶緒を討った。癸巳、大食・波斯が広州を寇した。
十月甲辰、成王
李俶を立てて皇太子とした。大赦した。文武の官に階・爵を賜り、五品以上の子で、父の後継となる者に勲位を授けた。忠正孝友で東宮の官吏となりうる者を推挙した。
十一月壬申、
王思礼が
安慶緒と相州で戦い、これを破った。
十二月庚戌、戸部尚書の
李峘が淮南・江東・江西節度使を都統した。丁卯、
史思明が魏州を陥落させた。
乾元二年(759)正月己巳、群臣が尊号をたてまつって乾元大聖光天文武孝感皇帝といった。
郭子儀が
安慶緒と愁思岡で戦い、これを破った。丁丑、九宮の貴神を祀った。戊寅、籍田を耕した。
二月壬戌、中書門下で囚人を再審した。
三月己巳、
皇后が自ら養蚕した。壬申、九節度使(
郭子儀・
李光弼・
李嗣業・
王思礼・
魯炅・
李奐・
許叔冀・
董秦・
季広琛)の軍が滏水で潰滅した。
史思明が
安慶緒を殺した。東京留守の
崔円・河南尹の
蘇震・汝州刺史の
賈至が襄・鄧に逃れた。
郭子儀が東京に駐屯した。丁亥、旱によって死罪を一等降し、流罪以下を再審した。流民で帰還した者を三年間免税とした。甲午、兵部侍郎の
呂諲が同中書門下平章事となった。乙未、
苗晋卿・
王璵が宰相を罷免された。京兆尹の
李峴が吏部尚書となり、中書舎人の
李揆が中書侍郎となり、戸部侍郎の
第五琦と、ともに同中書門下平章事となった。丙申、
郭子儀が東畿・山南東・河南等道諸節度防禦兵馬元帥となった。
四月庚子、
王思礼が
史思明と直千嶺で戦い、これを破った。壬寅、詔して常膳・服御を減じ、武徳中に作坊院で作成して蕃客に賜っていないもの、戎で祭祀の実施を待つものを停止させた。
五月辛巳、
李峴を左遷して蜀州刺史とした。
七月辛巳、趙王
李係が天下兵馬元帥となり、
李光弼が副元帥となった。辛卯、
呂諲が宰相を罷免された。
八月乙巳、襄州防禦の将の
康楚元・
張嘉延がそむき、その刺史の王政を追放した。
九月甲子、
張嘉延が荊州を陥落させた。丁亥、太子少保の
崔光遠が荊襄招討・山南東道処置兵馬使となった。庚寅、
史思明が東京および斉州・汝州・鄭州・滑州の四州を陥落させた。
十月乙巳、
李光弼が
史思明と河陽で戦い、これを破った。壬戌、
呂諲が再び起用された。
十一月庚午、
第五琦を左遷して忠州刺史とした。
十二月乙巳、
康楚元が処刑された。
史思明が陜州を寇し、神策軍将の
衛伯玉がこれを破った。
上元元年(760)三月丙子、死罪を一等降し、流以下を釈放した。
四月戊申、山南東道の将の
張維瑾がそむき、その節度使の
史翽を殺した。丁巳、彗星が婁・胃に出現した。己未、
来瑱が山南東道節度使となり、
張維瑾を討った。
閏月辛酉、彗星が西方に出現した。甲戌、
李係を移封して越王とした。己卯、大赦し、改元し、文武の官に爵を賜った。太公望を追封して武成王とした。再び死刑を三覆奏とした。この月、大飢饉があった。
張維瑾が降った。
五月丙午、太子太傅の
苗晋卿が侍中となった。壬子、
呂諲が宰相を罷免された。
六月乙丑、鳳翔節度使の
崔光遠が羌・渾・党項と涇・隴で戦い、これを破った。乙酉、またこれを普潤で破った。
李光弼が
史思明と懐州で戦い、これを破った。
七月丁未、
聖皇天帝が西内に遷った。
十一月甲午、揚州長史の
劉展がそむき、潤州を陥落させた。丙申、昇州を陥落させた。壬子、
李峘と淮南節度使の
鄧景山が
劉展と淮上で戦い、敗れた。
この年、吐蕃が廓州を陥落させた。西原蛮が辺境を寇すると、桂州経略使の
邢済がこれを破った。
上元二年(761)正月甲寅、死罪を一等降して、流以下を赦した。乙卯、
劉展が処刑された。
二月己未、奴剌・党項羌が宝鶏を寇し、大散関を焚き、鳳州を寇し、刺史の
蕭𢘽がここに死に、鳳翔尹の
李鼎がこれを破った。戊寅、
李光弼が
史思明と北邙で戦い、敗れた。
史思明が河陽を陥落させた。癸未、
李揆を左遷して袁州長史とした。河中節度使の
蕭華が中書侍郎・同中書門下平章事となった。乙酉、
来瑱が
史思明と魯山で戦い、これを破った。
三月甲午、
史朝義が陜州を寇し、神策軍節度使の
衛伯玉がこれを破った。戊戌、
史朝義がその父の
史思明を弑した。
李光弼が副元帥を辞任した。
四月己未、吏部侍郎の
裴遵慶が黄門侍郎・同中書門下平章事となった。乙亥、青密節度使の
尚衡が
史朝義と戦い、これを破った。丁丑、兗鄆節度使の
能元皓がまたこれを破った。壬午、剣南東川節度兵馬使の
段子璋がそむき、綿州を陥落させ、遂州刺史の嗣虢王
李巨がここに死に、節度使の
李奐が成都に逃れた。
五月甲午、
史朝義の将の
令狐彰が滑州をもって降った。戊戌、平盧軍節度使の
侯希逸が
史朝義と幽州で戦い、これを破った。庚子、
李光弼が河南道副元帥となった。剣南節度使の
崔光遠が東川を落とし、
段子璋が処刑された。
七月癸未朔、日食があった。
八月辛巳、殿中監の
李国貞が朔方・鎮西・北庭・興平・陳鄭・河中節度使を都統した。
九月壬寅、大赦し、「乾元大聖光天文武孝感」の号を去り、「上元」の号を去り、元年を称し、十一月を歳首とし、月を斗によって建辰とした。文武の官に階・勲・爵を賜り、侍老官に給付し、先に授けた者にも叙位した。四京の号を停めた。
宝応元年(762)建寅月甲申、靖徳太子
李琮を追冊して皇帝とし、妃の
竇氏を皇后とした。乙酉、王・公・妃・公主で殺害された者を葬った。丙戌、敬陵・恵陵が盗掘された。甲辰、
李光弼が許州を落とした。吐蕃が和を請うた。戊申、
史朝義が営州を陥落させた。
建卯月辛亥、大赦した。文武の官に階・爵を賜った。五品以上の清望と郎官・御史に、流人で行業あって憐愍を加えるべき者を推薦させた。鷹・鷂・狗・豹の貢納を停止させた。京兆府を上都とし、河南府を東都とし、鳳翔府を西都とし、江陵府を南都とし、太原府を北都とした。壬子、羌・渾・奴剌が梁州を寇した。癸丑、河東軍で乱が起こり、その節度使の
鄧景山を殺して、都知兵馬使の
辛雲京が節度使を自称した。乙丑、河中軍で乱が起こり、
李国貞およびその節度使の
荔非元礼を殺した。戊辰、淮西節度使の
王仲昇が
史朝義の将の
謝欽譲と申州で戦い、敗れた。庚午、
郭子儀が朔方・河中・北庭・潞州・儀州・沢州・沁州の節度行営を領知し、興平・定国軍兵馬副元帥となった。壬申、鄜州刺史の成公意が党項と戦い、これを破った。
建辰月壬午、大赦し、官吏で贈賄を受けた者で官庫に納めた者を許し、官を左遷された者、および流人で乱の鎮定に尽力した者を帰還させた。甲午、奴剌が梁州を寇した。戊申、
蕭華が宰相を罷免された。戸部侍郎の
元載が同中書門下平章事となった。
建巳月庚戌、
史朝義が沢州を寇し、刺史の
李抱玉がこれを破った。壬子、楚州が国宝の玉十三を献定した。甲寅、
聖皇天帝が崩じた。乙丑、
皇太子が監国した。大赦し、元年を改めて宝応元年とし、正月を歳首にもどし、建巳月を四月とした。丙寅、閑厩使の
李輔国と飛龍厩副使の
程元振が
皇后を別殿にうつし、越王
李係・兗王
李僩を殺した。この夜、
皇帝は
長生殿で崩じ、年は五十二であった。
代宗睿文孝武皇帝は、諱を豫といい、
粛宗の長子である。母は
章敬皇后呉氏といった。
玄宗の諸孫は百人あまりいて、代宗が最も年長であり、嫡皇孫となった。聡明で寛厚、喜びや怒りを顔色に表さなかった。学問を好み記憶力がよく、易象に通じた。初めの名を李俶といい、広平郡王に封ぜられた。
安禄山がそむき、
玄宗が蜀に幸すると、
粛宗は留って賊を討伐し、代宗は常に軍務に従った。
粛宗が即位すると、
郭子儀らの兵が
安慶緒を討ったが、勝利できなかった。
粛宗は岐州にいた。至徳二載(757)九月、
代宗は広平郡王として天下兵馬元帥となり、朔方・安西・回紇・南蛮・大食らの兵二十万を率いて進討し、百官を朝堂に送り、宮廷を過ぎて下り、歩いて木馬門を出て、その後再度騎乗した。安西・北庭行営節度使の
李嗣業を前軍とし、朔方・河西・隴右節度使の
郭子儀を中軍とし、関内行営節度使の
王思礼を後軍とし、
香積寺に駐屯した。賊将の
安守忠を破り、斬首すること六万級におよんだ。賊将の
張通儒は長安を守っていたが、
安守忠が敗れたのを聞くと、城を棄てて逃れたので、
代宗はそのまま京城を落とし、
王思礼を留めて苑中に駐屯させ、
代宗は大軍を率いて東に向かった。
安慶緒はその将の
厳荘を派遣して陜州ではばませたが、
代宗と
郭子儀・
李嗣業は陜西で戦い、これを大いに破ったので、
安慶緒は河北に逃れ、
代宗はそのまま東都を落とした。
粛宗は京師に帰還した。十二月、楚王に進封された。
乾元元年(758)三月、成王に移封された。四月、立って皇太子となった。それより以前、太子が生まれた年、豫州が嘉禾を献上したから、そこで瑞祥によって、名を李豫と改めた。元年の称をやめ、月は斗によって建辰を名とした。元年建巳月、
粛宗が重病となり、詔して皇太子が監国した。楚州が献上した国宝十三を定めて、そこで、「楚州は、太子が封じられたところであり、今天より宝が楚州に降った。ただちに建元すべきである」とし、そこで元年を宝応元年とした。
粛宗と
張皇后は
李輔国を憎み、謀をしようとして、
太子を召して聞いてみたが、太子は許さず、そこで越王
李係と謀った。粛宗は病が進行した。四月丁卯、皇后と
李係は太子を召喚して宮中に入らせようとしたが、飛龍副使の
程元振は謀の情報を得て、李輔国に密告した。李輔国は太子を止めて入らせず、兵を率いて入り、李係と兗王
李僩を殺し、皇后を別殿に幽閉した。夕方、粛宗が崩じ、そこで太子を迎えて群臣を
九仙門に謁見させた。翌日、喪を発した。己巳、皇帝位を柩前で即位した。癸酉、始めて聴政した。甲戌、奉節郡王
李适が天下兵馬元帥となり、
郭子儀が副元帥を辞任した。乙亥、
李适を進封して魯王とした。
五月壬午、
李輔国が司空となった。庚寅、
母を追尊して皇太后とした。丙申、
李光弼が
史朝義と宋州で戦い、これを破った。丁酉、大赦した。刺史の一子に官を授け、文武の官に階・爵を賜り、子で父の後継となる者に勲一等を昇進させた。民で租から逃げた者の旧債を免除した。子の益昌郡王
李邈を進封して鄭王とし、延慶郡王
李迥を韓王とした。庶人王氏を追復して皇后とし、
李瑛・
李瑤・
李琚はみなその封号を復した。
六月辛亥、
廃皇后張氏・越王
李係・兗王
李僩をみな追って庶人とした。
七月乙酉、山南東道節度使の
裴茙を殺した。癸巳、剣南西川兵馬使の
徐知道がそむいた。
八月己未、
徐知道が処刑された。辛未、台州の人の
袁鼂がそむいた。乙亥、
李适を移封して雍王とした。
九月戊子、鳳州刺史の
呂日将が党項羌と三嗟谷で戦い、これを破った。丙申、回紇に援軍を要請した。壬寅、大閲を実績した。癸卯、
袁鼂が信州を陥落させた。
十月乙卯、温州・明州の二州が陥落した。詔して浙江の水旱で、百姓で重度の困窮する者を、州県が税を科すことを禁じ、民の中で疫病で死んで葬送できない者を埋葬した。辛酉、雍王
李适が
史朝義を討った。壬戌、
李輔国が強殺された。癸酉、雍王
李适が懐州を落とした。甲戌、
史朝義を横水で破り、河陽・東都を落とし、
史朝義の将の
張献誠が汴州をもって降った。
十一月丁亥、
史朝義の将の
薛嵩が相州・衛州・洺州・邢州の四州をもって降った。丁酉、
史朝義の将の
張忠志が趙州・定州・深州・恒州・易州の五州をもって降った。己亥、朔方行営節度使の
僕固懐恩が朔方・河北副元帥となった。
十二月己酉、太府の左蔵庫が焼失した。戊辰、京城内外の野晒しとなっている骨を埋葬した。甲戌、
李光弼が
袁鼂と衢州で戦い、これを破った。
この年、舒州人
楊昭がそむき、その刺史の劉秋子を殺した。西原蛮が叛いた。吐蕃が秦州・成州・渭州の三州を寇した。
広徳元年(763)正月癸未、京兆尹の
劉晏が吏部尚書・同中書門下平章事となった。甲申、
史朝義が自殺し、その将
李懐仙が幽州をもって降り、
田承嗣が魏州をもって降った。壬寅、山陵使・山南東道節度使の
来瑱に罪があり、処刑された。
三月甲辰、山南東道兵馬使の
梁崇義が南陽から襄州に入った。丁未、
李光弼が
袁鼂と戦い、これを破った。辛酉、
至道大聖大明孝皇帝を泰陵に葬った。甲子、党項羌が同州を寇し、
郭子儀が黄堆山でこれを破った。庚午、
文明武徳大聖大宣孝皇帝を建陵に葬った。
六月、同華節度使の
李懐譲が自殺した。
七月壬寅、群臣が尊号をたてまつって宝応元聖文武孝皇帝といった。壬子、大赦し、改元した。民で租から逃げた者の旧債を免除し、戸三丁に庸・調を一免除した。河北を三年間免税とした。回紇が行軍・駐屯した地をこの年免税とした。内外の官に階・勲・爵を賜った。功臣に鉄券を賜り、名を記録して太廟に納め、肖像を描いて凌煙閣に納めた。吐蕃が隴右の諸州を陥落させた。
八月、
僕固懐恩がそむいた。
九月壬寅、
裴遵慶が
僕固懐恩を汾州で宣慰した。乙丑、涇州刺史の
高暉が叛いて吐蕃についた。
十月庚午、吐蕃が邠州を陥落させた。辛未、奉天・武功を寇し、京師は戒厳をしいた。壬申、雍王
李适が関内兵馬元帥となり、
郭子儀が副元帥となった。癸酉、渭北行営兵馬使の
呂日将が吐蕃と盩厔で戦い、これを破った。乙亥、また盩厔で戦い、敗れた。丙子、陜州にいった。丁丑、華陰に行った。豊王
李珙に罪があり、処刑された。戊寅、吐蕃が京師を陥落させ、広武郡王
李承宏を立てて皇帝とした。辛巳、陜州に行った。癸巳、吐蕃は潰え、
郭子儀が京師を奪回した。南山五谷の人の
高玉がそむいた。
十一月壬寅、広州市舶使の
呂太一がそむき、その節度使の張休を追放した。
十二月辛未、
劉晏に上都を宣慰させた。甲午、陜州から到着した。乙未、
苗晋卿・
裴遵慶が宰相を罷免された。検校礼部尚書
李峴を黄門侍郎・同中書門下平章事とした。丙申、
李承宏を華州に放逐した。吐蕃が松州・維州の二州を陥落させた。西原蛮が道州を陥落させた。
広徳二年(764)正月丙午、詔して御史・諌官・刺史・県令となり得る者を推挙させた。乙卯、雍王
李适を立てて皇太子とした。癸亥、
劉晏・
李峴が宰相を罷免された。右散騎常侍の
王縉を黄門侍郎、太常卿の
杜鴻漸を兵部侍郎・同中書門下平章事とした。
郭子儀に河東副元帥を兼任させた。
二月辛未、
僕固懐恩が朔方軍節度留後
渾釈之を殺した。癸酉、
太清宮で朝献した。甲戌、太廟で朝享した。乙亥、南郊で有司摂祭した。己丑、大赦した。内外の官に階・爵を賜った。武徳の功臣の子孫一人に官を賜った。成都・霊武で最小から従った三品以上の者に爵一級を、ほかは一階を加えた。宝応の功臣で三品以上の一子に官を賜い、爵一級を賜い、ほかは階・勲を二等加え、五品以上で父の後継となる者は勲を二等賜った。
三月辛丑、河南府を二年間免税とした。甲子、盛王
李琦が薨去した。
四月甲午、螺鈿で珠や翠をつくることを禁じた。
五月、洛水が氾濫した。
六月丁卯、汾州に星が落ちた。
七月庚子、初めて青苗を税とした。己酉、
李光弼が薨去した。
八月丙寅、
王縉が侍中となり、河南・淮南・山南東道節度行営事を都統した。壬申、
王縉が侍中を辞任した。癸巳、吐蕃が邠州を寇し、邠寧節度使の
白孝徳が宜禄でこれを破った。
九月己未、剣南節度使の
厳武が吐蕃と当狗城で戦い、これを破った。
この秋、蜮が出現した。
十月丙寅、吐蕃が邠州を寇した。丁卯、奉天を寇し、京師に戒厳をしいた。庚午、
厳武が吐蕃の塩川城を落とした。辛未、朔方兵馬使の
郭晞が吐蕃と邠西で戦い、これを破った。この月、突厥が豊州を寇し、守将の馬望がここに死んだ。
十一月乙未、吐蕃軍は潰え、京師は戒厳を解いた。河西節度使の
楊志烈が
僕固懐恩と霊州で戦い、敗れた。癸丑、
袁鼂が処刑された。越州のこの年の田租の半分を免除し、温・台・明の三州を一年間免税とした。
十二月乙丑、
高玉が処刑された。丙寅、多くの星が落ちた。
この年、西原蛮が邵州を陥落させた。
永泰元年(765)正月癸巳、大赦し、改元した。この月、歙州の人がその刺史の龐濬を殺した。
二月戊寅、党項羌が富平を寇した。庚辰、儀王
李璲が薨去した。
三月庚子、雨が木に氷をつけた。庚戌、吐蕃が和を請うた。辛亥、大風のため木が抜けた。
四月己巳、春より雨が降らなかったが、この日雨が降った。
この夏、盩厔で穭麦が生えた。
七月辛卯、平盧・淄青兵馬使の
李懐玉がその節度使の
侯希逸を追放した。
八月庚辰、
王縉が河南副元帥となった。
僕固懐恩が吐蕃・回紇・党項羌・渾・奴剌とともに辺境を寇した。
九月庚寅、百官に命じて浮屠の象を
光順門で見させた。辛卯、太白が天を通過した。甲辰、吐蕃が醴泉・奉天を寇し、党項羌が同州を寇し、渾・奴剌が盩厔を寇し、京師は戒厳をしいた。己酉、苑に駐屯し、
郭子儀は涇陽に駐屯した。丁巳、同華節度使の
周智光が吐蕃と澄城で戦い、これを破った。
周智光は鄜州に入り、その刺史の
張麟を殺し、そのまま坊州を焚いた。
十月、沙陀が
楊志烈を殺した。己未、吐蕃が邠州にいたり、回紇とともに辺境を寇した。辛酉、奉天を寇した。癸亥、同州を寇した。乙丑、興平を寇した。丁卯、回紇・党項羌が降伏を請うた。癸酉、
郭子儀が吐蕃と霊台で戦い、これを破った。京師は戒厳を解いた。
閏月辛卯、朔方副将の
李懐光が霊州を落とした。辛亥、剣南西山兵馬使
崔旰がそむき、成都を寇し、節度使の
郭英乂は霊池に逃れ、普州刺史の
韓澄がこれを殺した。癸丑、民財を納めて浮屠の供とした。
大暦元年(766)二月、吐蕃が遣使して来朝した。壬子、
杜鴻漸が山南西道・剣南東西川・邛南・西山等道副元帥となった。
三月癸未、剣南東川節度使の
張献誠が
崔旰と梓州で戦い、敗れた。
七月癸酉、洛水が氾濫した。
九月辛巳、吐蕃が原州を陥落させた。
十一月甲子、大赦し、改元し、流民で本業に戻る者を三年間免税とした。
十二月己亥、彗星が瓠瓜より出た。癸卯、
周智光がそむき、虢州刺史の
龐充を殺した。
この冬、雪がなかった。鄭王
李邈が天下兵馬元帥となった。
大暦二年(767)正月丁巳、
郭子儀が
周智光を討った。己未、同華の将の
李漢恵が同州をもって降った。甲子、
周智光が処刑された。淮西節度使の
李忠臣が華州に入った。戊寅、同州・華州の二州を二年間免税とした。
八月壬寅、駙馬都尉の
姜慶初を殺した。
九月甲寅、吐蕃が霊州を寇した。乙卯、邠州を寇した。
郭子儀が涇陽に駐屯し、京師は戒厳をしいた。乙丑、昼に星が南方に流れた。
この秋、桂州の山獠がそむいた。
十月戊寅、朔方軍節度使の
路嗣恭が吐蕃と霊州で戦い、これを破った。京師は戒厳を解いた。
十一月辛未、雨が木に氷をつけた。壬申、京師で地震があった。
大暦三年(768)二月癸巳、商州兵馬使の
劉洽がその刺史の
殷仲卿を殺した。
三月乙巳朔、日食があった。
五月乙卯、斉王
李倓を追号して皇帝とし、
興信公主の女の
張氏を皇后とした。癸亥、地震があった。
六月壬寅、幽州兵馬使の
朱希彩がその節度使の
李懐仙を殺して、留後を自称した。
閏月庚午、
王縉が幽州盧龍軍節度使を兼ねた。
七月壬申、瀘州刺史
楊子琳がそむき、成都を陷すと、剣南節度留後の
崔寛がこれを破り、成都を落とした。
楊子琳が夔州別駕の
張忠を殺した。戊寅、吐蕃が遣使して来朝した。
八月己酉、吐蕃が霊州を寇した。丁卯、邠州を寇し、京師は戒厳をしいた。戊辰、邠寧節度使の
馬璘が吐蕃と戦い、これを破った。庚午、
王縉が河東節度使を兼ねた。
九月丁丑、済王
李環が薨去した。壬午、吐蕃が霊州を寇し、朔方の将の
白元光がこれを破った。壬辰、またこれを霊武で破った。戊戌、京師は戒厳を解いた。
十二月辛酉、涇原兵馬使の
王童之が反乱を計画し、処刑された。
大暦四年(769)正月甲戌、潁州刺史の
李岵を殺した。
二月乙卯、
杜鴻漸が副元帥を罷免された。丙辰、京師で地震があった。
三月、御史を派遣して商銭を税とした。甲戌、京兆のこの年の税を免税とした。
五月丙戌、京師で地震があった。
六月戊申、
王縉が副元帥・都統を辞任した。
七月癸未、死罪を一等降して、流以下を釈放した。
十月丁巳、大霧。
十一月辛未、畿内の狩猟を禁じた。壬申、
杜鴻漸が宰相を罷免された。癸酉、
元載を知門下省事とした。甲戌、吐蕃が霊州に寇し、朔方軍節度留後の
常謙光がこれを破った。丙子、左僕射の
裴冕が同中書門下平章事となった。癸巳、
裴冕が河南・淮西・山南東道副元帥を兼ねた。
十二月戊戌、
裴冕が薨去した。
この年、広州の人の
馮崇道・桂州の人の
朱済時がそむき、容管経略使の
王翃がこれを破った。
大暦五年(770)正月辛卯、鳳翔節度使の
李抱玉が河西・隴右・山南西道副元帥となった。
三月癸酉、内侍監の
魚朝恩に罪があり、自殺した。丙戌、昭陵の皇堂に光があり、このため京兆・関輔で大赦した。
四月庚子、湖南兵馬使の
臧玠がその団練使の
崔灌を殺した。己未、彗星が五車に出現した。
五月己卯、彗星が北方に出現した。六月己未、彗星が消え去ったため、死罪は一等降し、流以下を釈放した。
魏徴・
王珪・
李靖・
李勣・
房玄齢・
杜如晦の後裔を録した。
この年、湖南の将の
王国良がそむき、西原蛮とともに州県を寇した。
大暦六年(771)二月壬寅、
李抱玉が山南西道副元帥を辞任した。
三月、
王翃が
梁崇牽を破り、容州を落とした。
四月戊寅、藍田の西原の地を陥落させた。大𦅘錦・竭鑿・六破錦および文紗・呉綾を龍・鳳凰・麒麟・天馬・辟邪とすることを禁止した。
五月戊申、殿中侍御史の
陸珽・成都府司録参軍事の
李少良・大理評事の
韋頌を殺した。
大暦七年(772)二月庚午、江州江が氾濫した。
五月乙酉、大雨雹、大風のため木が抜けた。乙未、旱害のために大赦し、膳を減らし、楽を止めた。
この秋、幽州盧龍の将の李懐瑗がその節度使の
朱希彩を殺し、経略軍副使の
朱泚が留後を自称した。
十月乙亥、淮南が旱のため、租・庸を三分の二免除した。
十一月庚辰、巴州・蓬州・渠州・集州・壁州・充州・通州・開州の八州を二年間租・庸を免除した。
十二月丙寅、土が天より降り、長星が参より出現した。
大暦八年(773)正月甲辰、詔して京官三品以上および郎官・御史に毎年刺史・県令を一人推挙させた。
五月辛卯、鄭王
李邈が薨去した。壬辰、京師で大赦した。癸卯、死罪を一等降し、流以下を釈放した。
八月己未、吐蕃が霊州を寇し、
郭子儀が七級渠でこれを破った。甲子、華州の屯田を廃して貧民に給した。
九月壬午、循州刺史の
哥舒晃がそむき、嶺南節度使の
呂崇賁を殺した。戊子、詔して京官五品以上・両省供奉官・郎官・御史に言上させた。
十月庚申、吐蕃が涇州・邠州を寇した。丙寅、朔方兵馬使の
渾瑊が吐蕃と宜禄で戦い、敗れた。涇原節度使の
馬璘が吐蕃と潘原で戦い、これを破った。
大暦九年(774)二月辛未、徐州の兵が乱を起こし、その刺史の梁乗を追放した。
四月壬辰、大赦した。
十月壬申、信王
李瑝が薨去した。乙亥、涼王
李璿が薨去した。壬辰、京師の死罪を一等降し、流以下を釈放した。
大暦十年(775)正月丁酉、昭義軍兵馬使の
裴志清がその節度使の
薛㟧を追放し、叛いて
田承嗣についた。壬寅、寿王
李瑁が薨去した。戊申、
田承嗣がそむいた。癸丑、
田承嗣が洺州を陥落させた。乙卯、剣南西川節度使の
崔寧が吐蕃と西山で戦い、これを破った。
二月乙丑、
田承嗣が衛州を陥落させ、刺史の
薛雄がここに死んだ。辛未、子の
李述を封じて睦王とし、
李逾を郴王とし、
李連を恩王とし、
李遘を鄜王とし、
李造を忻王とし、
李暹を韶王とし、
李運を嘉王とし、
李遇を端王とし、
李遹を循王とし、
李通を恭王とし、
李逵を原王とし、
李逸を雅王とした。丙子、河陽軍で乱が起こり、三城使の
常休明を追放した。
三月甲午、陜州軍で乱が起こり、その観察使の
李国清を追放した。
四月癸未、河東節度使の
薛兼訓らが
田承嗣を討った。昭義の五州を二年間免税とした。甲申、大雨雹、大風のため木が抜けた。
五月乙未、魏博の将の
霍栄国が礠州をもって降った。甲寅、大雨雹、大風のために木が抜け、闕門が震えた。
六月甲戌、成徳軍節度使の
李宝臣が
田承嗣と冀州で戦い、これを破った。
七月己未、杭州で津波があった。
八月己丑、
田承嗣が礠州を寇した。
九月壬寅、京師の死罪を一等降し、流以下を釈放した。壬子、吐蕃が臨涇を寇した。癸丑、隴州を寇した。丙辰、
李抱玉が義寧でこれを破った。丁巳、
馬璘がまた百里城でこれを破った。
十月辛酉朔、日食があった。甲子、昭義軍節度使の
李承昭が
田承嗣と清水で戦い、これを破った。丙寅、貴妃
独孤氏が薨去した。丁卯、追冊して皇后とした。
十一月丁酉、魏博の将の
呉希光が瀛州をもって降った。丁未、嶺南節度使の
路嗣恭が広州を落とし、
哥舒晃が処刑された。
大暦十一年(776)正月庚寅、
田承嗣が降った。辛亥、
崔寧が吐蕃と戦い、これを破った。
五月、汴宋都虞候の
李霊耀がそむき、濮州刺史の孟鑑を殺した。
七月庚寅、
田承嗣が滑州を寇し、永平軍節度使の
李勉が敗れた。
八月甲申、淮西節度使の
李忠臣と河陽三城使の
馬燧と
李勉が
李霊耀を討った。
閏月丁酉、太白(金星)が昼に見えた。
九月乙丑、
李忠臣と
馬燧が
李霊耀と鄭州で戦い、敗れた。
十月乙酉、中牟で戦い、これを破った。壬辰、
李忠臣はまた西梁固でこれを破った。壬寅、淮南節度使の
陳少游が
李霊耀と汴州で戦い、これを破った。丙午、
田承嗣が兵をもって
李霊耀を救援し、
李忠臣が匡城でこれを破った。甲寅、
李霊耀が処刑された。
大暦十二年(777)三月庚午、
田承嗣を赦した。辛巳、
元載に罪があって処刑された。
王縉を左遷して括州刺史とした。
四月壬午、太常卿の
楊綰が中書侍郎となり、礼部侍郎の
常袞が門下侍郎となり、ともに同中書門下平章事となった。癸巳、詔して諌官が意見封事を献上するのに期限を廃止し、側門にて論事する者は状に従って面奏させ、六品以上の官で言事を投書する者は添え書の記録を廃止した。丁酉、吐蕃が黎州・雅州の二州を寇し、
崔寧がこれを破った。この月、金州の人の
卓英璘がそむいた。
六月乙巳、
卓英璘が処刑された。金州を二年間免税とした。丁未、旱のため、京師の死罪を一等降し、流以下を釈放した。
七月己巳、
楊綰が薨去した。丙子、詔して尚書・御史大夫・左右丞・侍郎に刺史に任命すべき者を推挙させた。
九月庚午、吐蕃が坊州を寇した。
この秋、黄河が氾濫した。
十一月壬子、山南西道節度使の
張献恭が吐蕃と岷州で戦い、これを破った。
十二月丁亥、
崔寧が吐蕃と西山で戦い、これを破った。
この年、恒州・定州・趙州の三州で地震があった。冬、雪がなかった。
大暦十三年(778)正月戊辰、回紇が并州を寇した。癸酉、河東節度留後の
鮑防が回紇と陽曲で戦い、敗れた。
二月庚辰、代州刺史の
張光晟が回紇と羊虎谷で戦い、これを破った。
四月甲辰、吐蕃が霊州を寇し、
常謙光がこれを破った。
十月己丑、京畿で兵器を持って狩猟をおこなうのを禁じた。
この年、郴州の黄芩山が崩れた。
大暦十四年(779)二月癸未、魏博節度使の
田承嗣が亡くなり、その兄の子の
田悦が留後を自称した。
三月丁未、汴宋の将の
李希烈がその節度使の
李忠臣を追放し、留後を自称した。
五月辛酉、不豫となり、詔により
皇太子が監国した。この夕、
皇帝は
紫宸内殿で崩じ、年は五十三であった。
賛にいう、天宝の乱では、大賊が突如蜂起して、
天子は出奔した。まさにその時、
粛宗は皇太子として兵を統率して賊を討伐し、本当にその天職を得たというべきである。しかし
僖宗の時、唐の威徳は人にあり、綱紀はまだ崩れ去っていなかったが、天宝の時と比べてどうであろうか。しかし僖宗は蜀にあって、藩鎮らの兵を合力して、遂に
黄巣を破って京師を回復した。上記のことから言うならば、粛宗は尊位に即位していなかったが、まあ賊を破ることができたのだ。思うに
高祖より以来、三たび位を退いてその子に授けられたが、一人
睿宗のみ上は天戒を恐れて、誠心より発した。高祖・
玄宗のようにどうしてその志があろうか。
代宗の時、敵の勢力はまだあり、乱を平定して守成した。思うにまた中材の主であろう。
最終更新:2025年01月05日 00:38