韋丹 いたん
753-810
中唐の官人・藩鎮。字は文明。韋政の子。母は顔氏。京兆韋氏鄖公房の出身。
韋琨の曾孫。早くにに父を亡くし、外祖父の
顔真卿に学んだ。明経科・五経科に及第し、咸陽県尉、殿中侍御史に任じられた。貞元十五年(799)新羅王(元聖王)が薨去すると司封郎中となって弔問に向かったが、その前に新王(昭聖王)が薨去した。容州刺史、河南少尹、義成軍司馬、諌議大夫を歴任。
劉闢が叛くと、宰相が赦免の方向に傾いたが、強行に討伐を主張して受け入れられた。劉闢は梓州を包囲すると南東川節度使に任じられたが、現任者の
李康が防衛に尽力しているから変えるべきではないと上言した。晋慈隰州観察使となり、武陽郡公に封ぜられた。江南西道観察使となったが、告発され、審理前に卒した。子に
韋宙・
韋岫がいる。『新唐書』に伝がある。
列伝
外部リンク
最終更新:2025年05月16日 02:52