高表仁 こうひょうじん
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隋・初唐の官人。『新唐書』では「高仁表」と表記される。隋の宰相
高熲の三男。隋に仕えて大寧公主(廃太子楊勇の娘。
文帝の孫)を娶った。谷州刺史に任じられ、渤海郡公に封ぜられた。高熲が誣告されて宰相を罷免されて庶民に貶されたが、その誣告の一つに高表仁が父を司馬懿に擬えた発言をしたというものがあった。父が誅殺されると蜀郡に流された。唐代に新州刺史に任じられ、貞観五年(632)に倭国(日本)に使節として派遣され、同年八月に遣唐使として倭国から派遣された犬上三田耜とともに対馬に到着した。その行程は自ら「路は地獄の門を経て、親らその上を見れば気色蓊鬱たり。また呼叫鎚鍛の声を聞く。甚だ畏懼すべきなり」と述べるものであった。この時学問僧霊雲、僧旻、勝鳥養、新羅の送使が同道した。十月四日に難波津(大阪)に到着。倭国は大伴馬養を江口に迎えせ、船三十二艘に鼓や笛を演奏し、旗幟で飾り立てた。高表仁は日本の王子(蘇我入鹿ないしは山背大兄王といわれる)と礼を争ったため、朝命を宣することができず、翌年正月に吉士雄麻呂・黒麻呂に見送られて対馬を通じて帰国した。『旧唐書』では「綏遠の才なし」と評された。子に
高叡がいる。
列伝・史料
『新唐書』
巻二百二十 列伝第一百四十五 東夷 日本
『隋書』巻四十一 列伝第六 高熲
『旧唐書』巻一百八十七上 列伝第一百三十七上 忠義上 高叡
『旧唐書』巻一百九十九上 列伝第一百四十九上 東夷 倭国
『日本書紀』巻第二十三 舒明天皇四年八月条、同年十月甲寅条、同五年正月甲辰条
『唐会要』巻九十九 倭国
外部リンク
最終更新:2025年07月14日 01:26