楊堅
541-604
隋の初代皇帝(在位581-604)。3世紀以来の政治的分裂に終止符をうって、天下再統一を実現した。姓名は楊堅。諡は文皇帝。廟号は高祖。漢の太尉楊震の子孫で、弘農郡華陰(陝西省渭南県)の人と称するが、北族の血が流れているともいわれる。先祖は後燕・北魏に仕え、祖父楊元寿は、武川鎮司馬となり、神武郡樹頹(山西省楡次市)に住んだ。父楊忠は、北魏末の乱に南遷して西魏12大将軍の1人となった。母は呂氏。楊堅は西魏のとき,京兆尹功曹となり,父の勲により柱国・随国公に累進し、長女は太子(宣帝)妃となったが、北周諸帝に声望と人物を警戒されて保身に努めた。宣帝即位後外戚として朝政を後見したが、帝の暴政はますます楊堅の声価を高めた。帝が没すると、失脚を恐れ た鄭訳、劉昉らの側近は、楊堅を仮黄鍼・左大丞相におし あげて、これとむすんだ。この措置に不平な尉遅迥らを討平して地歩がかたまり、静帝の禅譲を受けて即位した。その政治は中央官制の整備、地方政治の改革、均田・租庸調制あるいは府兵制の体系化、ことに589年の南朝併合、595年の科挙創設など、貴族制の矛盾克服と中央集権強化に画期的な諸施策を講じた。新都大興城(長安付近)の造営、広通渠・山陽瀆諸運河の開さくなど土木事業にもみるべきものがあり、対外的には突厥の内部離間策に成功し、高句麗遠征も企てた。学問にはうとかったが、高熲、蘇威らの名臣を用いてみずからも政務に励み、節倹質朴を旨とし、賦税・刑罰の軽減に努めたので、国力は充実して、「開皇の治」と称される。しかし猜疑心も強く、君主権強化を急ぐあまりにしばしば高官を殺し、ついに
煬帝・
楊素一派の計略におちいって太子楊勇を廃し、諸王を罪して庶人におろした。死の直前非を悟って楊勇に後事を託そうとしたが果たさなかった。煬帝毒殺説も有力である。
年号
開皇 581-600
仁寿 601-604
后妃
文献皇后(独孤信の娘)
宣華夫人(陳宣帝の娘)
容華夫人蔡氏
子女
本紀
『隋書』巻一 帝紀第一
『隋書』巻二 帝紀第二
『北史』巻十一 隋本紀上第十一
参考文献
『アジア歴史事典7』(平凡社,1960年)
外部リンク
最終更新:2024年10月23日 21:45