国子監
長安の官衙で最高学府。
務本坊の西半分を占めた。美称を国学といい、『礼記』では辟雍と呼ばれたものを、晋の武帝が辟雍とは別に士庶教育のため国子学を建てたが、晋の南遷によって国子学のみ存続して辟雍を建てなかった。北斉の時に国子寺となり、隋の
煬帝の大業十三年(617)六月に国子監に改められた。唐の武徳年間(618-623)初頭、国子監を国子学として
太常寺に隷属させた。貞観二年(624)に再び国子監に戻した。龍朔二年(662)に国子監を司成館とし、祭酒を大司成とし、司業を少司成とした。咸亨元年(670)に再び国子監に戻した。垂拱元年に国子監を成均監に改めた。その長は祭酒で定員は一人、従三品の相当官である。司業は二人で従四品下の相当官である。丞は定員が一人で従六品下の相当官で、主簿の定員は一人で従七品下の相当官、録事は一人で従九品下の相当官である。他に府七人、史十三人、亭長六人、掌固八人がいる。儒学の訓導し、国子監・
太学・
広文館・四門・律・書・算の七学があった。儀礼の場でもあり、天子視学、皇太子歯冑と講義、釈奠、執経論議、奏京文武七品以上観礼が行われた。授経の際には『周易』・『尚書』・『周礼』・『儀礼』・『礼記』・『毛詩』・『春秋左氏伝』・『春秋公羊伝』・『春秋穀梁伝』がそれぞれ一経で、『孝経』・『論語』・『老子』を兼習した。
志・史料
外部リンク
最終更新:2025年12月14日 18:59