阿史那弥射 あしなみしゃ
?-662
西突厥の可汗(位657-662)。室点蜜可汗の五世の孫。もとは莫賀咄葉護(バガテュル・ヤブグ)であったが、貞観六年(632)に唐から奚利邲咄陸可汗(イルテベル・テュルク・カガン)の称号を授けられた。族兄の
阿史那歩真が自立して可汗になろうとしており、弥射の弟や甥二十人以上を謀殺し、そのため両者は険悪となった。貞観十三年(639)処月・処密の部落を率いて入朝し、右監門大将軍を授けられ、
太宗の高句麗征伐に従い、平襄県伯に封ぜられた。顕慶二年(657)右武衛大将軍となり、阿史那賀魯平定に参加。冊立されて興昔亡可汗兼右衛大将軍、崑陵都護となり、賀魯の五咄六部落を授けられた。龍朔二年(662)弥射・歩真は部族を率いて䫻海道大総管の
蘇海政に従って亀茲(クチャ)を討伐した。歩真は弥射の部落を併合を望み、蘇海政に謀反を誣告され、斬殺された。子に
阿史那元慶・
阿史那僕羅・
阿史那抜布がいる。『旧唐書』に伝がある。
列伝
『旧唐書』巻一百九十四下 列伝第一百四十四下 突厥下 阿史那弥射
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最終更新:2026年02月13日 01:32