李世民
599-649
唐第2代の皇帝(在位626-649)。姓名は李世民。諡ははじめ754(天宝13)年文武大聖大広孝皇帝。廟号は太宗。李氏は隴西の名門で、李世民は李淵(
高祖)の第2子。母は
太穆竇皇后。李世民は幼時からすぐれた資質をもって臨機果断、ようやく青年に達しようとしたころは、隋末の混乱期にあたっていた。この時期にさいし、父李淵は早くから恩徳をたてて人心をえ、太原留守として晋陽(山西省太原市)にあって、その地位を利用して晋陽方面の門閥、豪族、官吏らとむすんでいたが、李世民もまた財を投じて賓客、群盗、大侠を養い、父に勧めていわゆる義兵をおこさせ、腹心を派遣して突厥の兵力を借り、兄の
李建成、弟の
李元吉とともに軍を率いて関中に入り、618(武徳元)年父の即位とともに尚書令に任ぜられ、秦王に封ぜられた。李世民は尚書令として、また625(武徳8)年には中書令を兼ね、宰相として政務の実際に当たるとともに、元帥としてかくかくたる武勲をあげ、大いに名声を高めたが、そのため皇太子の李建成および巣王李元吉にねたまれ、626(武徳9)年彼らを長安宮城の北門である
玄武門で襲殺する事件をひき起こし、その結果、皇太子にたてられ、同年父に譲られて即位した。李世民すなわち太宗は、21才のとき父を助けて唐朝をたて、29才で即位し、翌年年号をたてて貞観と称し、628(貞観2)年
梁師都を倒して唐の統一を完成し、創業の主であるとともに守成の主であり、広く人材を求めて適材を適所におき、内は制度を整え、外は大いに領土をひろめて国威をはった。こうしてその治世23年間、社会が安定して唐朝の政治の基礎が確立し、年号によって貞観の治とよばれる盛世を現出した。太宗の政治は統一の完成にあり、その政策は門閥貴族に対しても向けられ、彼らを完全に唐朝の支配下におくように努めた。634(貞観8)年太宗が氏族志の編纂を命じ、それに南北朝以来の名門崔氏が第1流の家がらとなって唐室の上にあったので、怒ってその改修を命じ、唐室の李氏をその上におかせたのは、そうした政策のあらわれにほかならない。また太宗は文事の心得が深く、すでに秦王のとき、学問にすぐれた
杜如晦、
房玄齢、
孔穎達ら18人を選んで文学館学士を兼ねさせ、彼らを優遇して学問の友とし、
閻立本にその画像を描かせて「十八学士」といい、なお彼が皇太子のために書いたと伝えられる『帝範』4巻は、彼とその臣下との政治問答を記した『貞観政要』とともに、和漢の帝王学の良教科書とされている。しかし太宗は不世出の英主といわれる一面、
裴寂が晋陽宮の宮人を李淵に入侍させたのを暴露すると脅かして父に挙兵させたと伝えられること、李建成、李元吉を襲殺したばかりでなく、その子弟を殺して族籍から除いたこと、李元吉の妻を妃とし、また廬江王
李瑗(高祖の従父兄の子)の妃を左右に入侍させたことなどによって、後世の史家の不評をかっている。太宗には14子あり、そのうち長子の恒山王
李承乾、第4子の濮王
李泰、第9子の晋王李治の母は、
長孫无忌妹の
文徳長孫皇后、第3子の呉王
李恪の母は、隋の煬帝の娘の
楊妃であった。はじめ李承乾が皇太子にたてられたが、長じて素行がおさまらず、むほんを企てて廃された。そこで、太宗は濮王李泰を皇太子にたてようとしたが、当時、長孫无忌らを中心とする外戚勢力が強く、彼らは闇弱な晋王李治(
高宗)をたてて政権をにぎろうとして、李泰の立太子に反対した。ついで太宗は晋王李治の闇弱なのを憂い、英明で人望ある呉王李恪をたてようとしたが、長孫无忌らが強くこれに反対し、ついに太宗はやむをえず晋王李治の立太子を認めた。これは太宗の英明をもってしても、外戚勢力をいかんともしえなかったことを示すもので、この事実は、のちの唐の政治に大きな関係がある。陵名は
昭陵。
年号
貞観 627-649
子女
宰相
蕭瑀 626-627、630、635-636、643-646
陳叔達 626
封徳彝 626-627
宇文士及 626-627
高士廉 626-627、638-643、643-647
房玄齢 626-629、629-643、643-648
長孫无忌 627-628、645-649
杜淹 627-628
杜如晦 628-629、629
李靖 628-629、630-634
王珪 628-633
魏徴 629-632、632-638、638-642
温彦博 630-636、636-637
戴冑 630-633
侯君集 630-632、632-640、640-643
楊師道 636-639、639-643、645
劉洎 639-644、644-645
岑文本 642-644、644-645
李勣 643-649
張亮 643-646
馬周 644-648
褚遂良 644-647、648-649
許敬宗 645
高季輔 645
張行成 645
崔仁師 648
本紀
参考文献
『アジア歴史事典6』(平凡社,1960年)
外部リンク
最終更新:2025年02月14日 23:28