裴行立 はいこうりつ
774-820
中唐の官人。
裴伯言の子。裴汧の曾孫。
裴僑卿の玄孫。
裴守真の五世の孫。兵法を学び、鎮海軍節度使の
李錡の外甥であったから、李錡に仕えて密謀の多くを授けた。李錡が叛くとそれに従ったが、朝廷に内応して李錡を裏切り、李錡捕縛の功績によって沁州刺史に任じられ、衛尉少卿・河東県令・蘄州刺史を歴任した。元和八年(813年)安南都護、本管経略招討使となった。環王(チャンパー)の李楽山が王を廃位しようと援軍を要請したが、かえって杜英策を派遣して李楽山を斬った。桂管観察使となり、元和十一年(816)黄洞が叛くと攻撃したが、二年もの歳月を要し、二万を討ち取ったと偽りの報告を行った。安南都護
桂仲武、容管経略使
陽旻と共に、この方面の戦病死者が十人中八人に及び、莫大な戦費を費やしたため、世間の非難をあびた。元和十五年(820)桂仲武の後任の安南都護に任じられた。『新唐書』に伝がある。
列伝
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最終更新:2026年03月26日 23:09