唐書巻一百二十九
列伝第五十四
裴守真 子余 行立 崔沔 盧従愿 李朝隠 王丘 厳挺之 武 綬 澈
【裴守真伝】
裴守真は、絳州稷山県の人で、後魏の冀州刺史である裴叔業の六世の孫である。父の裴諲は、隋の大業年間(605-618)に淮安司戸参軍となる。郡人
楊琳・
田瓚らが反乱すると、人々を脅かした役人の多くが死んだが、ただ裴諲のみ仁愛であったから、賊はその部下が危害を加えることはないと約束し、護送されて郷里に戻った。
裴守真は早くに父を喪い、母も喪ったから、悲しみのあまり体をこわして肋骨が浮き出るほどであった。進士に貢挙され、六科に及第し、乾封県の尉に調任された。寡婦となった姉を養って非常に謹直であり、士はその礼法を推薦した。永淳年間(682-683)初頭、関中が旱魃となると、俸禄のすべてを姉と甥たちに奉り、妻と息子にはろくな食事すらあたらなかった。
太常博士を授けられた。裴守真は物腰が柔らかく、当時の人々から才能によって太常博士の官に相応しいと考えられた。
高宗が嵩山を封じようとすると、儒者たちに詔して牲を射る事について議論させた。裴守真は次のように奏上した。「古代では郊で天地を祀り、天子は自ら牲を射ました。漢の武帝は太山を封じた際に、侍中・儒者に射させ、帝は自ら射ませんでした。今は礼を調べてみますと、未明の十五刻、宰人は鸞刀(刀に鈴をつけた礼式用の刀)で供物を切り分け、夜明けの行事では、毛・血はすでに備わり、天子がやって来ると、玉を捧げて酌み献じるだけです。今、もし祭祀一日前に牲を射れば、それは早すぎ、日を過ぎれば、今度は遅くなってしまいます。漢も同じく天子が自ら射ませんでしたので、古代と現在は違っており、おそらく行なうことができないでしょう。」 この当時、「秦王破陣楽」「功成慶善楽」の二楽が演奏されて舞われると、
帝は常に立って視ており、曲が終わると座った。裴守真は付け加えて、「二舞は本当に祖先の大いなると徳をあらわしていますが、古代では天子は立って見ることはありません。天地自然が万物を作り育てることは伝えられましたが、鼓舞によって別に厳粛さを表す必要がありましょうか」と述べ、詔して裁可されたが、実行する前に帝は崩じ、大行の旧礼がなかったから、裴守真は博士の
韋叔夏・
輔抱素らと共に故事を調査・検討し、情にかなった文章をつくり、皆妥当であったから、当時の人々は礼儀を得たことに敬服した。
天授年間(690-692)、司府丞となり、詔獄の調査と視察を行い、多くを赦し、数十家族の命を救った。
武后の思し召しとあわず、京師から出されて汴州司馬となった。累進して成州刺史に遷ったが、政務は威厳につとめず、役人・民の双方から懐かれた。寧州に遷ったが、見送る者は数千人で、州の境を出てもなお止まなかった。長安年間(701-705)卒し、戸部尚書を追贈された。
【附、裴子余伝】
裴子余は継母に仕えて孝行によって有名となり、明経科に及第し、鄠県の尉に補任された。当時、同舎の
李朝隠・
程行諶は文法によって称えられ、裴子余は儒学によって名が顕れ、ある者は優劣を長史の陳崇業に尋ねると、「蘭と菊はそれぞれ香りが異なるが、どうして廃されることがあろうか」と答えた。
景龍年間(707-710)、左台監察御史となった。涇州・岐州に隋代の蕃戸の子孫が数千家あり、司農卿の
趙履温が奏上して、戸籍を奴婢とし、戸口の賜与への充当にするよう願った。裴子余は「官戸は恩によって蕃戸となったのだから、この子孫の身分を落として賎とすべきではない」と述べた。趙履温は
宗楚客の権勢に頼り、朝廷にて弁論したが、裴子余は反論して意見を曲げず、遂にその議論は退けられた。
開元年間(713-741)初頭、累進して冀州刺史に遷り、善政を行い、人々は称えて恩義を感じた。京師に入って
岐王府長史となった。卒し、諡を孝という。当時、
程行諶の諡は貞であった。中書令の
張説が「二諡であっても恥じることがない者が逝ってしまった」と嘆いた。裴子余は官職にあっては清廉で、家門は友愛に満ち、兄弟六人は、全員優れた志と行いで有名であったという。
【附、裴行立伝】
裴行立は、一度言ったことには二言がなかった。兵法を学んだ。母が亡くなると、血の涙を流してほとんど体を壊す寸前であった。軍功によって累進して沁州刺史を授けられ、衛尉少卿に遷った。陳情して民を治め、試しに一県を任命しお役に立ちたいと願ったから、河東県令に任じ、寛容と厳罰は時宜を得ていた。蘄州刺史によって安南経略使に遷った。環王国の叛人の李楽山がその主君を廃そうと謀し、やって来て援軍を乞うたが、裴行立は受けず、部将の杜英策に命じて討伐して斬り、妻子を帰したから、蛮人は喜び帰服した。杜英策および范廷芝は、二人とも渓洞(苗族)の豪族で、軍に隷属しており、他の経略使の多くは彼らを利用して、乱暴な統治を行っていた。裴行立は密かにその罪を把握しながらも、赦して役に立つようにし、そのため杜英策を得て死力を尽くさせることができた。范廷芝はかつて休暇をとったが、長らく戻らず、裴行立は召し出すと、「軍法では、期限をすぎた者は斬刑に処される。またこのようなことがあったら、お前は死ぬことになるぞ」と約束した。後に范廷芝が約束の期限がすぎると、裴行立は范廷芝を笞殺し、死体を范氏に返し、改めて優れた子弟を選んでその代わりとし、ここに威声は広く知れ渡った。桂管観察使に遷った。黄洞の賊が叛くと、裴行立は討伐して平定した。にわかに
桂仲武に代わって安南都護となった。功績を立てようと私利を図ったから、当時の人々から非難された。召還されたが、道中卒した。年四十七歳で、右散騎常侍を追贈された。
【崔沔伝】
崔沔は、字は善沖で、京兆長安県の人で、後周(北周)の隴州刺史の崔士約の四世の孫で、博陵から移った。純粋で謹んでは二言がなく、親に仕えて非常に孝行で、文章の才能があった。進士に及第した。賢良方正科に貢挙されて優秀な成績で及第したが、合格しなかった者が恨んで謗ったから、
武后は担当官署に勅して再試験させると、答えはますます巧みであったから、遂に首席となった。再び陸渾県の主簿に補任され、京師に入って吏部に調任されると、侍郎の
岑羲が「君は現在の郤詵(西晋の官人)だ」と嘆き、推薦によって左補闕となった。性格は穏やかで落ち着いており、態度は威厳があった。職務に就くと率直に話し、動揺することはなかった。
睿宗は召喚して中書舎人に任命したが、母が病のため東都を去るに忍びず、固辞して母に近侍することを求め、改めて上表して、陸渾県の尉の郭鄰、太楽丞の
封希顔、処士(平民)の李喜を自分の代わりにするよう願った。詔によって虞部郎中に改められ、にわかに検校御史中丞となった。太倉を開いて粟および苑囿(宮中動物園)の鳥獣を減らして貧窮する者に賑給するよう請願し、人々はその利を頼った。監察御史の宋宣遠は
盧懐慎と婚姻関係にあり、盧懐慎の権勢を恃んで法を曲げた。
姚崇の子の
姚彜は東都留司となり、賓客を通じて、賄賂を受け取っていた。崔沔は調査・弾劾しようとすると、姚崇・盧懐慎は当時宰相であり、一緒に崔薦に史才がるあることを申し上げ、著作郎に転任し、その権力を取りはたったのは、思うに調査・弾劾を憚ったのであろう。しばらくして、太子左庶子となった。母が亡くなると、弔問を家の前で承け、賓客は柩のある部屋に入らせなかった。ある人に向かって、「生きておられる時に親しく堂に入って謁することはなかったのに、どうして生き死によって礼を変えなければならないのか」と言った。中書令の
張説は何度も称賛した。服喪があけると、中書侍郎に遷った。
玄宗は仙州がしばしば刺史を失っているから、仙州を廃止しようとした。崔沔は舞陽を治所とし、舞陽は、樊噲の国(舞陽侯)であるから、改めて樊州とするよう願ったが、
帝は受け入れず、仙州はついに廃止された。崔沔は得失を議論するのを好み、ある人が「中書は宰相の制を受け、侍郎はこれに次ぐとはいえ、名ばかりの存在です」と言うと、崔沔は、「百官は職が分かれ、上下は互いに支え合い、優れた政治を行なうものです。どうして卑屈に首を俯かせて禄を懐に言えるようなことができましょうか」と答えた。概ね詔勅や官務に、多くの異議を唱え、
張説の不興を買い、京師から出されて魏州刺史となった。洪水によって不作になると、崔沔は禁制を緩和して人々の便宜をはかった。京師に召還された。分担共同で十銓(十名の選考官)に関する事を取り仕切り、左散騎常侍によって
集賢修撰となり、秘書監、太子賓客を歴任した。
この当時、
太常寺は宗廟に籩(高坏)・豆(高坏形の青銅盛器)を加え、また喪服を増やそうと議論し、ここに太常卿の
韋縚は座して、籩・豆を増やして十二とし、外祖父の服喪は大功(粗く織った布の喪服での服喪で、期間は九カ月)、舅は小功(織り目の細かな麻布の喪服での服喪で、期間は五カ月)、堂姨(母の姉妹)もしくは舅、舅の母は袒免(左肩をぬぎ、冠をとる喪中の服装)とするよう願った。崔沔は以下のように述べた。「祭祀は最も上に位置づけられます。古代では、飲食する場合は、必ず先に荘厳な供え物を捧げました。火を使う前に、毛・血のお供えをしました。発酵させる前に、玄酒(酒の代用とする水)を捧げました。後世の王になると、酒をつくり、犧牲を用い、そのため三牲・八簋・五斉・九献がありました。しかし神は崇高を尊びますので、あるかどうかは計り知れません。祭主は敬い、準備すべきであっても節制はあるのです。鉶(蓋付き鼎)・俎・籩(高坏)・豆(高坏形の青銅盛器)・簠(穀物を盛る方形の祭食器)・簋(脚付きの青銅蓋物)・尊・樽は周の人の古祭器で、宴会や客をもてなす際に用いられました。周公は毛・血・玄酒と一緒に先祖にお供えしました。晋の中郎の盧諶(後趙・冉魏の大臣)の家の祭りでは、すべて晋の常食であり、古代の食のみを用いた訳ではありません。このことは聖賢が文を変えて当時の実情に通じていたことを意味します。しかし当時の飲食は祭祀に欠かすべきではなかったことは明らかです。唐の清廟の四季の享(まつ)りでは、供物は周の法でした。古代の物は今もあるのです。園寝に食を奉り、旬の膳を並べるのは、漢の法です。職貢が祭りを助けるのに、遠方の物をお供えしました。新たなものがあれば必ずお供えするのは、季節の祭りに従っているのです。牧場には自ら収穫物が入っており、狩猟では自ら射て当たったものを用い、お供えしてから食べ、誠を尽くして民を敬うのです。このようであれば、これ以上付け加える必要がありません。珍味や珍しい食べ物はすべて、勅令に記して適切に供えるべきであり、籩(高坏)・豆(高坏形の青銅盛器)の数を加える必要はありません。大羹(煮ただけの肉汁)は、古代のお供え物で、古祭器に盛り付けます。和羹(肉や野菜を混ぜたスープ)は季節のお供え物で、盛り付けるのに季節の器を用います。盤(たらい)に毛・血を、尊に玄酒を盛り付けます。季節のお供えを奉るのに古代の器を用いた例はなく、古代の簡素さと現在の洗練さは相容れないのです。そのため籩(高坏)・豆(高坏形の青銅盛器)を加えたとしても、天下の美を尽くすには足りず、諸廟に安置しても、徒らに奢侈をしているだけなのです。魯が桓公の廟の柱を朱色に塗り、椽に彫刻を施したのを、『春秋』は非難しています(『春秋左氏伝』荘公二十三年・二十四年伝)。班固が「墨家者流は、清廟の守から出たもので、この廟で質素倹約を貴ぶ(『漢書』芸文志)」と述べているよう、清廟は奢侈を貴ばないのは旧例です。
太常寺が要請するところは、臣は安心できません。」
また
太常寺が「爵が小さければ不適合で、取り持つのは困難である」と申し上げると、崔沔は、「『礼』に「物の数が少ないのを上級の礼とする場合がある(『礼記』礼器)」とあり、「爵を献じ(『礼記』礼器)」とあるのがこれです。しかし今、制に達しないのは、非礼であり、担当官署の無知の結果です。誤りが生じ次第、制を適宜行なうべきで、議論を待たずして改まるというのです」と答えた。また次のように申し上げた。「礼の根本は家を正しくすることで、「家を正しくしてこそ、天下もきちんと治まるのである(『易経』家人)」と言います。家はそれに背くわけにはいかず、そのため父は尊崇され、母の喪の期間は減らされます。これによって家の中では斉(母のための喪服)・斬(父のための喪服)を着用しますが、外では緦麻(高祖父母、妻の父母のために三か月の最も軽い喪)を着用し、名を尊んで加えられるのは、一等も過ぎず、現在と古代の変わらない道なのです。昔、辛有が伊川に行き、髪を振り乱して野外で祭っている人々を見て、そこが戎の地となり、礼が早くも失われようとするのを知りました。この頃、『唐礼(大唐開元礼)』を制定し、広く舅の恩を推し、そのため道が広まっていくと、国の天命は再び外姓に遷り、本来の礼は失われてしまいます。戒めとすべきではないでしょうか。」 当時、職方郎中の
韋述、戸部郎中の
陽伯成、礼部員外郎の
楊仲昌、監門兵曹参軍の
劉秩らが議論して崔沔と協議し、また中書門下に詔して審議に参加させ、ここに宗廟の籩(高坏)・豆(高坏形の青銅盛器)の設置はそれぞれ六つずつで、姨もしくは舅は小功(織り目の細かな麻布の喪服での服喪で、期間は五カ月)、舅母は緦麻(高祖父母、妻の父母のために三か月の最も軽い喪)、堂姨は袒免(左肩をぬぎ、冠をとる喪中の服装)とし、他は旧制の通りとした。
朝廷で疑議がおこるたびに、皆が最善の助言を求めた。卒した時、年六十七歳で、礼部尚書を追贈され、諡を孝という。崔沔は質素倹約で自制心が強く、俸禄を宗族に分け与え、自分の邸宅の管理をしなかった。かつて「陋室銘」をつくり、そこに彼の志が垣間見える。子の
崔祐甫は宰相にまで到り、別に
伝がある。
【
盧従愿伝】
盧従愿は、字は子龔である。六世の祖の盧昶は、後魏(北魏)に仕えて度支尚書となり、范陽から臨漳に遷り、そのため盧従愿は臨漳の人となった。明経科に及第し、夏県の尉となった。また制科の挙人となり、優秀な成績で及第し、右拾遺を拝命し、監察御史に遷り、山南黜陟巡撫使となり、戻って奏上するとお褒めの言葉を賜り、累進して中書舎人となった。
睿宗が即位すると、吏部侍郎を拝命した。吏部の
銓選は、
中宗の時代の後に綱紀は浪費されたが、盧従愿は職務に精力となり、偽文書や不正を、余すこと無く摘発し、
銓選を統べること六年、公平で適切として有名となった。
帝は優れた人物だと思い、特別に盧従愿の子一人に官を授けた。盧従愿は父の盧敬一を追贈して鄭州長史とするよう請願し、制書によって裁可された。それより以前、
高宗の時、吏部にあって職によって称えられた者に
裴行倹・
馬載がいたが、ここにおよんで盧従愿は
李朝隠と共に有名となり、そのため「前に裴・馬あり、後に盧・李あり」と称された。
開元四年(714)、
玄宗はすべての県令を召集して朝廷にて政治上の意見を提出させ、考課が下であった者は罷免した。盧従愿は官僚の選抜を誤ったことを罪とされ、降格されて豫州刺史に遷った。政務は厳格かつ簡便で、考課を奏上されて天下第一となり、宝書(璽書)によって慰労され、絹百匹を賜った。京師に召されて工部侍郎となり、尚書左丞、中書侍郎に遷り、工部尚書として留守東都となり、
韋抗に代わって刑部尚書となった。しばしば校考使に任命され、昇格・降格は詳細かつ的確であった。
御史中丞の
宇文融が政務を掌握しようとしている中、括田戸の功によって考課を上下しようとしたが、盧従愿は許可せず、宇文融は恨み、そこで密かに「盧従愿は盛んに殖産を行い、良田数百頃を占拠しています」と申し上げたから、
帝はこれより軽んじるようになり、見るたびに「あいつは多田翁だ」と言った。後に起用して宰相としようとしたことは何度もあったが、ついに沙汰止みとなった。開元十八年(730)、再び東都留守となったが、子の起居郎の
盧論が、官が
輸糴する際に利の多くを取ったことに連座し、絳州刺史に貶され、そこから太子賓客に遷った。開元二十年(732)、河北が飢饉となると、詔して宣撫処置使となり、倉庫を開いて飢えた民に賑給した。宣撫処置使としての任務を終えて帰還すると、骸骨(辞職)を乞い、吏部尚書を授けられて致仕し、全俸禄を終身給付された。卒すると、益州大都督を追贈され、諡を文という。
【李朝隠伝】
李朝隠は、字は光国で、京兆三原県の人である。明法科に及第し、臨汾県の尉に調任され、抜擢されて大理丞となった。
武三思が五王(
崔玄暐・
張柬之・
敬暉・
桓彦範・
袁恕己)と対立すると、侍御史の
鄭愔が五王の誅殺を要請したが、李朝隠のみは「真相を調査しないのに、軽々しく法律を適用すべきではない」と述べ、思し召しに背いたから、嶺南の痩せた土地に貶された。宰相の
韋巨源・
李嶠が
中宗に「李朝隠はもとより清廉・正直な人間で、突然遠くに放逐すれば、天下を驚かせてしまうのではないでしょうか」と申し上げから、
帝は改めて聞喜県令とした。
侍御史、吏部員外郎に遷った。当時、政治は皇帝に寵遇されて権力を持った人物の手に握られ、両省の関与なく内々に官を授け、ただ
斜封してその任命状を中書省に送付し、そこで担当官署に宣り給った。李朝隠は千四百人を罷免したから、怨みや誹謗や騒動を引き起こしたが、李朝隠はゆったりとして屈んで避けるようなことはなかった。長安県令に遷り、宦官の
閭興貴が個人的な利益を要請してきたが、引きずって追い出した。
睿宗は賛美感歎し、後に
承天門に御して、百官および朝集使に向かって李朝隠の能力を褒め諭し、全員に聞かせた。太中大夫一階に進み、中の上の考課、絹百匹を賜り、これによって貞烈さを表彰した。
成安公主が民の園を奪い、対価を支払わなかったから、李朝隠は公主の奴を捕らえて杖刑にし、これによって権力者や豪族は服従した。宰相に陥れられ、京師から出されて通州都督となり、絳州刺史に遷った。開元年間(713-741)初頭、吏部侍郎に遷り、
銓選における洞察力で知られ、
盧従愿と二人とも一子に官を授けられた。しばらくして、県令に政治上の意見を提出させ、考課が下であった者がいたから、担当していた李朝隠は滑州刺史に降格され、同州に遷された。
玄宗が東に行幸すると、召見されて慰労され、衣・帛を賜った。河南尹に抜擢されると、政務は厳粛かつ清廉で、悪者は休む暇もなかった。太子の舅の
趙常奴は権勢をたのんで村中で横暴を働くと、李朝隠は、「こいつを捕まえなければ政治のためにならん」と言い、捕らえて鞭打って辱め、
帝は書簡を賜って慰め励ました。
京師に入って大理卿となった。武彊県令の
裴景仙が賄賂として絹五千匹を求め、発覚して逃亡。
帝は怒り、詔して殺そうとした。李朝隠は、「裴景仙は、その先祖は
裴寂で建国の功績がありました。載初年間(689-690)に家は酷吏に滅ぼされ、皆殺しにされほぼ絶滅しましたが、裴景仙一人生き残り、また嫡子として継承しているので、法によって許されるべきです。また賄賂を求めるのは死罪に相当する罪ではありません。もし死罪となるべき罪であったとしても、それでも許されるべきです。私廟の祀りに供えを絶やして魂を飢えさせることがないようにするのがよいのです」と述べたが、帝は許さなかったから、「生殺与奪の権柄は帝王にありますが、条文ごとの罪の軽重は、担当官吏が守るべきものです。またただ賄賂のみで法を曲げて死罪に相当させた場合、今賄賂を求めただけで斬刑とするだから、後に法を曲げる者あった場合、またどうのような罪を加えるのでしょうか。また最近は徳音(赦令)を発せられて、杖刑の者は罪を減ずることを赦され、流罪の者も道中の給付を受けることのなりましたが、どうして裴景仙一人だけが常法よりも過酷なのでしょうか」と強く請願すると、詔によって杖百に決し、嶺南に流された。
李朝隠は改めて岐州刺史を授けられたが、母の喪によって解官した。召還されて揚州大都督府長史となったが固辞し、聴された。当時、年老いて衰えたが、孝に篤く、自ら喪に服して身が衰え、士人はこのことは自分たちではなし難いことだと思った。翌年、詔書によってあつく揚州に派遣されて職についた。戻って大理卿となり、金城伯に封ぜられ、
崔隠甫に代わって御史大夫となった。天下は李朝隠の声望によって、大夫の欠を埋めるのに、李朝隠が可能であると期待した。職務につくと、争わずに大礼を引用し、ただ細々とした仕事を優先しただけであったから、これによって名声はやや衰えた。太常卿に昇進し、京師から出されて嶺南采訪処置使、兼判広州となった。在官中に卒し、吏部尚書を追贈され、槥車(葬送用の車)を官給されて北に還った。諡を貞という。
【王丘伝】
王丘は、字は仲山で、
王同皎の従子である。父の王同晊は、太子左庶子で終わった。王丘は十一歳で童子科に選ばれ、他の童子が全員経書を専らにしているにも関わらず、ただ一人文章を良くしたから、これによって有名となった。成人となると、制科に貢挙されて及第し、奉礼郎を授けられた。清廉さと古風な風格を備え、高潔で純粋な行いをし、詞賦に最も優れた。族人の
王方慶および
魏元忠は改めて推薦し、偃師県の主簿から監察御史に抜擢された。
開元年間(713-741)初頭、考功員外郎に遷った。考功(人事考課)は以前、権力者への請願が多く、昇進する者はなりすましで、毎年数百人に及んだ。王丘は実際の才能によって、登科させた者はわずか百人過ぎず、議論する者は
武后からここ数十年に到るまで、採用に真心がある者で王丘に比類する者はいないと述べた。その後
席豫・
厳挺之が同じように称えられたが、しかし王丘を超えることはなかった。紫微舎人、吏部侍郎に遷り、
銓選を掌り、また公平で適切であると称えられた。推薦して用いられた者に山陰県の尉の
孫逖、桃林県の尉の張鏡微、湖城県の尉の張晋明、進士の王泠然は、全員当時最も秀でたとされた。しばらくして黄門侍郎となった。
当時、山東が旱魃と飢饉になり、朝廷の臣を刺史とするよう意見する者がいた。そこで詔して、「「臯陶」に「肝心な点は人の能力を正確に判断して任用することと、人民の心を安定させることにあります(『書経』虞書 臯陶謨)」とあるのは、すべて国家の基本を大切に思い、朝に勤勉に働き夜に反省し、一日も忘れることはないことをいうのである。今長吏ではある者はそれに値しなければ、民衆は何と思うだろうか。深く素直でよい性質を思い、頽廃を改めるには、刺史の選を重んじるべきであり、それは朝廷から始めなければならない」と述べ、そこで王丘と中書侍郎の
崔沔らを二人とも山東の刺史とした。王丘は懐州を治め、最も清廉かつ厳粛で、部下に畏れ慕われた。京師に入って吏部の選となり、尚書左丞に改められたが、父の喪によって解官した。服喪があけると、右散騎常侍となり、知制誥となった。
裴光庭が卒すると、
蕭嵩は王丘と親しかったから、引き立てて共に宰相にしようとしたが、王丘は固辞し、盛んに
韓休が優れた能力があると推薦し、そこで韓休が宰相となり、推薦によって御史大夫となった。王丘は発言にどもりがあり、奏上したことの多くは
帝の不興を買ったから、太子賓客に改められ、父の封を襲封した。病によって礼部尚書に遷り、致仕した。
王丘は要職を歴任しながら、清廉・倹約を守り、贈り物・賄賂を受け取ったことがなく、家の騎馬の童僮はみすぼらしく、年老いると薬代も自ら払うことができなかった。
帝はこのことを嘆いて、古人のような節義があると言って、制書を下して全俸給を給付して清らかな官吏に示した。天宝二年(743)卒し、荊州大都督を追贈され、諡を文という。
【厳挺之伝】
厳挺之は、名は浚で、字によって世間に通行し、華州華陰県の人である。若くして学問を好み、姿や資質は高く秀でた。進士に及第し、制科に挙され、義興県の尉に調任され、官吏の才能があると称えられた。
姚崇が州刺史となると、厳挺之を優れた人物だと思った。姚崇が宰相になると、引き立てられて右拾遺となった。
睿宗は音楽を好み、聴くたびに疲れを忘れた。先天二年(713)正月望夜、胡人の婆陀が百千燈を燃やすことを願い、そこで門の禁例を緩め、また追って先天元年(712)の宴会を追って賜った。
帝は
延喜門・
安福門に御して気ままに見物し、昼夜休まず、一月しても止まなかった。厳挺之は上疏して諌め、次のように述べた。「宴会は、人々が利益のために、共に喜びを分かち合うためのもので、浪費や疲弊させるためではありません。今、衣冠を人目にさらし、伎楽を並べ、鄭・衛といった淫靡な音楽を鳴らし、役者や俳優の娯楽を気ままにし、戒めや慎しみをせず、役人によりかからせ、下人は大変な仕事をやめ、府県の中の門で苛烈で厳しい賦税を課すようになる。人々は道路で嘆き悲しみ、家財を荒らし、百もの多くの娯楽に興じ、春の業を乱しています。楽しみと共有したいと願っていますが、かえって災いを残しているのです。」 そこで五つの不可の事を述べ、誠意をもって忠義が届いたから、帝は受け入れた。
侍御史の
任正名は風紀をたのみ、宮中で衣冠を責め罵ったから、厳挺之はその不敬を責めたが、かえって弾劾され、万州員外参軍事に貶された。開元年間(713-741)、考功員外郎となり、累進して給事中となり、貢挙を掌り、当時、公平で適切であると称えられた。ちょうど
杜暹・
李元紘が宰相となったが、互いに仲が悪かった。杜暹は厳挺之と親しく、李元紘は
宋遥と親しく、登用して中書舎人となった。宋遥は吏部の判断を検査したところ、厳挺之の選任とは異なっていたから、李元紘に申し上げ、李元紘はしばしば詰問した。厳挺之は言葉を荒げて、「公は宰相の位にありながら、愛憎によってかえって小人を任じておられるのか」と言うと、李元紘は、「小人とは誰のことか」と言い、厳挺之は「宋遥です」と答えたから、京師から出されて登州刺史となり、太原少尹に改められた。
それより以前、殿中監の
王毛仲は持節して太原朔方にあたって兵馬をかり、後に何年もして、そこで太原に移して兵器を取ろうとしたが、厳挺之は応じることをよしとしなかった。さらに王毛仲が
皇帝の寵遇を得ていて、しばらくしてから変事があるのではないかと恐れ、密かに
帝に申し上げた。にわかに濮・汴二州の刺史に改められ、統治はいずれも厳粛かつ威厳があり、役人は恐れて行動を起こさずに息を潜めた。ちょうど王毛仲が失脚して死ぬと、帝は厳挺之の発言が忠であったから、京師に召して刑部侍郎とし、太府卿に遷った。
宰相の
張九齢は常に厳挺之のことを知っており、登用して尚書左丞とし、吏部の選を司らせた。
李林甫が張九齢と同じく宰相になると、張九齢が君主の寵愛を得ていたから、諂って張九齢に仕えたが、内心ではよく思っていなかった。戸部侍郎の
蕭炅は、李林甫に引き立てられたが、書を知らず、かつてかつて厳挺之と共に申し上げた際に、「蒸(冬の祭り)・嘗(秋の祭り)・伏(夏の祭り)・臘(冬の祭り)」を言うべきところを、「伏獵」と言った。厳挺之は張九齢に「省中に伏獵侍郎がいるのなんて」と言ったから、そこで蕭炅を京師から出して岐州刺史としたから、李林甫は厳挺之を恨んだ。張九齢は引き立てて宰相にしたいと思い、李林甫のもとに訪ねさせようとしたが、厳挺之は自分が正しいと自負し、李林甫の人となりを賎しいとし、約三年、公事以外では訪れなかったから、李林甫はますます怨んだ。ちょうど厳挺之が蔚州刺史の
王元琰にかこつけて、李林甫は人にその発言を禁中で暴き、降格させて洺州刺史とし、絳州に移した。
天宝年間(742-756)初頭、
帝は李林甫に向かって、「厳挺之はどうしているか。あいつは才能があるから用いなくてはならない」と言い、李林甫は退いてその弟の厳損之を呼び寄せて一緒に昔の事を語りあい、とくと心から訴え、またよい役職に任命した。そこで、「天子は絳州を大事に思っていらっしゃる。この機会に故郷に帰り、お上の謁見を賜れば、高位の官職が得られるだろう」と言い、そこで偽って厳挺之に病と称させ、京師で医者につくことを願い出た。李林甫は奏上文を得ると、そこで厳言挺が年老いて、病気となっているから、幸にも閑職の官で自ら療養できるとした。帝は長いこと残念に思い、そこで員外詹事に任じ、詔して東都に帰した。厳挺之は鬱々として病気となり、自ら文をつくって墓誌とし、薄葬を遺令し、時服を副葬品とした。
厳挺之は友情を重んじ、生死違わぬ交際を許し、亡き友人の孤児の娘数十人を嫁がせたから、当時の人々に重んじられた。しかし志を仏教に溺れ、僧
恵義と親しく、恵義が卒すると、衰服でその葬列を送り、後に自らをその塔の左に葬ったから、君子はおかしなことだと思った。子に
厳武がいる。
【附、厳武伝】
厳武は、字は季鷹である。幼くして豪気で率直であった。母の裴氏は
厳挺之の要求に応じなかったから、ただその妾の英氏だけを寵愛した。厳武が八歳になると、怪んで母に尋ねると、母がその理由を語った。厳武は奮然として鉄槌で英氏の寝所に行き、その頭を打ち砕いた。周囲の人々が驚いて厳挺之に「坊っちゃんが戯れに英氏を殺しました」と伝え、厳武は「どうして大臣たる者が妾を寵愛して妻を疎んじるようなことがあろうか。私はだから殺したのだ。戯れなどではない」と言ったから、父は驚いて、「真に厳挺の子だ」と言った。しかししばしば戒めた。厳武は読書してもその奥義を究めず、蔭位によって太原府参軍事に調任され、累進して殿中侍御史となった。
玄宗が蜀に入るのに従い、諌議大夫に抜擢された。至徳年間(756-758)初頭、
粛宗の行在に赴き、
房琯が
名臣の子であるから、推薦して給事中となった。長安が回復すると、京兆少尹を拝命した。房琯の事に連座して巴州刺史に貶された。しばらくして東川節度使に遷った。
上皇が剣南を合わせて一道とすると、厳武を成都尹、剣南節度使に抜擢した。戻ると京兆尹を拝命し、二聖山陵橋道使となり、鄭国公に封ぜられた。黄門侍郎に遷った。
元載とあつく互いに結びついたが、宰相の座を求めて得られず、剣南節度使に戻った。吐藩の七万の軍を当狗城で破り、遂に塩川を回復した。検校吏部尚書を加えられた。
厳武は蜀にあっては非常に奔放かつ気まま勝手にし、技芸にはおしみなく、あるいは一言の楽しみに、賞として百万を与えた。蜀は富裕で知られていたが、税の取り立ては厳しく、村の門の中は空となっていたが、しかし敵もまたあえて境に近づかなかった。梓州刺史の
章彝は始め厳武の判官となったが、ささいな怒りのために殺された。
房琯は元宰相であったから巡内刺史となったが、厳武は傲慢で軽蔑して礼をなさなかった。最も
杜甫を厚遇したが、しかし杜甫を殺そうとしたことはしばしばであった。
李白が「蜀道難」をつくったのは、房琯と杜甫が危うかったからである。永泰年間初頭(765)に卒すると、母は哭したが、また「これから私は官婢となることを免れたことがわかったよ」と言った。年四十歳で、尚書左僕射を追贈された。
【附、厳綬伝】
厳挺之の従孫に
厳綬がいる。厳綬の父の厳丹は、かつて剣南塩鉄、青苗、租庸使となったが、
厳武が蜀にいたから、辞退して拝命しなかった。厳綬は進士に及第し、侍御史となり、
劉賛の宣歙団練使を補佐した。劉賛が卒すると、厳綬は留事となり、すべての庫物を献上し、召還されて刑部員外郎となった。賓佐の進奉は厳綬から始まった。
河東節度使の
李説が病となると、軍司馬の
鄭儋が河東の政務を統轄した。李説が卒すると、代わって節度使となった。当時、
徳宗は一時しのぎにつとめ、方鎮で軍帥が死ねば、他の人間を任命せず、軍司馬を用いて代わりとし、これによって軍の感情を宥めていた。ここに至って、
帝は厳綬の献策を思い出し、そこで抜擢して河東司馬とした。翌年、鄭儋が卒すると、そこで検校工部尚書とし、節度使に代わらせた。
憲宗が即位すると、
楊恵琳が夏州で叛き、
劉闢が蜀で叛くと、厳綬は建言して、「天子は即位したばかりなので、権威を失ってはなりません。必ず誅殺してください」と述べ、精兵を選び、大将の
李光顔を派遣して賊の討伐を助けた。二賊が平定されると、検校尚書左僕射となり、扶風郡公に封ぜられ、司空に昇進した。鎮にあること九年、寛容を貴び、治世が優れていると広く称賛され、兵士や馬は増加した。かつて大閲兵式を行なうと、軍旗は七十里をめぐり、回鶻の梅録将軍がちょうど出席し、金鼓の音を聞いて震えあがって伏せた。京師に入って尚書右僕射となった。
厳綬はすでに名門で、事務については優れた能力があったが、しかしせっかちであったことは、人々が疎んじることとなった。始め廊下食にあって、百官の上にあったが、帝は宦官に桜桃を賜わせたが、厳綬は宦官に拝礼したから、御史に劾奏され、厳綬は恥じ恐れて罪を待った。詔して厳綬を許して宦官を貶した。京師から出されて荊南節度使となり、鄭国公に封ぜられた。
漵州の蛮である
張伯靖が役人を殺し、辰州・錦州を根拠とし、九洞を連ねて自らを固めた。詔があって厳綬を討伐に進発させた。厳綬は兵を集めて出撃し、将軍を派遣して開戦日時を檄文とし、蛮たちはことごとく降伏した。
呉元済が叛くと、皆が厳綬が大事に対することができると認めたから、そこで山南東道節度使に遷り、淮西招撫使を加えられた。厳綬は軍を率いて賊との境を威圧し、多くの金帛を兵士に与え、宦官にあつく賄賂を贈り、支持を招いたが、賊を制圧できず、屯所を閉ざして一年も戦わなかった。宰相の
裴度が厳綬に将の才がないと上奏し、太子少保によって京師から召還され、検校司徒、判光禄卿事となり、少傅に昇進した。卒した時、年七十七歳で、太保を追贈された。
厳綬の才能は平凡であったが、三鎮を歴任し、厳綬が辟署した者のうち将軍や宰相となった者が九人いた。それより以前、厳綬が有名となる以前、闅郷県の尉の李達のもとを通過したが、李達は礼遇せず、食事時に他の客をもてなし、厳綬は呼ばなかった。後に李達が彭城県令を罷免され、并州を通過すると、朝に入って謁したが、厳綬の事がわからなかった。厳綬は大宴会で賓客の前に、李達を呼びつけると、客に立ち上がらないよう指示し、「私が昔闅郷県を旅した時、君は客を呼んで食べさせたが私を無視した。今、私は客を呼んで君を留めるわけにはいかない」と責め、李達は恥じ入ったが、去ることができず、左右の者が引き出し、衝撃で口がきけず、宿館に臥せること数カ月、佐の
令狐楚の嘆願によって釈放された。
【附、厳澈伝】
河東の
李進賢は、牧畜をよくし、家は豊かで、
厳綬の寵遇を得て、牙門将に任じられた。元和年間(806-820)、李進賢は累進して振武節度使となり、厳綬の子の
厳澈を
辟署して判官とした。厳澈は年少であったが、統治は苛酷で、軍中は苦められた。回鶻が鷿鵜泉に侵入すると、李進賢は兵を発して討伐したが、役人が兵糧を適切にしておらず、鳴砂に行くと、その将の
楊遵憲を焼き殺して帰還した。李進賢は大いに怒ったから、軍は恐れ、そこで城門を焼き払い、李進賢を攻め、側近は防戦したが勝てず、李進賢を絞殺し縛り上げて去り、靖辺軍に走った。そこで厳澈を殺して李進賢の一族を皆殺しにした。詔して夏綏銀節度使の
張煦を代任とし、乱の首謀者数百人を誅殺して平定した。
最終更新:2026年04月24日 01:04