蔡襲

蔡襲 さいしゅう

?-863
唐代の官僚。湖南観察使であったが、咸通三年(862)に安南経略使となる。南詔の脅威に対応したが、蔡京の妬みにより兵を減員され、「十道必死状」をつくって朝廷に訴えたが、受け入れらなかった。南詔の大軍が来襲し、援軍を求めたが、嶺東節度使韋宙は嶺西の方が危険とし、援軍を送らなかった。12月、交趾が包囲され、咸通四年(863)正月、交趾は陥落した。蔡襲の左右は全員戦死し、蔡襲は徒歩で奮戦し、身には十矢を受けた。軍船に乗ろうとしたが、舟が離岸したため溺死した。一族七十人は皆殺しとなった。幕僚の樊綽が蔡襲の印を取って逃げて江を渡った。この樊綽が『蛮書』の編者である。

志・列伝・史料

『新唐書』巻二百二十二中 列伝第一百四十七中 南蛮中
『資治通鑑』巻二百五十 唐紀六十六 懿宗上

参考リンク

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https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%94%A1%E8%A5%B2

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最終更新:2025年05月16日 11:54
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