唐書巻二百二十二中
列伝第一百四十七中
南蛮中
南詔下 蒙巂詔 越析詔 浪穹詔 邆睒詔 施浪詔
  元和三年(808)、異牟尋が死に、太常卿の
武少儀に詔して持節弔祭させた。子の尋閤勧が即位した。あるいは夢湊といい、自らは「驃信」と称した。夷の言語で君主の意味である。改めて元和印章の印象を賜った。翌年死に、子の勧龍晟が即位したが、淫乱かつ残虐無道で、上も下も恨み憎んだ。元和十一年(816)、弄棟節度の王嵯巔によって殺され、その弟の勧利が即位した。少府少監の
李銑に詔して冊立弔祭使とした。勧利徳と王嵯巔に蒙氏を賜い、「大容」に封じた。蛮語で兄を「容」という。長慶三年(823)、始めて印を賜った。この年に死に、弟の豊祐が即位した。豊祐は行動力があり、よくその配下を用い、中国を慕い、父の名を受け継ぐ風習をしなかった。穆宗は京兆少尹の韋審規をして持節臨冊せしめた。豊祐は洪成酋・趙龍些・楊定奇を遣わして入朝して天子に謝礼した。
  ここにおいて西川節度使の
杜元穎は治めるに取り上げるほどの功績がなく、防備を緩和して互いから隠していたが、時に大和三年(829)、王嵯巔は全軍を動員して邛・戎・巂の三州を急襲し陥落させた。成都に入って、西郛に留まること十日、居人を慰め労ったから、市は騒動が起きなかった。帰還しようとするとき、子女や工技数万を拉致して南に連行し、人は自殺する者が数え切れなかった。兵は追いかけて救い、王嵯巔も自ら殿(しんがり)をつとめ、大度河に到り、華人に「これは我が南の境である。お前は国を去るのだ。まさに泣きなさい」と言ったから、衆は慟哭して、水に行って死ぬ者が十人中の三人に及んだ。南詔はこれより文・織を巧みとし、中国と並んだ。翌年、上表して罪を請うた。この年使者が来朝し、開成・会昌年間(836-846)にまた来朝した。
  大中年間(847-860)、
李琢は安南経略使となったが、統治は苛烈で私物化し、塩一斗で牛一頭と交換し、夷人は堪えられず、南詔の将軍の段酋遷と結んで安南都護府を陥落させ、「白衣沒命軍」と号した。南詔は朱弩佉苴三千人を発して助け守った。しかし朝貢はなお毎年至っており、従う者も多かった。
杜悰は西川より入朝し、表向きはなにもなかったが、内心では蛮を仕えさせており、豊祐は怒り、そこで慢言して人質を求めた。たまたま宣宗が崩じ、使者は哀悼の辞を告げた。この時、豊祐もまた死に、坦綽の酋龍が即位したが、朝廷は憤って弔卹しなかった。また詔書は故王に賜ったから、貧相な食事を使者に奉って遣した。ついに皇帝を僭称し、元号を建極とし、自ら「大礼国」と号した。懿宗はその名が玄宗の諱に似ているのを嫌い、朝貢を絶やした。そこで播州が陥落した。安南都護の
李鄠が武州に駐屯したが、咸通元年(860)、蛮(南詔)に攻撃され、武州を捨てて敗走したから、天子は李鄠を罷免し、
王寬を後任とした。翌年、邕管を攻め、経略使の李弘源は兵が少なく防御することができず、巒州に逃走した。南詔もまた引き上げた。殿中監の
段文楚に詔して経略使とし、しばしば条約を改めたが、大衆はよろこばず、胡懐玉を後任とした。南詔は辺境の人をして甚だ困窮させ、掠奪があったりなかったりし、入寇しなかった。
杜悰が宰相となって、帝のために謀し、使者を遣わして弔祭して恩信をしめし、あわせて驃信に詔して名を嫌とし、冊命はいまだに挙げられないのに、必ず名を変えて封を得た。帝は左司郎中の孟穆に命じて使者としたが、たまたま南詔は巂州を陥落させたから、孟穆は行かなかった。
  安南の桃林人は、林西原に居し、七綰洞の首領の李由独がこの主であり、毎年国境を警備した。
李琢が安南にある時、奏上して防冬の兵六千人をやめ、李由独に一隊であたるべきであるといい、蛮の侵入を遮らせた。蛮の酋は娘を李由独の子の妻とし、七綰洞はこぞって蛮に付き、王寬は制することができなかった。咸通三年(862)、湖南観察使の
蔡襲に安南都護を代らせ、諸道の兵二万を発して駐屯して守らせ、南詔は恐れて敢えて出兵しなかった。
  たまたま左庶子の
蔡京に詔して嶺南を治めさせたが、
蔡襲の功績を妬んで、功績を望んでこれを壊そうとして、「南方は思わぬことにより、武人に軍功をもたらし、多く兵が集まり兵糧の運送は減少しています。願わくば防衛の兵をかえして財費を惜しんでください」と言ったが、蔡襲は不可を執奏し、五千の兵を留めることを願ったが、何度も上表したが答えはなかった。そこで極めて南詔が隙を伺って久しいことを述べ、十必死状を書いた。朝廷は愚かで、顧みられなかった。蔡京はまた上表し、意を得ることはなはだしく、また詔して宣慰安撫使となった。広州をわけて嶺南東道とし、邕州を西道とし、龔州・象州・藤州・巌州を隸属させた。そこで京西道節度使を拝した。蔡京は偏狭で嫉妬深く、勝ち負けに貪欲で、条例に厳しく、法を破った者は炙ったり抉ったり斬ったため、下々は怨み、軍によって追放され、藤州に逃げ、偽って攻討使の印を制作し、郷兵を召して道軍をならべて邕州を攻めたが勝てず、軍は壊滅して、流罪となって崖州で死んだ。桂管観察使の
鄭愚を代わりの節度使とした。
  南詔は交州を攻め、安南を侵略し、
蔡襲は救援を要請し、湖・荊・桂州の兵五千を発して邕州に駐屯したが、嶺南の
韋宙は奏じて「南詔は必ずや邕管を襲うでしょう。まず近いところを防ごうとはせずに遠征してしまうと、恐らくは隙をつかれて糧道が途絶して、しかも深入りされるでしょう」といったから、蔡襲に詔して海門に駐屯させ、
鄭愚に詔して兵を分けて防御させた。蔡襲は再度援軍を請い、山南東道の兵千人が派遣された。南詔の酋将の楊思僭・麻光高は兵六千人で城に迫って駐屯した。咸通四年(863)正月、攻撃はますます激しくなり、蔡襲は異牟尋の盟言を書いて矢に繋いでその陣営に射させたが、返答はなかった。急変して城は陥落し、蔡襲の一家全員の死者は七十人、幕僚の樊綽は蔡襲の印を取って逃げて江を渡った。荊南の兵が東の城郭より入って奮戦し、南詔の二千を討ち取った。この夜、蛮は遂に城を屠った。詔して諸軍に嶺南を防衛させ、さらに秦州経略使の
高駢を安南都護とした。帝は税を徴発させること頻繁であったが、遊幸を止め、楽を演奏させなかったが、宰相の
杜悰が正しくないとしたから、これを止めた。
  南詔は次第に邕州に迫ったが、鄭愚は自ら将帥の才ではないと述べ、さらに人を選ぶことを願い出た。その時
康承訓が義成軍より来朝し、そこで嶺南西道節度使を授け、荊・襄・洪・鄂州の兵一万人を授けて従わせた。
康承訓は兵が寡少であるため辞退したから、そこで大興諸道の兵五万を往かせた。六月、行交州を海門に設置し、進めて都護府とし、山東の兵一万人を調えてますます守らせた。容管経略使の
張茵に治めさせた。よって安南の経略を命じたが、張茵は逗留して敢えて進撃しなかった。安南が陥落すると、将官・官吏・遺民は多くが渓洞(苗族)に客人として潜んでいたから、居場所に詔して招き帰して救わせ、安南の賦税を二年間免除した。
  韋宙は兵を分けて容州・藤州に駐屯し、披蛮(南詔)の勢いを分散させることを願い出た。咸通五年(865)、南詔はまた巂州を掠奪して西南を揺るがせ、西川節度使の
蕭鄴は配下の蛮の鬼主を率いて南詔を大度河に迎え撃ったが敗北した。翌年(866)、また侵攻してきた。その時、刺史の喩士珍は貪欲狡猾で、ひそかに両林の東蛮の奴婢を捕らえて売り払い、蛮の金に替え、そのため門を開いて降伏した。南詔は守兵をことごとく殺して、喩士珍はついに蛮の臣下となった。安南には長らく駐屯しており、両河の精鋭で瘴気の毒で死ぬ者は十人中の七人におよび、宰相の
楊収は議して北軍をやめ、江西を以て鎮南軍とし、強弩二万を募兵して節度使をたて、かつ地は近きに便して、徴発しやすいとした。詔して裁可された。
夏侯孜はまた
張茵が臆病であるから、事に足らずとして、ことごとく兵を
高駢に授けた。高駢は兵士五千を選抜して江を渡り、林邑の兵を邕州に破り、南詔の龍州の駐屯地を撃破し、蛮酋は財貨を焼いて敗走した。酋龍は楊緝思を遣わして段酋遷を助け、ともに安南を守らせ、范胒些を安南都統とし、趙諾眉を扶邪都統とした。咸通七年(867)六月、高駢は交州に進撃し、戦ってはしばしば勝利し、士卒は奮戦し、その将の張詮を斬り、李溠龍は軍勢一万人とともに降伏し、海の波風から三壁を抜いた。楊緝思は出撃したが敗走して城に帰った。士卒はこれに乗じて、防壁を越えて進入し、段酋遷・范胒些・趙諾眉を斬り、首三万級をあげ、安南は平定された。
 
  はじめ酋龍は清平官の董成ら十九人を遣わして成都に到り、節度使の
李福はまさに会見しようとしたが、董成は「皇帝(酋龍)は天命を奉り正朔を改めました。願わくば敵国(対等)の礼で引見してください」と言い、李福は許さなかった。通訳を介して応酬すること五度、日暮れになって人々は倦み、議は決しなかった。李福は怒り、兵士に命じて捕らえて辱め、枷で繋いで館に拘禁した。にわかに
劉潼が李福に代わって節度使となり、その拘禁をといて、釈放して帰した。詔があって薫成らを召して京師に至らしめ、別殿で引見し、賜物はまことにあつく、慰撫して本国に送還した。
  翌年、酋龍は楊酋慶らをして来朝して囚人を釈放したことを謝した。それ以前、
李師望が建言して「成都は蛮事を統轄していますが、なにもせずにむなしく日を過ごして物事を決することができません。願わくば邛・蜀・嘉・眉・黎・雅・巂の七州を割いて定辺軍とし、節度の制をたてて事にあたらせれば、近くてかつ迅速でしょう」と言ったから、天子は感嘆して、即ち李師望に詔して節度使とし、邛州を治めさせた。邛州は成都を隔てることわずかに五舎(百五十里)、巂州は最南端で邛州を去ること千里であり、緩急や首尾は整わなかった。しかし李師望は専制しており、忌み憚って誰も言わず、集積した物資は厭わず、私腹を肥やすこと百万を数えた。また激しく蛮(南詔)を怒らせれば、功績をたてる機会があると思い、そこで楊酋慶らを殺した。すでに守備兵は怒り、まさに李師望を殺して塩漬け肉として気勢を上げようとしていたから、その時召還されて、
竇滂がこれに代わった。竇滂は貪り取るのに最も不法であり、苛斂誅求であることは李師望よりも甚だしかった。時に蛮(南詔)の攻撃は未だ興っていなかったが、定辺軍はすでに困窮していた。
  酋龍はその使節が殺されたのを怨み、咸通十年(869)に入寇した。南詔軍は青渓関に結集し、密かに軍を率いて木を伐採して道を開き、雪嶺の坂を小道とし、盛夏であったが士卒の凍死者は二千人に及んだ。沐源川に出て、嘉州を窺い、属蛮を破り、遂に沐源に侵攻した。
竇滂]は袞海の兵五百を遣わして戦いに行かせたが、一軍は全滅した。酋龍は自ら将となり、軍勢五万を督戦して巂州に侵攻し、青渓関を攻めた。守将の杜再栄は大度河を敗走し、諸守兵はみな退いて北涯を守った。蛮は黎州を攻撃し、偽って漢衣を着て、江を渡って犍為を襲いこれを破った。陵・栄の間を彷徨して、家々を焼き、糧畜を掠奪した。嘉州に迫り、刺史の楊忞は南詔と江を挟んで対峙し、士卒は猛射を加えたから、蛮は進むことができなかった。密かに上流から渡り、背後より王師(唐軍)を攻撃し、忠武将の顔慶師を殺し、楊忞は敗走し、嘉州は陥落した。翌年(870)正月、杜再栄を攻撃し、竇滂自ら兵を統率して戦った。酋龍は使者十人ほどを遣わして講和を求め、竇滂はこれを信じて、半分も語らないうちに、蛮は桴で岸に殺到し、騒がしく進んだから、竇滂は為すところ知らず、まさに自殺しようとしたが、武寧将の苗全緒がこれを止め、とくに死に物狂いで戦い、蛮は次第に退き、竇滂は遁走し、苗全緒は殿(しんがり)を務めた。黎州は陥落し、人は逃げて山谷に隠れ、蛮は金帛を掠奪して攻撃を行わなかった。邛崍関より入って雅州を囲み、ついに邛州を攻撃した。この冬、竇は州を棄て導江に立てこもり、軍備・兵器はみな失われてしまった。
  酋龍は成都に侵攻し、眉州にも侵攻した。坦綽の杜元忠が日夜酋龍を説いて蜀の全土を獲得しようとした。ここに西川節度使の
盧耽はその副官の王偃・中人の張思広を遣わして講和を約したが、南方の辺境の使者は南面して拝し、しかるについに酋龍に見えずに帰還した。蛮は新津に侵入し、盧耽はまた副官の譚奉祀を遣わして、いいことを言って和約を申し出たが、蛮はこれを留めた。盧耽は援軍がいまだに集まらないのを恐れて、そこで駅馬を飛ばして天子に大使をくだして通好することを願い出、その深く侵入するのを緩めようとした。懿宗は太僕卿の
支詳を馳せ遣わし、蛮使と講和した。
  蛮はもとより謀とてなく、機会に乗ずることができず、太鼓を打ち鳴らして行進し、しばしば駆け、蟻のように集まっては蝿のように飛び交い、小さな利益のために掠奪することを恥としたから、所々に駐屯し、そのため蜀の子供や老人は助けあってすべて成都に入ることができた。街々は人で満ち溢れ、戸の場所の地を確保しても一つ寝床を得られるに過ぎず、雨は箕や盆で防いでいた。城中の井は枯れてしまい、摩訶池(成都にあった池)の水を飲み、つかみ合いとなったから溺死者が出て、また箱で砂をとりわけて数滴を飲んだ。死んでも棺が備わらず、穴に一緒に埋めていた。そのため瀘州刺史の楊慶復は
盧耽のために攻城用の武器や防御用の落とし石を備え、籠城の兵を置き、八将に司らせ、城墻の上防御施設を建て、夜は篝火を並べて城を照らし、具さに多くの新兵に守らせた。また勇敢な兵士三千人を選び、「突将」と号し、長刀や巨大な戦斧を持たせ、左右に分けて交互に休ませ、毎日軍を率い、士気高く、戦わんと欲した。しかし酋龍は自ら双流(成都の郊外)を徐行し、心に董成の受けた屈辱を晴らそうとし、盧耽を欺いて上介(使節の副使)の派遣を要請し軍議の事にいたった。盧耽は節度副使の柳槃を遣わして杜元忠のもとに行かせて講和を議させたが、杜元忠は「帝(酋龍)は盧耽と会見するのに、車蓋を葆翣(皇帝が使用した五色の羽)で備えたい」と妄言したから、柳槃は決することができず帰還した。蛮は三百騎を以て幄幕を持ってきて、「供帳は隋の蜀王にも許されていたから、驃信(南詔の君主号)の行在としたい」と大言したが、盧耽は許さなかったから馳せ去った。
  蛮は次第に城の外に並んだ。ここに游弈使の王昼に援兵三千を率いて毘橋に駐屯させた。
竇滂もまたその軍をもって導江より来て、まさに大軍とともに前後挟み撃ちとしようとしたが、しかし戦ってもそれほど戦力とはならず、寡兵で広漢を保持するのにもたえられなかった。竇滂は自らも定辺軍を失っていたから、成都の陥落も願っており、その罪は浅きを得た。たまたま詔があって退け移したから、軍はついに功績がなかった。
  盧耽の部将の李自孝は、刺史の喩士珍と仲良かった。喩士珍は蛮の臣下となり、李自孝はひそかに賊と通じ、盧耽に説いて城下に葦や稲を植え、水を蓄えて城を荒廃させたが、府の全員がそれに気がつくことはなかった。蛮は城を攻撃し、李自孝は姫垣を守り、麾(さしずはた)を建てて自ら表し、麾が示したところを蛮はたちまち攻撃したから、配下によって発覚し、盧耽は李自孝を殺して全軍に布告した。
  城の左に民間の楼閣があってほしいままにし、蛮は城中を弓矢で狙い撃ちしたから、
盧耽は勇士を募ってこれを焼き、攻城器械はすべて破壊した。二月、蛮は雲梯・鵝車(攻城用の戦車)で城の四面を攻撃し、兵士は吶喊し、鵝車が到るまでに、陴(城壁の上に築いた凹凸のある小さな壁)の者は強大な縄で鉤(かぎ)をかけ、油・篝火を投げて車を焚き、中の蛮卒はすべて死んだ。盧耽は李璹・張察を遣わし突将を率いて城下で戦わせ、捕虜と斬首は二千級に及んだ。蛮は民間の鄣落(フェンス)を撤去して蓬籠(竹網の舟形の覆い)をつくって輦車のようにし、下に枕木を設けて、推して前に進み、城の高さにおよばず、蛮卒をその内に隠して塹壕や城壁にとりつかせた。楊忞は甕に糞尿を溜めて蛮にかけ、蛮はなすすべをしらなかった。そこで熱した鉄液を注ぐと蓬籠はすべて炎上した。しかし南詔は多勢であるのに頼って、ますます器械を直し、斧兵は昼夜喚声をあげ、まさに錦楼を撃とうとしたから、城の中の衆は色を失った。盧耽は将を派遣して出撃し、三面奮戦したから、蛮は退いた。蛮は夜や払暁を利用して、たやすく城に肉薄したが、声を聞きつけられると、城の中の衆はひとしく奮起した。城の上に千の鉄籠の篝火を設置したから、賊は来ても隠れられず、守兵は終夜どよめいたから、蛮は侵入できなかった。
  支詳は間諜を遣わして講和しようとし、かつ
盧耽には多くを殺さなければ速やかに蛮と講和できるだろうと言った。この時援軍来たるとの伝言があり、城中は大騒ぎで門を開き、士卒は争って出て軍を迎えたが、南詔は白兵戦をして囲みを解かなかった。日没後、判官の程克裕が北門の兵二千をもってこれに乗じ、蛮は敗走した。盧耽はなお書のようにしようとし、謝ってやむを得ず交戦したとし、かつ和平を請うた。士卒は鎧を脱いで支詳を迎え、支詳は持ってきたものを並べ、二旗を立て、「賜雲南幣物」と書いた。蛮の使者に「天子は詔して雲南と和解しようとしたが、兵は成都に迫っている。何故なのか。一舎(三十里)退き警備をといたら修好しよう」と言った。ある者が支詳に勧めて「蛮は詐り多く、死地に入ってはなりません」と言ったから、支詳は行かなかった。蛮はまた成都を包囲し、夜に西北の隅を穿っていたが、明け方発覚し、そこで内垣と外垣の間の空地に秣を置いて火をつけて崩したから、蛮は皆穴の中で死んだ。鉄の縄で楼車を引っ張って倒し、焼き払い、しばらくしてつきたが、ますます固く守った。
 
  この時、帝は東川節度使の
顔慶復を遣わして大度河制置・剣南応接使とし、兵は新都に侵攻し、博野の将の
曾元裕が蛮兵を破って、二千級を斬った。南詔の騎馬数万が早朝に官軍を圧してはせ参じたが、大将の
宋威が忠武軍の兵をもって戦い、斬首すること五千、馬四百匹を得た。南詔は退いて星宿山に駐屯し、宋威は進んで沱江を守った。酋龍は酋望を遣わして
支詳の所に到って和を請うたが、支詳は「今、城は並んで固く守り、北軍は軍功を望んでいる。帰って主に語り、自身で考えてみよ」と言った。
盧耽は精兵と将を遣わして蛮の防壁に赴かせて攻城具を焼き、二千人を殺し、そのため南詔は迫りくるところを、退いて潰えた。蛮は鳳翔・山南の軍が来るのを聞いて、毘橋で迎撃したが勝てず、沱江に敗走して、士卒を待ち伏せして迎撃したが、また敗れた。城中から突将を出して、夜に蛮営に火をつけ、酋龍・坦綽は自ら督戦した。その後三日、王師は昇遷梁を奪取し、蛮は大敗し、夜に亭伝を焼き、火に乗じて向うところ、矢を振らせて王師を射た。宋威は軍を分けて行き、矢が飛んでくるところに集中して射撃した。両軍は勝敗を決することができず、それぞれ解いて去った。酋龍は敵わないことを知り、夜に営を撤退して南に逃げ、双流に到ったが、江に橋がなく、考えあぐねて、まさに入水して死のうとしたが、ある者が止めて「今、北軍と成都の兵は合流し、もし追撃して来たら、我らには比較になりません。偽って和平をするのが追手を緩めるのに及びません。そうでなければ、死ぬのはそれからでも遅くありません」と言ったから、そこで和平を請うた。三日後に橋が完成して渡ると、ただちに橋を落とし、隊を整列して駆けるのを緩めた。黎州刺史の厳師本は散卒を収めて邛州を防衛したから、酋龍は恐れ、二日包囲して去った。蛮は華民(中国人)を捕虜とすると、必ず耳と鼻をそいでから釈放した。居る人が木に刻んで耳鼻をそがれた者を数えると、十人中八人に及んだ。
  顔慶復が来ると、軍はその弟の顔慶師が蛮で死んだから、必ず納得した。しかし成都が陥落しなかったのに、自身の功績が軽かったから、軍を広渓に率いて、残寇を釈放したから、人々は悔しがった。はじめ成都には城堀がなく、そこで
盧耽に教えて堀を掘り、広さ三丈(9メートル)、戦棚(城壁上の防御施設)を城壁上につくり、左右の屯営に並べ、営ごとに五区に分け、区の兵士は五十人とした。棘のある皂莢(さいかち)を撒いて壕にはさみ、三年後には一抱えもの大きさになった。また大旝(指揮用の赤い大旗)・連弩を備えた。これより南詔はこれを憚った。
 
  酋龍は幼い頃から殺戮を嗜み、親戚で自身と異にするものは皆斬った。兵は出兵して休まる年はなく、諸国はさらに怨みを抱いた。しばしば軍は壊滅し、国力は消耗した。蜀の役では男子は十五歳以上をすべて徴兵し、婦人は耕して軍の糧食を養った。
  咸通十四年(873)、坦綽は再び蜀に侵攻し、舟を縄で繋いで大度河を渡り、刺史の
黄景復は撃退した。南詔軍は河の流れにしたがって南に行き、夜に筏を浮かべて兵を流し、水にせまって諸屯を挟撃したから、黄景復は敗走して黎州に退却した。蛮は追撃したが、黄景復のために敗れた。その時蛮は踵を返して、戻って大度河を攻め、旗を倒して鼓は息をひそめ、「坦綽は天子に上書して冤罪を注ぎたいと思っている」と願い出たため、守備兵はこれを信じて戦わなかった。橋が完成すると渡り、黎州は陥落し、遂に雅州を攻め、定辺軍を攻撃し、士卒は潰滅して邛州に入った。成都は大いに震撼し、人は逃げて玉塁関に入り、士卒は城に籠った。坦綽は使者の王保城ら四十人を驃信(南詔王)の書をもたらして、節度使の
牛叢に遣わし、仮道入朝しようと欲し、蜀王の故殿に憩うことを願い、牛叢は許そうとした。しかし楊慶は諫めて「蛮を信じてはなりません。彼は礼を屈して言葉甘く、我らを騙します。願わくばその使者を斬り、二人を留めて書を返却してください」と言った。
  そこで
牛叢は責めて言った。「南詔王の祖先は、六詔の中で最も小夷であった。天子はその勤めを記録し、六詔を合わせて一つとされ、成都に付属させ、これを名づけるに国を以てし、子弟が太学に入るのを許し、中華の風を習わせてきたが、今やっていることはすなわち自ら王命を絶つものようなものである。かつ雀・蛇・犬・馬も、なおよく徳に報いるがごときであるが、王は虫や鳥にも及ばないというのか。近頃、成都の武備はいまだおさまっていないが、そのためお前は我が勢力圏にきたのだろう。だが毘橋・沱江の敗戦で、屍を積んで城に付したのに、四年もたたずにまたやってきた。今、我れには十万の衆があり、その半ばは捨てていまだに用いていない。千人を軍とし、十軍を部とし、勇将がこれを率いている。おしなべて部には強弩二百がおり、鍬や斧がこれを助けている。強弓二百がおり、越銀刀がこれを助けている。長戈二百がおり、掇刀がこれを助けている。短矛二百がおり、流星錘がこれを助けている。また軍は四面あり、面ごとに鉄騎五百がいる。ことごごとくまぐさと薪・米・粟・牛・馬・犬・豚を収容し、清野(戦域一帯の家屋・物資を払い、侵攻した敵が略奪・利用するのを阻止すること)して待つのみだ。我れはまたよく騎兵で接触してはお前の柴刈を奪うだろう。我れは日の出に一部をお前と戦わせ、部を二つに分け、日中に交代させる。日暮れにさらに一部が至り、夜に駐屯し、月明かりで戦い、真っ暗なら休み、夜半に交代する。おしなべて我が兵は五日ですべての敵を殺すが、お前は昼夜戦えば十日もたたずして、おろかにもまさに死ぬだろう。州県は甲冑を修繕して兵を励まし、前後が従っており、みな蛮を深く仇とし、女子であってもよく切歯して怒り顔で賊に迫っており、ましてや強夫烈士は言うまでもない。お前の祖はかつて西蕃(吐蕃)に奴隷として仕えていたが、お前は仇家のために、今また臣となっている。何の恩讎があって戻ったのか。蜀王の故殿は、先王朝の宝宮で、辺夷が住んでいいようなところではない。神は怒り、人は憤っているから、驃信はまさに死ぬだろう」
  牛叢はなお近郊の民間の家や観閣を燃やし、兵を厳にして固く計略を守った。坦綽は新津に到ったが帰り、また黔中を寇し、経略使の
秦匡謀は恐れて、荊南に逃亡した。その時僖宗が即位し、金吾将軍の韓重を遣わして持節往使とした。にわかに黎州を攻撃したが、
黄景復は攻撃して敗走させた。乾符元年(874)、南詔は巂州・雅州の間を掠奪し、黎州を破り、邛崍関に入り、成都を攻撃した。成都は門を閉ざすこと三日、蛮は去った。
 
  詔しての天平軍の
高駢をうつして西川節度使を領せしめた。高駢は奏じて、「蛮は小さく醜く、勢いは制し易いものです。しかしながら蜀道は険しく、館駅は糧食を窮乏しています。今、左神策軍は長武・河東から徴発した兵が多く、供給の範囲は煩わしくかつ広大です。かつ彼らはみな羌戎(吐蕃)への押さえであり、備えを緩めることができません」と言った。詔して長武等の兵を止めた。高駢はひと月もたたないうちに、精騎五千を閲して、蛮を追って大度河にいたり、鎧や馬を奪い、酋長五十人を捕らえて斬り、邛崍関を回復し、また黎州を奪取し、南詔は逃げ帰った。高駢は
黄景復を召喚して大度河の敗戦を責め、斬って全軍に布告した。望星関・清渓関を守った。南詔は恐れ、使者を遣わして高駢に詣でて好(よしみ)を結ぼうとしたが、ついで出兵して辺境を寇したから、高駢はその使者を斬った。それより以前、安南経略判官の杜驤は蛮のために捕虜となったが、その妻は宗室の娘であったから、酋龍は使して書を奉って和を請うた。高駢は答えて「我はまた百万の軍を率いて龍尾城に到りお前の罪を問うだろう」と言ったから酋龍は大いに震えた。南詔は叛いてから、天子は何度も使を遣わしてその境に至らしめたが、酋龍は拝することを聞き入れず、使者はついに途絶えた。高駢は南詔の習俗が浮屠の法(仏教)を貴ぶことから、僧の景仙を使者として遣わし、酋龍はその配下とともに迎え謁してかつ拝し、すなわち盟を定めて帰還した。清平官酋望の趙宗政、人質三十人を入朝させて盟を請い、兄弟もしくは舅甥の間柄を請うた。詔して景仙を鴻臚卿・検校左散騎常侍とした。高駢は吐蕃の尚延心・嗢末の魯耨月らと結んで間隙をつくり、戎州の馬湖・沐源川・大度河の三城を築き、あわせて駐屯して険によって防衛し、強兵を領して平夷軍として南詔の気概を奪った。酋龍は憤り、疽を発して死んだ。偽謚して景荘皇帝とした。子の蒙法が嗣ぎ、貞明・承智・大同と改元し、自ら大封人と号した。
  蒙法は年幼くして、狩猟にふけり、濃い紫色の綿・絹の衣を着て金帯をつけた。国事は大臣が専断していた。乾符四年(877)、陀西の段琷宝を遣わして邕州節度使の
辛讜に詣でて修好を請い、使者に詔して答報した。しばらくもしないうちに、西川に侵入し、
高駢は奏請して和親を請うたが、右諌議大夫の
柳韜・吏部侍郎の
崔澹は醜事とし、上言して「遠蛮はしきりに背き、そこで浮屠によって誘致して、入朝させて和親を議することは、ひいては後世の笑いものになるでしょう。高駢は上将の職にありながら、でたらめを謀しています。従うべきではありません」と言い、ついに沙汰やみとなった。蛮の使者は再び入朝して和親を議したが、高駢は荊南にうつされ、任命以前に請じて置かなかった。宰相の
鄭畋・
盧攜は争って決せず、皆罷免された。
  辛讜は幕僚の
徐雲虔を遣わして使者として査察させた。善闡府に到ると、騎馬数十騎がおり、長矛を引いて、赤服の少年を擁していた。少年は朱の布で髪を束ねていた。典客の伽陀の酋孫慶が「これが驃信(南詔王)である」といい、天子の起居を問い、下馬して客に立礼し、使者の佩刀を取ってこれを視て、自ら左右の鈕を解いて示した。地を祓って三丈の版に刀でつきさし、左右に命じて騎射させた。一人が射るごとに、礼として馬を走らせてから楽を奏で、数十発で止めた。客を案内して幄に引き連れ、童子が瓶と鉢を捧げて、四女子が楽に侍って飲み、夜になって終わった。また人を遣して客(徐雲虔)に春秋の大義を問い、使者を送って還った。
 
  この時、
高駢は鎮海節度使に移され、
崔澹らを弾劾して議を阻もうとしたが、帝は微弱ではっきりとすることができなかったから、詔を下して慰めた。西川節度使の
崔安潜が上言して、「蛮は鳥獣の心をもち、礼義を知らず、どうして賎に貴を隷して主を尊んで国家の大礼を失うようなことがありましょうか。崔澹らの議を用いるべきです。臣は願わくば義兵を募って、十戸に一保を率い、願わくば山東の精兵六千を率いて諸州を守ります。五年もすれば、蛮は奴となるでしょう」と言った。しばらくして、帝は手ずから詔して崔安潜に和親の事を問うた。答えて「雲南の姚州はたとえ一県であっても、中国はどうして南詔を助けて重ねて使を遣わし、厚礼を加えるのでしょうか。南詔は妄りに朝廷を臆病であるからなにもできないと言い、逃れて他の請があるのに、陛下はどうしてこれを待つのでしょうか。かつ天体は近属であるから、小蛮夷を下すべきではありません。臣は移書を比べてみましたが、舅甥を称さなければ、退けて勝手に称することになるでしょう。蛮に使者を行かせてまた至らなければ、まさに間諜を遣わしてその隙を窺えば、志を得ることができましょう」と言った。
  南詔は蜀が強いのを知って、安南を襲撃し、これを陥落させ、都護の
曾衮は邕府に逃亡し、守備兵は潰滅した。たまたま西川節度使の
陳敬瑄が和親の議を申したが、その時
盧攜が宰相に復しており、
豆盧瑑とともに皆
高駢と親しかったから、そこであざむいて帝に説いて「陛下がはじめ即位し、韓重を遣して南詔に使としましたが、将や官属は蜀に丸一年留まっており、費用は贖えず、蛮は迎えることを承諾しません。高駢が西川節度使となるや、嗢末を招き、甲冑を修繕して兵を訓練すると、蛮夷は震えあがり、趙宗政を遣わして入献して天子にまみえ、驃信(南詔の君主号)を付して再拝しました。
徐雲虔が使となり、驃信は答拝しました。そのことは礼として少なからざるものがあります。宣宗皇帝は三州七関と平江・嶺以南をおさめ、大中十四年(860)にいたって、宮中の倉庫は財物が山のようになり、戸部は物資が充満し、そのため宰相の
白敏中は西川を領し、庫銭は三百万緡にもなり、諸道もまた同様でした。咸通年間(860-874)以来、蛮ははじめて命に叛き、再び安南・邕管に侵入し、黔州を破ること一度、西川を掠奪すること四度、ついに
盧耽を包囲し、兵を招集して東方を攻めてきたから海門を守り、天下は騒動すること十有五年、賦税で京師に入ってこない物は過半にもおよび、蔵の中は空虚となり、士卒は瘴癘のために死に、骨を焼いて灰となり、人は家を思わずに亡命して盗賊となってしまいました。心を痛めるべきことがらです。前年、趙宗政らを留めましたが、南詔はこれを恐れることなく、送還するにおよび、彼はなおも願ってきました。蒙法は即位してから三年、この頃兵は防衛には出動させず、力を蓄えて我が憂いの間隙を狙っています。今、朝廷の府庫は乏しく、甲兵は少なく、
牛叢には北兵七万がいますが、始終敵に向かって一直線に侵攻しても救うことができず、ましてや安南で故郷を離れて防衛する薄弱の兵士にいたっては、冬に侵攻の災いがあれば恐るべきことになります。誠に使者に命じて報いに臨めば、たとえ未だに臣と称していなくても、かつその謀を撃ち、外は蛮夷を縻き服させれば、内には蜀の休息を得るでしょう」と言った。帝はそうだと思い、そこで宗室の娘を
安化長公主として婚姻を許した。嗣曹王の李亀年を拝して宗正少卿・雲南使とし、大理司直の
徐雲虔を副使とした。内常侍の
劉光裕を雲南内使とし、霍承錫を副官とした。帰還すると詳細に驃信が忠誠であるといい、これを陳敬瑄の功績とし、そのため検校司空に昇進させ、一子に官位を賜った。
  蒙法は宰相の趙隆眉・楊奇混・段義宗を行在に入朝させ、
公主を迎えさせた、
高駢は揚州から上言して、「三人は南詔の腹心です。よろしく留めてこれを毒殺して、蛮(南詔)を攻略すべきです」と言った。帝はこれに従った。趙隆眉らは皆死に、これより謀臣がつきてしまい、蛮(南詔)はますます衰えた。中和元年(881)、また使者を派遣して公主を迎えに来た。珍しい毛氈・織物百牀を献上し、帝はまさに公主の車服についての議論をしていたと弁解した。その二年後、また布燮の楊奇肱を遣わして迎えに来たが、検校国子祭酒の張譙に詔して礼会五礼使とし、
徐雲虔を副使とし、宗正少卿の嗣虢王の李約を婚使とした。行く前に
黄巣の乱が平定されて帝は東に帰還したから、その使者も帰った。
  蒙法が死ぬと、聖明文武皇帝と偽謚した。子の舜化が即位し、中興と改元した。使を遣して黎州に修好を求めたが、昭宗は回答しなかった。その後中国は乱れ、再び通じることはなかった。
  これより以前、時傍・矣川羅識の二部族がいて、「八詔」と通号していた。時傍の母は、帰義の娘である。その娘もまた
閤羅鳳の妻となった。はじめ、咩羅皮は敗れ、時傍は入って邆川州に居住し、上浪の千余人を誘って、勢力は次第に伸張したが、閤羅鳳に疑われて、白厓城に強制移住させられた。後に矣川羅識とともに吐蕃の神川都督に詣でて自立を求めて詔となったが、謀は洩れて殺され、矣川羅識は神川に亡命し、都督はこれを羅些城に送った。
  蒙巂詔は、最大の詔である。その王の巂輔首が死ぬと、子がいなかったので、弟の佉陽照が即位した。佉陽照が死ぬと、子の照原が即位し、喪が明けると、子の原羅が南詔の人質となった。帰義はその国を併合したいと思い、そのため、その子の原羅を帰すと、大衆ははたしてこれを即位させた。居ること数月、人をして照原を殺して原羅を追放し、ついにその地を併合した。
  越析詔は、または磨些詔といい、越析州に居するためにその名がある。西は曩葱山を隔てること一日の行程である。貞元年間(785-805)、大酋の張尋求はその王の波衝の妻と姦通し、よって波衝を殺した。剣南節度使は張尋求を召喚して姚州に到り、これを殺したが、部落から長がいなくなり、地は南詔に帰した。
  波衝の兄の子の于贈は、王の所有する宝鐸・鞘を持って東北は瀘州に渡り、龍佉河を居邑とし、わずか百里ほどで、双舎と号した。部酋の楊墜をして河東の北に居住させた。帰義は城壁を築いて于贈を攻撃したが勝てなかった。閤羅鳳は自ら願い出て楊墜を攻撃してこれを破り、于贈は瀘に投じて死んだ。鐸・鞘を得て、そのため南詔王は出兵すると必ず両方持って行った。
  浪穹詔は、その王の豊時が死に、子の羅鐸が即位した。羅鐸が死ぬと、子の鐸羅望が即位し、浪穹州刺史とした。南詔と戦ったが勝てず、その部をもって剣川を保ち、さらに剣浪と称した。死ぬと子の望偏が即位した。望偏が死ぬと、子の偏羅矣が即位した。偏羅矣が死ぬと、子の羅君が即位した。貞元年間(785-805)、南詔は剣川を撃破し、羅君を捕虜として永昌に移した。おしなべて浪穹詔・邆睒詔・施浪詔は、すべてこれを浪人といい、また「三浪」と言った。
  邆睒詔は、その王の豊咩は、初めは邆睒を根拠地としたが、御史の
李知古のために殺された。子の咩羅皮は自ら邆川州刺史となり、大釐城を治めた。帰義が襲撃してこれを破ったから、また邆睒に入り、浪穹・施浪とともに共同で帰義を拒んだ。戦ったが大敗し、帰義は邆睒を奪い、咩羅皮は敗走して野共川を保った。死ぬと子の皮羅鄧が即位した。皮羅鄧が死ぬと、子の鄧羅顛が即位した。鄧羅顛が死ぬと、子の顛文託が即位した。南詔が剣川を破ると捕虜となり、永昌に移された。
  施浪詔は、その王の施望欠は矣苴和城に居した。施各皮なる者がおり、また八詔の後裔で、石和城を根拠地とした。閤羅鳳は施各皮を攻めて捕虜としたから、施望欠は孤立し、そのため咩羅皮とともに共同で帰義を攻めたが勝てなかった。帰義は兵をもって脅してその部を降伏させ、施望欠は族をあげて永昌に逃げ、その娘を献じて南詔に遣わして和を請い、帰義はこれを許したが、蘭江を渡って死んだ。弟の望千は吐蕃に逃げ、吐蕃は立てて詔とし、これを剣川に納め、衆は数万に及んだ。望千が死ぬと、子の千旁羅顛が即位した。南詔は剣川を破り、千旁羅顛は瀘北に逃げた。三浪がことごとく滅ぶと、ただ千旁羅顛および矣川羅識の子孫が吐蕃にいるだけになった。
  賛にいう、唐の治世は前漢・後漢を超越することができず、しかしながら地は三代に広く、民は労し財を費やし、禍いは繇役などの重税が生じるところとなった。晋の献公は嫡子を殺し、二公子を国賊としたから、闇君(暗君)と称された。明皇(玄宗)は一日に三庶人を殺したから、愚かなこと甚だしかった。ああ!父子が互いに信じず、遠く閤羅鳳の罪を治めたから、士卒で死ぬ者は十万となり、当時の者はこれを怨んだ。懿宗は宰相の任命に暗く、藩鎮はしばしば背き、南詔は心で侮り、守備兵は乱を思い、
龐勛はこれに乗じ、開戦を主張する者が横行した。元凶を皆殺しにしたといえども、兵は連って言い訳をし、唐はついに滅亡した。易に「牛を易 (やすき)に喪 (うしな)う」というのは、国にある者が戒の西北のことを憂いて知っていながら、肝心の患いは防備が備わっていないことに生じているのを知らないことである。漢は董卓のために滅んだが、兵乱は冀州(張角の乱)が兆しであった。唐は
黄巣のため滅んだが、禍いは桂林が元であった。易の意は深いのである。
最終更新:2025年07月26日 23:28